鍵盤にそっと指を滑らせる。
学生寮の中にあるレッスン室は、タイミングさえ合えば一日中使っていても支障がない。それもそのはず、オリエンテーションが終わってまだ三日しか経っていない。課題が出されたわけでもないし、何よりここは希望を出せば部屋に楽器を備え付けてもらえる至れり尽くせりな学園なのだから。
ご多分に漏れず、私――音波圭の部屋にもシンセサイザーが一台置いてあった。作曲環境の整った部屋と希望を出したからだ。しかし、『埃を被って』と付け加えるまでにそう時間はかからないだろう。ピアノの方が弾いていて落ちつくし、何より同室の相手と過ごす時間をなるべく減らしたい。
指を慣らし、簡単な練習曲を弾き始める。
私はもともと体を動かすよりも、家でピアノを弾いたり読書をするなどインドアな一人遊びを好む子どもだった。同級生たちがサッカーだ野球だとスポーツを始めるように、私はピアノを習い始めた。小学三年生の頃だ。
音楽の世界は、いざ飛び込んでみると想像していたよりもずっと『女の趣味』というわけではないらしかった。こうして早乙女学園に入学してみて、それがまたよくわかる。アイドルコースの男女比率は約半々。作曲家コースは男子生徒の割合の方が多いと聞く。
早乙女学園作曲家コース、Aクラス所属。それが私に与えられた肩書きだ。
今年の倍率は百六十との噂もあるアイドル養成学校。入学できただけでも己の実力に胸を張って良いはずだ。
――しかし、Aクラスとは。
ぐらり。心の均衡が崩れかける。
当然、クラスで価値が決まるとは思わない。しかし入学試験の成績でクラス分けがされるのであれば上位クラスに入りたいと願うのは自然なことだ。
S、A、Bと分かれるうちの真ん中。その真ん中の、どの辺りに自分はいるのだろう。
真ん中クラスとはいえ、クラスメイト達はそれを特に不満に思っている様子はなかった。むしろAクラスに入れたことに安堵しているようにすら思える。そういう考えも『アリ』なのだろうか。割り切るということが下手な私には羨ましいような、ああはなりたくないと思うような、複雑な心境だ。
廊下を歩いている生徒を一目見て、Sクラス所属だと気付くほどオーラを持った人間はいないだろうし、それはBクラスの生徒にも然りだ。成績が良ければSクラス編入もありうるし、不振ならば下位クラスへということも無くはないと聞いている。だから、こんなに思い悩み続けることもないと知っているのだけれど。
――Aクラスかぁ。
ふと、私と同じようにそう言ってぼんやりしていたクラスメイトの存在を思い出す。その言葉にあまりに表情が無さすぎて、Aクラスであったことに絶望しているのか夢のようだと感じているのかすらわからなかった。
右斜め前の席に座る彼は、少々癖のある茶髪を肩の辺りまで伸ばしていた。あとで座席表で確認した名前は、寿嶺二。
彼――寿君の言葉の真意に興味はあったが、自分から声をかけるほど私は積極的というわけではない。クラスメイトなのだからいずれ話す機会もあるだろうなどと思っているうちに、彼はアイドルコースの女生徒たちの会話の輪に加わりだした。
そういえばまだ真正面から彼の顔を見たことがない。話しかけるにしても話題が見つからなさそうだし、まずタイプが合うとは思えない。どんな表情からあんな言葉が飛び出していたのか、明日、確認するだけしてみようか。
ファイルから適当に譜面を漁り、『要手直し』とチェックを入れた五線譜に目を通す。
入学前に作り貯めた楽曲は、小学生の頃のものを含めると百を超えた。ピアノの基礎の勉強がてら始めた作曲は、既存の曲を弾くよりもずっと興味深く心が躍った。中学に上がる頃にはもう作曲の道を志していたように思う。
作曲を学び、ゆくゆくはそれを仕事にしたいと考えたのが早乙女学園の受験動機だった。充実した設備に専門的なカリキュラム。指導者もプロの作曲家や現役アイドルたちで構成され、一年という短期間で多くを学べると判断した。
早乙女学園に入学できたこと自体が大きなチャンスだ。当然これを逃すわけにはいかない。だから私はこうしてピアノに向かう。一秒たりとも、己のために無駄にするわけにはいかないのだ。
しかし、私を待ち受ける現実はあまりに痛く、過酷なものだった。
その日、私の世界は突然真っ白に塗りつぶされた。
今後の詳しいスケジュールを説明していた担当教諭の現役アイドルがきびきびと話し続ける中、私は机に突っ伏し項垂れるしかなかった。
現実というものから逃げ出してしまいたかった。私はなんと脆い人間だろうか。それでも、今は顔を上げて黒板を直視することができない。
目を瞑っていてもファンファーレのように脳裏に響いてくる、卒業オーディション(パートナー制)の文字。
「……ありえません」
入学できたからといって全員がデビューできるわけではない。これは当然予測していたことで、実際クラスの誰一人それに対して不満を漏らさなかった。
卒業オーディションという単語を聞いたのは初めてだった。どのようなシステムで、早乙女学園入学からシャイニング事務所準所属までの道を歩むかは口外禁止の極秘事項らしい。確かに学校案内にもその記述はなかったし、それを知らされない上で私たちは早乙女学園を受験し、合格を経て入学を選択したのだ。
だから私はこの可能性、いや危険性も考慮すべきだったのかもしれない。
「というわけで、君たちには一年間の学びの中でアイドルと作曲家一名ずつでパートナーを組んでもらうこととなる。何度か試験でパートナー制を取るが、必ずしもそのパートナーが卒業オーディションにおけるパートナーである必要はない。音楽性だけでなく、様々な面を考慮しそれを選ぶように。以上だ」
アイドルコースの人間と、パートナーに。
言われてみればそれは単純な話だった。作曲家コースの生徒の実力を計るにも、アイドルコースの生徒の力量を知るにも、生徒同士で曲を作りそれを歌うという過程を踏むのが一番手っ取り早いし確実だ。
デクレッシェンドのようにだんだんとしぼんでいく担当教諭の声を耳にしながら、私の思考はぐるぐると回り始める。
もしパートナーが作れなかったら?
もしパートナーが私の曲を歌えなかったら?
もし私がパートナーの力を生かしきれなかったら?
もしパートナーが卒業オーディション当日に喉を痛めてしまったら……とここまで来ると被害妄想もいいところだ。
しかしながら私の中のどこかにあった希望の光は小さくなっていく。作曲の腕を磨くだけでは足りない。『誰か』とパートナーになり、その『誰か』のために曲を作らなければならない。アイドルコースには個性の強い人間が多い。その個性を殺さず私の色を加えた曲を、作れるのだろうか。
しんと静かだった教室が賑やかになっていく。パートナー制に驚きを隠せなかったのは私だけではないようで、不安げな声色がそこら中に飛び交った。
「どしたの? 体調でも悪い?」
その明るい声が私に向けられていることにすぐに気付けなかった。つむじの辺りを二回つつかれ、私はゆっくりと顔を上げる。
「……寿、君?」
「大丈夫? さっきからずーっと下向いてたけど」
「いえ、何でもありません」
そんなことよりも、なぜ彼は私より前に座っていたというのに私の状態に気付けたのだろうか。気になって仕方がなかったけれど、聞いてどうするのかと自問すると彼に問う気は失せてしまった。
「えーと、名前……」
「え?」
「名前、なんだっけ?」
「あぁ……音波圭です」
「そっかー! ぼくは寿嶺二だよん、って覚えててくれたんだよねー、サンキューベリベリマッチョッチョ!」
「……サン、何ですか」
私の机に両肘を乗せ、頬を手のひらで包むようにして寿君は呪文を私に告げた。「サンキューベリベリマッチョッチョ」ともう一度言ってもらってから聞きとれたが、ベリベリもマッチョッチョも意味がわからない。
「はぁ……」
「けーちゃんもびっくりした? 卒業オーディション」
「ええ。って、けーちゃんって何ですか」
「ニックネームだよ。ナミナミとかの方が良かった?」
「いえ前者で結構です」
「そっかー。良かった!」
果たして何が良かったのかと問い詰めてやりたい。困惑気味の私に、寿君は「で?」と続きを促した。卒業オーディションの件だろう。
「やはり一筋縄ではいかないという感じでしょうか。実力を知るためには適しているかもしれませんが、パートナーと良い信頼関係を作れなければ……いや、まず切磋琢磨できるパートナーを見つけなければ絶望的ですね」
まだ少し慣れないネクタイをきゅっと結び直し、私は寮に帰って楽譜の整理をしたいと考えていた。寿君は私の言葉に、初めて訝しげな表情を見せた。
「けーちゃんは作曲家目指してここに来たんだよね?」
「……そうですが?」
「なら当然なんじゃないかな。いろんなパターンがあると思うけど、作曲家の多くは誰かや何かのために曲を作るでしょ? ただ自分の曲として発表するにも、何か題材を持ってるじゃない。けーちゃんにも、そういうのあるでしょ?」
もちろんあります。
と、即答できなかったことが少々恥ずかしい。
「ぼくもできればパートナーとは仲良くやりたいし、歌いやすい曲作ってくれたらなーなんて思うけどさ。学園にはこのクラスの三倍の人数しかいないわけで、そのうち作曲家コースってその半分でしょ? ならそんなの奇跡みたいな確率だって思わない?」
「……奇跡、ですか」
「そ。ぼくは逆に誰と組んでもちゃんと歌えて、表現できるようなアイドルにならなきゃって思うんだ。器用貧乏ともいうけど、そういうの長所だしね」
まっすぐな瞳で、でも友人に明るさを分けようという風な笑顔で。あぁ、確かに彼ならば有言実行、誰と組んでもそれなりに上手くやるのだろう。
私にそれができるだろうか?
不安は膨れ上がるばかりだ。ならば彼の言う奇跡を信じた方が良いじゃないかと思えるくらいに。
「まぁ楽しく頑張ろうよ、お互い」
左手でピースサインを作って彼は席に戻っていく。
――楽しく、か。
私にとって、作曲は楽しい。一つの作品が完成するという喜び。自分の曲を弾くということは、自由でありながら何よりも難しい。こだわりが強いと、なおさら。
しかし、ここでは自分のために曲を作るのではない。誰かのために曲を作る。その『誰か』が歌うのは、また、私のためでもある。
一日の授業を全て終えたクラスメイトたちは次々と教室から消えていく。私もその波に飲まれるように、ファイルを抱え寮へと向かった。
Sクラスの教室の前を通り、階段を下る。ここまで来てしまえば周りの生徒たちがどのクラスの所属かなんてわからない。
どのクラスでも同じように卒業オーディションについて聞かされたのだろう。誰もが浮足立っていたり、どうしようと不安げな声をこぼしていたり。
「早くパートナー決めなきゃだめかなぁ」
「授業でちゃんと相手のこと知ってからの方がいいだろ」
「パートナー決まらなかったらどうしよう」
「ていうか、SクラスのアイドルがBクラスと組もうなんてありえなくない?」
「じゃあクラスの連中で探した方が早いってことかよー」
例えるなら、微妙に調律の合っていないピアノだ。
寿君の言葉は正しい。そして前向きだ。私も彼のようになれたらどれだけ良いだろう。しかし、ずれ始めた音程が元に戻るには、それを導く手が必要だった。
「お、珍しいな」
「……片桐」
部屋に帰って楽譜の整理をしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。机に突っ伏していた私の背中を程良い力で叩いた同室の相手はベッドに腰を下ろす。
片桐響。早乙女学園作曲家コース、Sクラス所属。気が合わないわけではない、と思う。無口ではないが口数が多い方でもなく、清潔感のある身なりにもシンプルな部屋にも好感を持てる。
性格は、正直まだよくわからない。それを見抜くほどの付き合いではないと言った方が正しいだろう。
手直しの済んだ楽譜を一枚手に取り、ぼんやりと眺める。
我ながらすっきりとしない譜面だ。書き込みや訂正の跡が残り、誰かに見せるなんてとんでもない。それでもこれが、この曲の一番良い形なのだ。
――あなたのピアノは真面目だけど、作る曲は難解すぎるのよ。
いつだったか、ピアノを教わっていた時に言われた言葉が蘇る。真面目さが極まるとこうなるのかもしれません。皮肉っぽく言い返したことは覚えているのに、相手の顔はもう忘れてしまった。
音楽に正解はない。同じように、音楽には不正解もない。だから、否定的な言葉を恐れている自分がいた。
片桐はいつの間にベッドに寝そべり、無表情で携帯をいじっている。一瞬目が合い、決まりが悪くなって私からそらした。
友人として、片桐のことは好きでも嫌いでもない。ただ、強いてどちらかと言えば、それはほんの少しだけ、嫌いの方に傾いているのは確かだった。
作曲家コースのSクラス所属の学生は、入学前から名前が売れていることがほぼ必須である。というのは、私が受験生であったころからの噂だった。
実際、名前くらいならば聞いたことのある生徒が何人も所属している。早乙女学園の入学資格は義務教育を終えていることだけで年齢制限はないため、ピアノコンクールの一般の部で見かけたことのある人間もいた。
しかしそんなSクラスの中で、片桐は違う。ただ実力だけであの世界に飛び込んだのだ。
負けたくない。でも、戦いたくもない。
片桐の前では、自尊心と自衛本能がいつもせめぎ合う。
やはり私は弱すぎるのだ。
劣等感に苛まれるのをどうにかしようと、私はただ毎日ピアノに向かった。
四月下旬にもなると、クラスメイト達の個性や特性などがよく見えるようになってきた。クラス内だけではない。目立つ人間はSクラス所属であっても『なんとなく知っている』程度の存在にはなるものだった。
個人課題をこなし、作曲家コースの生徒は授業中に突然指名されて初見でピアノを弾くなど、ほどほどの緊張感は心地が良い。私だけでなく、誰もが年度末の卒業オーディションよりも目の前にある課題に必死になっていた。パートナーも二、三組成立したと聞いたが、大多数はまだ様子を覗っている状態らしい。
とはいえ、積極的に行動する人間はそれも早いもので。
つい二日前、私はBクラスの女生徒からパートナーを申し込まれた。彼女は一方的に私のことを知っていたようで、手っ取り早いだろうと思い適当に一枚譜面を渡すと平謝りしながら去って行った。
失礼ではあるが実力の差は大いに問題だ。私は彼女を選ばなくて正解だったし、彼女は私を押し切らなかったことが正解だった。
「すみません。レッスン室を使いたいのですが」
受付事務の女性とはすっかり顔見知りになってしまい、いつも同じ部屋の鍵を渡してくれる。予約も機械でできるようになれば行き違いも減って済むんだけどねえ、と困ったように笑っていたこともあったが、そうなったら、なんとなく冷たいと私は思ってしまうだろう。
機械が苦手と思ったことはない。しかし私はシンセサイザーなどの電子楽器があまり得意ではなく、ピアノが好きだ。幼い頃から慣れ親しんできたからというのはもちろん一つの要因だろう。それでも私はピアノをあたたかいと感じ、電子機器はやはり冷たい感じがして好きになれないのが事実だった。パイプオルガンのようにからくりが分かるものは、触っていて安心できるのだけれど。
いつものように部屋には鍵をかけず、荷物はピアノの隣に置いておく。さっと簡単に指を慣らし、楽譜を手に取った。
最近は何かをイメージして曲を作ることを意識している。例えば、花。花にも色々あるが、私の思う花は桜とかひまわりとか、とりあえずスタンダードなものが主だった。桜、ひまわり、あじさい、百合ならば印象も違う。それを一曲ずつ同じ調で表してみることを始めた。続いて、動物。犬、猫、ライオン、象、魚に鳥に至るまで。
中でも鳥はなかなか難しい。技法はいくつか思いつくが、笛なんかを使えたらもっと幅が広がるのではないだろうか。人の声でもいい。歌声とは少し違うが、悠々と空に鳴り響くような、声が。
「音波圭、くん?」
それは美しい声だった。
ぴたり、音を止め、私は声のする方向へ振り返る。鍵のかかっていない部屋の出入り口。さらさらの紺色の髪を肩の辺りまで伸ばした男子生徒が立っていた。
「どちら様ですか」
「あ、ごめんなさい」
彼は自然と部屋に入り扉を閉める。
きれいな顔だ、と思った。派手な顔立ちではないけれど、整ったすっきりとした美人。大きな瞳が印象的で、それを縁取る長い睫毛や真っ白な肌が爽やかな風にも見える。中性的とでもいえば良いだろうか。女性のようではないけれど、やわらかな雰囲気は男のそれっぽくはない。
彼は迷いもせず私に歩み寄り、いつの間にかピアノの横に立っていた。
「如月愛音です。よろしく」
「……貴方が」
「え?」
まずい。私は思わず俯く。彼――如月君はしゃがみ込んで私の顔を覗き込もうとした。「やめてください」と言うと、彼の唇が笑みを浮かべる。
如月愛音。彼は、私が『なんとなく知っている』Sクラスの生徒の一人だった。
天才的に歌の上手い生徒がいる。その噂が私の耳に届いたのは四月の中旬だった。ピッチが外れにくいとかリズム感が抜群に良いくらいならばどこにだっている。しかし彼は、それに加えて驚くほどの音域の広さ、そして天使の歌声を持っているのだと噂されていた。
しかし私はこうも思う。天使の歌声などという呼び名は、あまりに馬鹿馬鹿しい。要は才能として綺麗な声を持って生まれたということ。同じように持て囃され、大した努力もせずに曲を殺して音楽界から消えた歌手や声楽家は少なくない。
才能に恵まれた者を羨む気持ちは当然ある。しかしそこにあるのは、単なる羨望という感情だけではない。
「音波くん、毎日こうして練習してるんでしょ?」
「ええ、そうですが。なぜそれを?」
「響に聞いた。同室なんだよね、響と音波くん」
なるほど確かに、もっと聴きたいと思うほど清く、美しい声の持ち主である。容姿にも優れているし、見るからにアイドルコースの生徒という感じだ。
「今の、音波くんが作った曲だよね? とってもきれいで、なんていうか、自由な曲」
「……自由?」
「もちろん悪い意味じゃなくて」
彼は胸の前で両手をぱたぱたと振り弁解する。
どうして彼ほどの人間が私に気を遣うのだろう?
そう考えた瞬間に、私の胸の奥にあった、上位クラスへの劣等感はまだ拭えていなかったのだと知らされる。
「そうでしょうか」
私は決して自由ではない。だからその私が作った曲が、自由であるなど有り得ない。
「私の曲は、本当に自由でしょうか」
その大きな瞳に私が映っているのが見えそうなくらいに。天使の歌声だと騒がれていた如月君の笑った顔は、もっと、そう、天使のように思えた。
「うん、そう思うよ」
暗めの色のブレザーの背中から、羽根が生えてくるのではないかと思った。
美しい歌声も、涼やかな声も、天使のような容姿も。全て彼が生まれ持ったものなのに。それはまるで、彼が選ばれて身に纏ってきたもののように運命的だ。
「貴方に歌えますか?」
勝手に言葉が声になった。唇を、すべり落ちた。
如月君は微笑んで、私の隣に腰を下ろす。ぴたりと肩が触れ合って、「歌えるよ」と首が縦に揺れた。
これは鳥の歌じゃない。
彼のための、天使の歌だったのかもしれない。
でたらめな英語の歌詞で、彼は言葉を歌にした。
音楽は人を結びつける。少なくとも私には、それを信じるしかなかった。
それからも彼は毎日私の元を訪れた。
ある日、如月君――愛音は、名前で呼んでほしいと突然言い出して、私のことも名前で呼ぶようになった。
私は彼の名前が好きだと思った。
音を愛する。音に愛される。音を愛している――。
つくづく歌うために生まれてきたような存在だ。
私はいつしか、愛音のことを想って曲を作るようになっていた。
彼が多くの才能に恵まれているのは、やはり揺るぎない事実だった。しかし愛音は決してそれに驕らず努力を重ねていた。もっとも、そんな素振りはちっとも私には見せようとしないのだけれど。
初めて会ったあの日、初見で私の曲を歌いこなした。私がピアノに向かう傍ら、愛音がしてくれる調や記号の訂正は正確だ。何より愛音は、感性だけで歌うようなことを一切しない。
「ここに来る途中、きれいな葉っぱが落ちてたから拾ってきちゃった」
そう話す日は木陰のように穏やかな曲をつくる。
「池でアヒルが泳いでたよ。圭、知ってる?」
後で見に行こうよ、と楽しそうな愛音に、かわいらしく明るい曲をつくる。
「響にからかわれたんだけど。ボクと圭が仲良くしてるから、妬いちゃったのかな?」
冗談っぽく笑う愛音に、私の音は少し不機嫌になる。
「今日のお昼はナポリタンロールを食べて……」
これにはどう応えるか、少し悩んだ。
レッスン室で音を合わせるだけだった私と愛音は、しだいに学内の至るところで共に過ごすようになっていった。
「おっまたせー」
陽気な声とビニール袋が二つ。四人掛けのテーブル席にそれをどんと置いた彼――寿君は愛音の隣に腰を下ろす。そして、私の隣には片桐が座っている。
「まさか愛音の同室が寿君とは……」
「けーちゃんが知らなかった方がびっくりだよー」
「愛音、この男と同室だと疲れませんか?」
「ひどっ!」
「うーん、ちょっとだけね」
「愛音もひどいっ! ドイヒーだよっ!」
わざわざ言い直さなくても、と突っ込む気力も無い。
寿君はビニール袋をがざがざと漁り、私たちの目の前にそれを自信満々に置いた。見なくとも中身は分かっていた。寿君は寿弁当の長男であり、何よりこの匂いは……。
「……すごい数の唐揚げだな」
「久しぶりに食べたくなったからちょっと埼玉までね!」
「ボクたちの分まで?」
「日曜とはいえ、ここから埼玉だと時間がかかるでしょう。時間の無駄遣いも良いところでは?」
「遠慮はいらないよっ、食べて食べてー」
「寿君。人の話を聞い……」
さぁさぁ、と店名がプリントされた箸まで渡される。
寿弁当といえば普通の弁当屋というより、スタジオなどで配られる弁当というイメージが強いのは私だけではないようだ。片桐もそんなことを言いながら、唐揚げを片っ端から食べていく。
何といっても私たちの食欲は十代の男子のそれであり、この状況は有難い。学食で食べる夕飯も、そろそろ飽きがきていた頃だ。
あまりの数の多さに食べきれないと判断したのか、しばらくすると寿君は学食に流れ込む生徒の中に友人を見つけてはお裾分けと言う名の押し付けを始めた。片桐も何人かのSクラスの生徒に同じことを実行する。
クラスだけでなく性格もバラバラな四人がこうして一緒にいるとよくわかる。
寿君はとにかく明るく友好的で話し上手。BクラスからSクラスにまで友人が多く、教員に唐揚げを押し付けてしまえるほど愛嬌がある。ほぼ初対面のはずの片桐とも打ち解けるのが非常に早く驚いたものだ。
片桐は――今に気付いたことではないが性格が少々歪んでいる。というよりも、そんな風に見せたがっている気がしてならない。これはただの勘だ。
部屋で二人過ごす時にも、会話が増えた。好きか嫌いかとかそういう感情は、友人としてもまだ存在しない。しかし、嫌いに少し振れていた針は戻ったように思う。片桐に対して抱く劣等感はやはりまだ拭えていないのだと認めることができるようになった、気がする。
そして愛音のことが、私はまだ分からない。
レッスン室で二人きり。ピアノを弾いて歌を歌って、会話をすれば愛音は眩くきらきらとした存在に見える。それが私だけに笑いかけてくる。私を見つめて歌う。愛音と共に過ごす時間はいつも鮮やかだ。
そしてこうして四人で過ごすようになって、一つだけわかったことがある。私は愛音が、友人としてとても好きだ。
くだらない話をしている時、ふと愛音と目が合い、笑いかけてくれることが嬉しい。それが誰に対しても行われる愛音の癖であっても、気持ちは変わらなかった。
私たちは非常に気が合うというわけではなかったが、なんとなく四人でよく過ごすようになった。タイプがそれぞれ違うから楽だったのかもしれない。もちろん、愛音とレッスン室で顔を合わせる日々も続いた。
気付けば季節は梅雨時。六月下旬になっていた。
だんだん授業内容が専門的になっていく以外特に大きな変化もなく、私はいつもと同じ学生生活を過ごしていた。
ちょっとした変化といえば、パートナー制に対する周囲の意識が高まってきたことだろうか。いつの間にか私と愛音はパートナーになったとかなっていないとかいう噂が出回り始めているらしい。その真偽を確かめになぜか寿君を問いただしている者もいたし、そういえば何度か見知らぬ生徒からパートナーを申し込まれたことがあった。
初めてパートナーを申し込まれた時とは違い、私は全てすぐに返事を出した。もちろん、パートナーにはなれないと。
愛音がいるからかと聞いてきた者もいた。私はそうではないと答えたし、やはり愛音とパートナーになりたいかと問われれば即答はできない。
ゆっくりと扉が開いて、いつものように愛音が遅れてやってくる。Sクラスの方が授業が遅く終わる傾向にある。愛音はいつものように私の隣に座り、譜面に目をやって軽くピアノを弾く。
念のため確認をするつもりで、私は愛音に聞いた。
「そういえば、愛音にはパートナーがいるんですか?」
「……え?」
「いや。ですから……」
「いたら圭とこうしてないんじゃない?」
思わせぶりに笑う愛音に、あぁ、と心が揺れる。
愛音にはこういうところがある。突然私をじっと見つめてみたり、空いた手を握ってきたり。そういうことは女の子相手にしてあげたらいい。なんて、面と向かって言う勇気が私にはない。
「もったいないですね」
「何が?」
「愛音ほどの実力があれば、誰を誘ったって答えは決まっているでしょう」
「そうでもないと思うけど。それに、圭だって同じでしょ」
愛音は立ち上がり、すぅっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。毎回歌う前には丁寧に発声練習を行うから、私はその間にまたピアノを弾き始める。
私とパートナーになってください。
素直にそう言うべきだろうか。愛音はきっと頷くだろう。
パートナーという肩書きなどなくても、私が愛音に曲を作っているという事実がここにある。愛音はそれを拒むことなく、いつもいつも、嬉しいと言ってくれる。誰かに曲を作ることが楽しいなんて。初めて知ったときめきにも近い感情は私の日常を鮮やかに色付けた。
だから、愛音とパートナーになりたい。
けれど。そう考える瞬間、私の頭を過ぎる言葉がある。
――ぼくは逆に誰と組んでもちゃんと歌えて、表現できるようなアイドルにならなきゃって思うんだ。
それは二ヶ月以上前に聞いた、寿君の言葉だった。
愛音もアイドルとしてプロを目指す以上、こういう高みを極めなければならないのではないか。ならば私の、愛音の曲を作りたいという願いは彼にとって今後枷にしかならないかもしれない。私が身を引くことで愛音が成長できるなら、私は喜んでこの立場を捨てるつもりだ。
「……圭、手が止まってるけど大丈夫?」
青色の大きな瞳がすぐそばにあった。長い睫毛が私の肌に触れてしまうのではないかと思うほど、近くに。
「ええ、問題ありません」
もし私と愛音がパートナーになれば。
友人という形が、パートナーに変わる。卒業オーディションに合格して、愛音と私はパートナーとしてデビューする。私はずっと愛音の曲を作り続ける幸福な作曲家だ。
しかし、愛音とはもう、パートナーとしてしか隣に居られないだろう。
「発声は終わりましたか?」
……何を考えているんだ、私は。
心配そうに私の近くに寄せられた愛音の肩をそっと押す。すると、その手首を掴まれた。
「圭」
「……はい」
「ボク、結構これまでわざとらしいことばっかりしてきたと思うんだけど。圭から言ってもらうの待とうなんて方が卑怯だし、言うね」
すっと立ち上がった愛音の瞳は今まで見たどれよりも強く、そして鋭い光が走っていた。歌い始めの時のように息を吸って、愛音は私に言った。
「ボクのパートナーになってください」
瞬間、世界が歌い出すのを私は見た。
愛音の言葉の端々に感じる優しい艶めき。
同時に、私の胸に渦巻いていた不安がせり上がってくるのを感じた。
「ボク、圭の曲が好きなんだ。圭の曲を、これからも、卒業オーディションでも歌いたい。圭と二人でデビューしたいんだ」
「……愛音。私は愛音の声が好きです。歌い手として才能を持って生まれたはずなのに、努力を決して怠らない。音楽を愛するだけでなく、知識もきちんと得ようとする。そんな姿勢を尊敬します。だからこそ、私は貴方のパートナーにふさわしいのか、わかりません」
愛音の前で自分を繕うだけ無駄だった。素直な言葉がこぼれ出て、全てを愛音は頷きながら拾ってくれる。
そんなところが、やはり好きで好きで、やるせない。
「圭」
「すみません」
「ボクじゃいやだ?」
「違います」
「じゃあ圭は、ボクじゃない誰かと組むの?」
「それは……」
「そんなの、見てられないよ……」
ぽつりと言葉が落ちる。
今まで私の隣で余裕ありげに微笑んでいた愛音が、下を向いて、両手で顔を覆う。あまりに必死すぎて気付かなかったが、声色もいつもより暗かった。私は愛音を傷付けてしまった。どうすれば良いかわからず、突き動かされるがままに愛音をぎゅっと抱きしめる。……というよりは、両手を回して覆い被さると言った方が正しいかもしれない。
「け、圭……」
「すみません……。私以外にもっと貴方にふさわしい曲を作れる人間がいるかもしれないというのに。でも私も、愛音が私以外の誰かとパートナーを組むのは嫌だと思ってしまいました」
力任せに抱きしめた私の耳元で、ふふ、と笑った愛音がおかしそうに囁く。
「圭、ボクのパートナーになって」
「……私で、本当に良いんですか?」
「ボクね、クセのあるところも、偏屈っぽいところも、口が悪いところも、まっすぐじゃないところも好き。……だからその、そういう、圭の曲が、好き……なんだけど」
「口が悪い曲って何ですか」
つられて私も笑うと、ありがとう、と愛音が呟いた。
「……愛音」
これから私は愛音の、ただ一人のパートナーとして。そして二人でデビューを目指し走って行く。そのビジョンが、これまでにないほどに、クリアに見えた。
不安がないと言えば嘘になる。愛音と居ると、まだ私は天使に触れることができた人間のようにちっぽけな気さえする。しかしだからこそ、もっと高みを目指せるのだ。
愛音のため。愛音と、私自身のため。愛音が私の曲を歌う喜びがあるから、私はやはり作曲家になりたいと願う。
「私を選んでくれて、ありがとうございます」
