Birthflower Cordial

 花壇に落ちた影が少しずつ短くなるのを眺めていた。昇っていく太陽にじわじわ侵食されていくせいだ。日課の水やりを終えてバケツとじょうろを定位置に戻し、日よけの帽子とアームカバーを外す。背中に汗が伝うのが分かった。

「朝から精が出るなぁ」

 通用口から寮のキッチンスペースに戻るとヴァンが朝食の支度をしているところだった。

「おはよう、ヴァン」
「おはようさん。えーちゃんまだやから、起こしてきてくれる?」
「兄さん起きてきてないの? 珍しいね」
「起きとぉけど降りてきてないだけとちゃうかな。あと、やまちゃんもまだ見てへんな。ついでに見てきて」
「…………やまちゃん……?」
「大和やからやまちゃん。やーちゃんの方がええかな?」
「うーん……どっちでもいいんじゃないかな。そんな呼び方して怒られなかった?」

 つい先日事務所に入ったばかりの新人である彼と、会話らしい会話を交わしたことはない。けれど、兄への態度や寮に寄り付かないところを見るに、ヴァンみたく誰とでも仲良くなれる友好的なタイプでないのは明らかだった。

「いや全然。無視されたけど」
「それって嫌がられてるんじゃないのかな……」
「せやんなぁ……やっぱりそう思う?」

 ヴァンの軽い苦笑に見送られながら階段を上がる。事務所に併設された寮は一階が共有の談話室やレッスン室、二階から上がそれぞれに与えられる個室として使われていた。瑛一の部屋は三階の角部屋。新入りの大和の部屋はどこだったか覚えてないけれど、兄に訊けばすぐに分かるだろうとまず三階に向かう。
 廊下には広い窓が連なっていて、差し込む光を遮断しようとナギがブラインドを下げているところだった。おはよう、と声をかける前に、一番奥の部屋の扉が閉まる音に気を取られた。

「ヴァン、何作ってた?」

 と、ナギが振り返って話しかけてくる。扉を強く閉めて出てきた男――大和が通り過ぎるのを、まるで見えないふりをしているみたいだった。だからそれに合わせて「コーンスープだったと思う」と答える。するとナギはちょっとオーバーなくらいに喜んでみせた。

「やった! 前ヴァンが当番のときにリクエストしたんだ。インスタントじゃないコーンスープが飲みたいって」

 くるくる、ブラインドの持ち手をナギが巻くのに合わせて廊下に満ちたひなたが影に変わる。大和が階段を下る音が響く頃、ナギがふうと息をついた。

「瑛一に呼ばれてた」
「え?」
「だから、大和、瑛一の部屋に呼ばれてたの」
「そうなんだ」

 怪訝そうな顔をする割に、すでにちゃっかり呼び捨てなのが可笑しかった。

「なにかやらかしちゃったんじゃない?」
「なにかって?」
「わかんないけど。大和って瑛一が拾ってきたんでしょ?」

 拾ってきた、という表現は訂正しなかった。猫みたく段ボールに入れられてにゃあにゃあ鳴いていたわけではないけれど、間違っていない。
 一週間前のことだ。何を思ったのか、アイドルになりたいと考えた大和が突然事務所にやってきた。定期的に開催されているオーディションの案内をするでもなく、事務的な態度で突き返した守衛と大和が口論に発展するかしないかくらいのタイミングでたまたま通りかかった瑛一が声をかけた、らしい。そこからどんな交渉があったのかはよく知らない。気付けば大和は瑛二やヴァンと同じ、瑛一と共にデビューするユニットメンバーの候補生として寮に住まうようになっていた。

「俺、兄さんの部屋に行ってくるね」

 兄が大和を事務所に引き入れた理由はまだ訊けずにいる。そんな質問をすれば、兄がせっかく選んだ人のことを嫌だと思っていると捉えられるかもしれない。そうじゃない――だけど。自分にも解せないこのもやもやと絡まった感情を上手に伝えられる自信がないのだ。
 ノックしてから扉を開けると、窓の外を眺めていた兄が振り返る。

「瑛二か。おはよう」
「おはよう、兄さん」
「朝食の時間だな。呼びに来てくれたのか?」
「うん」

 小さく頷く。瑛一は眼鏡のブリッジを押し上げ、デスクに並べてあった資料の角を揃える。と、サイズの揃っていなかった一枚がひらりと瑛二の足元へ落ちた。

「……これ」

 何が書いてあるのか見ないように裏を向けて返すつもりだった。けれどそれは鮮明な写真が印刷された紙だったから、目をそらせなかった。

「あぁ……すまない、忘れてくれ」
「その写真に写ってるのって……」

 兄の手に渡るまでの数秒間だけでも、主張の強い髪色で察してしまった。場所はひらけた屋外。明るい緑がかった金髪の男が、誰かに殴りかかろうとしている瞬間を収めた一枚。
 兄は裏返した写真を渋々瑛二に見せる。

「顔はあまり見えないが、おそらく相手は日向龍也だろう」
「日向龍也……って、シャイニング事務所の?」
「あぁ。大和の兄だ」
「え……。でもこの写真、喧嘩してるように見えるよ。お兄さんなのに……?」
「……瑛二」

 おいで、と手招きされて広い窓の横に並び立つ。鮮やかな紫色の瞳を細くした兄にそっと頭を撫でられ、思わず目を閉じる。眼鏡のレンズに屈折した光が眩しかったのか、まっすぐな瞳に心の奥を見透かされている気がして怖かったのか、きっとその両方だった。

「この世には、瑛二が思う以上にいろんな人間がいるんだ。兄弟と一口に言っても、俺と瑛二のような関係でない者もいる。それは分かるだろう?」

 たしなめるような口調にどきりとした。頷くと、窓に映った兄が微笑む。

「瑛二は、自分と考え方が違うからといって、その相手を頭ごなしに否定などしないな?」
「うん。しない」
「あぁ、そうだろう。綺羅やナギ、