私はもう、愛音の綴る歌詞とひろい歌声、そして何より、彼自身を愛し始めていた。
かじかむ指を擦り合わせながら、それを温めるように息を吐く。白く空に消える吐息は冷えた私の指を救うには当然不十分だった。
十二月三十一日、大晦日。冬期休暇に突入しても、愛音、片桐、寿君、そして私は全員寮に残ることを選んだ。とはいえ、都内に実家のある私は一日だけそちらに帰り、愛音も叔父の生活する研究所に顔を出していたから、本当に寮に籠り切りだったのは片桐だけである。
そして寿君はというと――。
「やっほーけーちゃん! やっぱり早かったね! 待たせちゃってメンゴメンゴ!」
「いえ、まだ約束の時間の二十分前ですから。君がこの時間に来る方が予想外でしたよ」
「わざわざ埼玉まで集まってもらってるんだから、一番乗りしようと思ったんだけどね」
からからと笑った寿君はベンチに腰を下ろす。まだしばらく二人とも来ないんじゃない、と手招きされて、私もそれに倣った。
寿君の実家、寿弁当は年末年始も繁忙期の一つ……らしい。この時期になるとおせち料理の注文、調理、贔屓にしてくださる顧客への挨拶など、寿君の家族と数人のパートさん達では人手が足りないのだとか。
そんな時に駆り出されるのはもちろん寿君であり、そんな彼に手伝いに来てくれないかと声をかけられたのが私たち三人だった。
「悪いね、大晦日なのに手伝わせちゃって」
「特に用事もなかったので。それに……あぁ」
「ん?」
ふと目線を上げた私に合わせて寿君も振り返る。その先には、ひらひらと手を振る愛音がいた。
何だかんだで私と片桐まで寿君の実家の手伝いに参加することになった原因は愛音にある。端から断ろうと思っていたわけではないが、「忙しい時期だから」と聞いて積極的に手伝いに行くと言い出すほど私も片桐も人が良いわけではない。愛音もすぐに快諾したわけではなかった。
「楽しみだね。皆で初日の出見に行くの」
「その前に地獄の作業が待ってるよーん」
「あはは、頑張らなきゃね」
ぱちり、愛音と視線が交差する。
四人で初日の出を見に行こう。
休暇に入るなりそう言い出したのは愛音で、寿君の事情を知らない私と片桐は二つ返事で了承した。寿君のことだから間違いなく一緒に来るだろうと思っていたし、実際彼はとても行きたそうにしていた。しかし、埼玉で手伝いを終わらせた後に東京に戻って落ち合うのは難しい。寿君と愛音は二人して小動物のような顔をして寂しがるものだから、私と片桐が折れるしかなかった、というわけだ。
私たち早乙女学園の生徒にとって、在学中の年間行事は全て一度きり。だから夏には寿君に海に連行されても文句は言わなかったし、珍しく片桐の誘いで揃って花火大会にも行った。
これから卒業オーディションに向けて本格的に作曲やレッスンに明け暮れる日々が続くだろう。私たちにとっては、これが四人で過ごせる最後の平凡かもしれない。
「圭も、頑張ろうね」
「ええ。不本意ですが」
「素直じゃないんだからぁ」
「本当は結構楽しみにしてたでしょ、圭」
笑い合う、愛音と寿君の声。二人はまるで両極端だ。
透明感のある美しい歌声、儚げなビジュアルに木漏れ日のような穏やかさ。歌だけでなく、ダンスや演技も抜群に上手い。トークが苦手だと話す愛音の、少々口べたなところが私はむしろ好きだ。感受性が人よりずっと豊かだからか、私の曲を聴いてぼろぼろ泣きだすことがある。彼なりの解釈を受けて歌われる曲たちはどれだけ幸せだろう。そして、それを作った私は、何よりも幸せ者だ。
寿君は歌やダンス、演技まで卒なくこなすが基本的に気分任せなことが多い。勝手にバック転しては怒られ、アドリブを入れては怒られ、授業を脱線させては怒られる。そんなお調子者な点も手伝ってか、彼には人を引き付ける力があるように思う。愛音が歌声で周囲を圧倒するタイプならば、寿君は存在で人々を魅了する。
私から見れば二人は良き親友で、そして良きライバルだ。片桐に対し静かに闘争心を持ち続けている私とは違う。競い合った先に、彼らはアイドルとしてずっと切磋琢磨できる関係を望んでいるように思う。私と片桐の関係など、もし一方がデビューできなければそれで切れてしまってもおかしくないようなものにも感じるのに。
「よぉ、揃ってるな」
黒いダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ片桐がやってきて、集合時間三分前、全員が揃う。自販機で各々適当に飲み物を購入し、寿君の実家へと向かった。
カフェラテとココアで暖を取る愛音と私の横で、ブラックコーヒーをちびちびと飲む片桐。コーヒーが飲めるというだけで相手より子どものようだと感じてしまうのは、私たちがまだ若い証拠だろうか。何を買うか迷っていた寿君は、結局後ろから片桐にボタンを押され、おしるこを啜っていた。
誰一人として口には出さないが、四人で過ごす時間は心地よい。互いが空気のように当然にそこにいる。「今日も冷えるなぁ」と上がっていく白い吐息を眺めるだけで、そばに誰かがいるのだと感じる。友人の多い片桐や寿君だけでなく、きっと愛音と私も、仲間とは良いものだと感じていた。もちろん目指すものはデビューだ。しかし、あと三か月でこの平穏と別れなければならないのかと思うと、複雑な気持ちになるのが正直なところだ。などと片桐に知れたら呆れられてしまうのだろうし、寿君はニヤニヤして私をいじり倒すつもりだろうから口にしないが。
寿君の実家は見るからに町の弁当屋さんといった感じで、懐かしささえ感じさせる佇まいが印象的だった。
忙しいというからには店内やバックヤードを人が忙しなく行き来しているようなイメージがあったが、どちらかというと全員が其々の作業に没頭しているようだ。
「はい、じゃあ役割分担はくじ引きで決めます!」
「そんな簡単に決めて良いのですか? 適材適所という言葉があるでしょう」
「臨機応変に行動するのも必要だろ」
「響の言う通りかもしれない。とりあえずくじで決めてやってみようよ」
「じゃあ皆好きなのを一本引いてねー」
三本の指がそれぞれ棒を摘まんで、余りの一つを寿君が引く。私の引いた棒には、寿君と同じ青い色が塗ってあった。
「はい! まずは赤、愛音だね。愛音はかーちゃんとねーちゃんの手伝いで仕込み! よろしく!」
びしっと敬礼をする寿君に、額に二本指をあてるような恰好をして愛音は調理場へ消えていく。
「で、ぼくとけーちゃんは今日の配達分の梱包作業ね。ぼくは電話応対もしてるからほぼけーちゃんの仕事になっちゃうと思うけど。で、ひびきんはー……と、店頭だね! お願いしまーす」
「店頭?」
「接客だね!」
「いや俺には向いてない」
「片桐、臨機応変でしょう」
「……適材適所の方が」
「臨機応変だね!」
はい、とエプロンを手渡された片桐は、パートと思われる女性二人に連行されて店のフロアへ吸い込まれていった。紺色に白と赤の文字でロゴの入ったシンプルなエプロンが意外にも似合っていて、寿君は笑いを堪えるのに必死だ。実際、きびきびと挨拶する片桐の声を聴くと私も自然と頬が緩んでしまう。いらっしゃいませの言葉がここまで似合わない人間は、そうそうお目にかかれないかもしれない。
「じゃ、ひびきん見てたら笑いそうだし、ぼくたちも奥に移動しよっか!」
言葉の端々がもう笑っているというのに、寿君は「笑っちゃ悪いしねぇ」と呑気な様子だ。愛音はともかく、私もあのくじを引いていたら散々だっただろう。後で多少は労ってやろう、などと思いながら私も持ち場についた。
寿弁当は小さな店ではあるが(といっても弁当屋としては標準的だろう)、バックヤードが広く作られている。バックのほぼ八割は調理スペースとなっているため、私は梱包作業とやらをその片隅で台を借りて行う形になった。
一通りの流れを私にやってみせた後、寿君は予約整理をしてくると言って二階に消えた。作業自体は単純で、新年の挨拶を通常の包みに挟んで包装するものだがとにかく数が多い。これはかなり真剣に取り組まねばならないようだ。
神経質だと言われる私の癖はこういう時に露顕してしまうらしい。部屋の時計が少し歪んでいるのも許せないように、包みもまっすぐに貼りたい。慎重に作業を進める私に「けーちゃんスピードアップー」と寿君が煽ってくる。申し訳ないとは思うが無視を決め込んだ。
十数個も包装していれば作業は手に馴染むもので、スピードもしだいに上がる。少々余裕の出てきた私はそこで初めて、愛音の姿が作業台から見えることに気が付いた。
寿君の母親に教わりながら、一度に大量の野菜の下ごしらえを施す。大きな鍋と愛音という組み合わせはなんとなくちぐはぐな感じがしてじっと見入ってしまう。
愛音には音楽が似合う。というよりも、音楽が愛音を選んでいるのではないかと感じる。歌う姿、ピアノの前にしゃんと立つ姿、音楽の溢れる早乙女学園で過ごす、愛音の姿。そればかりを見てきたからか、一歩外に出た愛音は愛音でないように見えてしまう。
「ちょっと休憩にしようか」
寿君のお姉さんがそう言ったのをきっかけに、三人はふぅと息をつく。湯呑から暖かいお茶を飲んで笑う愛音の声が近くなった。
「アイドルになったら」
――愛音が、アイドルになったら。
ずっと私の曲を歌ってほしい。そのビジョンだけはやけに明確で、私のそばに居ない愛音が想像できない。デビューすれば今以上に二人で過ごす時間は減ってしまうだろう。
アイドルと作曲家。音楽を作る場所が違う。私はもちろん愛音の曲だけを作るというわけにはいかないだろうし、愛音は私がスタジオで曲を作っている間にも、歌以外の仕事をこなしているかもしれない。
「やっぱり、歌で気持ちを伝えられるようになりたいです。学園での演技指導やバラエティ実習も勉強になるけど、たくさん歌いたい」
ほぉ、と感心したような二人分の女性の声。「嶺二はバラエティとかでいじられまくって、歌の仕事なくなっちゃわないか心配よ」と笑うお姉さんに、愛音は肩をすくめた。
歌いたい。そうはっきりと言葉にした愛音に、内心ほっとした自分がいる。
寿君はあまり学園でのことを話さないらしく、二人は愛音に様々な質問を投げかけた。聞き耳を立てるつもりなどないが、聴こえてくるものは仕方がないだろう。作業はきちんとこなしているから見逃してほしい。
「卒業オーディションってのがあるんでしょう? 愛音君はどんな感じなの?」
「ボクは……。本番に強いタイプってわけじゃないので、ちょっと心配だなって思ったりもするんですけど、今は楽しみでしょうがないです」
「頼もしいのねえ」
「オーディションが、っていうよりも、パートナーとどんな曲を作っていけるかなって考えたら嬉しくて」
心臓がどきりと跳ねる。思わず短めの位置で切ってしまったテープをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放った。
「愛音君のパートナーって、今日来てる音波君よね?」
嶺二がけーちゃんって呼んでる方の子だね、とお姉さんが確認する。私がすぐ近くで聞いていることには誰も気付いていないようだった。
「はい。一目惚れみたいにすぐ好きになっちゃいました、圭の音楽が。だからずっとずっと圭の曲が歌いたいんです。二人でデビューして、アイドルになってボクたちの曲をたくさんの人に聴いてもらえたら幸せだろうなって」
「いいね、パートナー愛って感じ」
「嶺二なんて、ビッグになって私とお姉ちゃんを楽させてあげよう、としか考えてなさそうだもの」
「自分のことまず考えなさいってね」
楽しそうに笑う二人はまさに寿君のお母さんとお姉さんという感じだ。兄弟姉妹のいない私には経験し得なかったぬくもりがそこにある。
そして何より、愛音の言葉に目頭が熱くなった。
自由な曲だと初めて愛音に言われた日のことを思い出す。私の曲が今も自由なのは、美しい愛音の声のおかげだ。
「ねぇねぇ、愛音君は、どうしてアイドルになろうと思ったの?」
ことりと湯呑を置く音がやけに響いた。私はちょうど四十個目の包装を終え、次の弁当に手を伸ばしかけていた。
どうして愛音がアイドルになろうと思ったかなんて、聞いたことがなかった。
愛音が歌う。その姿はあまりにも当たり前のものになりすぎていて、どうして、なんて思ったこともない。
私は曲を作る。愛音は歌う。例えば小鳥がさえずるように、魚が水を泳ぐように。それは息をするのと同義のようにも感じていた。
しかし幼い頃に私がピアノを始めたことのように、愛音にも何かしらきっかけがあるのは間違いない。時に愛音はそうなのではないかと思いたくもなるが、歌を歌うために生まれてくる人間などいないのだから。
「……それは、秘密です」
眉尻を下げて笑う顔。困ったようにも、恥じらっているようにも見えて、私はそれがますます気になった。
「おい」
背の高い影が私を見下ろすのに気付き、一瞬肩が揺れる。振り返ると、エプロンを身に着けた男が私を睨みつけていた。
「……片桐ですか。驚かせないでください」
「それはこっちの台詞だ。よそ見しながらよく器用に手が動かせるな」
「よそ見などしていません」
「そうか。ならお前がずっとこっそり見てたって愛音とおばさん達にチクってやろうか」
「……やめてください」
思わずこぼれたため息は思いのほか深かった。
私の隣に並ぶ形で片桐も弁当を手に取り、見よう見まねでテープを貼りつける。作業自体はそれほど難しいものではないが、少しの歪みでも気になってしまう私にとっては迷惑極まりない。
「まっすぐ貼れないんですか」
「まっすぐだろ」
「性格が歪むと手元まで狂ってしまうようですね」
「そうかもな」
「……自分の持ち場は」
「休憩中」
そうですかと言えば、そうですよと返ってくる。
片桐の相手をしているうちに愛音達は休憩を終えたようだ。家庭用のそれよりも二回りほど大きなしゃもじを持つ愛音の姿を眺めながら、私は相変わらず手をてきぱきと動かした。
結局愛音がアイドルを目指す理由は分からず終いだ。パートナーなのだから直接本人に聞けば良いのだが、答え辛い理由ならば尋ねるのは野暮だろう。
私は趣味でピアノのレッスンの過程で出会った作曲に惹かれて、というのが理由でごく一般的だ。幼少期に芸能界に身を置いていた寿君は、その頃の経験と何かしらの因果がありそうだ。
「片桐」
「ん?」
「貴方はなぜ、作曲家を志しているのですか?」
「何だよ急に」
「訊いたことがなかったので」
片桐は手を止めて、珍しく言葉を濁して頭を掻いた。
「面白い理由とかないからな」
「いいですよ」
そんなもの、端から期待などしていないので。
「制作っていうか、はっきり形の見えないものを作ることに興味があった。曲もそうだろ。楽典も嫌いじゃないし、音楽は日本でもまぁそこそこ学びやすい。それと、芸能界って輝いて見えるが裏では何があるか分かったもんじゃない。そういう世界に飛び込みたいって気持ちもあるな」
「はぁ。貴方は……」
愛音とまるで正反対ですね。
言いかけて、やめた。
私はきっと、少しだけ怖気づいたのだ。
――愛音がアイドルになったら。
その未来がはっきりとした輪郭を持たない理由はただ一つ。愛音は、何に対しても清すぎる。
私の曲を歌いたいと言ってくれることは嬉しい。私も、ずっとそうできたらと願わずにはいられない。
しかし片桐が言うように、アイドルの立つ世界、そして作曲家の住む世界はキラキラと輝くばかりではない。むしろその輝きを放つために、彼らはどれだけ汚れ、傷付き、立ち上がってきただろうか。私にはまだそれが計り知れない。
愛音が悩み、苦しみ、私に助けを求めたとして、それでも頑張れと背中を押せる自信がない。傷付くくらいならいっそやめてしまえば――そう言うのは簡単だ。
「圭はどうなんだ」
「私ですか?」
「俺も訊いたことないからな」
「複雑な理由などありません。作曲を始めた頃から私はその魅力に取りつかれていますし、音楽は私に向いているとも感じます。そして何よりも、私は愛音に出会いましたから」
愛音の歌声が私の音楽をどれだけ色付かせ、自由にしてくれるか。抽象的な表現を片桐は受け入れようとしないから、私もそれを言葉にはしない。しかし理由などそれで十分だった。
パートナーとして、作曲家を志す一人の人間として、愛音の歌声が好きだ。もし愛音に巡り合えなかったとしても、きっと私は彼を応援する一ファンとして愛音の存在を知るだろう。愛音の歌声には力がある。
愛音の歌声に魅了された人間の一人として、私は愛音にアイドルという夢を叶えて欲しい。
しかし、愛音がもし、その道の途中で挫折を覚えるようなことがあれば。別の私がそれを危惧している。
生半可な気持ちでアイドル達はその座を勝ち取ったわけではない。当然愛音は何回もつまずくだろう。私はその手を引いて、彼を起こして、それでも頑張ろうと言えるのだろうか。
「お前と愛音のパートナーシップには感心するな」
片桐は弁当をケースに積み上げ、エプロンの紐を結び直す。けーちゃん休憩してねー、と寿君の声が二階から聴こえる。私の肩を軽く叩いて片桐が持ち場に戻る瞬間、耳元に低く囁く声が渦巻いた。
「卒業オーディション、嶺二に曲作ることになったから」
振り返ると、「しゃあっせー」と乱雑な挨拶をして叱られている片桐の姿があった。
結局、寿弁当での作業は午後八時頃まで続いた。
区切りがついたところで、四人で材料を買いに行って鍋を囲んだ。ぐつぐつと音を立てる鍋。肉を奪い合う育ち盛り食べ盛りの片桐と寿君。二人を上手く煙に巻いて肉を勝ち取る愛音。不戦敗で野菜ばかり食べていた私。いつもの光景に違いない。
あれから、片桐の声が耳の奥に貼りついて離れない。
曲を作ることになった、と片桐は言った。ということは、パートナーを申し込んだのは寿君の方なのだろうか。
思えば二人ともこの時期まで決まったパートナーを作らず、いくら申し込まれても全て断り続けてきたと聞く。つまりそういうこと、なのだろうか。最初から片桐は寿君を、寿君は片桐を選んでいた、と。
パートナーである二人に必ずしも強い信頼関係が必要だとは言い切れない。しかし、愛音と私はそれを大切にしてきたし、この学園生活で私は愛音以外を想って曲を作ったことは一度もない。卒業オーディションは学園生活で愛音と私が培ってきた全ての集大成となる楽曲を作るつもりだ。
「おい嶺二、お前肉食いすぎだろ」
「いや絶対愛音の方がいっぱい食べてる!」
「え、そうかな。響食べる?」
「いいよ。愛音、食ってもっと太れ」
「じゃあぼくちんがもらうよー」
「嶺二はいっぱい食べたからダメ。圭は? お肉いいの?」
妙な違和感が拭えない。パートナーの形は人それぞれだと言えど、私にそれを告げる片桐のタイミングは図られていた気がしてならないのだ。
「ねぇ、圭ってば」
「あ……すみません」
「食べなよ」
愛音が私の器に肉を入れてくれる。すみません、ともう一度繰り返した私の顔を覗いて、愛音は不思議そうな顔になった。
「少し疲れただけです。普段は座ってばかりいますから慣れなくて」
何でもない風に言うと、愛音はほっとしたように私に笑いかける。何気なく視線をスライドさせても、片桐とは目が合わなかった。
あと三十分もすれば年越しだという時間に、私達は寿君の自宅を出た。約束は初日の出を見るだけだったが、せっかくなので初詣に行ってそれから日の出を待つ算段だ。
当然のことながら冬の夜は寒く、私達の口数もいつもより少なかった。体を温めるためにも時間をかけて、ちょうど年を越す辺りで神社に着くようにと出たのだが、全員ポケットに手を突っ込み背を曲げて歩いていた。
「さむ! さっむい!」
「嶺二……うるさい」
「喋ってると温かくなるかも!」
「近所迷惑だろ」
「愛音とひびきんが冷たい……」
指と指をこすり合わせ、息を吐く。喋ると暖かくなるのは正しいかもしれないが、こうも寒くては逆に口が上手く動いてくれようとしない。
「来年の今頃はどうしてるんだろうねえ」
寿君の言葉はふわふわと白く昇っていく。
愛音も、片桐も、私も、返事をしなかった。
私たち早乙女学園の生徒は、もちろん希望ばかりを胸に抱いているわけではない。恐ろしい倍率を潜り抜けて入学しても、未来がそこで拓けるのはほんの一握り。
誰もが一年後の自分を、卒業オーディションに合格してデビューを目指している姿で想像したいだろう。しかし、このオーディションにもし落ちれば。その危険性だって本当は考えておかなければならないのだ。後ろを振り返る暇はない。けれども能天気に夢だけを見ているわけにもいかない。
「アイドルになったらさぁ」
先頭を歩いていた寿君がくるりと振り向く。寒さで赤く染まった鼻に、くすりと愛音が笑った。
「ぼく、店に車を買ってあげたいんだよね。寿弁当のロゴが入ったかっこいいやつ」
「車かぁ……」
「あ、でもまずはその前に! 寿嶺二、誰よりも輝くアイドルになります!」
寿君は寒さに震える指でピースサインを作って、歯をガタガタ言わせながらウィンクをする。なかなか決まらないところがまた彼の魅力の一つなのかもしれない。
「輝くアイドル、な」
「なーにひびきん」
「それなりに具体性ないと失敗するぞ」
ぐしゃ、と片桐が寿君の頭を撫でる。もともと癖毛気味の茶色の毛が小さな山を作った。
「じゃあひびきんは?」
「響のそういう話、聞いたことないね」
「ん……そうだな。俺は、曲を作るだけの作曲家では終わらせない、だな。可能性があるなら幅広くやった方がいいだろ」
自信満々に吐く息が大きなかたまりになって立ち昇る。
「じゃあけーちゃんは?」
「分かりきったことでしょう」
半歩前を歩く片桐を見上げると、久しぶりに視線が交差する。
片桐が、愛音と私とのパートナー関係を馬鹿にしているとは思わない。しかし彼が使った『パートナーシップ』という言葉にどこか棘があったのは確かだ。私は誰に否定されようと、これだけは曲げるつもりはない。
「いつまでも、愛音の曲を作り続けます」
「いいねー、パートナー愛!」
寿君は両手でメガホンのような形を作り、ヒューヒューと茶化してみせる。近所迷惑だと片桐に注意されしゅんとするまでがお決まりの流れだ。
次は愛音の番が巡って来るのか、と思ったところで目的の神社にたどり着いた。
私たちの会話は、いつだって突然始まって突然に終わる。タイミング良く除夜の鐘が聴こえてきて、寿君がまた騒ぎ始めて、愛音の順番がまわってくることはなかった。
なぜかほっとしてしまったなんて、誰にも言えない。
今年もよろしく、と決まりきった挨拶を交わし合い、初詣も特別何か変わったことをするでもなく様式通りに済ませた。その後の初日の出が私たちの当初の目的だったため足早に移動したものの、日の出にはまだ時間がかかりそうだ。
それから寿君が私たちを案内したのは、とある商業施設だった。普段なら閉まっている時間だが、元旦のみ初日の出を見る客のために屋上とその一つ下のフロアを開放しているらしい。私たちのように早く来すぎた客は、下のフロアを仮眠スペースとして使えるようだった。
埼玉のどこで初日の出なんて見るのかと思っていたが、なるほどここならよく見えそうだ。一人で屋上に上がった私は、まだ暗い空をぼんやりと見上げていた。
「……圭?」
「あぁ、愛音。片桐と寿君は下ですか?」
「うん、ぐっすり寝てる。後で起こしてあげなきゃね」
すとん、と私の隣に腰を下ろす。
「愛音は寝なくて良いのですか? ここでは寒すぎて寝られませんよ」
「平気だよ。なんかあんまり眠くなくて」
「風邪をひかないように気を付けてくださいね」
「うん、ありがと」
愛音は首に巻き付けたマフラーを口元まで上げた。歌をやる人間として当然喉は少しでも壊してはならないもので、愛音は秋頃から外出時にストールを使うことが多くなった。ピアニストが指を大切にするように、愛音はそういったケアを怠らない。
「真っ暗だね」
「この辺りじゃあまり星も見えませんからね」
濃紺の空に私たちの白い息だけが舞い上がる。これはこれでなかなか美しい。それに、ふとした情景の中に愛音がいるだけで思わず音楽が沸き上がってくる。
「ねえ圭。ちょっと話をしてもいい?」
「ええ、どうぞ」
少し愛音がこちらに身を寄せて、肩と肩が触れ合う。冷たい体だ。愛音の手を掴み無理やりポケットに誘導すると、あったかいねと彼は笑った。
「嶺二の家族、すごくいい人だったね」
「……はい、私もそう思います」
「ボクのおじさんはいい人だし可愛がってくれるけど、ああいう家族はやっぱりちょっとだけ……憧れるなぁ」
愉快さでいえば負けてないけどね、と愛音は努めて明るく振舞おうとする。彼のおじさんの顔を思い出すこともなく、私はただ空を見上げて小さく頷いた。
「圭、あの時おばさん達との話聞いてたでしょ」
「え……」
「圭と響の会話もなんとなく聴こえてたよ。だから圭にも聴こえてたと思ったんだけど」
「……聴こえてましたよ」
ポケットの中で愛音がぎゅっと手を握り返す。冷たい手なのに熱を持ち、少しだけ震えていた。
「ボクがアイドルになりたいと思ったのね、嶺二みたいな人に憧れたからなんだ」
声は白になり、あとからついたため息もふわりと浮かんで消える。愛音の言葉は続いた。
「歌はずっと好きだった。テレビでアイドルや歌手を見るたびに、なんてキラキラしてるんだろうって。ボクもあんな風に、明るくて、輝いてて、見てるみんなを楽しい気持ちにさせられるようなアイドルになりたいって思ったんだ」
やはり片桐とは正反対の言い分だ。どちらが正しいかなんてどうでも良い。それが愛音と片桐の正義で、譲れないものなのだから。
遠くの方でバイクの走る音が聴こえる。鳥はまだ目を覚まさないし初詣帰りの人々の声はここまで届かない。ほとんど音のない世界で、愛音の声だけが私の音になった。
「同室になって嶺二と初めて会った時、こういう人がアイドルになるんだろうなって思った。ボクの思うアイドルそのものが嶺二だったんだ。ボクは嶺二のことすごいと思ったし、尊敬もしてる。でも何より羨ましかった。ボクがいくら努力したところで、嶺二みたいに人を魅了する力は手に入らないんじゃないかって、そう思ったくらいに」
驚くほど淡々と、愛音は語った。それはほとんどが過去形だった。愛音はしばらく間を置き、ゆっくりと空を見上げながら続けた。
「キラキラした、星みたいなアイドルになりたかった。でもボクは、アイドルはそうじゃなきゃいけないってイメージに縛られていたんじゃないかって、今ちょっと思うんだよね」
「……愛音が、ですか?」
「そう。圭の曲を初めて聴いた時ね、本当に自由な曲だと思ったんだ。海みたいだって」
祈るように愛音は目を閉じた。私もそれに倣い、目蓋を下ろす。暗い空を映していた瞳にはもう何もないけれど、そこに海を思い描いた。愛音と私が想像している光景は、きっと今、リンクしているだろう。
海も星空と同じように、どこまでも続いているように見えて、キラキラと輝いている。愛音にそう伝えたら、驚いたように彼は「あ」と声をこぼした。
「確かに海もキラキラしてる」
「愛音は星よりも海という感じがします」
「そうかな? じゃあ圭とお揃いだね」
「お揃い……ですね」
幼い響きに心がぎゅっと掴まれる。
海のような音楽。雄大で、水面はキラキラと光る。そこには穏やかな波がある。激しい嵐の日もある。その巡りの中で、生命が繰り返される。
海と星空が似ているなんて思ったことはなかったが、それは同じ軸を持ち、背中合わせのもののように感じられた。
「愛音と寿君は違います」
「……うん、そうだね」
「アイドルも作曲家も、誰かと同じなんて有り得るはずがない。個性を大切にすべきなのは当然ですし、愛音には愛音の音楽を奏でてほしい。そしてそれを作るのは、いつでも私でありたいです」
「ボクもね」
私の言葉を遮るような速さで愛音は言った。愛音と私の間に白い息が大きく広がり、思わず頬が緩む。
「ボクもずっと圭の曲が歌いたい。圭とオーディション合格して、圭とデビューして、できればずっとボクの曲は……圭の曲がいいな。無茶なのは分かってるんだけど」
「そうですね……」
「どうしてだろう。アイドルになりたい気持ちはもちろんずっとあるんだけど、圭の曲を歌ってると本当にただ幸せなんだ」
愛音の声はいつもより落ち着いて言葉を紡ぐ。それだけで、音楽が生まれてくるような気がするから不思議だ。
「圭の曲は心にすーっと入ってくるっていうか、なんていうんだろう。ボクが歌ってるのに、圭といつも一緒にいる気がするんだよね」
「作曲家冥利に尽きますね」
「圭と出会えて良かった。だからずっと、一緒にいたいよ」
「私も同じ気持ちですよ」
冷たい肌の下にある心はあたたかく、音色が生まれ始める。「ピアノがあれば」とひとりごちる私に、じゃあさ、と愛音は微笑みかけた。
「歌ってよ、圭」
「歌……ですか」
「音階辿るくらいに歌ってくれたらボクも一緒に歌えるよ」
くるり、指を回して指揮者のように。
愛音の取るリズムに合わせてたどたどしく音を声にしたら、輪唱のように愛音がそれを音楽にする。
私が少し音を外しているからか、愛音と音域が違うからか。それは私の曲なのに、まるでいつもと違う曲のようだった。
音楽は、こうして生まれるのだろうか。感動して、涙が出そうだった。愛音の声はいつも素直に私へと感情を伝える。人の心を受け取るのが苦手な私へ、愛音はまっすぐに気持ちをくれる。だから私は愛音という人間が分かる。二人で音楽を紡げる。
――幸せです、愛音。
お世辞にも上手とは言えない私の歌でも、気持ちは彼に届くだろうか。
夢のような夜は更け、当たり前みたいな顔をして朝がやってきた。
せっかく起こしてやったというのに寿君はぼーっとして、片桐は悪態をつきながら私達と共に屋上にのぼる。すでに顔を見せ始めていた太陽の明るさに思わず言葉が落ちた。
「おぉー……」
「すげーな」
「これぞ初日の出って感じだね」
「眩しいですね」
「それになんかあったかい」
「太陽ぉー!」
「おい、何だよそれ」
私たちはしばらく太陽を見つめていた。それこそ、他の客がぞろぞろと帰ってしまうまで。そこに音楽はなかったけれど、それぞれの想いが確かにあった。そう思いたい。
一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。……という言葉遊びを始めたのはどこの誰なのだろうか。その通りだと私は彼を絶賛したい。いや、絶賛している暇があるならとにかく曲作りに打ち込みたい。
愛音と声を合わせた元旦のあの瞬間から、私たちの曲作りは少しずつ変化していった。私が作って愛音が歌う、そのスタイルは変わらない。しかし私は愛音の声に、愛音は私の曲に、感情を見出すようになったのだと思う。
何より、卒業オーディションのテーマに選んだ『海』が私たちのビジョンを明確化させてくれた。繊細に、穏やかに。海を思い描いた私の瞳の奥には愛音の姿があった。
「ここ、アルペジオで始まるのはどうかな。海って感じがしない?」
「そうですね。愛音の歌い出しは寄せる波のようなイメージなので、ピアノもそれに近付けましょう」
Aクラスか、といちいち心を乱しかけていたあの頃の私はもう居ない。片桐に対してはまだ多少の対抗心があるが、それはコンプレックスではない。何よりも私は、私の全てをかけて愛音の海を表現したいと思った。
曲の作り込みは今までの比ではない。愛音の声に合わせて奏法も新しいものを習得した。シンプルな中に、きらめきや自然の音やすべての始まりを感じさせるようなイメージ。
私にとってはその全てが愛音で。
全てが、彼のための曲だった。
早乙女事務所準所属作曲家、音波圭。
春から私の肩書はそう変わった。
卒業オーディションのダブル優勝に伴い、私たち四人は二年間、早乙女事務所の正所属を目指し活動することとなった。
最初の一年間はいわゆる試用期間である。私たち作曲家はコンペに曲を送り続け、それが目に留まれば小さな仕事をもらえる。愛音と寿君は新人アイドル特集の番組に出演したり、オーディションにも参加し続けた。
準所属とはいえ学生時代との差は歴然で、求められるものは高度になるがその分やり遂げた時の喜びも大きい。
仕事を与えられる感覚に、私のプロ意識はいやでも引き上げられた。それはきっと私だけでなく、愛音にも片桐にも、寿君にも言えることだろう。
愛音は歌番組と深夜帯のドラマの仕事が多く、特に演技力を買われ舞台にも出演するようになった。寿君はバラエティで能力を発揮し、知名度は愛音より高いと思われる。肝心の歌の仕事があまり無いからと焦る気持ちは私にもよくわかった。
私と片桐は事務所を通して多くのコンペに参加した。手応えは十分……というわけではなかったが、認められることは素直に喜ばしいし、通らなければその分反省点が見えてくる。準所属期間であるからには正所属を目指すことは当然だが、学生時代とはまた違う場所で学べることに喜びを感じた。
正直な話、私の中には焦りがまだ無かった。準所属期間は二年間。その期間中に正所属になれなければ解雇と聞かされている。まだ一年ある、と悠長な考えに浸っていたわけではない。それでも、コンペに落ちる度、愛音がオーディションで上手くいかなかった度。私の曲に何かが足りないのだと痛感すると共に、まだ上を目指したいという気持ちは萎えなかった。
試用期間一年目で私が何より不安に感じていたのは、愛音と過ごす時間が明らかに減ってしまったことだった。
学生時代に比べると、愛音と曲作りや練習をする機会が作りにくくなった。オーディションやコンペが入れば当然優先すべきはそちらで、愛音も私もそれを黙って見送るしかない。愛音がオーディションに挑む間は私が一人で曲を作った。私がコンペ用の曲で手一杯になっている時には、愛音は同じように一人きりで練習を続けていたのだろう。
パートナーには、というよりは、愛音と私には、それなりのコミュニケーションが必要だ。というのは、愛音と私の共通理解だった。
二人で過ごす時間があって、互いを想う気持ちがあって、音楽が一致する。なんて脆いバランスの上に成り立っているのだろう。
時間が合えば昼食を共にしたり、ばったり会えば互いに仕事の報告をしたり。なんとなく寝付けなくて二人で音を合わせる、そんな夜もあった。
――圭、手を出して。
軽くて艶やかで、透き通る石。少々くたりとした感じの紐が通され、首からかけられるようになっていた。私に紺色のそれを握らせた愛音の首には、青い石が光っていた。
――女の子みたいだけど、お揃い。
――本当に女の子みたいですね。
思わずひねくれた言葉を口にした私に、愛音はゆっくりと微笑みかけてくれた。嬉しくて、嬉しくて仕方がない。学生時代の私なら、愛音に素直に言えたかもしれないというのに。結局お礼の一つも言えなかった。
シャツの下へ隠すようにお揃いのネックレスを下げた私を、愛音は嬉しそうに見ていた。
――……どうかしましたか。
――ううん。ありがとう、圭。
懐かしい夢を見た。
ベッドサイドに置いたネックレスを首に下げて、インナーの中へ。今日からまた、新しい日々が始まる。
社長の命で事務室に集められた私たちは、なぜか寿君の到着を待っていた。集合時間の十分前に私が、その数分後に愛音と片桐がほぼ同時に現れた。
それから、集合時間丁度。寿君かと思えば、扉を開けたのは私たちのよく知る人物だった。
「……いつもこんななのか、寿嶺二は」
「はい。社長に呼ばれた日と仕事にはちゃんと来るんですけどね」
「でも今日がこれだからな……」
「すみません! 遅れまし……た……」
バタン、と大げさに扉が開く音。息を切らしてやってきた寿君は、その人物――日向龍也を見るなり目を丸くした。
「何だその顔は。遅刻しておいていい度胸だな、寿」
「あー……その、すみません、でした」
私たちはほっと胸を撫で下ろす。遅刻した挙句、「社長はいないんですか?」と空気の読めない発言をするほど寿君も頭が悪いわけではなかった。
私たち四人を横一列に並ばせた日向さんは、ぐるりとその顔を見渡す。値踏みするような視線ではなく、何かを確認するように。目が合った瞬間の威圧感に緊張が走る。
「寿嶺二」
「はい!」
「返事はいらん」
「はーい……」
まるで母親に冷たくあしらわれた幼子のように、寿君はしょんぼりと肩を落とす。こほんと息をついた日向さんは改めて仕切り直した。
「寿嶺二、如月愛音、片桐響、音波圭。お前たち四人は、今日からマスターコースに進むことになった。別名ブラザー制度なんて呼ばれている。実際に芸能界で活動している俺と、片桐と音波には作曲家の人間がついて指導を行う制度だ。詳しい説明はそれぞれの先輩から改めて行うが……如月」
「はい」
流れるように私たちを見渡していた視線が、愛音の前でぴたりと止まる。十五センチほど高い位置にある日向さんを見上げる愛音の瞳は強かった。
「『殺人考察』の主演のオーディション、声がかかっているそうだな」
「はい、受けるつもりです」
「分かった。後で詳しく話すことになるが、マスターコースでのデビュー条件はいくつかあってな。それを満たさずデビューすることはまず有り得ないんだが……」
日向さんは愛音と目を合わせ頷いた。何か嫌な――不穏な予感がする。そう感じたのは私だけではないようだ。先に口を挟んだのは片桐だった。
「愛音はそれを満たさずデビューする可能性があると、そういうことですか?」
「結論から言えばそうなる。お前たちのデビュー条件は、俺たち先輩と社長に認められ、その証を受け取ること……これについては後から説明するからパスな。それとタイアップを取得すること。そこまで来たらアイドルはソロデビューを果たす。同じように作曲家はその曲を作ることが条件になる」
自然と、私のこめかみに汗が伝った。予感が一つ、当たった気がした。
「それと、寿と片桐。お前らパートナーはどうするんだ?」
「あぁ……嶺二の曲作ったのはあれきりだしな……。パートナーがいないことが不利に働くならともかく、俺は一人で構わないです」
「ひびきん即答!?」
追い打ちをかけるような違和感に気付くのに、少し時間を要した。
「……片桐、寿君。どういうことですか?」
「あれからパートナー解消したの?」
「いやぁ……解消、というか……」
「もともと卒業オーディション限りの約束だったんだよ」
さらりと言ってのけた片桐に、愛音と私は話を飲み込めずにいた。話を繋ごうと日向さんが間に立ち、片桐は一年前の卒業オーディションにまで記憶を遡らせた。
「社長命令っていうか、とりあえずまぁ嶺二と組むよう仕向けられたっていうか」
「パートナーは自らの意思で決定するはずでは?」
「それはそうだけどな音波。俺たちは素人じゃねえ。学生のお前らが自分たちでパートナーを選びオーディションに臨む過程も評価の一つだが、寿と片桐はパートナー選びで実力を殺す恐れがあった」
「日向さんが言うほどはっきりは言われてないが、誰と組むのが最善かと学園長に問われた。嶺二と組むのは楽じゃなかったが、楽じゃなかったからこそ認められて、圭と愛音とダブル優勝できたんだろうな」
「しかし……」
それでは、まるで……。
愛音も考えていることは同じのようだった。
私の脳裏に、愛音とパートナーになった日のことが蘇る。運命といえば痛々しいかもしれないが、確かに私はそれを感じた。愛音の曲を作りたい。そして、愛音は私の曲を歌いたいと話してくれて。打算的なものは何もなかった。
白すぎたのは、私も同じだったのだ。
「仕組まれていた、とでも考えてるのか?」
「そんなことは……」
「さっきも言ったが、俺たちはプロだ。社長は特に……事務所のトップだからな。当然将来性のある人間が欲しい。社長は芽を潰すタイプじゃあねぇが、どうすれば芽が死ぬかなんて手に取るように分かる」
だから片桐と寿君はパートナーになった。
勝つために。デビューするために。当然持ち得るはずの感情なのに、それはまるで私の知らないものだった。
私も勝ちたかった。愛音がずっと私の曲を歌ってくれたらいいと思っていたから。
もちろん、デビューしたいと願った。そして愛音の曲を作り続けたいと。
「自分から潰れるような芽じゃこの先はやっていけねぇってことだ。全員、肝に銘じておけ」
冷たい汗が背を流れ落ちる。
胸元で、紺色の石が冷やかに私を刺した。
マスターコース寮への引っ越しの準備を済ませた私は、ピアノを弾く気にもなれずベッドに横たわった。私より早く荷造りを終えた片桐はもう部屋に居ない。
――圭の曲を歌ってると、ただ幸せなんだ。
音の代わりに、愛音の声が心にぽつりと落ちる。
嬉しかった。私も同じ気持ちだったから。
時々考えることがある。もしデビューできなかったら、愛音と私は音楽をやめてしまうだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
考えたところで、自問したところで、答えはどこからも返らないというのに。
愛音のデビュー、片桐と寿君の卒業オーディションの真相。どちらを考えても頭が痛い。その度に脳裏に響く愛音の声が柔らかく私を甘やかしてくれる。それが一番怖いことなのかもしれない。
片桐と寿君の件はもう済んだことだ。
社長はオーディション以前から二人に目を掛けていたのだろう。片桐に実力があることは言わずもがな、寿君もアイドルとして申し分ない歌唱力とキャラクター性が備わっていることは確かだ。
芸能界がやらせなんかに満ちた世界だと言うことも分かっているつもりだ。何より、あのオーディションが仕組まれたものでないことは、愛音と私が一番よく分かっている。
片桐と寿君は、必要な人間だった。それと同じくらい、愛音と私も、期待されていると思って良いのだろうか。
「……圭?」
コンコン、と軽いノックの後で、穏やかな声が聴こえた。愛音だった。片桐が出て行った時に鍵は閉めていないから、「どうぞ」と中に入るよう促す。
「おじゃまします。片付け、済んだ?」
「ええ。私も片桐もあまり荷物が多い方ではないので」
ゆっくりと上半身を起こす。ベッドの上、私の足のある辺りに腰を下ろし、愛音は鞄から一冊の台本を取り出した。それが何かは、訊かなくともわかる。
「……どうですか、オーディションは」
「もちろん頑張るよ。あのね圭、これを渡そうと思って」
何の変哲もない、片面刷りの一枚の紙。上部に控えめに踊る文字を見て、思わず私は目をこすった。
「映画の……主題歌の、コンペが?」
「そう。事務所にもまだ必要書類整ってないみたいだったから、直接もらって持ってきたんだ」
「参加します」
「そう言うと思った」
愛音は口元に手をあて、鳥がさえずるように笑う。
彼がオーディションを受ける作品、殺人考察。私も一度原作を手に取った。途中で読むのを放棄してしまいたくなるほど、こちらの心を抉るような心情描写。気付けば主人公にどっぷりと感情移入してしまう自分がいた。その割に冷静になって考えると解釈の幅が広く、演者ではない私ですら、この男をどう表現するかと考えてしまう。
「やっぱり圭の曲でデビューしたいから」
「……はい」
「頑張ろうね」
「ええ」
差し出された手をぎゅっと握りしめる。
愛音の言葉は清い。まるで夢のかたまりのように、私に前を向かせてくれる。
「……この部屋、『殺人考察』の……あのシーンみたい」
「え?」
愛音は靴を脱ぎ捨てると両足をベッドの上に乗せる。四つん這いに近い姿勢で這い寄る愛音に、心臓が大きく音をたてた。私の上に覆いかぶさる形で、愛音は額をこつんとぶつける。
「ここ、本当はキスするんだけどね」
少し体が離れると、ベッドが軋む。
それが映画のワンシーンだと気付いた頃には、愛音はもう役の中にいた。
「この小さな部屋には何もありません。あなたにあげる服も、靴もない」
愛音はゆっくり目を閉じた。『あなた』に捧げたい何かを想像するように。
この小さな部屋は私の部屋ですよ。口を挟んでも良かったけれど、突然開いた愛音の熱っぽい瞳に言葉は奪われた。
「私があなたに与えられるもの……。それは、この愛だけ」
「……あい、ね」
すうっと、柔らかい肌がシーツをすべる。普段と違う愛音の姿に驚いた私は、思わず後ろ向きに倒れ込む。ベッドに仰向けになって愛音を見上げると、やさしく抱きしめられた。
それは情熱的な抱擁でも、友達同士で交わす冗談っぽい挨拶でもない。
「春が来て、夏が来て……それでも私は私以外の何者にもなれなかった」
耳元で囁く、私の愛してやまない声。この声を聴くと、素直に思ってしまう。愛音の歌が聴きたい、と。幸せな私の音を。
「私がいてあなたがいて、この心がこんなにもあたたかい。それだけで私は十分……幸せなんですよ」
触れ合ったところから、愛音の心臓の音が伝わる。いつもならば愛音から響くものは音楽だけだ。重い心音は、愛音が私と同じ存在なのだと歌う。もう二年の付き合いになるのだ。愛音が天使のようだなんて、さすがにもう思ってはいない。
(けれど……)
柔らかい指の腹が私の前髪をそっとはらった。
愛音の瞳はこんなに青く、美しかったのか。笑うと下がる目尻。透き通るような白い肌を紅潮させて、愛音は私と唇を重ねた。
「…………圭」
愛音が、私に。
夢ではなかった。いつも私の音を紡いでくれるその唇が、私とキスをしていた。ただ触れ合っているだけ。心地よい力強さで、愛音と私との間から音楽を消した。
体中がじんと熱くなり、一つ一つの神経が、細胞が、幸福を歌い始めた。
「あ……いね」
「…………圭?」
「そろそろ、」
呼吸困難で倒れそうだ。愛音の息継ぎのタイミングでそう告げようとしたら、何かに弾き飛ばされたように彼の体は私から離れて後退し、ベッドの縁にぶつかった。
「愛音! 大丈夫ですか?」
「ごめんなさい!」
信じられないとでも言うように、愛音の左手は唇を覆った。耳まで真っ赤に染めて、べたりとベッドに座り込んだまま何回も謝罪を繰り返す。
「ごめん、ごめんなさい、本当に」
「役に入り込みすぎるのも良くありませんよ」
「ごめん圭、ボク……」
「謝らないでください。ちゃんと如月愛音に戻りましたか?」
小さく愛音は頷く。唇を重ねる前に彼が私の名前を呼んだことには気付かなかったふりをした。
いつからか、ずっと考えていたことがある。
私は愛音が好きなのだろうか。
とんだ自惚れかもしれないが、愛音は私が好きなのだろうか。
私たちが音楽とは別のところで触れ合えるようになれば、愛音と私の音楽はどう変わってしまうのだろう。
唇に残る熱は私に音を与えようとはしなかった。今私が一番に望むものは、愛音とのデビューだ。それ以外の何かと音楽を両立できるほど、私は器用な人間ではない。
「コンペ用の曲作りがしたいのですが、付き合って頂けますか?」
「う、うん……もちろん」
愛音と二人で過ごす静寂が重いと感じたのは初めてだった。ピアノがほしい。何か、音がほしい。私たちの間にはそれが必要だ。
楽譜の角を揃えていた私に、ドアノブを握る愛音がふと問いかけた。
「圭は、役に取り憑かれるって感覚、分かる?」
「取り憑かれる?」
愛音は小さく頷く。私がその原作を読んだことを知っているから、細かいところは端折って簡潔に説明をしてくれた。
「この役の解釈って、すごく難しいと思うんだ。愛が深すぎて自分を見失ってしまう……。だから、どうしてもネガティブに捉えてしまうことも多くて」
取り憑かれるという感覚が分からない私にも、それはなんとなく掴める気がした。冷たく突き放されたように見えても、この作品の根本にはいつでも『愛』がある。単純に愛が深すぎるからなのか、それとも途中で愛を失ってしまったからなのか、どちらとも解釈できる描写がいくつもあった。
「ボクは特に役に取り憑かれやすいかもしれないね」
「なぜです?」
「台本を読んで練習して、演じてるとね、ボクじゃないその役と一体になるっていうか……感情移入よりもっと深い部分で、一つになる感じがするんだ」
奇妙な冷や汗が背を伝った。
愛音が役にのめり込みすぎる傾向にあることは、さっきこの身で思い知ったばかりだ。その感覚を『取り憑かれる』と呼ぶのならば、私はきっと音楽に取り憑かれている。
愛音は学生時代から特に感受性が豊かだった。
だから愛音の演技には説得力がある。演じているのではなく、愛音が本当にそうなっているのではないかと思わせるほどに。しかし今は、愛音のそんな感受性の強さが怖い。
「あなたは如月愛音です。役者にとって、役と一つになれるのはとても良いことかもしれない。けれど、忘れないでほしい。私はいつでも、愛音を見つめています」
「ありがとう、圭」
この話はもうおしまい、と言うように愛音は扉を開く。見慣れた廊下は私たちを現実へと引き戻す。
アイドルと作曲家。私たちはパートナーを組み、今まで一緒にやってきた。これからもそうでありたいと思うし、愛音の隣には私がいたい。
しかし、私たちは別の立場にいるから、わかってあげられないこともある。愛音が陥った、役に取り憑かれるという感覚。演者ではない私にはきっとそれがずっと分からない。そんな時、学生の頃ならば頼りになるのは寿君だった。
明るくて、そこにいるだけで人を元気にしてしまうような彼の姿に、愛音も私も助けられてきた部分がきっとある。だから、余計に心が痛い。今私は、寿君を心の底から信用していると言い切れない。
引っ越しを終え、私たちはマスターコース寮へ移り住んだ。ブラザー制度という別名の通り、私たちは寮で先輩との共同生活を始めることとなった。愛音は寿君、日向先輩と。私は片桐と先輩作曲家と同室だ。
先輩の指導の下、私も片桐も、それまでと特に変わらぬ生活を送っていた。曲を作り、コンペに送り、それが仕事に繋がれば全力で取り組む。
デビューには、アイドル、作曲家共にエンブレムが必要らしい。先輩に認められた暁にもらえるブラザーエンブレム。そして社長からも同じようなものが与えられるという。
具体的に何をすれば二人から認められ、デビューが決まるかなんてわからない。そこまで世話を焼いてくれるほど、この世界は甘くなかった。だから私は、愛音と共にチャンスを掴むべく『殺人考察』の主題歌を作ることに重きを置いた。
「おい圭、嶺二と愛音が出てる」
「……あぁ、先日収録だったと聞きました」
愛音は、深夜帯の新人アイドルが多く出演する番組に時々出るようになった。寿君も数回出演する機会があるようで、彼も少しずつではあるが歌の方面に仕事を広げている。
私はピアノを弾く手を止めて、片桐の隣に腰を下ろした。こうしてテレビを通して見るとよく分かる。この業界にはこんなにも多くの新人アイドルが存在して、愛音も寿君もその一角に過ぎないのだということを。
「こんなにたくさん出て、全員歌えるのか?」
「司会が持っているくじで引かれた人間のみがそのチャンスを与えられるそうですよ」
「運も実力のうちってわけか」
なるほど、と片桐は腕を組み、俯瞰するように司会がくじを引く様子を眺めた。
愛音がこの番組中に歌えなかったことは本人に聞いて知っている。たった三十分の枠で、出演者はざっと二十名以上。三週ほど前の放送分で愛音は運良く歌う機会をもらっていたから、数撃てば当たるというものなのだろう。
一人目は某大手事務所の女性アイドルだった。見ていて得るものが無いわけではないが、今はそんなことより曲作りに集中したい。楽譜を広げて、テレビの音を無視し頭の中で一音一音再生する。
型にはめて作った旋律を少しずつ崩していく。こちらの方がより愛音の声を生かせるだろうか、いや、あえて声を浮き出す形にしてよりくっきりと輪郭を持たせるべきだろうか。音楽と、愛音の声を想う時が一番はっきりする。私は本当に幸せ者だ、と。
「おい圭」
ごと、とローテーブルからマグカップがひっくり返りフローリングに落ちた。幸い中身は空だったから良かったものの、片桐がなぜそんなに動揺しているのか、私にはすぐにわからなかった。
「すげえな、おい」
「…………怖いほどの強運ですね」
片桐が苦笑しながら指さした先では、司会が『寿嶺二』と名前の書かれたくじを引いて彼を手招いていた。
寿君は本番に強いタイプだ。特に、絶対にミスできない大一番では必ず周りの期待以上の成果を示す。練習でミスをしてもそれをきちんと本番までに仕上げてくる。安定感というよりはその絶対的な度胸に、私は畏怖の念さえ抱く。
ステージに躍り出た寿君は前奏に合わせて踊り始める。元々短い枠の番組だからか、自己紹介はおろか、名前や所属事務所は小さなテロップでしか表示されない。けれどもそういうところにも目を光らせている業界の人間や一部のファンに名前を売るためには十分だった。
「やはり寿君とは組まないんですか?」
「まあな。パートナーじゃないが、条件付きで楽曲を提供する相手も他にいる」
「そうですか」
精一杯歌い、踊る寿君も、一人でデビューを目指している。決まったパートナーを持たず、それでも前に前にと高みを目指す二人の姿が私には眩しかったのかもしれない。支え合い、パートナーとしてデビューを目指す愛音と私は、シャイニング事務所内での典型的な準所属の姿だ。助け合うこと、二人で頑張ることは悪いことではない。分かっているのに、私たちのやり方はとても脆く、頼りないものに思えたのだ。
「嶺二、なかなかいいな」
ありがとうございました、と勢い良く頭を下げる彼に拍手が起こった。ここに集まったアイドル達は皆ライバルも同然だが、カメラを前にしていがみ合っても仕方がない。席に戻った寿君の隣で、愛音はいつもと同じように、素直に笑っていた。
それから数日が経っても、ステージに立つ寿君の姿が頭から離れなかった。それほど良い歌であったというよりは、彼の存在感そのものが私を引きつけて離さない。アイドルの定義なんて知らないが、彼は本当にアイドルになるために生まれてきたのではないか。そう思うほどに。
きっとそれを感じ取ったのは私だけではないだろう。あの日の放送は動画サイトにアップされ、寿君のステージはやけに再生回数が伸びていた。数回前の愛音の動画を抜くのに、そう時間はかからないだろう。
そして私は、先輩作曲家の添削を何度か受けた末、例のコンペに臨んだ。
曲調は私の得意なバラード。ピアノをメインに、シンプルな作りにした。シンプルすぎる故に実力がすぐに見抜かれるからと先輩は少々渋ったが、手直しを重ねそれをカバーするだけのアレンジも加えた。
技巧を凝らした意外性はないが、真面目で持てる技術を尽くした曲作りには自信がある。愛音が歌う姿を思い描いて、女性中声程度の音の運びとなった。
もし私の曲がコンペに通り、愛音が例のオーディションに受かったら、この曲でデビューする線が濃厚になる。そう思えば情熱を傾けるのは当たり前だった。
デビューするからには当然愛音と共にするのが良い。
私は音楽が好きで、作曲が好きでこの道を選んだ。しかし今は、ただ愛音の曲を作りたい。それがもしできないのならば、作曲という道はただの暗い静かな森だ。
愛音と会うための時間はなかなか作れなかったが、愛音が夢に向かって努力している姿に励まされた。だから私もやれることは全てやりたい。そう思えたのだ。
しかし、そんな夢はあっさりと砕かれる。
私がそのコンペを通過することはなかった。
そして、愛音は、『殺人考察』の主役に抜擢された。
――おめでとうございます。
メールを打つ手が、震えて止まらなかった。
一つコンペが上手くいかなかったからといって、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。
新人の私は今までだって何度もこの挫折を経験してきたし、そこから何かを得て、また次に生かそうと考えてきた。しかし、こればかりはダメージが大きすぎた。
「圭!」
「すみません、遅くなりました」
椅子から立ち上がった愛音をもう一度座らせて、私もその向かいに腰を下ろす。久しぶりに空き時間が合ったから、愛音と私は寮のラウンジで待ち合わせをしていた。
「打ち合わせ、上手くいった?」
「ええ。ドキュメンタリーの挿入歌を一部任されることになりました。放送日時が決まったら、また知らせます」
「圭の曲がテレビから流れてくるの、すごく好きなんだ」
屈託のない笑みを向けられて、思わず恐縮する。私だって同じ気持ちだ。そして今は何より、愛音の姿が映画館のスクリーンで観られる日が来るのが嬉しくて、楽しみで、夢のようだ。これは私の本心だった。
私は鞄を開けて楽譜を取り出す。愛音は嬉しそうにそれを手に取りじっくりと眺めた。
映画の主演が決まったとはいえ、私がコンペに通らなかった以上愛音が主題歌を任されることはない。だから寿君と同じように、歌手デビューのためにもオーディションを受け続けなければならなかった。それは映画の撮影の仕事もこなさなければならない愛音にとって、重い負担となるだろう。自分の不甲斐なさを再び責め、私は目を伏せた。
「圭がこの間コンペに出した曲、好きだったんだけどなぁ」
「仕方ないでしょう。通らなかったものは仕方ありません。あれはもう世には出せませんから」
本当は、愛音が歌ってくれたらそれで良い。映画の主題歌に使われることがなくても、ただ、愛音に歌ってほしい。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではないのが現実だ。
愛音は楽譜にじっくり目を通し、「やっぱり圭の曲っていいね」と笑った後、眉間を押さえた。疲れがたまっているのだろう。映画の仕事の合間を縫ってオーディションを受け続けているのだから当然だ。
「……稽古は順調ですか?」
「うん。大変だけど、ためになるっていうか。世界が広がる感じがする」
「それなら良かった」
しかし愛音の表情がなかなか晴れないので心配になってしまう。無理をして笑顔を作るのはいつものことだが、本当は、辛いならば辛いと言ってほしい。私をもっと頼ってほしい。今はそんなこと、口に出せやしない。
「何かあれば、何でも話してください」
逃げるように私はそう言った。愛音は神妙な表情で頷く。
「ねぇ、圭は、作曲家になりたい?」
「え……はい、もちろん」
「ボクも、アイドルになりたいんだ。どうしても」
「……はい」
「圭が昔言ってくれたみたいな、海みたいなアイドルに。ボクもキラキラ輝きたいって、本当に思ってる……」
「…………愛音?」
藍色の瞳が色を失くしてしまいそうで怖かった。私の声で突然我に返った愛音は、「気にしないで」とまた笑う。
役に取り憑かれる。愛音の言葉が、ふと蘇った。
どうしても思考がネガティブに陥ってしまうようなストーリー。そして感受性が強く、役やシーンに引き込まれやすい愛音の体質。現場に私たちのような『仲間』はおらず、それどころか、プロに混じって仕事をこなさなくてはならない。それが愛音にとってどれだけ苦しく、重く、辛いことなのか、私はわかったつもりでいた。
今日は声のコンディションがかなり良いと愛音が言うので、レッスン室に向かった。マスターコース寮はたった六人しか住んでいないというのにかなり広く作られており、レッスン室も二つある。予約だの延長だのに追われたり、他の生徒からたまには譲れと文句を言われ続けた学生時代に比べると遥かに自由度が高い。
愛音は発声をいつも念入りに行う。私も指を慣らしたかったから、しばらく私たちはそれぞれウォーミングアップに務めた。
私が指で音階を辿り、愛音は声を出す前にまず顔のストレッチから始める。レッスン室の鏡と睨み合い目元と口元を同じ方向に吊り上げたり、ぎゅっと瞳を瞑ったり。
それから愛音が私の横に立って、発声を軽くこなし、楽譜を広げる。譜面台の高さを調節する愛音の手が、なぜか震えていた。
「どうしました?」
反射的に空調の温度を確認する。愛音は、しゃがみ込んだまま立ち上がろうとしなかった。
「愛音……」
「ごめん圭、手……貸してほしい」
「はい……どうぞ」
弱々しい動きで愛音の右手が伸びる。それを引くようにぐっと両手で掴むと、思ったよりもずっと強い力で愛音に手を握られた。
どうも様子がおかしい。
声の調子が良いことは私も耳で確認済みだし、決して体調が悪いようでもなかった。しかし、愛音は、静かに崩れかけている。それが、直感的に分かった。
ピアノの椅子から下りてしゃがみ込み、愛音と同じ高さに視線を合わせる。顔を覗き込もうとすると、それは膝の内側に埋まった。肺活量だけは人一倍の細い体が、小刻みに震えている。
「愛音……っ」
いてもたってもいられなくなり、その体を抱きしめた。
愛情を伝えるような優しい抱き方はできなかった。ただ不安で、大丈夫だと笑ってほしくて、何事もないのだと安心させてほしくて。甘えた気持ちが、愛音に縋りつくように行動になっただけだ。
「ごめん……、圭、ごめんなさい……」
「謝る必要など……」
「違う。ボク、圭に言わないといけないことが……」
瞬間、嫌な予感ばかりが私を襲った。優しくて、そして少し鈍い愛音のことだから、その『言わないといけないこと』が私にとって朗報ではないことは明らかだった。
愛音はゆっくりと、私の顔を見つめた。
「……デビュー、決まったんだ」
「え…………」
ふわり、意識が浮かんだ。おめでとう、良かった、私も努力します……そんな言葉は出て来ない。
――なぜ?
無神経な言葉を口に出しそうになって、直前でせき止める。
愛音の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれた。泣きたいのはこちらも同じだ。しかし、愛音も相当の覚悟を要したのだろう。私は愛音のパートナーで、共に夢を目指して、愛音が映画の主演に決まり多忙を極めているこんな時期にまで、曲作りに付き合わせているのだから。
申し訳ない。そう愛音に思わせているのだろうか? だとしたら、私は愚かだ。そして何より滑稽で、惨めだ。
「……しばらく、稽古に専念してください」
困ったことに、惨めな私には惨めなプライドがあった。
愛音が首を横に振る。理由はわかっている。愛音は本当に、心から私の作る曲を愛してくれているから。そしてきっと、私は少なからず愛音の心の拠り所になっているから。
「浮ついた貴方の歌は聴きたくない」
「圭……、ボクそんなこと……っ」
「もう愛音は、一人で歩けるでしょう」
いやだ、いやだ。愛音の声が聴こえる。でもそれはもう、幻聴かもしれない。
愛音のそばにいたい。しかし私の隣にいることが愛音の枷になるのならば、叶わなくてもいい。
愛音の曲を作りたい。作るだけなら私の勝手だ。
愛音とデビューしたい。夢はもう、終わってしまった。
例のコンペに通った作曲家が愛音の歌唱を気に入り、そのままトントン拍子に主題歌を担当することが決まった、らしい。その話を私が聞いたのは、翌日のことだった。
役に望まれ、音楽に望まれ、人に望まれる。パートナーとして、私はそれを喜ぶべきだろうか。
――愛音、おめでとう。
思わず笑ってしまう。こんな簡単な言葉を、私はなぜあの時言えなかったのだろう。
抱えきれない荷物は私の腕からすり抜けていった。こんな時にも音楽は私の中に生まれ続ける。だから、私は音楽を手放すことはできない。それが何よりも辛かった。
もう愛音は、一人で歩けるだろう。
それでは、私は?
私の音楽はまだ、愛音と一つになりたいと叫んでいるというのに。
私は一人で立つことすらできない。そう実感した夜、私は初めて涙を流した。
私の言葉通り、それから愛音は映画の稽古に専念するようになった。オーディションを無理に受けることもなく、スケジュールを全て撮影や稽古に合わせた。それでいい。それが愛音の夢を叶えるためにすべきことなのだから。
愛音のデビューはもう近い。主題歌を愛音が担当することはまだ発表されていないが、それがCDとして発売されるのは当然のことだ。日向先輩の読みは全て当たっていた。そういうことなのだろう。
私はマスターコース寮の門の中庭で、ぼんやりと空を見上げていた。誰の趣味なのか、色とりどりの花が植えられた庭のベンチはあまり落ち着かない。しかし、妙にそわそわしてしまうくらいがちょうど良い。
いつものように曲が浮かんでこないのだ。音楽は自然と私の中で生み出されるのに、それを形にしようという気が起こらない。
これを曲にしたところで、どうなるのだろうか。
ネガティブな感情が浮かび、それは違うだろうと首を振る。誰かが――愛音が歌ってくれるから、私は曲を作っていたわけではない。ただ作曲することが好きで、愛音と出会うまではいつだって一人でやってきたはずなのに。
私の音楽に、愛音はもう必要不可欠な存在となっていた。けれども気付くのが遅すぎる。
ぬるくなった缶コーヒーに口をつけ、私はポケットに入れた携帯を取り出した。細かい振動が私を呼んでいた。メール受信、愛音。画面に並ぶ二文字が、私の頭の奥を痺れさせる。
愛音からは毎日メールが届いた。稽古の近況を伝えるでもなく、また一緒にレッスンしたいと言うわけでもない。淡々と今日の天気や道で見かけた鳥の話などが続くだけのメールだった。
それに倣って私も返信を打つ。今日は夕方から雨が降りそうですよ、と、その程度だ。ここでメールを無視するのも、下手に撮影について尋ねるのも違う気がした。
折り畳み式の携帯電話をぱたりと閉じ、思わず息を吐く。
「おう、どうした?」
突然降ってきた声に、びくりと肩が揺れる。さっき空になったばかりのコーヒーの缶が転がった。
「あ、わりぃ……」
「いえ、飲み終わってますから」
私が缶を拾うと、その人物――日向先輩は私の隣に腰を下ろした。鮮やかすぎることも、くすんでもいない不思議な橙の髪を無造作に掻き毟り、「今日は予定ないのか」と世間話のように聞いてくる。
「日向先輩こそ、今日は?」
「仕事はある。移動までにまだ時間があるから書類整理に寮に寄ったんだよ」
「……はぁ」
日向先輩の返事は簡潔だった。そして私の返答は少々失礼だったかもしれない。
自分自身の先輩ではないし、まずこの人とはあまり関わったことがない。愛音と寿君の先輩とはいえ、それ以外の接点がないのだからこれといって話題も見つからなかった。
優しいのか、情に厚いのか、小さくなった私を放っておけない性分なのか。答えは定かではないが、日向先輩は特に理由なく私に声をかけたのだろう。厳しいが、あたたかい人だ。そう思った。
「何かあったか?」
「いえ、何も」
自ら会話を絶ち切りかけて、あ、と不自然に声を繋いだ。
「……愛音は、どうしていますか」
「こんな時まで如月の心配か」
日向先輩は開いた両脚の上に肘を乗せて背を丸める。
どうしてこんな質問をするのか、と訊いてこないところから察すると、日向先輩は私と愛音が最近一緒に曲作りをしていないことを知っているのだろう。愛音のスケジュールは大まかに把握しているだろうから当然といえば当然のことだ。
「あいつは……何も話さねえよ」
ゆっくりと首を振る。お前に話すようなことはない、と言われているようで、悲しみや寂しさよりも先に、なぜかほっとしてしまう。
「演技のことなんかは俺を頼りにしてくるが、それ以外はスケジュール調整を手伝ってやるだけで、あとは大丈夫の一点張り。寿とは違う意味でタフな奴だから、まぁ心配はしてないがな……」
「……そうですか」
日向先輩は神妙な面持ちを崩さない。大丈夫ですから、心配しないでください。そう笑顔で言う愛音が容易に想像できた。特に相手に演技を教わっているとなると、それ以外では面倒をかけまいと気負ってしまうのが目に見える。
本当に愛音は大丈夫なのかもしれない。しかし、日向先輩の「何も話さねえ」という言葉の重苦しさが引っ掛かる。
音波、と私を呼ぶと、日向先輩は真剣な眼をして言った。
「お前は、如月の全てを受け止めてやってくれ」
「……全て?」
「受け入れてやる必要はねえ。でも如月にはお前が必要だ」
抽象的な言葉の意味が分からず、思わず首を傾げそうになる。しかしそれが具体的な行動を指すとも思えなかった。私が愛音を受け止めるなんて、当たり前じゃないか……とは、今の私には言い切れない。
私は逃げている。得体の知れない不安から。
愛音のメールに律義に返事をするのも、映画についての話をしないのも、そうすれば互いの深くにある核心部に触れることはないからだ。傷付けることも、傷付くこともない。
だから、私は――
「私は甘くて、弱いんです」
「……おう」
私の言葉に、否定も肯定もしない。日向先輩はただ続きを、私の吐き出す言葉の先を促した。
「愛音が先を行くのを見ているだけだ。追いかけても、追いつかないことが怖い」
互いを選び、ただ歌うことが楽しかった学生時代。あの頃は、どちらかが選ばれ、どちらかが選ばれない現実があるだなんて、考えもしなかった。
「それでも私は、先を行く愛音の曲が作りたい」
「……それは、デビューした如月に見合うだけの曲ってことか?」
「はい」
「お前以上に、如月に曲を提供して世間を納得させられる作曲家はごまんといる。それでもか?」
「それでも私は……」
「それでも如月の曲を作りたい、か? 如月もそれを望んでいるかもしれん。ましてや早乙女学園はパートナー制を導入してそれを推進しているからな、お前の考えもよく分かる」
「……日向先輩は、私達のパートナー関係を解消した方が良いと仰るんですか?」
「そんな極端に言ってないだろ」
日向先輩の言葉に鋭さはない。怒っているとか説教をしてやろうとかそんな感情は微塵も感じない、一人の後輩に対する個人的な気持ちが滲む声色だった。
愛音には私が必要だと言い切った日向先輩が、愛音の曲を作りたいかと問うてくる。それが何を意味するのか、私には理解し得なかった。
「俺は音波の先輩でもなければ作曲家でもねえ。だから具体的な口出しはしないつもりだし、もし俺がお前の直属の先輩だとしても言わねえだろうな。でも一つだけお前に言うとしたら、如月が映画の仕事を引き受けたことは事実だってことだ」
日向先輩はすっと立ち上がると、「じゃあな」と右手を上げた。私はまた一人、空を見上げる。
愛音は映画の仕事を引き受けた。デビュー前の新人アイドルなのだから、チャンスを無駄にするわけにはいかない。だから自分から、その好機を掴みにいった。
――たった、一人で。
ずん、と胸に重いものが落ちる。
愛音は一人で、私がそこにいなくとも、向かって行った。確かにそれは紛れもない事実だった。
――私がいてあなたがいて、この心がこんなにもあたたかい。それだけで私は十分……幸せなんですよ。
マスターコース寮に引っ越す前に愛音が私相手に言った、『殺人考察』の台詞の一節がふと浮かんだ。
私がいて愛音がいて、心があたたかい。それで私は十分、なのだろうか?
拙い物語が、最初のページをめくる。
そこには愛音がいて、私がいて、二人で笑っている。笑っているけれど、音楽がない。そばにいるだけで幸せなのだというように、頬を寄せる。
……それは違う。
私は、やっぱり愛音に、私の曲を歌ってほしい。
例えそれが無茶だとしても。愛音に釣り合う曲を作ることが難しいとしても。
私はもう甘えることも折れることもなく、愛音と曲を作り続けるため、幻想を壊さなければならない。現実は非情だ。私以上の作曲家なんて山ほど居て、その中に愛音の歌を望む者がいる。私はそれでも愛音の声を、私の曲と一つにしたい。だから、少なからず世間に認められることが必要なのだ。
デビューするために片桐と寿君がパートナーを組んだのも、至極当然のことだ。そうしてでも掴みたい夢があり、その想いは私が思うよりずっときれいなものだから。
愛音に歌ってほしい。
純粋な想いは、変わることはない。
ピアノに向かい息を吸った。愛音の声を思い出す。
のびやかな歌声をここに乗せたい。豊かな声、澄んだ声、涼しげな声、鈴のようにかろやかな声。どれも愛音の奏でるものならば愛おしい。
愛音の歌が好きで、そして愛音が好きだ。
好きだからこそ。私がいて愛音がいるだけでは幸せとは呼べない。二人で拓けぬ未来だとしても、愛音の歩みのそばに私もいたい。
たった一人で私の先を行った愛音に少しでも追いつくように。暑苦しく、がむしゃらに、夢を追いたい。
指が鍵盤をなぞる。自由な曲だね、と愛音が言ったのを思い出した。私はあの頃、愛音の声を天使のようだと思った。
これが、愛音を想って作った私の最後の曲だった。
愛音が失踪したと聞かされたのはその翌日、とても晴れた日のことだった。
寿君の携帯に残された着信が、愛音の最後の音だった。
愛音がいなくなっても、変わらず朝はやってきた。
朝日が昇る度に、学生時代に四人で見た初日の出を思い出す。ぼんやりとした輪郭を持つ白い光が私には眩しすぎた。
窓を開けてベランダに出る。空を見上げるよりも行き交う人を見下ろすよりも、遠くのビルを眺めるのが楽だ。ぼんやりと手すりにもたれかかり目を閉じた。何も見えなくなればいいと思った。
なぜ助けられなかったのだろう。
なぜ気付けなかったのだろう。
辛いのは私だけだというような顔をして、仕事が順調な愛音は私の先を走っているのだと思いこんで。だから私は愛音が苦しみを抱えていたことも、それを寿君に相談していたことも知らなかった。私達は、パートナーだというのに。
もっと愛音の気持ちを考えていたら。自分のことだけでなく、愛音のことをもっと見ていたら。もっと、お互いきちんと話をしていたら。愛音は、今でも私の隣で歌をうたっていただろうか?
強い自責の念に耐え切れなくなった私は事務所を辞めた。誰も私を止めなかった。社長さえ、一瞬眉をひそめた後、きちんと揃えた書類を受け取り、目を伏せた。
ほぼ同時期に片桐も事務所を辞め、作曲さえもうやることはないだろうと言い出した。社長との口論の末の決断だった。辞めざるを得なくなったわけではない。事務所を出たのも、作曲はもう辞めると決めたのも、片桐本人の意思だ。
幸いまだ若い私は、寮を片付けた後に実家へ帰った。都内ではあるが、私の実家には洒落た中庭もなければ社長のブロンズ像も無い。愛音と何度も訪れたレッスン室も、渋々片桐と使っていた二段ベッドも、何もない。しばらくはそれが私の心を落ちつかせた。
しかし幸か不幸か、フリーという扱いになった私に仕事はいくつか舞い込んできた。シャイニング事務所に準所属として身を置いていた頃に受けたコンペ繋がりの仕事や、どこから紹介されたのか分からないような内容まで、数は少ないが中身は多岐に渡った。
窓を閉め、カーテンを引く。カラカラ、と窓が鳴る。カーテンレールが打楽器のように滑る。スリッパを履いた私の足はリズムを刻む。やはり私の中には小さな音楽が生まれ続ける。
仕事はきちんと引き受けた。生きるために仕事は必要だ。音楽が私の中にまだ生まれるのなら、尚更。
私は片桐のように音楽から離れて生活することはできなかった。夜中にピアノに向かい、ただ一心に音のことだけを考えて指を動かす。他のことは、何も考えない。
そして朝日が昇るのを待って、色々な音を耳に感じながら寝床に就く。
ベッドに転がり、薄ら射し込む陽射しを避けるように寝返りをうった。
愛音の失踪事件はニュースでも取り上げられたが、何日経っても進展を見せないことから人々に忘れられていった。事務所が手を回し揉み消した事実もあるそうだ。愛音の叔父と社長の依頼により、愛音の捜索も異例の速さで終了した。片桐が社長と口論していたのは、どうやらその件が原因らしい。
私は、ただ瞳を通してそれを見ていただけだった。
しばらくは何も信じられなかった。
愛音がいなくなったことも、最後に救いを求めた相手が寿君だと言うことも、愛音が映画の撮影が辛いとこぼしていたことも、寿君の軽率な言葉も、現場で愛音が『事務所の力だ』と嫌味を言われていたということも、私が愛音を助けられなかったことも。
片桐だけが涙を流した。そして激昂した。海に向かって、何度も愛音の名を呼んだ。
私は気付けばピアノの前に座っていて、気付けば眠っていて、気付かないうちに、ただ愛音のことばかり考えていた。
今日はどうも眠れそうにない。その理由は、ちゃんとわかっている。
ベッドに転がしておいた携帯電話を開くと、そのメールが表示されたままになっていた。片桐からの短いメールだ。
――嶺二がデビューすることになったそうだ。
「……あぁ…………」
体がずしりと重くなる感覚。
寿君の受けていたオーディションが佳境に入っていたことは私も片桐も知っていた。あの日――愛音が失踪した日が最終審査だったのだ。
最後の電話に出られなかった、と、寿君は言った。その電話に出ずに受けたオーディションで、寿君のデビューは決まった。愛音も私も片桐もいないシャイニング事務所で、今や寿君だけが希望だった。
なぜ私は愛音を助けられなかったのだろう。
なぜ寿君は、愛音を助けられなかったのだろう?
なぜ私に何も話してくれなかったのだろう。
なぜ、寿君には電話をかけていたのだろう?
私に相談してくれさえいれば……何ができただろうか。
寿君は、その機会をも静かに捨てたのだろうか?
空白。
空白。
それは、私の中に積もる、空白。
どうして。
どうして、なのか?
愛音は海のように穏やかに輝くアイドルに。寿君は星のように人々を魅了するアイドルに。そうなれる、はずだった。
いつも見る、愛音が幸せそうに笑う夢。それが今日は、寿君の笑顔に変わっていた。
恐ろしい夢から覚めた私は、とんでもない量の汗をかいていた。シャワーを浴び、仕事用のカジュアルなジャケットに袖を通す。夕方までにデモを持って行く約束になっていた。
とある塾の教材用の短い曲を二十曲。愛音が私の隣にいなくなってからというもの、私は詞のついた作曲の仕事を拒み続けていた。もともとコンペに出し続けていたのも歌詞のない曲ばかりだったから、幸いまだそういった仕事の依頼はほとんど来ていない。
フリーで仕事をしてみて初めて気付いたが、無所属であるということは帰る場所がないのと同時に、向かう場所も様々であるということだ。相手がカフェを指定すればそこで打ち合わせを行うし、それは時によって音楽会社であったりホテルのラウンジであったりテレビ局であったりする。仕事が終わればまっすぐ家に帰ってもいいし、ふらりと寄り道をしてもいい。よく考えれば当然のことであるが、寮生活が長かった私にとって、それはやけに新鮮だった。
そして今日は、片桐に呼び出され某テレビ局に入っている喫茶店で私はコーヒーを啜っていた。
「元気そうだな、圭」
「……元気、という顔に見えますか」
目の前に腰を下ろした片桐を睨むと、下手な笑顔で切り返される。事務所を辞めて一ヶ月程度だというのに、たったそれだけ見ないうちに片桐はやけに大人びたような気がする。作曲を辞めてどうしているのかと聞けば、小さなプロダクションでプロデューサーをしているのだという。
「ちょっと、俺を使ってくれる人がいてな」
「では本当に作曲は……」
「あぁ、やめたよ」
きっぱりと言い放つ片桐に迷いは無かった。そういえばもともと片桐は制作だとか芸能界そのものに興味があると語っていた。だからプロデューサーという職に飛び込んだことにあまり疑問は抱かなかった。
「圭はどうだ? 最近……」
「しぶとく作曲家をしてますよ」
「……そっか」
感情をあまり含まない声だった。
つい一ヶ月前に仲間を失ったからといって、私達の会話は暗いものばかりではなかった。逆に、その話題をわざと互いに避けているような気がする。
朝日が昇る様子を見れば、後悔や苦しみがどっと押し寄せてくる。夢に愛音の笑顔を見れば、目覚めた時には鼓動が速く胸が痛い。だから、辛いのは一人で居る時だけでいい。同じ苦しさを共有しているであろう片桐とは、今は、できればくだらない話ばかりしていたかった。
ほんの二十分ほど近況報告をしあって、仕事があるからと片桐は関係者入口の中へ消えた。黒いジャンパーの男と親しげに話す様子に、片桐も前に進んでいるのだと知る。
私も歩き続けなければならない。
いつまでも愛音の夢を見るだろう。どうすれば愛音を救えたのだろうかと問い続けるだろう。そして寿君がしたことを、私はまだ許せないだろう。
テレビで見かけることが多くなった彼の笑顔は何も考えていないように見えてしまって、私はついに、昔の友人さえも恨んでしまう最低な人間に落ちてしまったのだ。
「それでも私は、君が恨めしい」
こんな私を、愛音は情けないと言って見放すだろうか。
それから、月日は流れて約五年。愛音のいない日々は思ったより早く過ぎ去った。
愛音が夢に出てくることは少なくなった。フリーの作曲家である上で一番の問題だった人脈の築き方もどうにか上手くなった。寿君は多くの新人アイドルの参入により、早くも旬の過ぎたアイドルとして扱われるようになった。片桐は詳しく聞かせようとしないが、そこそこのやり手になっているらしい。
私達は大人になった。大人になってしまった。
私の隣に愛音はいない。今も、誰もいない。
愛音がなぜいなくなってしまったのか。そればかりは、今の私にも考えるのは辛かった。
ざあ、と波が鳴る。革靴と靴下を脱いでその感触を肌で知る。なぜか私は、海にいた。
いや、なぜか――なんて、答えは一つしかないのだけれど。
もうすぐ三月も終わるという季節の海はやはり冷たい。馬鹿なことをしているのは重々承知だ。
きっかけなんて何もなかった。ただ、ここに来たら全てを流せるかもしれないと、そう思ったのは確かだ。
私は首から古びたペンダントを外した。
先端には紺色の石がきらきらと光っている。元々くたびれかけていた紐こそ年季を感じさせるが、時々磨いてやった石は今でも淡い光を放つ。
――お揃い。
愛音が微笑んで私を見つめていたのを思い出す。あの笑顔も、声も、全てまだ、私の中にある。
紐を掴んで石を海に浸けると、ゆるやかな波の勢いに攫われる。手を離せば簡単に飲み込まれる。目でそれを追いながら、穏やかな波の間を私も進んだ。
広くて、やわらかく輝く水面は愛音のようだ。波の音を聴くと、やはり震えるように音楽が生まれる。
つい最近、九州にある水族館で人気を博しているペンギンの特集番組の挿入歌を手掛けた。愛らしい芸が人気の秘密だという彼らに合わせてコミカルな曲が多い中、スタッフから評判が高かったのは水中のきらめきを表したスローテンポのサウンドだった。
その時、私はひどく愛音の声が恋しくなった。海の広さ、きらめき、大きさ、永久を告げるような心地よさ。全てを表せるのは愛音の歌声以外に考えられない。
この五年間、私は多くの曲を作った。使われるかは別としても、ストックが増える度に浮かぶのは愛音の声だ。再び実家を出て大きな棚をピアノのそばに置いた。そこに少しずつ楽譜を重ねた。きっと愛音が見れば「整いすぎて触りにくい」と私の神経質な面を笑うだろうが、それは私のかすかな歴史になった。愛音と奏でたい曲は毎日のように生まれ続けたけれど、それを形にしたことは一度もない。
愛音の時間は止まったままだ。
そして、私自身は、せわしなく動き回っている。
しかし私の時間も同じように――。
「……あっ」
突然大きな波が寄せた。それが地平線に向かって帰るのに合わせて、紺色の石が吸い込まれていく。
だめだ、と私は咄嗟に手を伸ばした。
くたびれた紐はぷつりと切れた。それでも陽射しを受けて輝く石は、私の手の中にまた帰って来てくれた。
どうしても忘れられないのだ。五年という歳月を経ても、愛音がどこかにいるようで。
愛音の声が耳に残るうちは、私は音楽から離れられないだろう。「それって永遠じゃないのか」と妙な顔をして言った片桐の台詞は当たらずとも遠からずといったところか。
膝下と腕がずいぶん濡れてしまった。乾かそうと浜に座り込む。周りから見たら十分いい大人だというのに情けないような恥ずかしいような。その時、ジャケットと共に放置していた携帯電話に着信があった。
「はい」
「圭か!」
「どうしたんです?」
「まだ聴いてないな?」
肝心な部分を省略した片桐の言葉は全く意味が分からなかった。しかし、片桐にしてはずいぶん焦っている様子がうかがえる。何かあったのかと黙って話を聞いていると、「これじゃ埒があかない」と終いには逆ギレを始めた。
「お前まだガラケーだったな」
「それが何か?」
「じゃあお前の携帯でも開けるファイル送るから、とにかく聴いてくれ!」
二ヶ月前にスマートフォンを買ったばかりの片桐は、確かに私の携帯では開けないファイルを時々送ってくる。
今回はとにかく急ぎの用件なのだろう。電話を切ると、三十秒も経たないうちに大きなファイルが添付されたメールが届いた。
ファイルのタイトルは、アルファベットのAとM。それに動画の拡張子がついている。心当たりは何もなかった。なのに、どくんと心臓が跳ねる。
私は恐る恐る、そのファイルを開いた。
――はじめまして。ミカゼアイです。
「…………は?」
私の手からすり抜けた携帯は砂浜に落ちる。
今、確かに、愛音の声が聴こえた。
音質があまり良くない私の携帯でもよくわかる。あれは間違いなく愛音の声だ。投げっぱなしの携帯電話を拾い、巻き戻して一から再生する。
――はじめまして。ミカゼアイです。
愛音の声の持ち主は、『ミカゼアイ』と名乗った。
これは一体どういうことなのか、私には皆目見当もつかない。携帯を耳に押し当てていると、突然ピアノが鳴った。聴いたことのない曲だ。
まるで雷にでも撃たれたように、体中に衝撃が走った。ブレスのかすかな音まで、愛音と同じだった。そして歌う声は、愛音そのものだ。そっくりな声、そっくりな歌い方。似ている、なんてものではない。
愛音が戻ってきた……?
咄嗟に立てた一つの仮説は私の体をじんと熱くした。もしそうだとしたら。愛音に会いたい。ただ一目、歌っている姿を見たい。
――またね。
曲が終わるとふっと音声が途切れた。動画ファイルのはずなのに、画面にはカラフルなロゴだけがずっと表示され続けていた。そのロゴがシャイニング事務所のものであることに、私は気付かなかった。
話がしたい、と片桐からのメールを受信していたことも知らず、私は何度もその曲と声を聴いた。愛音の声が、はじめましてと私に語りかけるのも、ミカゼアイという聞き覚えのない名を告げるのも、またねとぶっきらぼうな挨拶をするのも、耳の奥にこびりつくほど、繰り返し、繰り返し。
その数日後に公開されたミカゼアイのたった一枚の写真は、如月愛音そのものだった。
穏やかに戻りつつあった私の心は、たった十五歳の少年によって再び狂い始めた。
「まともに作曲家してるんだな」
缶コーヒーを二本こちらに寄越しながら、片桐は眉をハの字に曲げた。正直この状況に参っていた私もきっと同じような顔をしていただろう。
「今は仕事をしていないとおかしくなりそうですよ」
「まったくだな」
結局片桐とこうして落ち着いて話す機会を設けることができたのは、ミカゼアイ、改め美風藍の存在が世間に知らされてから三日後のことだった。
たまたま同じ局内にいることを知り、呼びだすと、片桐はあっさりと都合をつけて私の前に現れた。
「この間四国の水族館か何かの特集で、お前の名前見たぞ」
「それはどうも。あと、四国ではなく九州です」
「あー、そうか」
どうでも良さそうに片桐は首を鳴らす。
卒業してお互いプロになれば、片桐とはすぐに疎遠になるだろうと私は思っていた。同じ部屋で生活していた期間が長いとはいえ、もともとあまり合わないタイプであることは間違いない。しかし私達を今繋いでいるものは、愛音と、美風藍の存在であった。
「……美風藍のこと、調べましたか」
「あぁ、もちろん」
美風藍。年齢は十五歳、性別は男、誕生日は三月一日。現在ダウンロード販売のみで活動をしている、シャイニング事務所所属のアイドルである。
私も片桐も、調べられたのはこの程度だ。
「やっぱり妙だよな」
「そうですね。あとは顔写真が一枚公開されているだけなんて」
ご当地アイドルじゃあるまいし、ましてやシャイニング事務所に所属する以上、もっと個人的な情報が掲載されるはずだ。作曲家はともかく、アイドルは個性も売りの一つ。アイドルの個性を尊重するあの社長が、ここまで隠したがる美風藍の情報とはどんなものなのだろうか。
「まぁ、実際ミステリアスアイドルとかって話題になってるけどな」
ほら、と片桐がスマホの画面をこちらに向ける。ネットニュースのトップ記事に美風藍の名があった。
「天使の歌声に中性的なルックス。プロフィールはほとんど『秘密』というミステリアスアイドル美風藍。ダウンロード件数も連日一位を飾っている…………はぁ」
「ダウンロード数も二位との差は倍以上。これも売り方の一つっちゃあ一つだが……」
片桐は言葉を濁す。私達が考えていることは同じだった。美風藍がミステリアスアイドルでいなければならない理由は、やはり愛音と何か関係があるからではないか、と。
彼の顔写真は、どこからどう見ても愛音だ。髪の色と髪形こそ違うものの、赤の他人であるわけがない。何より、彼の歌い方や声は愛音そのものなのだ。愛音の歌声はあまり世に出ていなかったため騒がれていないようだが、準所属期間中に愛音と携わった人間は美風藍の存在を知って何か感じないのだろうか。それとも、五年も前に行方をくらました新人アイドルなど、もう誰の記憶にも残っていないのだろうか。
「……愛音に弟とか、いなかったよな」
「おじさんと二人で暮らしていたので、いないとは断言できませんが……」
「弟にしても似過ぎなくらいだ」
「同感ですね……」
ぱたん、と私は携帯を閉じる。片桐はシャイニング事務所の公式サイトから美風藍のプロフィールを引っ張り出して眺めていた。
「……嶺二は、何か知ってるかな」
「さあ、どうでしょう」
「訊いてみるか?」
「私は賛成できません。辞めた人間が口出しするようなことではない」
それもそうだな、と呟いた片桐の親指は、美風藍の特設ページへのリンクをタップしていた。一枚の写真に数行のプロフィール、そして楽曲情報だけが載せられたページはシンプルながらも目を引く作りになっている。
「ダウンロード販売ですか。いつの間にそんな時代になったんですね」
「なんだよ、オヤジくさいな」
「失礼ですね」
なんとなく、片桐のスマホを覗く。
たった一枚の美風藍の顔写真はまるで証明写真のようで、せっかく整った顔なのだからもっと工夫して撮れば良いのに、などと思ってしまう。同時に、愛音にもこうして事務所のサイトにプロフィールやディスコグラフィーが載せられる日が来たのかと思うと、どうしようもなく切なかった。
そんな私をよそに、片桐は私の鞄を覗き込んで言った。
「まだピアノと手書きなのか?」
「そうですよ。馴染みが深いので」
「アイドルソングは?」
「もうやりません」
「相変わらず几帳面な音楽作ってるんだろうな」
「……嫌味ですか」
一つ目の缶を空にした私は、それを捨てようと席を立つ。三つに分けられたごみ箱のうち該当するところに缶を落とすと、カラン、と軽い音と共に片桐の声がした。
「いや、憧れてた」
「何ですか……急に……」
「圭と愛音にな。愛音はお前の曲を歌うのがすごく楽しそうで、圭は愛音の曲が作れるのが本当に幸せそうだった。ああいう気持ちが、俺にはなかったから」
柄にもなく少し照れた様子の片桐が、それをはぐらかすように笑う。「これも捨ててくれ」と手渡された缶を、私はゴミ箱に落とした。
私はふと、学生時代に抱いていた片桐への劣等感を思い出した。あの頃は同じ作曲家志望で、入学当初は片桐の方が才能を認められていた。私は片桐がSクラス所属であることを羨ましくも妬ましくも感じていたし、負けたくないと思っていた反面、片桐とぶつかることが怖かった。
私がそんな劣等感から解放されたのは、愛音と出会ったからだ。作曲で誰かに負けたくないという想いよりも、ただ純粋に愛音の曲を作りたいと思ったから。
「何か言えよ」
片桐に肘で突かれ、力がすっと抜ける。
「私こそ、憧れていましたよ」
色々な感情が混ざり合ったあの時の片桐への気持ちを、今は『憧れ』と、そう呼ばせてほしい。
慣れないことを口にしてしまった私と片桐は、互いに話をそらすように再び美風藍の話題に戻った。
「十五ってことは学園の卒業生じゃないよな」
「ここ最近のシャイニング事務所は黒崎蘭丸といい外国人タレントのカミュといい、卒業生ばかりを重視するスタンスを改めているようですからね」
確かに、と片桐は首を縦に振る。
今名前を挙げた二人は、あまりアイドルらしくはないがキャラクターが濃く多くのファンを獲得していると聞く。
一見寡黙なベーシストなようで意外と熱い(らしい)黒崎蘭丸。彼はライブハウスでのバンド形式でのライブが多く、アイドルソングらしい曲は一切歌わない。対するカミュはシルクパレスという雪国出身で伯爵家の出だそうだ。執事系と呼ばれている彼は立ち振舞いが非常に優雅でトークを得意としているという。
彼らがそれぞれの活躍の場を確立させているように、美風藍にはダウンロード販売という形が与えられているのだろうか。片桐によるとその売り方も成功しているらしいし、ミステリアスな十五歳の美少年となるとウケそうだというのは私でも分かる。
もう一つの缶は開けず、ほんの数秒の沈黙を持て余したようにそれを爪でテンポよく打ち付けた。ちらりと腕時計で時刻を確認する。この後の予定も差し迫った仕事もないが、ここで二人して延々とぼんやりしているわけにもいかないだろう。
「……なあ圭」
「はい?」
「ちょっとした噂なんだが、美風藍は自分で作曲もしているらしい」
「この彼が?」
画面の中で無表情を決め込んだ美風藍の写真を見つめ、私は聞き返す。愛音と同じ外見、同じスキルを持った上に作曲もこなすなんて。色々とつり合いが取れていないように思えた。
「お前、美風藍の曲、ちゃんと聞いたか?」
「いえ……曲は、あまり」
「まだ四曲しかダウンロードできないけど、聴いてみろよ。美風藍の曲、どれもお前が作りそうな曲なんだよ」
何馬鹿なことを言ってるんですか。とは、言葉にできなかった。私の曲を愛音の次によく知っているのは片桐だ。その片桐が、はっきりと言うのだから。
「何が起こっているのか全くわからない。俺は俺で調べるから、とりあえずお前は一度聴いた方がいいんじゃないか?」
腕を組み、片桐は横目で私を見る。状況判断が全く追いつかない。美風藍は愛音に似ていて、美風藍の曲は私のそれに似ている。それは、どういうことなのだろう。美風藍という存在は私に何を告げているのだろうか。
片桐と別れ、私はまっすぐ帰宅した。パソコンを起ち上げると美風藍の楽曲を全てダウンロードする。CDより手軽に、そして安く購入できるのか、と感心しつつ私はそれを順に聴くことにした。ヘッドホンを繋ぎ、静まり返った部屋に美風藍の声以外何もない状態を作る。
美風藍の楽曲は全てが英語、もしくは造語のような単語の羅列で、すんなり心に響くかといえばそうとは言えなかった。特に、キャッチーな歌詞を好む若い世代には受け入れられそうにない気がする。声とビジュアルの力は偉大というべきか。
肝心の曲は、確かにあの頃私が愛音のために作ったものになんとなく近かった。ピアノやシンセサイザーなど、学生時代私の身近にあった楽器が多用されているのも理由の一つかもしれない。私なら次の音はこう運ぶ、と推測すれば、それは大体当たった。
何より、聴けば聴くほど彼の声に引き込まれた。四曲もフルで聴けば分かる。美風藍の声や歌い方は愛音に『似ている』だけではない。愛音のそれを、まるでそっくりそのまま受け継いだようなものだ。
それからは、とにかく美風藍の情報を集めた。
これまで築いてきた人脈を駆使して彼についてもっと知る人はいないかと探ったり、シャイニング事務所に近い立場にいる人間に話を聞いたり。しかしそれらも空振りに終わってしまった。
彼の情報を得るために開いたシャイニング事務所の公式サイトのトップページで、私は久しぶりに寿君の顔を見た。きれいにウィンクを決めた彼の笑顔が、私の心にはやはりまだ痛かった。
出身地非公開、血液型不明……ここまで来ると逆に怪しまれてしまうのではないだろうか。
身長百七十八センチ。愛音より少し高いくらいだ。十五でこの身長は少し規格外で、驚いてしまう。
ここ数日で、私は譜面と睨み合う時間と同じくらいパソコンに向かう時間が多くなった。いくら彼がミステリアスアイドルの称号を持っているからといって、美風藍についてあれこれと人に聞いて回ると怪しまれてしまうからだ。何より、ネットは不確定な情報も多く飛び交う。憶測だったり噂だったり、そういった類のものでさえ、世論の一つとして私は得たいと思ったのだ。
こうして、曲がりにも一人の『アイドル』を追い続けていたからか、私は愛音がいなくなってから初めて、歌入りの仕事を引き受けることを決めた。
愛音以外のアイドルの曲を作りたいと思ったことはない。それは今も変わらない。しかし、仕事だから作るのかと問われると、それはまた違う気がした。これまで避けてきたはずの道をなぜかまっすぐに進もうとしている。それが私に何をもたらすかなど、今はまだ分からない。
私が曲を提供することになったのは駆け出しの若手女性歌手だ。担当するのはファーストアルバムに収録される一曲のみ。明るくのびやかな声が持ち味で、洗練されているのに都会に染まりきらないような彼女の雰囲気は、どことなく学生時代の愛音を彷彿とさせた。
自宅のローテーブルに楽譜を広げ、パソコンからは美風藍の楽曲を流した。これは美風藍の曲だ、と意識を強く持っておかないと、愛音の歌声を聴いているような錯覚に陥る。広くもない一人暮らしの部屋中を彼の声が埋め尽くす。それがここ最近の私にとってちょっとした幸せだった。
ずっと避けていたはずの他人への楽曲提供は、思ったよりもスピーディに進んだ。早さがそこまで求められる仕事でもないが、もちろん早く出来上がるに越したことはない。先方の意見を取り入れれば修正は必至である。データ化を済ませ納品を終えた後、私は他の仕事の合間にレコーディングに立ち会った。
外からブースを見つめていた私に、一人の男が声をかけた。
「音波さん」
「あぁ……お世話になります」
視線をやり軽く会釈をする。きっちりとスーツを着こなしたビジネスマンのような男は、納品先の事務所の担当者だった。彼は私の隣に立つと、同じように壁に背をつけて腕を組んだ。深紅のネクタイが少し毒々しくて目に痛い。
「音波さん、あなた美風藍って知ってますか」
「え? はい、知っていますが……」
「まぁ、知らない人なんて、この業界じゃいませんよね」
「……はぁ」
それはそうだろう。男の言葉が何を意味しているかが見えず、思わず肩をすくめる。
もしかして私の曲が彼の曲に似ているとでも? そう冗談を言える間柄でもないので続きを待つと、男は組んでいた腕を解いて続けた。
「なんとなく、ですが……この曲を聴いていると美風藍の楽曲が浮かぶんですよ」
「…………そう、ですか」
「似ているわけでもないのに。まぁ私の感覚なので、あまり気にしないで頂けると……」
「いいえ」
人が何気なく耳にするものだからこそ、『なんとなく他の曲が思い浮かぶ』とか『似ている気がする』という感覚は危うい。やはり私の曲と美風藍の曲には何かリンクする部分があるようだ。
それに私はここ最近、彼の楽曲を繰り返し聴いていた。その行為が、プロとしての意識の低さを表しているともいえる。
「今日の様子を見て、それから手直しをします。ご指摘くださりありがとうございます」
軽く頭を下げると、男も恐縮したようにそれを返した。
「美風藍が最近すごくウケているのは、ただ曲がいいからではないでしょうね。ミステリアスアイドルなんて言われてますけど、その曲たちが、美風藍『らしい』曲だとファンに思わせるだけの力を持っているから、なんて。私には専門外ですがね」
ネクタイをそわそわと触りながら男が言った。慣れないことを言って照れくさい、といった感じで。
私もその意見には共感できる。ただ曲を作るのが作曲家の仕事ではない。美風藍の楽曲はどれも新しく都会的な中に懐かしさがあり、心を込めて歌うよりは、口ずさむような軽いメロディ。それに甘い声が乗る。だから彼は、現実に存在し得ない天使のようなイメージを持たれているのだろう。
愛音の曲を作っていた学生時代、私は愛音を表現することが楽しくて仕方がなかった。これが愛音と私の音楽なのだと象徴するように、いつもただ愛音のことだけを想った。
あの時の感覚を取り戻さなくては始まらない。
時間はまだある。歌入りの仕事を避け続けていた私にわざわざ声をかけただけあって、先方は私の楽曲を気に入り、そしてやや過大評価されているようだった。もう一度作り直したいという私の言葉はすんなり通してもらえた。
しばらく美風藍の曲を断とう。決心して、念のため美風藍の情報サイトと銘打たれたファンサイトに動きがなかったかだけを一応チェックする。なかなかコアな情報や、思わず感心してしまうような美風藍についての考察などが寄せられ、私はこの非公式サイトを重宝していた。
新規の記事を開き、私は思わず手を止めた。
――美風藍は人じゃない。
インパクトの強すぎる見出しが、太字でタイトルに踊っていた。それをクリックし、記事の全文を読む。
本日、とあるブログに、美風藍は人じゃない、との書き込みがあった。そのブログの管理人はシャイニング事務所の準所属の新人アイドルで、マスターコースと呼ばれる事務所独自の制度で美風藍の後輩にあたる人物であると特定されている。
詳細な記事はそれだけで、下部にはそのサイトの閲覧者からのコメントが続いていた。
美風藍は本当に天使だったんだ、とボケる書き込み。
それほど厳しいのか、と美風藍の考察材料が増えたことを喜ぶ書き込み。
大丈夫だよ藍ちゃん、と何が大丈夫なのだか分からない書き込み。
人じゃない。それは、人間のレベルを越えた厳しさだということ。そう捉えて、本当に良いのだろうか?
マウスを握る手が震える。心がざわついた。
人じゃない。つまり、人間じゃない?
そう考えると辻褄が合う部分がいくつもある。公開されているのは一枚の顔写真、そしてまばたきをするだけのPV。なにもかも怪しすぎるのだ。
しかし、私はもう一つ、可能性を見出した。
あの社長なら、本当は人間ではないアイドルを、このように公表するだろうか? 本当に彼が人間でない――例えばCGか何かならば、それこそ本物の人間のように詳細なプロフィールを作り、彼が人間であるかのように仕立て上げるのではないだろうか。
つまり、私たちは今、彼の手のひらの上で踊らされているだけかもしれない。
美風藍は人間じゃない。そう騒がれるとまた美風藍の認知度が上がる。CGじゃないかと疑惑が持ち上がれば、その方面の専門家まで彼に興味を示し始める。
出来過ぎている、何もかも。
私はそのサイトのブラウザを閉じ、鞄から楽譜を取り出した。美風藍は、どこまで私の心をかき乱すのだろうか。
不協和音のようにざわついた心は、私を弄ぶように鍵盤の上を走り続ける。息が切れそうなほど、速いスピードで。
季節は巡り、秋になった。
『美風藍は人間じゃない』『CGではないか』と騒がれ始めてから正確に数えると五カ月半。その間に、彼が大きな変化を見せることはなかった。
新しい写真もPVも発表されず、彼は未だミステリアスアイドルのままだ。販売中の彼の曲は十二曲に増えた。私は律義にそれを全て購入したし、事あるごとに部屋中に聴こえるくらいの音量で流したりもする。
例の歌手への納品を終えてから、私はまた歌入りの作曲を断るようになった。そういった類のコンペに出てみてはどうかと声をかけられることもあったが、どうもそういう気分になれない。他の仕事で手一杯だったということもある。「どこの大作曲家様だ」と茶化されても、特に気にならなかった。
長袖のインナーにさらに長袖を重ね、部屋着のパーカーを羽織る。気分転換に散歩にでもいこうと部屋を出ようとした私を、携帯の着信が引き止めた。
結局あれから機種変更をしなかったガラケーは、最近少々反応が悪い。画面に発信元の名前を映し出されるより先に私は携帯を耳に押し当てた。
「もしもし?」
「もしもし!」
「……片桐、どうしました?」
「生放送だ!」
妙に焦ったような声が届く。思わずボリュームを下げて聴き直すと、もう一回、生放送だ、と言った。
「出るんだよ。美風藍が、生放送に!」
少し字数を誤った俳句のように細切れに伝える。片桐の大声がうるさくて、その内容を把握するのに時間を要した。
生放送。美風藍が、生放送に出演する。
「生放送に……?」
「だからさっきから言ってるだろ」
「実在、したんですね」
「……あぁ」
私の言葉に片桐も思うところがあったようだ。CGではないかと騒がれても私と片桐は「そんなことがあってたまるか」と否定していたが、やはり心のどこかで、実は彼は非現実のアイドルではないかと疑っていた節がある。
「俺は関与してない番組だ。サプライズで登場するってんで、今日までそのスタッフにしか知らされてなかったらしい。だからオフレコで頼む」
「ええ、わかっています。時に片桐、貴方は出入りできないんですか?」
「無茶言うなよ」
「どうしても会いたいんです」
「熱狂的にも程があるだろ」
片桐は電話口でためいきをついた。
とんでもない無理を言ったことはわかっている。それでもどうしても美風藍に会いたい。一目見るだけでいい。動いている姿を、この目で確認したい。
「圭。とりあえず今から来い」
入るのは無理だけど。と片桐は続ける。
「それでも、じっとしてるよりマシだろ」
手短に局と時間を伝え、片桐は電話を切った。今から行けば余裕で間に合う時刻だった。
パーカーを脱ぎ、仕事用のジャケットを手に取る。靴もちゃんと革靴を履いた。こんなことなら磨いておけば良かったなどと考えながら、部屋の鍵を閉める。
タイミングよくやってきたエレベーターに乗り込む。一階に下りるまでの時間をこんなに長く感じたことはない。
マンションから出て少し歩き、タクシーを拾って行き先を告げた。
私の一歩が、この一秒が、もしかしたら何かを変えるかもしれない。妙な希望が寄せて、下手に期待してはいけないのだとそれを取り払うように首を振った。
テレビ局の入り口付近で片桐と落ち合い、彼の知人だというスタッフに声をかけた。
「だめですよ。っていうか、本当に一部のスタッフと出演者しか入れないんですから」
「そこをなんとか」
「できません!」
二人して手を合わせる。いい年をして何してるんだろうと私自身こんな己に少なからず辟易したし、そばを通るスタッフが私達をじろじろ見つめているのにも気付いた。
「やめてくださいよ。そんなことしても、だめなものはだめですから!」
「お前本当に頭かたいな」
「そういう問題じゃないんで! あぁ、でもほら、片桐さんだって知ってるでしょ? Aスタ幽霊通路」
「あぁ、そんなのもあったな」
内部の人間同士の会話は私にはあまり理解できない。Aスタ幽霊通路とやらが何なのか気になったが、口は挟まなかった。
「じゃ、それ使ってください! 僕、急ぐので」
ばたばたと姿を消すのを見送り、片桐は踵を返した。どうやらその幽霊通路に心当たりがあるらしい。
今日の生放送に使われるAスタジオの脇を通り過ぎ、階段を下って、物置としか思えないような薄暗い部屋に入る。その部屋を通り抜けると、そこには錆びた梯子があった。
「これが、Aスタ幽霊通路、ですか」
片桐の後ろをついてそれを上った先には、細い通路があった。細いだけでなく、明かりがなく目が慣れなくては何も見えない。少し光が洩れた穴らしきものを片桐が覗き、「これはいけそうだな」と呟いた。
片桐によると、ここは元々通路として機能していたのが、その先が取り壊されたもので、今はただの空間として残っているだけの場所、らしい。幽霊通路という名の由来は壁に空いた穴で、そこを覗くとAスタジオの様子が背後から眺められるようになっていた。
「音はそこまで聴こえないだろうけどな」
片桐はスタジオの様子を覗いていた私の横に腰を下ろした。なぜこんな古い通路が残っているのか不思議にはなったが、今はこれだけが頼りなのだ。余計なことを言っている場合ではない。
「美風藍って、まだデビュー一年そこらのアイドルなのにな」
長く息を吐く音が聴こえた。
片桐の言わんとしていることは分かる。実力はあるとしても、まだ新人と呼ばれるべきアイドルに対する扱いではない。今までどこにも姿を現さなかった美風藍が生放送に出演するのだから、人々は注目し、それは数字に直結するだろう。おいしい企画だというのは、当然わかるが。
「これで出てきたのがガチガチに緊張した子どもだったらどうするつもりなんだよ」
「その辺抜かりはないでしょう。ここまでスタッフが立入禁止になる光景、見たことがない」
ちらりと横目で片桐を見ると、なんとなく不機嫌そうな顔になっているのが分かる。私と違って、本来ならば片桐はそこに堂々と立ち入れるかもしれない立場だったのだ。気持ちはわからないでもない。
片桐に携帯を貸し、テレビをつけて番組が始まるのを待った。スマホではテレビが見れないらしい。私が機種変更をする理由がまた一つ減った。ワンセグ機能なんて、今でもあまり使わないけれど。
「視聴者、驚くだろうな」
「数字がどう跳ね上がるか見物ですね」
「美風藍効果は全然予想できないからなぁ」
振り返る私に「そろそろだな」と片桐が告げ、幽霊通路は静まり返った。
番組の冒頭に出演者が出揃う形式のため、次々とアーティスト達が姿を現す。今期のドラマの主題歌を担当する中堅歌手、続々と人数を増やしているグループ歌手、きらびやかな衣装を身に纏ったアイドル。全てが出揃い、私と片桐が首を傾げた時、ステージのライトが点灯した。
「いくらなんでも好待遇すぎるだろ」
片桐が苦笑する。小さな穴からは、スモークの中からゆっくりと姿を現す彼が見えた。観覧席の客が一瞬ざわめき、その姿を見て息を飲む。
美風藍は、位置取りをするとそこから一歩も動かない。
カメラが彼をアップで抜いているのだとわかると、それに向かって微笑みかけた。
「あぁ…………」
それはもう、愛音そのもので。
間奏に入ると、彼は両手でマイクを持って上を見つめた。そこから、白と薄い紫の羽根が舞い散る。本物の天使が舞い降りたかのようだった。
「……愛音が」
体中から力が抜ける。高い位置に空いた穴を見つめることもできなくなって、私はその場に座り込んだ。片桐が私の名前を呼んでいる。けれども、私は何度も、愛音の名を呼び続けた。
片桐の手の中の画面には、私に手を振る愛音がいた。
その日を境に、美風藍のメディアへの露出が増えた。
歌う姿は十五歳という年齢を感じさせないほど大人びて見え、トークも丁寧にこなしていた。「美風藍です」と自己紹介をする時の声色は可愛らしく、そして何より、とても人間らしかった。
瞬きしかしないPVが嘘のように笑い、美風藍はこれまで以上に天使のような愛らしさを振りまいた。
彼の突然のメディア露出について、彼の非公式ファンサイトでは少々議論になった。
ミステリアスアイドルとして売り出し、CG疑惑まで持たせて焦らした後に発表することで意外性を持たせたのだと言う者。単にCG疑惑の浮上により、事務所が痺れを切らせたのだと言う者。全て元々決まっていたことで、ファンが勝手に騒いだだけだろうと言う者。
「準備万端整えてきたってように見えたけどな」
電話口から聴こえる片桐の声に私も同調する。
あのステージはどう考えてもデビュー二年目のクオリティではなかったし、後から聞いた話によると恐ろしい視聴率を叩きだしたらしい。少なくとも、痺れを切らして出てきたようには思えない。何より、やはりあの社長が勝率の低い賭けに出るとは思えないのが一番だ。
ネットで世論をぼんやりと確認しながら、片桐と先日の番組について語り合う。それは自然なやり取りなはずなのに、片桐とこうして愛音で繋がっていることが不思議だった。
学生時代、愛音の曲を作りたがる生徒は山ほど居た。もしかしたら片桐もその一人だったのではないか。そう考えたことが無いわけではない。
そんな不確定な要素は置いておいたとしても、私達は学生時代からの付き合いなのだ。愛音と、私と、片桐と、寿君。仲間、だと思っていた。私と片桐は愛音のことを本当に大切に思っていた。寿君も、そうだと思う。しかし今の私に、それはよくわからない。理解することができなかった。
――かつて美風藍にそっくりなアイドルが存在した。
そんな見出しに私は手を止めた。このページは何度も、何度も繰り返し読んだ。あまり世間に知られていなかった愛音の情報は一切記載されていないというのに、そのページのとこかに愛音が存在している気がして、たまらなく愛おしくなったのだ。
もし、愛音がいなくならず、四人でデビューしていたら。時々そんなことを考えてしまう。
今でも私は愛音に曲を作っていただろうか。海のように輝きたいと語った夢を、愛音は叶えただろうか。元々制作に興味があった片桐はやはりプロデューサーに転向したかもしれない。寿君は……そういえば、店のロゴが入った車は、もう買ったのだろうか。
いつかの年の瀬を思い出し、柄にもなく感傷に浸る。
「なぁ」
突然、片桐の声に現実へと引き戻される。
「美風藍には秘密がある。そうは思わないか?」
「……私にはわかりません」
現時点で謎だらけだというのに。
愛音との繋がり。そして、私の曲との繋がり。美風藍とどこかで結びつくかもしれないと思いながら、それが何なのか知るのはまだ怖い。
私はどこか心の奥で、また愛音と出会える日は来ると信じていた。それを否定されるのが、何より怖かった。
美風藍と出会う日は、意外とすぐ近くに来ている。
そんなことを知る由もなく、私はそっと電話を切った。
愛音が姿を消してから、六年が経った。
シャイニング事務所からはその年、新たに七人の新人アイドルがデビューした。マスターコースで美風藍が指導にあたっていた二人も、寿君の後輩二人も無事デビューを決めたようだ。
寿君の後輩である一ノ瀬トキヤのデビュー曲は、『殺人考察』の主題歌だった。
六年の歳月を経たのだ。一部スタッフの中ではタブーとされていたその作品は、映画という形でやっと世に送り出された。主演を争うオーディションは激しかったと聞く。片桐に聞いた話では、寿君もそのオーディションに臨んだらしい。
一ノ瀬君のおかげで(と言うべきかはよくわからない) 『殺人考察』は新しい輪郭を持った。
役に対する彼の解釈は愛音のそれに近かった。一般的と言うべきかもしれない。愛が深すぎて自分を見失ってしまいそうな危うさが、こちらにもよく伝わってきた。
そして主題歌の作曲を担当したのは、一ノ瀬君のパートナーだと私は後に知った。愛音と私がやり遂げられなかったことを叶えたパートナーがいる。それがほんの少し寂しくて、しかしどこか晴れやかな気持ちにもなれた。
まだ一週間も先のことだというのに、街中はクリスマスムード一色だ。電飾をつけられた木々も昼間に見れば窮屈そうであまりきれいなものには感じない。私はその合間を縫うようにして歩く。
片桐が手掛ける企画に、私は音楽担当として呼ばれていた。今日はその打ち合わせがあり、方向性の確認として私も顔を出さなくてはならない。指定されたテレビ局の入り口を抜け、スタジオを通り過ぎて会議室の扉をノックした。
どうぞ、と男の声がして、私は扉を開ける。私が呼ばれた時刻にはすでに会議が始まっていたようだ。話が進んでいるのならば有難い。それほど時間はかからないだろう。
そう高を括って席につくと、隣の男が急に立ち上がった。
「やはり最近話題のアーティスト二人での歌合戦形式でいきましょう!」
すると、その正面に座っていた小太りの男も言う。
「いやいや、やはりカラオケバトルの方が……」
周囲のスタッフ達は、彼らに気付かれないようそっとため息をつく。この空気から察するに、話が堂々巡りしているようだ。離れた席でその流れを見ていた片桐に目配せする。
――番組の内容さえ決まっていないんですか。
と伝えたつもりだったが、アイコンタクトなんて高度なコミュニケーション方法は私と片桐の間には使えない。証拠に、片桐は私が何を言っているのかわからないという風に首を傾げた。
男たちはその番組を、一対一の勝負にするか出演者を多く集めたカラオケバトルにするかで揉め続けた。どうやら、前者で決まりかけていた時に上層部が後者の方が良いと圧力をかけたようだ。ならばいっそのことカラオケバトルでも何でもやったらいいじゃないかと口を挟みたくなったが、そのために今から出演者を増やすのは骨だろう。
論争が十分も続けば、あまりの焦れったさに苛立ってくる。他のスタッフ達も同じようで、そろそろ結論を出すべきではと進言する者がようやく現れた。
この茶番からやっと解放されるのか。そう思い息を吐いた時、扉の外から悲鳴にも似た声が聴こえた。
「ええええええええーーーーーっ! オーマイガァッ!」
それはこの場所に相応しくない絶叫だった。
何だ何だとスタッフ達がざわめき始める。廊下に出て状況を確認しようとした者もいたが、ドアノブを握った瞬間扉が乱暴に閉められる音が聴こえて、そのまま後退していた。その音から察するに、さっきの絶叫の主はすぐ隣の楽屋にいるようだ。
場所が分かれば話は早い。このままでは埒が明かないし、注意すれば多少は静かになるだろう。私は部屋を出て、ノックもせずに目的のドアを開けた。
「ちょっと、うるさいですよ。さっきから何騒いでいるんです?」
狭い楽屋、紙コップに入ったお茶と見覚えのある弁当容器。そして、そこには派手な私服に身を包んだ男がいた。
「え? こんな所で何してんの?」
「……寿君……?」
何という偶然だろう。そういえば、さっきの絶叫も彼の声に似ていたような気がする。つまり、楽屋や会議室が密集したこんなところで大声を出していたのは、他でもない寿嶺二だということだ。
「隣で打合せをしてたら変な叫び声が聞こえて、様子を見に来てみたら……、貴方だったんだね」
思わずため息が出る。いい年して、彼は何をやっているんだろうか。
「おい、一体何が……、え……嶺二……?」
私に続いて楽屋に現れた片桐は、その光景を見て言葉を失った。驚いていたのは私達だけではないようだ。
「ええっ、君まで一緒なの? こんな偶然ってあるんだ……」
「何だ、ここ、お前の楽屋だったのか……。じゃあ、あの叫び声も……」
「うんっ、ぼくのお弁当が何者かに食べられちゃったんだよ!」
「はぁ……そんな事で騒いでたんだ。相変わらずだなぁ」
「そんな事って! ひびきんまで! うちのお弁当、マジでおいしいんだから。それにお腹すいてたし」
寿君はいかにも悲しそうな声を作って、自分の腹を撫でる動作をする。私も片桐もそんなことを聞きたくて来たわけではない。そう言ってやろうかと口を開くと、寿君を無言で睨みつけていた男――黒崎蘭丸が乱暴に言った。
「とにかく、おれは関係ねぇ。次の仕事もあるし、帰るぜ」
「えーっ、ランラン、ぼくのお弁当事件の犯人……」
「下らねぇ茶番に付き合ってる暇はねぇ。自分で何とかしろ!」
ひょいっとベースを担ぎ、彼はドアを乱暴に閉めた。
部屋にはそれを見送る寿君、私と片桐、そして、見知らぬ少女の四人が取り残された。寿君の付き人か何かだろうか。いや、それにしては若すぎる。年齢的に、早乙女学園の生徒か、卒業して準所属といったところだが、美風藍のような前例もある。「久々の再会を祝して乾杯でもしよっか」と笑う寿君の意見に流され、私は席についた。
再会など祝したいわけではない。けれど、一度彼とは話をしたかったし、何より、あの会議に戻るのが億劫だった。
彼女が用意したお茶を飲みながら、紆余曲折しつつも私達は自己紹介と状況説明を終えた。彼女――七海春歌は早乙女学園の卒業生で、特定のパートナーがいないまま卒業したため、現在は寿君と組んでいるらしい。私と片桐が作曲家コースの卒業だと言うと、素直に驚いてみせた。
「いやぁ、俺は誰か、強盗にでも襲われたのかと思ったぜ。それが、弁当って……」
「ただのお弁当じゃないんだよ! 今日は後輩ちゃんも来るから特別に用意してもらったんだもん」
「寿弁当のからあげ弁当だろ? 覚えてるよ、学生時代、あれだけ食べたんだから」
「でも、お弁当はお弁当。いい大人が楽屋で叫ぶようなことじゃないですよ。しっかりしてください」
学生時代のようになめらかでなくとも、するすると言葉が出てくる。遠慮のない言葉の応酬に、彼女は両手で紙コップを持ちながらそわそわとしていた。
いくら学生時代にパートナーを見つけられなかったといっても、こんな男と組まされることになった彼女には同情を禁じ得ない。私ならば絶対にお断りだし、寿君のような人間をコントロールできるのは片桐くらいではないだろうか。
「……貴方も大変ですね。こんな男とパートナーを組まされて」
「いえ……あの、わたしは自分から寿先輩にパートナーをお願いしたので……」
小さい声ながらも、はっきりと彼女はそう言った。自分からそれを望んだのだと。いくら本人がそう告げたとしても、私はそれを信じられなかった。彼女は事務所内の人間だ。寿君の経歴は多少なりとも知っているだろう。いや、もしかすると……。
「貴方が……? ひょっとして彼の過去の事、知らないんですか?」
「え……過去?」
彼女は何も知らないという風に瞬きをすると、ちらりと寿君を見上げた。本当に、何も知らないのだろう。
「貴方にとっては、優しくておもしろい先輩ってとこなのかな……」
「おい、止めろ」
口を挟んだのは片桐だった。こういう時にばかり私を制御するのだからやはり性格が悪い。私は構わず続けた。
「余計なお世話かもしれませんが、ちゃんと人は見て選んだほうがいいですよ。本当の彼の姿を見極めてみることです。人当たりの良いその顔が真の彼なのか……」
彼女は困惑したように少し俯いてしまう。別に彼女に不快な気持ちをさせてやろうなんてつもりはなかったのに。
お茶を飲み、彼女は落ち着いたように息を吸う。飲み込んだお茶と一緒に閉じ込めた言葉があるだろう。なんとなく、そう思った。
「相変わらず、言うねぇ。そういうとこも、ぼくは嫌いじゃないけど」
語尾を跳ねさせて、まるでトゲを含んだ冗談のように寿君は笑った。カメラの前で見せるのと、同じ笑顔で。
隣で『パートナー』が何を考えているのか、彼はわかっているのだろうか。過去に何があったのかも告げず、いい人ぶってやり過ごす。ああ、思えば彼は元々そんな男だった。自分のデビューのためならば親友からのSOSも見過ごしてしまうような、自分本位な男だったのだ。
話にならない。時間の無駄だ。ならば会議室に戻って、あの下らない論争でも聞いていた方がマシだ。
私は立ち上がり、ドアに向かって歩いた。片桐が私を呼びとめ、追って来ようとした、その時。
「レイジ、黙ってくれる。真向かいの楽屋使ってるんだけどうるさくて集中出来ない」
ドアが開き、一人の少年が顔を見せた。白を基調としたラフな服装に、青磁の髪。その視線は私達を通り越し、作曲家の少女をも無視して寿君に注がれた。
「え……愛音……?」
「いや……美風藍……だろう。俺も会うのは初めてだが……。確かに……そっくりだな……」
この距離で見るとよく分かる。美風藍は、本当に愛音によく似ている。寿君のことを『レイジ』と呼ぶものだから、美風藍と分かっていても愛音と重ねて見てしまった。
「何の話? 君たち、誰?」
美風藍は不愉快そうな表情を隠さない。
私は、自分自身の女々しさに辟易する。美風藍が愛音とは関係のない別人だということはわかっていたつもりだった。それでも、愛音の声で『誰?』と問われることは、私の脆い心には痛く響いた。
同じ声なのに、もう私の名前を呼ばないのか。私が誰だかわからないのか。当たり前のことなのに、それがどうしてもやるせなかった。
眉をひそめて私をじろじろ見つめる美風藍を見ていると、居た堪れない気持ちになった。寿君が私達の説明をしようとしているのを無視して、美風藍をすり抜けて部屋を出た。
なぜか胸が苦しい。愛音が姿を消してしまったあの日と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に――。
片桐と共に会議室に戻っても、私は全く落ち着くことができなかった。くだらない議論はまだ続いていて、スタッフ達はとうにやる気を失くしてしまっている。片桐はそんな彼らをどうにかできないかと打開案を探していた。
要は数字が取れればいい。話を突きつめればそういうことなのだろう。面倒くさい。ならばもう明らかに数字の取れる方法を、ここにいる全員で話し合えば良いのに。
私は美風藍の冷たい瞳を思い出した。愛音と同じ顔が、私のことを知らない人のように見つめる。あの表情を思い出すのは正直きつい。
そして同時に、部屋に残された寿君の後輩の少女のことを思い出した。彼女はこれからどうするのだろうか。少しでも寿君に不信感を抱いてしまった時点で、二人の間に良い曲は生まれないだろう。それでも寿君は彼女に何の説明もせずに良い人面を続けるのだろうか。
「じゃあ仮に誰にオファーするっていうんですか!」
「誰でもいいんだよ! 数字が取れりゃ!」
「何人も呼べないってことはわかっているでしょう!」
ついに彼らは立ち上がり口論を始めてしまった。やれやれと片桐は額に手をあてる。彼らの望むものに添っていて、それでいて私も楽しめるものを、瞬間、思いついてしまった。
「……圭、何だ?」
すっと手を上げた私を片桐が指名する。言い争っていた二人も、私がただの音楽担当者だと分かると意見を聞いてやろうと思ったのか押し黙った。
「やはり、歌合戦でいくのはいかがでしょうか」
「……でもねえ、今オファーをかける予定の二人じゃ、ちょっと盛り上がりに欠けるんだよねえ」
小太りの男が困ったように頭をかく。
「対戦するのは、寿嶺二と美風藍です」
「え?」
片桐の声だけが、会議室にくっきりと浮かび上がった。他のスタッフ達は「それなら数字も取れそうだけど」「スケジュールは大丈夫なのか」と口々に騒ぎ始める。
「元々この番組は寿嶺二がレギュラー出演する番組なので、彼のスケジュールはまず問題無いでしょう。美風藍も、彼に比べるとオファーは受けてもらいやすい方に入ると思います。いかがでしょう?」
争い合っていた男たちにしっかりと視線をやって、私は尋ねた。間違いなく安定した数字が取れる。そして、出演者は最低限に抑えられる。誰からも異論はなかった。
私を見据える美風藍の瞳。困惑した七海春歌という、新人作曲家の表情。そして、忘れたかった寿君への感情が、強い波のようにまた私に打ち寄せていた。
「おい、圭!」
打合せを終えて部屋を出ると、片桐がばたばたと追いかけてきた。私と二人で居る時は、「こんなこと止めろ」だのと綺麗事は言わない。片桐は確かに笑っていた。
「おもしろいことになりそうだな」
「……本当に、清々しいほど性格が歪んでいますね」
「言い出したのはお前だろう」
「あのままでは一生帰れないと思ったからです」
「嘘つけ」
大きな手のひらに背中を叩かれ思わず前につんのめる。片桐は尚も面白そうに笑っていた。
「……貴方はただの面白い企画だと思っているようですが」
体勢を持ち直し、廊下の突き当たりにある自販機に片桐を誘う。一本ずつ缶コーヒーを買って、休憩用の椅子に腰を下ろした。
「寿君にはパートナーがいるでしょう。だから彼女が曲を作れば良い。そして、美風藍に曲を作るのは――私です」
「おい、本気で言ってるのか?」
「当然でしょう? 私は今回の企画の音楽担当なんですから。曲は未発表の新曲。貴方達の好きな数字もよく取れるでしょうね」
片桐はやれやれというように肩をすくめる。私らしくないとでも言いたいのだろうか。確かに公私混合が過ぎているかもしれない。仕事に私情を持ちこむなんて言語道断。それはわかっている。だからこんな企画を立てた以上は、番組を盛り上げるのに私も一役買うつもりだ。
「止めるつもりじゃないでしょうね?」
「……まさか。俺だって、愛音に何があったのか知りたくてずっと調べ回ってきたんだ。今さらこの程度、止める気なんてないぜ」
企画をまとめたメモを広げ、片桐が呟く。
勝敗が決まる企画とはいえ、番組としては出演者二人の実力に勝負を委ねるだけでは済まない。寿君が勝った場合、美風藍が勝った場合。全てを考え準備を進めなければならない。
「美風藍が負けることはあり得ません」
私が断言すると、片桐も頷いた。
「バラエティですし、今まで歌唱力で売ってきた美風藍がこんなところで負けては話になりません。同じ事務所ならば尚更、負けてもおいしい寿君を敗者に仕立て上げるでしょう。もっとも、彼なら自分から負けを選択して、番組の成功に貢献してくれそうですが」
「そういえば……三月には歌謡祭もあるな」
「あぁ、事務所の恒例行事でしたね」
歌謡祭。その名に聞き覚えがあった。シャイニング事務所のアイドル達から何人かが選出されてライブを行う一年に一度の催しだ。今年の出演者には、寿君や美風藍も名を連ねていた。ただのライブというわけではなく、一般投票と審査員の投票によって優勝者が選ばれる。
「今回の勝負、同じ事務所だからこそ、歌謡祭にも響くでしょうね」
「あぁ、負ければ歌謡祭での優勝はまず無理だろうな」
片桐は、寿君の名前の横に小さくバツをつける。寿君は十中八九負ける。そして三月の歌謡祭も、ハンデを負って出場することになる。
「決して寿君に負けてほしいと思っているわけではありません。ですが……」
美風藍に彼が勝つことがあれば、私はどうなるかわからない。それはまた、真実だと思った。
七海春歌。特に彼女のことが気になったわけではないが、企画に巻き込んでしまった以上、彼女を知る必要がある。
早乙女学園で彼女は少々異質な存在だったようだ。パートナーを見つけることができず、結局卒業オーディションには一人で臨んだらしい。それで準所属を勝ち取ってしまうのだから、実力はそれなりということだ。社長がこうして彼女に道を与えているのも、作曲の力を認めているからだろう。
そして準所属のままデビューできずに一年半。来月に控えたクリスマスライブ、三月の歌謡祭で結果を出せなければ即刻解雇と言い渡されているようだ。
かなり切羽詰まった状況だというのに、デビューしたいならば彼女はどうして寿君を選んだのだろうか。どうして寿君は、そんな彼女と組むことを承諾したのだろうか。
寿君はまた一つ、他人の才能を踏み潰す気なのだろうか。
マウスを握る右手に熱が集まる。彼女に肩入れするつもりはこれっぽっちもないが、誤った選択をしたことを哀れに思った。
思えばこうしてパソコンに向かうのは久しぶりだった。美風藍の情報を手当たり次第かき集めていたあの頃を思い出し、再び、あの冷たい瞳を思い返す。
美風藍はミステリアスという称号を脱ぎ捨て、テレビや雑誌などにも時々顔を見せるようになった。整った顔立ちや完璧な歌唱力のせいで、今でも時折謎が多いなんて言われているが、CG疑惑はもうどこかに消え失せてしまった。
趣味の欄に追加された『人間観察』の四文字は、美風藍と愛音は別人なのだと私に語りかけるようにきちんと並んでいた。
愛音と美風藍は別人だ。何の関係も無い。
この頃から、私はそれを、頭の奥の方できちんと認識し始めた、はずだった。
数日後、私と片桐はとあるテレビ局で打合せに顔を出した。例の企画は『アイドル対抗歌合戦 シャイニング事務所対決、寿嶺二VS美風藍』と長ったらしいタイトルがつき、もう本人の元にも台本が渡っているらしかった。
台本の内容をさらりと確認し、私と片桐は廊下に出た。出演者の楽屋が密集する辺りに差し掛かると、廊下の向こうから見覚えのある人影が二つ、こちらをじっと見つめていた。
「おっと、よく会うねぇ……。もしかしてぼくのことつけてる? 困るなぁ、人気者は」
皮肉っぽく言った寿君の隣で、七海春歌がぺこりとせわしなく頭を下げる。
「素晴らしい自信だな。うらやましいポジティブ思考だ。後輩の子も驚いているぜ」
つけてる、なんて疑惑をかけられたことに片桐は腹を立てたようだ。七海春歌の挨拶も見えていないふりをして寿君と睨み合う。私は、逆に視線をスライドさせて彼女を見下ろした。
「あの後、貴方のこと調べさせてもらったんです」
挨拶を無視したのは私も同じだ。彼女は驚いたように「何を……」と弱々しい声で言った。私は調べ上げた情報を簡潔に読み上げた。彼女の経歴、クリスマスライブと歌謡祭のことも。全て事実だというのに、彼女はそのまま言葉を失くしてしまった。
「その割には暢気な様子ですね。危機感がゼロです」
「す……すいません……」
私に謝って何になるというのだろうか。彼女は困り切った様子で小さく頭を下げる。これでは私が彼女を責めているようではないか。
「ちょっとちょっと、ぼくの後輩ちゃん、いじめないでくれる?」
すかさず割り込んでくる寿君に苛立ちが募った。因縁をつけるのは止してほしい。私は事実しか伝えていないし、寿君にそんなことを言う権利はないはずだ。
彼女のデビューがかかっていると知っているくせに何も伝えず、優しい先輩ぶって「デビューしようね」などと抜かしているのだろう。こんな無茶な企画を持ちかけられ、それでもまだパートナーとしてそばにいる七海春歌に呆れる気持ちもあった。
「いじめてない。事実を伝えたまで。何かいけないことでも?」
「その言い方が恐いんだよ……。相変わらず容赦ねぇな。ところで、お前。台本、届いたか?」
片桐が確認すると、寿君は「まさか……」と鞄を漁り始める。そこから、もう捲り跡のついた台本が顔を出した。寿君はスタッフクレジットを確認し、顔を上げる。
「何、この新手のいじめは。大人気ないねぇ。ぼくをいじめて楽しいわけ?」
「何って……。そりゃ、美風藍に興味があるからに決まってるだろ。お前だって思ってんだろ? 美風藍と愛音に関係があるって」
寿君はその言葉に黙り込む。その隣で、七海春歌は俯きながらも寿君と私の様子をうかがっていた。不躾だが、こんな状況に放りこまれているのだから無理もない。
「あの……」
「寿君、ちゃんと彼女に説明しましたか。貴方がどんな人間で、どうやってこの世界で生き残って来たか」
彼はずるい。私達に板挟みにされた後輩の姿を見ても、何も感じないのだろうか?
「何も言わないのは騙すことと一緒。負けない事と戦わない事が同じように」
「……そうかい? ぼくは不戦勝って言葉、嫌いじゃないけどね」
「私は嫌いです。貴方とは一生意見が合うとは思えない」
戦わずして生き延びてきた彼が、心から憎いと思った。
私は一呼吸置いて、彼女に向き直る。
「彼みたいな卑怯な男をパートナーに選ばない方がいい。これは忠告です」
「……わたしは……、そうは思いません!」
彼女の肩が震える。力いっぱい声を張り上げたという感じだった。寿君は驚いたように彼女を見つめた。
「こ……寿先輩は、いつも優しいですし、周りの人を気遣ってくださいます! それに、先輩は、言うべきことはちゃんとおっしゃって下さいます。卑怯なんかじゃありません!」
言い切って、大きな瞳は私を見上げた。
本当に何もわかっていない。優しさだとか気遣いだとか、そんなことはできて当たり前。芸歴だって、彼女は寿君に遠く及ばない。なのにどうしてそんな、寿君が卑怯な手を使わずにやってきたと信じられるのだろうか。
数秒の沈黙に耐えかねたように彼女は顔をふいとそらす。
「貴方は……、何も知らないからそんな事が言えるんです」
「確かに先輩とは最近知り合ったばかりですが……」
知らないことは罪ではない。しかし、私の怒りは寿君だけでなく、彼女にも向かい始めた。デビューがかかったこの時期に、ただ上辺しか見ることのできない甘さが。自分の力をこんな所で殺されかけているのを、見過ごしている甘さが。
「どうしてこの人が、長いことパートナー無しでいると思いますか?」
驚いたように七海春歌は顔を上げる。こんな質問は予測していなかっただろうか。
自分なりに考えをまとめようとしたようだったが、一旦黙り込み、それから「すみません、わかりません」と正直に答えた。
それが彼女の出し得る最善の答えだったはずだ。適当に答えれば、それはそれで私の癇に障ったことだろう。しかし私は許せなかった。わからないと言い切るくせに、知ろうとしないくせに、寿君の上っ面に騙されて未来を棒に振ろうとしている、彼女の事も。
「気に入らない……何もかもが。全てを無かった事にしてへらへら生きる男も、そして、恵まれた環境にいることに気付かない貴方も……」
「止めろ! ぼくはともかく、この子は関係ない」
寿君が割って入る。彼が動けば動くほど、私は惨めな悪役になる。全て事実を言っているだけなのに。けれども、そんなことはどうだっていい。
「何も言わなかったのは、彼女を巻き込みたくなかっただけだよ。でも……ちゃんとぼくから説明するから」
巻き込みたくなかった、なんて。あまりに陳腐な言い訳過ぎて、笑うこともできない。巻き込みたくないのならば、こうしてパートナーなんて組まず、彼女がデビューできる道を示してやれば良かった。違うだろうか?
私は黙って歩きだした。片桐の声が遠く聴こえる。
わかろうとしている?
こっちが取り合わない?
寿君は、本気でそんな事を思っているのだろうか。
階段を下りようとした私の腕を、片桐が掴んだ。寿君はともかく、その後輩にまで言いがかりをつけたのだと私を責めるように「おい!」と大人げなく大声で叫ぶ。
「……放っておいてください」
その手を振り払うのは簡単だった。声の大きさに反して、全く力が入っていなかったから。
私は階段をゆっくりと下り始める。もう片桐は追って来なかった。コツン、コツン、と反響する靴の音がリズムを刻むようで。何やら面倒な話をしながら行き交う人々の声が旋律のようで。音楽が、溢れるように私に押し寄せる。
このまま何もかも、音楽さえも、捨ててしまいたい。
愛音に会いたい。
それからどうやって自宅に帰ったのか、一切覚えていない。
窓の外に星が流れた。珍しいこともあるものだ。
どうしても寝付けなくて部屋の明かりを点けた。時刻はまだ二十時だった。冷蔵庫から安い発泡酒を取り出し、直接口をつける。
パソコンのスリープモードを解除すると、作成途中の企画書が表示された。続きを仕上げてしまおうと入力作業に取り掛かる。
私、音波圭は、『まいど! アイドルらすべがす』内企画、アイドル対抗歌合戦において、御社所属タレント、寿嶺二と美風藍両氏の対決を御社の歌謡祭とタイアップする事を企画致します。寿嶺二氏の音楽を御社所属作曲家、七海春歌氏が担当し、美風藍氏の音楽を不肖、私、音波圭が担当。勝利した方が歌謡祭の一般投票においてアドバンテージを取ることになり、そうして、もう一つ、勝利し方の作曲家がクリスマスライブのユニット曲を担当する。
この企画書を見て、彼らは何と言うだろうか?
寿君は、卑怯なのはそちらの方だと私を責めるだろうか。七海春歌は自信を失くしてしまうのか、はたまたこれで自分を奮い立たせる程度の度胸は備えているだろうか。
シャイニング早乙女は、これを面白い企画だといって承諾するだろう。『競争はより良い物を生み出す』というのが、あの人の理念だった。卒業オーディションだってその延長にあったようなものだ。
歌合戦で美風藍が勝利すればクリスマスライブの作曲担当は私になり、三月の歌謡祭も美風藍に有利に働く。
彼女は後悔するべきだ。パートナーを解消していれば、こんな目に遭わずに済んだのだから。
企画書、と大きくゴシック体でタイトルをつけ、私は家を出る。郵便局はもう閉まっているし、コンビニから送っても集荷は明日になる。私は封筒を片手に持って、マンションのエントランスを抜けた。
このまま歩いて持って行ってしまおう。昼も夜も無く働いている社長のことだ。ポストに放り込んでおけば今夜中に目を通すだろう。
そして、昨日の今日で転がった展開に、寿君は驚くだろう。
その顔を想像したら、何も面白いことなどないはずなのに笑いが込み上げてきた。
私が美風藍に提供する曲は決まっていた。
ピアノの隣に置いた戸棚の一番下の引き出しから楽譜を取り出す。重し代りにしていた紺色の石を室内灯に反射させ、目を細めた。
楽譜はもう色が褪せてしまっていて、書き込んだ文字はよく見えなくなっていた。けれど、私はこの曲を忘れたことはない。これまでの人生で一番大切な曲だ。
番組内で使うのならばきちんとしたデータにしなければならない。原曲からキーを一つ、二つ下げたデモも用意しておくべきだろう。いくら声や歌い方が似ているからといって、このキーで歌える男性アイドルはほとんど居ない。
鍵盤に触れたのは久しぶりだった。
ピアノのアルペジオのイントロ。星よりも、海のようにきらきらと輝く愛音をイメージした、そんなメロディだった。前奏が流れている間、愛音はよく目を瞑っていた。そして、歌い出しですぅっと青い瞳を覗かせる時の穏やかな表情が、私はとても好きだった。
二人で練習している時、愛音はいつも「圭の伴奏で卒業オーディションも出れたらいいのに」と無茶を言った。それでも、私の音は全てデモテープに閉じ込め、愛音だけがそこで歌わなければならない。
――圭の音楽もボクがちゃんと歌にするから。
微笑んでそう言ったことを、私はまだ覚えている。
あれは美しい海の音楽だった。
私の企画書にシャイニング早乙女から返事が来て(なぜか次の朝にはもう届いていた)、収録当日まで十日間。七海春歌が新曲を仕上げてくるのは絶望的と思われた。だから彼らが用意してくるのは、せいぜいユニットソングをソロ用にアレンジした楽曲だろう。そう思っていたのは私だけではなかった。当日、スタッフ全員が「勝負は見えている」というようなことをオブラートに包みつつも口にしていた。
当日、早めにスタジオ入りしていた私は入口から少し離れたところに美風藍の姿を見つけた。普段のステージ衣装とは違うラフな格好をしていてもやはり目を引くものがある。事前に渡しておいたデモの確認を終えた彼に声をかけた。
「初めまして。調子はどうです? 曲は気に入ってもらえましたか?」
「まぁ、悪くはないね。調子も曲も」
「それは良かった。キーもそのままで歌えるとは」
ふと、彼が聴いていたデモに視線を落とす。愛音が歌っていた、そのままのキーだった。
「この曲は愛音以外歌いこなせないと思っていたから驚きました。全てが愛音のために作られていますから」
キーを変更したものも作ったけれど、やはり原曲のまま歌ってほしかったのが事実だ。彼の声が愛音にそっくりだから、なおさら。至近距離で見ると外見も本当によく似ている。髪の色と目の色だけ変えてしまえば、彼は完全に愛音だ。
「……貴方は本当に愛音ではないのか?」
思わず肩を掴み、じっと見つめる。
この唇は私の曲を歌い、この瞳は私と同じものを見ていた。同じ時を過ごして、同じ風を感じて、同じ音楽の中に共にいた。それはもう、間違いなく愛音で――。
「馴れ馴れしいんだけど。離してくれない?」
「…………っ」
「アナタはただの番組企画で歌う曲の作曲者であり、それ以上でも以下でもない。ボクはそう認識している。アナタも言ったように、『初めまして』だと思うけど?」
肩に置いた手は冷静に払われ、アイドルとはとても思えないような鋭い目つきで彼は私を睨む。その顔も愛音そっくりで、不機嫌そうな声も、愛音の持つそれだった。
「…………愛音」
「ボクの名前は美風藍だよ」
ミカゼアイ。
いや、ならばなぜこんなに……?
愛音、と口を開きかけた瞬間、その空気を壊すかのように彼が現れた。
「グッモーニン、エブリバディ。アイアイとけーちゃんもおっはよ~ん。後輩ちゃんもそんなとこいないでこっちおいで!」
スタッフ達に挨拶をし、美風藍と私に手を振り、そして入り口付近で縮こまっていた七海春歌をひらひらと手招く。彼女は「先輩!」と嬉しそうに彼に歩み寄った。
「レイジ、うるさい」
ごめんごめん、と手を合わせながらも、寿君は美風藍を見てはいなかった。その視線は顔をそらしていた私に注がれる。
「あれれ、けーちゃんどうしたの? さっそく仲間割れ? なんか、空気悪くない?」
「貴方には関係ありません」
「関係あるからこんな企画を仕込んだんでしょ? 嘘はいけないよ」
真剣な目つきで私を見る寿君の隣で、美風藍が顔を上げる。
私も片桐も、美風藍にこの企画の目的を告げたことはなかった。もちろん、シャイニング早乙女に送り付けた企画書のことも。
美風藍は不審そうな眼差しで私を睨み付ける。当然の報いだ。だからそれは受け入れる。
「こんなことをしても何もならない。それで二人の気分が晴れるならぼくはそれでいい。甘んじて受け取るよ」
寿君の視線が、美風藍に、そして七海春歌にと揺れる。
「でも関係ないアイアイや後輩ちゃんを巻き込むのは許せない。だから今日は手加減しないよ」
寿君がトンと胸を叩いたのを合図にしたかのように、ADから収録開始の声があがった。私と七海春歌は必然的にセットから遠い場所へと移動する。
美風藍と寿嶺二。二人が歌う様子は生でネット配信され、リアルタイムで投票が行われる。その視聴者投票と番組特別審査員の評価で、より多くの票を得た方が優勝となる。
「じゃあ、ボクからだね。みなさん、よろしくお願いします」
台本通り、美風藍からセットに向かう。
私の隣にはいつの間にか片桐が立っていて、同じように成り行きを見守ることとなった。
美風藍がセットの中央、マイク前に立つと、スタジオに曲が流れ始めた。ピアノのアルペジオのイントロ。この時点で反応を見せたのは、片桐だけだった。
「圭……お前……」
「いいから、黙っていてください」
美風藍はずっと目を開けていた。そしてブレスもなく、歌い始める。彼の透明な声がスタジオに響き渡ってから、寿君もそれに気付いたように息を呑んだ。
思った通り、美風藍は完璧だった。完璧に、愛音だった。
この曲は穏やかで静かな雰囲気を持ちながらも、非常に繊細で歌いこなすにはかなりの歌唱力が要求される。愛音のレベルに合わせて私がそう作ったのだ。愛音は卒業オーディションでそれを難なく、心を込めて歌い切った。そして美風藍も、丁寧に、それを音にした。
やがて、満ちた潮が退くように、静かに曲が終わった。
美風藍が頭を下げると、スタジオに拍手が起こる。次に出番を控えた寿君も、七海春歌も、私の隣で腕を組んでいた片桐も、惜しみない拍手を彼に送った。
美風藍はちょうど私達と寿君との間辺りに立つと、セットをじっと見つめる。次の寿君の出番を待っているのだろう。ADから声がかかり、寿君は明るくステージに飛び出して行った。
「みんな、準備はいい? 盛り上がっていこうぜ! じゃあ、行っくよー!」
彼をアップで抜いたカメラにウィンクを飛ばし、指を鳴らす。派手なブラスのイントロが始まった。
寿君が勝つわけがない。私の曲はあの頃からもう何年も温め続けた一番大切な曲で、全てが込められている。美風藍は歌においてどこまでも精密でレベルが高い。もちろん寿君もそれなりに魅力的なステージを見せつけるだろう。そして最後には、番組をちゃんと盛り上げてくれるはずだ。
「え……新曲……?」
ぽつり、と美風藍が呟いた。
「クリスマスライブの曲を歌うんじゃないの……?」
どうやらこれは彼らがたった数日間で用意した新曲らしい。それにしても何が変わるわけでもない。むしろ、作り込みが足りていないのが手に取るように分かる。
寿君は間奏中もセット上を動き回りスタジオの空気を煽る。やがて手拍子が起こり、「サンキュー!」と叫びながら寿君が投げキッスを送る。
まるで卒業オーディションの時の彼を見ているようだった。あの時はもっと曲も作り込まれていたし、逆に動きは拙かったけれど、観客を楽しませようという気持ちに溢れていた。レベルの高い歌唱や曲の作り込みを見せなければと息まいていた生徒たちの中で、寿君は確かに輝いていた。
華やかなブラスが止み、寿君はジャンプターンを決める。
スタジオは、拍手と共に歓声に包まれた。うっとりと、けれども驚いたように七海春歌はその姿を見つめていた。ほんの数日で作り上げた曲がここまでのものになるとは思っていなかったのだろう。必死に拍手を送る姿がやけにしおらしかった。
CMが明けて、投票の時間になった。司会者がモニターの前の視聴者達に投票をと促す。どちらかの名前をクリックするだけの簡単な投票だから、相当な数がカウントされていた。
二人の得票は拮抗して上がり続け、ぴたりと止まる。
「おおーっと、これはっ!」
司会がモニターを確認し、「え?」と目を瞬かせた後、もう一度モニターを見る。
「ええーーーーーーっ! どっ、同点っ!?」
「どっ……同点ですっ! こっ、これは……どうすれば」
予想外の展開だった。美風藍、寿嶺二、それぞれに同じだけ、四桁の票が入っている。ここまで揃うと逆に仕組まれたように見えるが、片桐も茫然とモニターを見つめていた。
司会者はきょろきょろと落ち着かない様子になり、スタジオの中も意外な結果に騒然としていた。困り果てて相談を始めたスタッフの元へ、片桐が歩み寄る。
「おい、この集計正しいのか? こんなことありえないだろう?」
確かに四桁もの数字が揃うとは普通考えにくい。スタッフが投票のシステムの確認を始め、片桐はそれを黙って目で追っていた。
このままでは番組的にもまずい。そう思っているのは私だけではないだろう。これがリアルタイムの良いところといえばそうだが、同点という結果を誰も予測していなかった。
「どうなるんだろう……」
なんとなく自然にこぼした七海春歌の横を、美風藍が通り過ぎて行くのが、横目に見えた。
「すみません」
美風藍は右手を上げて、司会者に歩み寄る。
「え……あ、はい……」
困惑しきった様子の司会者は藍を見つめ、うわ言のような返事をした。その様子に、スタジオ中の全員が注目する。カメラは美風藍の姿をゆっくりと追いかけていた。
「視聴者投票って、見ていた人、全員に投票権があるんですよね」
「え……と、そう、だと思いますが……」
美風藍の突然の言葉に、司会者はしどろもどろに答える。リアルタイムで放送されている様子を映したモニターには、彼が伏し目がちに何かを考えている姿があった。
「そうですか、じゃあ……」
「え……アイアイ?」
彼は片桐が座っていたパソコンの前に立ち、マウスを手に取る。そして何事もないかのように、『寿嶺二』の名前をクリックした。
同時にモニターの中に、寿君への票が加わる。
「寿嶺二……の、優勝?」
それでいいのか、と司会は確認するようにぐるりとスタジオ内を見渡す。カメラはまだ美風藍に向かっていた。そんなこともお構いなしに、私は彼に近付いた。
「……どうして」
「ボクたちの曲も、歌も、レベルは高かったと思うよ。それは間違いない」
諭すように、美風藍はそう言った。後ろで、片桐がカメラを回し続けるよう指示を出しているのが見える。そういう男だ、片桐は。
「特に曲に関しては作りこみも技術も最高レベルだった」
私は何も言えない。美風藍の言葉の意図が、そしてなぜ寿君に投票したのかが分からない。
「……でも、ボクの曲は、ボクじゃない人に向けて書かれているみたいで、人の服を着てるみたいに馴染まなかった。アイドルと曲のマッチングが人の心を動かす。そういう意味では、レイジの曲は荒削りだったけど勝っていたと思う」
私がその言葉を飲み込めずにいると、美風藍はふと振り返って片桐に何かを訴えた。それをきちんと捉えた片桐は、カメラを司会者に向ける。すっかり冷静さと明るさを取り戻した彼が「それでは、結果は――」と仕切り直しているのが耳に吸い込まれて、聴こえた。
「とにかく、アナタは、ちゃんと目の前にいる人を見た方がいいと思うよ。ボクに誰を重ねてるのか知らないけどさ」
それは美風藍なりの配慮で、私はただ言葉を失った。
私は、愛音を想って作った曲を美風藍に歌わせるよう仕向けた。彼を愛音と重ね、その名で呼んで、彼に不快な気分を与えた。そんなこと、わかっていたはずだ。
私達の曲にマッチングなどあるはずがなかった。私は美風藍のことを見ていなかったし、美風藍も作曲した人間のことなど、微塵も考えずに歌っていたのだから。
彼の一票をもってこの企画の勝者は寿君となり、収録は終わった。「お疲れさまでした」と涼しげに言って、美風藍はくるりと踵を返した。
「待ちなさい……」
「……なに?」
その瞳は淡い青だった。髪は、深い青い色をしていなかった。その唇は私を今日初めて会った人だという風に呼んで、その声は私の曲を無感情に、ただ完璧に歌い上げた。
寿君と馬鹿をするわけでもなく、片桐と冗談を言って笑い合うでもなく、私に微笑みかけるわけでもない。
彼は、如月愛音ではなかった。
「申し訳なかった。心のどこかでは分かっていたのかもしれない。ただ……見ていたかったのです。違うとは分かりつつも、その声、その表情がとても似ていた。愛音が戻って来たみたいでした」
もう、戻って来ることはない。そんなことを思っているわけではないけれど、自分で発した言葉に、思わず息が苦しくなった。美風藍は少し俯き、何も言わない。
「最後に一つ訊いてもいいですか。貴方は、幸せですか?」
私はどんな答えを待っていたのか、それさえはっきりとしない。
「さぁどうだろう。ボクには幸せがなんなのかわからない」
「貴方には幸せになってほしい。そう祈っています」
彼は愛音ではない。愛音によく似た、ただの別人だ。
けれど私は彼の幸せを心から願いたいと思った。例え美風藍本人に、変な大人だといって白い目で見られたとしても。
彼はふと顔を上げると、柔らかな笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」
愛音と、同じ顔、同じ声。
いつも私に向けてくれた、やさしい笑顔があった。
ちゃんと目の前の人を見た方がいい。そう言った美風藍は、私にまた、愛音によく似た微笑みを浮かべて。でも彼は愛音じゃない。その事実があるからこそ、彼の笑顔は涙が出そうなほどに痛かった。
「なんでだろうね。不思議とお礼を言いたい気分になった」
美風藍は目を細め、前を向く。どうしようもなくて、ただ俯くだけの私に聴こえるように呟いた。
「幸せか……そうなるといいね」
カラカラカラ、と小気味よい音が鳴る。
丸い月が私を見下ろしていた。ゆっくり空を見上げるなんて久しぶりだ。窓を開けて、外の冷気に身を預ける。
歌合戦に寿君が勝利したことにより、クリスマスライブの作曲は七海春歌が継続して行うことになった。最後の一票は美風藍が入れたということで、三月の歌謡祭におけるアドバンテージは無効、それで良いかとシャイニング早乙女から連絡が来た。これで寿君も美風藍も、同じ位置からのスタートを切ることになる。
シャイニング早乙女は、電話の最後に「気分は晴れたか?」と私に訊いた。厚みのある太い声は、今の私を落ち着かせるには十分すぎた。「それなりに」と答えると、彼は笑って、これからも活躍を見ていると、そのような旨だけ私に伝えた。
「……今にも落ちてきそうな月ですね」
独り言は白い息になって夜空にのぼる。目を閉じると旋律がいくつも浮かんできた。
――今の曲いいね、圭。
ええ、私もそう思います。
振り返ると、ピアノの椅子に愛音が座って、耳で聴いたままの音を辿る。そんな姿が浮かんだ。
愛音は私の隣にいないけれど、私の音楽の中に愛音がいる。
ずっと美風藍に重ねて見ていたことを、愛音にも謝らなくてはいけない。美風藍は愛音ではない。同じように、愛音は美風藍ではない。ずっと美風藍の中に見ていた愛音が、私の中に帰って来たような気がした。
一曲弾きましょうか。
そう微笑みかけて、窓も閉めずにピアノを弾いた。ほろりほろりとこぼれるような、落ちるようなメロディ。月の夜と再会にぴったりな、優しい曲にした。
愛音の声はどこにもない。
涙が頬をすべりおちた。
その時初めて気付いた。これは、愛音が失踪してから初めて流した涙だったのだと。
それから私の生活が大きく変わることはなかった。普通に仕事をして、日々作曲をして、やはり毎日愛音を想って。
どちらかといえば、片桐がここ最近忙しくなったような気がする。歌合戦企画がウケたのがきっかけなのか、最近仕事が増えたとぼやいていた。
あの企画が果たして成功だったのか、私にはわからない。確かに寿君の歌も美風藍の歌もかなり世間からの評価は高かった。それに、一度同点で開票されてから美風藍が寿君に投票するまでの一連の流れは、動画サイトにて話題となった。最近はそういう時代なのか、と、めまぐるしく変わる世の中の動きに取り残されている気持ちにもなった。
しかし、いくらインターネットが普及しスマートフォンが当然のような時代になっても、変わらないものは確実にある。なんとなく立ち寄ったコンビニで芸能雑誌の表紙に目をやりながら、私はそう思った。
「……ん?」
乱雑に置かれていた一冊のゴシップ誌に目を留める。表紙に、そこにあるべきではない見出しがついていた。
――シャイニングの影、大手芸能プロダクションの光と闇。
はっきりと事務所名が書いてあるわけではない。けれど、これではシャイニング事務所を指しているのだと誰が見ても分かる。いや、分かるように書いてあるのだろう。
私は雑誌を手に取り中を開いた。
そこには、寿君の写真が大きく載せられていた。はっきりと顔は見えないが、彼が隠そうと抱き寄せている女性は七海春歌だろう。どうやら彼のマンションのエントランスのようだ。スキャンダルが一切ないことで有名な寿君にしては大きな失態だ。
しかし、この雑誌の表紙についている見出しは、寿君についてではなく事務所に関するものだった。つまり、彼女と撮られた写真よりもっと公表されてはまずいようなものが書かれているのではないか。私は記事に目をやった。
思った通りそれはシャイニング事務所に対するバッシング記事で、大部分は愛音と寿君について書かれていた。
愛音が失踪した原因は寿君にある。寿君は芸能界でのし上がるために親友である愛音の悩みを無視した。そして、ヒットも出せず女と遊び歩いている中途半端な芸能人である、と、要約するとこんなところだろう。
私も同じようなことを彼に言った。その上、彼の後輩のことさえも非難した。だから私がこの記事に対して怒りを覚えるなんて筋違いだ。
寿君はあの日、確かに愛音からの電話に出なかった。
しかしそれを第三者に指摘され、そのせいで愛音が失踪したのだと知ったような顔をして書かれることはあまり良い気がしなかった。それどころか、腹が立った。寿君とも、シャイニング事務所とも、私はもう何も関係ないというのに。同じようなことを彼にしたというのに。
私がこのゴシップ記事に文句を言うことは許されない。だからこそ、どこにもぶつけられない妙な苛立ちが燻ぶる。
発売日前に寿君と彼女はきっとこれを読んだだろう。
彼の事だ。責任はぼくにある、とか強がりを言って、きっと後輩のことすら突き放すのだろう。愛音が失踪したあの時、私に責められても何も言わなかったように。
しかし妙だ。愛音の失踪を知る人物は少ない。その上、それに寿君が関与していることを知っている人物となると、もっと限定される。
私はラックに雑誌を戻し、そのタイトルをもう一度眺めた。
「……どこかで見覚えが」
そうだ。この雑誌のライターの中に、武田という男がいたはずだ。
武田は昔からシャイニング事務所に関するネタを嗅ぎまわっていた男で、確か今は時々片桐と仕事をしている。点と点だった要素が、一本の線で繋がる。
片桐が武田と知り合ったのは、私達が事務所を辞めてすぐのことだった。彼らがどうやって知り合い、そして片桐はなぜ武田に気に入られたのかわからない。
しかし、片桐が武田に愛音失踪について話したことがあるならば。武田はこうして記事にできる日をこの六年間今か今かと待っていたのだとしたら。
あの頃から、片桐は愛音の情報を集めることができるのならば手段は選ばなかった。だから武田のような男と繋がりを持ち、そして上手く取り入った。愛音に関する情報の対価はシャイニング事務所のネタだった。そう考えれば辻褄が合う。
私はポケットから携帯を取り出し、シャイニング事務所の公式サイトを開く。
寿嶺二、謹慎処分。夏のドラマ降板。レギュラー番組もしばらくは代役を起用。丁寧な謝罪文と一緒にそう載せられていた。
私はコンビニを飛び出して、アドレス帳から片桐の名前を探した。次の仕事の開始時間を考えればまだ余裕がある。打合せの場所であるテレビ局へと歩きながら、片桐が電話に出るのを待った。
「……何だ、圭かよ」
「何ですかその言い草は。片桐、あなた何をしたんです?」
「お前に責められる云われはないと思うけど」
「責めてなどいません。私はただ……」
う、と言葉に詰まる。
私は寿君をひどく責めた。なのに片桐にはそれをするなと言うなんて理不尽だ。言うならば正々堂々はっきり言ったらどうだ、とも私が言える台詞ではない。
「ムカついたろ、あの記事」
電話口で片桐が笑う。いつものような豪快さはなく、乾いた笑いをなんとなく浮かべているだけだった。
「武田って、知ってるだろ。俺はあいつから情報をもらう代わりに、奴にゴシップをリークしながら生きてきた。もちろん、シャイニング事務所のことも」
「片桐、貴方は……」
「全部嶺二にも話して謝ってきた。元々は俺に責任がある。あいつは、話してくれてありがとうって、俺のこと怒りもしなかったけどな」
不思議と驚きはしなかった。片桐がこれまでどう生きてきたか知っても、やっと全てがわかった、くらいにしか思わなかった。
「俺が情報を流して、俺があの日、後輩の子が嶺二の家に行ってるって武田に知られる原因を作った。悪いのは俺だ。なのにあの記事を読んで、俺は許せなかった」
片桐の声からだんだん余裕が消えていく。目的の場所に到着した私は、建物の壁に背をつけてそのまましゃがみ込んだ。
「あの雑誌に、俺や圭の情報は不要だ。でも、あれじゃ嶺二だけが悪いみたいだろうって、キレそうになった。今までずっと、俺も、圭も、そうやって嶺二に全部押し付けてたのにな……」
「ええ、私はずっと、寿君が愛音を突き放したのだと、恨み続けていました。けれども、確かに……」
ムカついた。キレそうになった。
片桐の言葉には少しあてはまらないが、「そうではない」と否定したくなった。愛音が失踪したのは寿君だけが原因ではない。ずっと、ずっと、心のどこかで私もわかっていたのだ。
「それをわからせてくれたのがあんなくだらない記事だなんて、笑わせてくれる……」
片桐は笑った。豪快に、いつものように。
片桐は馬鹿だ。そして性格は悪いけれど、素直な奴だ。
電話口から聴こえる片桐の笑い声をBGMに、私は寒い冬の空を見上げた。
寿君が実家に帰ってしまったのだと知ったのは、その数日後のことだった。
「すみません、れいちゃ……寿嶺二の居場所、知りませんか!?」
どうやって私のスケジュールを把握したのか、一十木君、一ノ瀬君と名乗る青年が私を訪ねてきた。赤い髪をした落ち着きのない方――一十木君は私を見るなり身を乗り出し一ノ瀬君に叱られていた。
「すみません落ち着きが無くて。音波圭さんですね?」
「……ええ、そうですが。寿君の居場所というのは?」
「居なくなってしまったんです。つい、二日ほど前に」
映画で観たイメージの通り、一ノ瀬君は年の割に落ち着いた青年だった。ゴシップ誌のことから丁寧に私に説明し、彼らと七海春歌の三人は寿君を探しているのだと言った。
居なくなった。その言葉を聞いて、私は鳥肌が立った。愛音が失踪したあの時も、始まりは『居なくなった』だった。私と片桐、寿君に日向先輩。どこを探しても愛音はおらず、彼の叔父である博士には連絡さえつかなかった。
「どこか心当たりありませんか?」
一ノ瀬君とは正反対で、一十木君は寿君を心底心配しているのが丸分かりだ。ポーカーフェイスは苦手なタイプだろう。
「心当たりは……ありませんね。二日も姿を見せていないとなると、どこか宿泊施設に連泊しているとも考えられます」
「そんなの見つけられるかなぁ……」
「音也、弱音を吐くのはやめなさい。こういうことは長引けば長引くほど良くありません」
一ノ瀬君はくるりと踵を返す。「ありがとうございます」と会釈をして去ろうとした彼とそれに着いて行く一十木君を、私は呼びとめた。
「君たちは」
一ノ瀬君がぴたりと足を止め、一十木君はそれにぶつかる。こんなコントのようなノリにするつもりはなかったのだが。すみません、と一ノ瀬君が断りを入れ、「何でしょう」と首を傾げた。
「寿君を見つけて、どうするんですか?」
「もちろん仕事復帰! 今れいちゃんの代役でみんないっぱいいっぱいなんだよね」
「そうですね。まずはきっちり仕事をして頂かないと」
二人は顔を見合わせて笑う。一十木君は素直な笑みで、一ノ瀬君は代役で多忙を強いられているのか、少々含みのある笑みだった。
「……そうですか」
「それでは失礼します」
「ありがとうございました!」
今度こそ二人は足並みを揃えて帰って行く。
寿君には居場所がある。それをきっと彼自身も分かっているはずなのに、どこで何をしているのだろうか。
そして私はふと考える。あの頃愛音には、戻ってきても居場所があったのだろうか。私がいる。片桐も、寿君も。けれど一度仕事を放り出してしまった以上、あの頃の愛音に帰る場所はなかった。
だからこそ、そうならないうちに寿君も早く帰って来るべきだ。けれども頭の悪い彼はそれすらわからず、今頃どこかでやり場のない感情を持て余しているのだろう。そんなの、勿体ない。やはり寿君に似合うのはステージの上だ。
帰ったら昔の手帳を探してみよう。何か手掛かりが出てくるかもしれない。そう考えながら、私は次の現場に向かった。
それを見つけてからは、仕事をしていても作曲をしていても身に入らなかった。
早くこれを渡しに行かなければ。打合せを切り上げ、私はシャイニング事務所のそばの道を歩いた。七海さんか一ノ瀬君、一十木君。誰か一人に会えたらとりあえずそれでいい。しかしできれば会いたいのは彼女だ。伝えなければならないことがある。あと、謝罪も必要だろう。
「……あ」
大通りから脇道に入ると、肩の辺りで切り揃えた髪を揺らす少女を見かけた。彼女も私が視界に入ったようで、気まずそうに名前を呼ぶ。
「音波……さん……」
「久しぶりですね」
ぺこりと頭を下げる彼女に視線をやる。七海春歌は驚いたように私と目を合わせた。私が目を見て話をしようとすることがそんなに意外なのだろうか。
「あの……、その節は……」
「寿君がいなくなったと聞きました」
「はい……」
彼女の様子からするとどうやら手掛かりさえほとんど見つかっていないらしい。小さなため息をつくと、七海さんはまた肩を落としてしまった。
「どうやって調べたのかはわかりませんが一十木君と一ノ瀬君という方が、私にまで行き先を尋ねてきました……」
私は一枚の紙を差し出した。両手でそれを受け取ると、彼女はちらりと中身を確認し「これは……」と呟いた。
「寿君の実家の住所です。昔の手帳を調べたら出てきました。ここに行ってみればいい」
「でも、ご実家に電話しても戻っていらっしゃらないって」
「彼の事です。口止めくらいしているでしょう。抜け目ありませんから……」
あの目立つ外観の寿弁当で、あの陽気な母親とお姉さんに口止めをしている彼の姿を思い浮かべると、何だか笑えてくる。彼女は紙を大切そうに自分の手帳に挟むと私を見上げた。
「でも……どうして……」
「片桐から事情を聞きました。私もずっと彼を恨んでいました。寿君が愛音を見殺しにしたのだと」
見殺し、なんて言葉を使えば彼女は少し身構えるかもしれない。そう思ってはいたが、そんな元気も残っていないようだった。
「彼を悪者にして、自分たちのせいで愛音がいなくなったわけじゃない、そう思いたかったんです。愛音を助けられなかったのは私たちも同じなのに」
言葉にすると、それを受け入れられる気がした。その相手がこの小さなデビュー前の作曲家だということはあまり良い気がしないが、彼女は黙って続きを待っていた。
「でも……美風藍の歌を聞いて、気付いたんです。こんなことをしても何も変わらないと」
「……はい」
「彼は愛音でも、その代わりでもない。歌がそれを証明していた。私たちは彼に愛音の影を追っていただけ。彼の歌を聞いて、こんなことを愛音は望んでいない、そう素直に思えました」
彼の歌と、言葉。そして最後に見せた微笑みが、私を救ってくれたのだ。
愛音がいなくなった悲しみからはいつまでも逃れられないかもしれない。それでも、誰かと愛音を重ね合わせてしまう苦しみから私を救ってくれたことに、感謝している。
「私達は現実から逃げていただけなんです。それに寿君も解放されてもいいはずです。もう、十分すぎるほど代償は払った」
彼女の表情が急に明るくなる。まだ寿君は見つかっていないのに、まるでもう歌謡祭で優勝することを決めたような、昔の愛音と私によく似た、晴れやかな顔だった。
「貴方の曲を歌う寿君を見て、本気で音楽に向き合っている姿はアイドルそのものだと感じました。もっと輝く彼を見たい」
そう言うと、しばらく沈黙が訪れた。彼女は私に何も言わず、両手で手帳を握り締めて遠慮がちに私を見上げている。昔の私もこんな風に、愛音の曲を作れる喜びに充ちていた。
「愛音と私が叶えられなかった夢を見せてほしい。それが出来るのは貴方だけです」
瞬間、私の中で、何かが一つ終わったような気がした。
きっとそれは別れではなくて、何かまた新しい一歩との出会いであればいい。そう思った。
寿君が元気そうに復帰しているのを、私はテレビの画面を通して知った。彼は明るく笑っていた。愛音がいつか言っていた、星のような輝きが今の彼には見えた。いや、私にも見えるようになった。そう表現した方が正しいかもしれない。
「遅かったな、圭」
「仕事が立て込んでいて」
ひらひらと手を振る片桐の隣に座り、私は大きなステージを見上げた。この舞台の上で、彼女の未来をも背負って彼はステージを作り上げる。
歌謡祭を観に来てほしいという寿君からのメールに、私も片桐も返事をしていなかった。
その代わり、輝く彼の姿を私は一番に讃えようと思う。これまで彼と向き合うことのできなかった、六年間の全てを込めて。
春がやってきた。
先月の歌謡祭では見事寿君が優勝し、ついでに七海春歌と恋仲にあるのだとメールで報告された。そんなことを言われても返事に困る。そのメールがただの惚気だということに気付かず、私は真面目に忠告文を長々と返信してしまった。
貴方はアイドルで、彼女はデビューしたての作曲家、しかも貴方たちはパートナーなのだから、絶対に周囲に悟られてはいけないし、貴方は一度ゴシップ誌に載せられてしまった以上軽率な行動は控えるべき……云々。
誰かを大切にすればするほど、失うことが恐いから。そう言って寿君はずっと誰か一人を特別にすることを望まなかった。その彼が、あの頼りない彼女を恋人と呼ぶのだ。今度会った時にはきちんと祝福しなければならない。そう肝に銘じた。
大切な人を作るまいと思っていたのは同じで、私の場合は現在進行形だ。だが寿君のそれとは違いがある。失うのが恐いからではない。私には愛音がいる。だから、やはり当分は愛音以上に大切な存在などできないだろうと、そう思っている。
こういう話を世間の若者たちは『恋バナ』と呼ぶらしい。
「お前がそういう話するとは思わなかった……」
げ、と顔をしかめながら片桐はそばをすすった。
「相手は愛音ですよ? 恋という感情とは違います」
「じゃあお前も恋人作れば?」
「無理です。私には愛音だけなので」
「ほれみろ」
片桐は私をからかうように箸を向ける。行儀が悪い、と一蹴すれば「はいはい」と全く反省した様子のない言葉が返ってきた。
「でも圭、こないだどっかのスタッフの女の子に告白されてなかったか?」
「……見てたんですか」
恋バナとやらはそれでも続くらしい。しかも、私の弱みを突いて。
「あれ、どうしたんだよ」
「断りましたよ。大体、私と交際して喜ぶ女性なんてそう居ないと思います」
「自己評価低いなぁ。最近雰囲気が柔らかくなって素敵、とかって評判だぞ?」
「いい加減にしてください」
素敵、とわざと女性のように声色を変えるものだから、さらに苛立った。いちいち私に突っかかるのは学生時代からの悪い癖だ。
「愛音だけ、な……」
片桐は神妙な顔をしてお茶を啜る。
「……そばにきちんといてくれるような人でないと、やはりおかしいででしょうか」
「おかしいなんて言ってないだろ」
片桐はなぜか決まりが悪そうに言う。定食のお盆を下げていった店員に軽く会釈をして、片桐はもう一度熱いお茶に口をつけた。
「あぁ、そろそろ行かないと」
「ん? 仕事か?」
「いえ。ちょっとした約束が」
言葉を濁すと、片桐も共に店を出ると言ってついて来た。
片桐響は、やはり不思議な人物だ。かれこれもう彼と知り合って十年近くになる。友人、と呼ぶべき存在なのだろう。今さらそんな風に片桐を呼ぶのはやはり少し照れ臭い気もするのだが。
片桐と別れ、指定された場所の住所を入力する。
つい最近機種変更してようやく私の左手に慣れてきたスマホは、行きたい場所の住所さえ入力すればそこまでナビゲートしてくれる優れものだ。フリック何とかという入力方法は使いこなせないものの、なるほど、これは便利だと思わざるを得なかった。
到着予想時間は、待ち合わせ時刻ギリギリだった。早歩きで向かいながら、そこで私を待つ人の顔を思い浮かべた。それだけで心が安らぐ。
決して彼らは同じ人間ではないけれど、似た顔、似た声を持つ二人。彼――美風藍は、最奥のテーブル席でノートパソコンと睨み合いをしていた。
「お待たせしました」
軽く会釈をして向かいの席に腰を下ろす。彼が口を開く前に、店員に二人分のコーヒーを頼んだ。
「別に。待ってないよ」
ちらりと私の顔を一瞥し、美風藍はパソコンをテーブルの左側によけた。
客が少なく静かな店だから、彼のパソコンが小さく唸る音がよく聴こえる。ゆるやかなBGMはジャズ調で、ピアノの軽い音が耳に心地よい。テレビ局やオフィス街がすぐ近くにあるというのにそういった喧騒を感じさせない雰囲気に、私は少し驚いた。
「よくこんな店を知っていましたね。あぁ、もちろん良い意味で」
「ボクも人に教えてもらっただけだから。静かで、この時間は客が少なくて、あとスイーツの種類が豊富」
「好きなんですか?」
スイーツが、という意味で聞いた。彼もそれを汲み取ったようで、無表情のまま「ボクは別に」と答える。
ゆらゆらと湯気がのぼるコーヒーを飲みながら、私は話題を探した。私を誘い出して時間と場所を指定したのは美風藍だ。けれども彼は何も切り出さない。だから私が何か話を振らねばならないのか、そう思った。
「あの――」
「レイジと」
私達は同時に口を開いた。「何?」と改めて聞き直す彼に順を譲ると、彼は遠慮せずに続ける。
「レイジと和解したの?」
十五歳という年齢のせいか、それとも物怖じしない態度は元々なのか、彼はやけに素直に物を言う。そういうところは愛音と全く似ていない。
和解という言葉を使うのは早い気がする。私が口を噤んでいると、美風藍は一言付け加えた。
「アナタ、歌謡祭の日に一番に立ち上がって拍手してたでしょ。袖で見ていて驚いた」
「彼のステージには心を揺さぶられました。そして優勝が決まった時の彼の言葉にも。それに対して称賛の拍手を送るのは当然のことです」
彼はよくわからないという風な顔をして、もう一口コーヒーを飲む。
美風藍が私をわざわざ呼び出したのは、そんなことを聞くためではないだろう。その証拠に、彼はまだ何かを言いたそうにコーヒーを半分以上残している。そのコーヒーの分くらいには話題があるという意味だと私は理解した。
しかし、本題を待つまで雑談をするにも彼との間に接点がない。歌合戦の話はあまりしたくないし、歌謡祭は結果的に美風藍は優勝を逃したことになるし、もちろん愛音の話をするわけにもいかない。
「ねぇ、アナタは曲を作る時、どんな感情?」
「感情?」
「どんな気分、って言った方が分かりやすい?」
私は思わず目を瞬かせる。こんな抽象的な話題を彼が持ちかけてくるとは思わなかったのだ。
気分、と言われると答えに詰まる。作曲している時に何か特別な気持ちを抱くことはほとんど無い。しかし彼は私の答えに期待しているように思えた。だから、今まで感じたことのある感情を的確に答えにした。
「辛くても、苦しくても曲は生まれます。少なくとも私の中では」
「負の感情、ってこと?」
「そういうものもあります。そんな気持ちも大切にしないと、豊かな音楽は生まれないかもしれない」
「ずいぶん曖昧なんだね」
「貴方はどうです?」
私が聞き返すと、彼は首を傾げた。ほんの少し考えただけで、「まだよくわからない」と答える。その答えが、実に彼らしいと思った。
「そういえば、貴方の曲と私の曲が似ていると、かつて言われたことがありました」
「……そう」
ぽつり、雨粒が落ちるように言うと、彼は意味深に目をそらす。
「では歌う時は? 歌う時、貴方はどんな気分ですか?」
「それも知らない。気分なんてわからない。だってボクは、歌うために生まれてきたんだから」
美風藍の答えは全てどこか否定的だ。けれどもそんなことより、続く言葉が気になった。
「歌うために?」
「そうだよ」
涼しい顔をして頷き、彼はぱたりと片手でノートパソコンを閉じた。
愛音と美風藍はよく似ている。しかし言動はあまり似ていない。目の前にいる人を見つめるべきだ、と私を諭した彼の言葉が蘇る。私の向かいに座る無遠慮な子どもは確かに愛音ではなかった。
それでも、やはり愛音と美風藍には何か繋がりがある。私はそう思いたかった。
何か根拠があるわけではない。知れば知るほど、美風藍は愛音と似ていないのだと認識させられる。けれど二人には何か繋がりがある。いや、あってほしいと私は願ったのだ。
歌うために生まれてきたのだと言った彼は、どこか寂しそうに見えた。
「私が十五の頃は、ちょうど愛音と出会った頃でした。歌うこと、曲を生みだすことが楽しくて、私の曲と愛音の声が音楽になることが、幸せで仕方がなかった」
あの頃私は、何のために生まれてきたかなんて考えたことすらなかった。今も生まれた理由なんて知らないし、そんなもの必要ないと思う。
私のやりたいことは作曲で、歌が好きな愛音と出会った。けれどもそれを、互いの生まれた理由だなんて思わない。どこかで分岐するかもしれない。片桐のように、音楽をぱたりとやめる日がくるかもしれない。
「貴方も音楽が好きでしょう?」
「……スキ、とはまた違うかもしれない」
「けれど、貴方は音楽に愛されている」
「何それ、意味わかんない」
でも悪くないね。彼は、付け加えるようにそう呟いた。
一つ、愛音と彼の似ているところを見つけた。二人とも音楽に見出され、それに応えようとしている。十五歳の美風藍はこれからまだまだ成長する。精神的にもタフそうだから、彼は折れないだろう。繊細な心を持った愛音を思い出して、私はどうもやるせない気持ちになった。
美風藍はカップの中身を空にして、パソコンを鞄にしまった。それより早く私もコーヒーを飲み終えていたし、話すべきことも他にはない。彼なりに満足したのだろうと判断し、私は伝票を持って立ち上がった。さすがに十も年下の彼が支払いを申し出ることはなく、初めて彼から素直な感謝の言葉を聞いた。
結局、なぜ彼が私を呼び出したのかはいまいち分からず仕舞いだ。作曲をする時はどんな感情か、と私に問いかけた時だけ彼は興味ありげに瞳を光らせていた。あれが今日の本題、ということだったのだろうか。
近くのテレビ局で収録があるのだという彼と歩きながら、私はふと、彼の問いへの答えが不十分だったことを思い出した。
「さっき、負の感情も豊かな音楽に繋がることもあると私が言ったことを覚えていますか?」
「それがどうかしたの?」
「苦しい時にも辛い時にも私の中で音楽が生まれていたのは事実です。ですが、作曲をしている時の私の気持ちには、幸せな感情だって当然存在する。貴方も知っていると思いますが、私は愛音を、パートナーを失いました。けれど私の人生は幸せですよ、人並みに」
「……ジンセイ?」
「あぁ、作曲の話ではなくなりましたね」
別にいいよ、と美風藍は無感情に言った。
彼が何を思って私の感情の話など聞きたがるのか、結局全くわからなかった。感情と、美風藍。その点と点を結びつける線は、私には見つけられそうにない。
局の手前で簡単に別れて、それで終わりだ。
そう思っていた私を、美風藍が引き止めた。
「ねえ」
服の裾を引かれ転びそうになった私を、なぜか彼はすんなりと受け止める。身長こそ同じくらいあるが、こんなに華奢な腕のどこにそんな力があるのだろうか。訝しげに思わずじろじろとその腕を見つめていた私に、彼は言った。
「ボクの目を見て、彼の名前を呼んでみて」
「彼……とは?」
「アイネ」
なぜ言わせるんだ、とばかりに彼は不機嫌そうな顔になる。
愛音に似ているようで似ていなくて、それでもやはりどんな表情でもそれは愛音そのもので――どうしようもなく、愛音を思い出して情けない気持ちになる。
「できません」
「どうして」
「貴方は美風藍でしょう。私はもうそれを認識しています」
「別にボクと彼を重ねてほしいなんて思ってるわけじゃない」
腕を引かれ、彼の顔が間近に迫る。もう美風藍を愛音に重ねるなんてありえないというのに、彼自身がそれを要求してくる。私は迷った末、もう一度彼の瞳を見つめた。
愛音と同じ。けれど彼は愛音じゃない。
愛音と、よく似ている。けれど愛音じゃない。
愛音のようで――違う、存在だ。
「……愛音」
この顔を見つめて、愛音、なんて名前を呼ぶ。美風藍は一度目を瞑って、開いて、私から視線をそらした。
「これで満足ですか」
彼は黙って頷いた。自分でこんなことを頼んでおいて、いきなりやけにしおらしくなる。『大人』として、そして彼に迷惑をかけてしまったことのある身として、美風藍の様子が気にならないと言ったら嘘になる。
けれども私には、彼にかけてやる言葉がなかった。
「では、私はここで」
駅に向かって歩き出す私を、彼はもう引き止めなかった。
――圭。
懐かしい声が後ろから降ったような気がしたが、気のせいだ。そう思うことしか私にはできなかった。
美風藍には秘密がある。いつだったか、片桐がそんなことを言っていた。過去に失踪した愛音と同じ顔と同じ声を持つ彼を、私も同じように怪しいと感じた。しかし私達には、彼の秘密を知る術などない。
最近、思うことがあるのだ。
もしここが何十年か後の、科学や技術が進化した世の中ならば。美風藍は、愛音を元にして生み出された人間なのかもしれない、と。
誰がなぜそんなことを? その答えは私にも導き出せないのだけれど。
そんなことがありうるのならば、彼の曲と私の曲が似ている理由はただ一つ。愛音が、私の音楽を覚えていたから。そうであってほしい。
もちろん、全ては私の想像と、願いに過ぎない。
愛音が姿を消してから、七年が経った。
私のたった一人の愛おしい人。愛おしい音楽。彼が私の隣を離れてから、もう、それだけの歳月が流れた。
学園で共に音楽を奏でて一年。事務所での試用期間が一年。マスターコースが始まってから愛音が失踪するまで、確か半年ほど。思えば、私達が隣り合って音楽を作り出せたのは、たったの二年半だった。
だから愛音がいなくなって、二回、同じ流れを繰り返し、これからまたマスターコースに入るところだ。私達の二年半が何度も何度も巻き戻されるならば、そういう計算になる。
もしそんなこと――やり直しが可能ならば、私達はパートナーとしてデビューできているだろうか。それともまたどこかでリセットボタンを押すのだろうか。
なんて、想像して、思わず笑った。
私は今を生きている。愛音が隣にいないこの世界で。
それはなんて不幸なことだろうと苦しんだこともあった。私だけが辛い想いをしているのだと思いたくて、寿君につらくあたった。それでも私は今、ここに立っている。愛音と私の間にいつも存在した音楽と、生きている。
夢で愛音が笑ってくれることを、幸せだと思えるようになった。悲しい顔よりも、笑顔がずっと素敵だ。夢の中で愛音が笑ってくれた朝、私はとても幸福な音に包まれる。
そして私はまた、愛音の曲を作るようになった。
ピアノの横に置いた大きな戸棚に愛音のために作った曲を入れる引き出しを作って。そこに、愛音から貰った石を入れて、ついでに昔四人で撮った写真も入れて。色褪せた笑顔と真っ白な楽譜のコントラストが、七年もの歳月を私に感じさせた。
愛音へと紡ぐ音楽は、どれも優しいものを選んだ。
繊細な愛音へ。少し強がりな愛音へ。笑顔の素敵な愛音へ。天使のような歌声の、愛音へ。海のように輝く愛音へ。
五線譜に黒一色で音楽という色をつける。音に羽根が生えるなら、愛音の元へ飛んでいってほしい。おとぎ話のような願いさえ、叶えばいいと思った。
――愛音。
まるで祈るように、鍵盤に指を添える。
――私は、貴方が好きです。
音の波は寄せて、穏やかに、旋律を紡ぎ始める。
こうして音楽にさらわれる時間が好きだ。何もかも忘れられる。悲しいこと、苦しいことはもちろん、幸福な時間まで音楽は奪っていく。それがなぜか心地よいのだ。
しかしその快楽は、ローテーブルに置いていたスマートフォンの振動によって打ち消される。長くバイブレーションを続けているからメールではない。私は渋々手を止め、それを手に取りピアノの椅子に腰かけた。
それは登録されていない番号で、しばらくすると振動は途切れた。イタズラ電話か、間違い電話か。どちらにせよ用件があるのならばもう一度かけてくるだろう。私はため息をついてそれをポケットに押し込んだ。
電話といえば。
先日、メールアドレスしか知らなかった(正確には、私が番号を変えた時にそれを伝えなかった)寿君から、改めて電話番号を教えてほしいと縋られた。彼と電話をする用事などなかなか無い気もするのだが、これでももう十年近い付き合いになるのだ。断る方がおかしいだろうと思い、番号を簡潔にメールしてやった。
今は少し、寿君の声が聴きたいと思った。他愛のない話をして、ただあの頃のように笑いたいと。
ポケットの中で再び振動を感じる。やはり先程の着信は緊急だったのだろうかとそれを取り出すと、画面には先ほどとは別の番号が表示されていた。
「……はい、音波です」
「もしもし、嶺二だけど、けーちゃん?」
「私は貴方に番号を教えたでしょう? 私以外の誰が出るんですか」
「確認しただけじゃん」
子どものように頬を膨らませる姿が容易に想像できる。いや、今や彼は年下の恋人を持つ大人の男(本人談)なのだからそんなことはしないだろうか。兎にも角にもこの軽い声色がやけに懐かしく、彼とこうして普通の友人らしくやり取りができることが感慨深かった。
「どうしました?」
「せっかく番号教えてもらったし、声聴きたいと思って」
「奇遇ですね」
「けーちゃんもそう思ってた?」
「否定はしません」
左手でスマホを支え、右手で簡単なメロディをなぞる。それに合わせて寿君は電話口で鼻歌をうたった。
思えば私は――いや、愛音と私は、言葉より音楽で感情を表現する方が得意な性分だった。逆に、片桐や寿君は口が達者で周囲とコミュニケーションを取るのが上手かった。私達四人は、そういうバランスで成り立っていた。
音楽でわかり合えるのは愛音とだけ。そう思っていた私はなぜか今、寿君とわかり合えた気がするのだ。
時々音を外しながら寿君が奏でる旋律はとても明るかった。彼女に幸福な音をたくさんもらっているのだろう。そう思うと、羨ましいという感情の前に、素直に祝福の感情が私の中に生まれた。
「今度ひびきんも誘って、三人で飲みに行こうよ」
「いいですね、片桐のスケジュールも押さえておきます」
そんなやりとりの後に電話を切って、自分の口元が緩んでいることに気付く。「けーちゃんを潰してア・ゲ・ル」という訳のわからない提案は丁重に断ってやったが、彼らとの酒の席はなかなか面白そうだ。
「…………ん?」
通話を終了させたはずの画面に、新しく留守電通知が入っていた。未だに操作には慣れない『電話』という項目を開き、留守電を再生させる。
聴こえたのは海の音だった。
波が揺れる。強い風が吹く音も微かに聴こえた。
誰かが歌っている。それに気付くまでに少し時間を要した。
いつか、私が天使のようだと表現した、あの声。
「愛音…………?」
それは、今となっては愛音と私しか知らない曲だった。
愛音がそこにいる。海に、愛音がいる。
何もかもを投げ出して私は部屋を飛び出した。ピアノの周りに散った五線譜が、まるで天使の羽根のように舞い上がった。
愛音の歌声を、天使の声だと思ったことがある。
もう十年も昔の話だ。
もしあの時愛音が私に声をかけなければ、愛音を失う痛みを知らずに済んだ。そして、愛音と音を奏でる喜びを知ることはなかった。だから私は、愛音と出会えて、良かった。
海は広い。愛音がいるならばここしかないと思って訪れたは良いが、そのどこに愛音がいるかなど見当もつかなかった。
――本当に、愛音はいるのだろうか。
声につられて来てしまったものの、他に何の情報もない。
しかしあの曲は、私が『殺人考察』の主題歌のコンペに提出したもので、当時の関係者と私達以外、誰も知らないはずの曲だった。何より愛音はあの曲を歌ったことがない。私はあのコンペに通らず、もう世に出してはならない曲の一つとして封印していたのだから。
「愛音!」
叫んでも、声は海の音にかき消される。ひ弱な音ではだめだ。もっと、声を張り上げて呼ばなければ。
「愛音! 愛音!」
砂浜を革靴のまま走ると時々足を取られる。夢中で靴下ごとそれを脱ぎ捨てて、私はそこら中を走り回った。私の声など枯れても良い。無我夢中で名前を呼んだ。
けれども愛音はどこにも見当たらない。一縷の希望を抱いてここに来た私は、どうしようもなく胸が締めつけられた。じわりと涙が瞳を潤し、頬を伝う。
愛音に会えない。七年間、当然だったはずのことが、ひどく哀しかった。
愛音に会いたい。愛音に会って、歌いたい。歌ってほしい。作り貯めた愛音のための曲を。歌ってほしい。
思わずその場に崩れ落ち、私は膝の間に顔を埋めた。子どものように泣いた。人間はこんなに泣けるのかと思うほど、涙は次から次へと溢れ出る。
愛音がいなくなったあの日、片桐はこうやって愛音の名を呼んで、そして海で泣いた。私にはそれができなかった。その現実を、受け止められなかったから。
この七年という歳月が私をどう変えてくれたのか、いや、その中で私自身がどう変わろうとしたのか、今でもわからない。
愛音の隣にいたい。その気持ちを変えたくなかった。
愛音の曲を作りたい。想いを曲げることができなかった。
それが大人気ない我儘だとしても、まだ一歩を踏み出せていない証拠だとしても、嘘はつけない。愛音に会いたい。愛音の曲を作りたい。輝く愛音の姿をこの目で見たい。
「愛音!」
「…………けい、」
瞬間、波がざっと引いた。風は全て止み、涙もどこかに消え失せた。柔らかなその音だけが、私の世界を支配した。
「圭?」
「あい……ね…………?」
顔を上げると、青い石がゆらゆら揺れているのと目が合った。その先に、紺色の髪を肩まで伸ばした――愛音がいた。
これは夢ではないのか。涙を拭きながら目をこすり、ついでに軽く頬をつねる。冷たい手が、そっと私の頬に触れた。
「やっと会えた……」
「おかえり……なさい」
「ただいまっ……」
愛音は目を細めて笑う。その端から、涙が転がった。
光が走る。
それは海をきらきらと輝かせ、そして、愛音の背中に、まるで羽根のような線を描いた。
まるで出会った頃のように、ピアノの椅子を分け合って座った。あの頃はわざと触れ合わせていた肩が、今は何をしなくても触れ合ってしまう。大人になったのだ。私の知らないどこかで、愛音も。
ピアノのアルペジオのイントロ。私がこの手で弾いて、そのすぐ横で、愛音が歌う。感情を込めて、一つ一つの音を丁寧に、愛音は声にした。
少しピッチがずれてしまうのも、私の伴奏と時々息が合わなくなるのも、七年という時間を刻んでいるようで愛おしく感じた。
歌いながら、愛音は私と同じように、右手だけピアノを弾いた。目で合図されて、私は愛音と同じようにたどたどしく歌ってみる。あまり歌は得意ではないけれど、そんな拙いメロディでも愛音が先導してくれるから、声にするのは苦ではなかった。
愛音のための曲はたくさんあった。
しかし、私達はなんとなくピアノを弾きながら、話をしようと決めた。音楽で感情を表現する方が性に合っている私達でも、この七年間を音楽だけで埋めるのは不可能だ。それに、きっとあの頃、私達には言葉が足りなかった。
苦しい日々も、辛い気持ちも、痛かった言葉たちも、全てちゃんと話し合っていれば。そんな後悔は数え切れないほど重ねてきた。だから、音楽で充たされているだけではなく、ちゃんと言葉にしたい。そう伝えた。
音は指でなぞる。
言葉で、七年間をゆっくり埋める。
今までどこで何をしていたのか。美風藍とはやはり何か関係があるのか。聞きたいことは色々あった。
それに過去の話も。今の話も。未来の話も。愛音に胸を張って話せることばかりではないけれど、全部、私の口から話したいと思った。
それより先に、私はずっと、愛音に伝えたいことがあった。
ピアノを弾く手を止めて、愛音のそれに手のひらを重ねる。
言いたくて、言えなかった言葉だ。愛音は首を傾げ、「どうしたの?」と問いかけた。
「これからも、貴方の曲を作らせてくれますか?」
返事は、なかった。
愛音は私の手をそっと振り解くと、椅子から下りてこちらを向いた。既視感が私を襲う。それは十年前、まだ私達が深い色のブレザーを着ていた頃の、あの記憶とリンクする。
「ボクのパートナーになってください」
愛音は腕を広げて伸ばした。私はそれを抱きしめる。
「はい……喜んで」
愛音に羽根がなくて良かった。そう思って、私は笑った。
私達は一つ一つ、音と言葉を伝え合った。
二人で紡ぐ音の海に落ちる、輝く星を数えながら。
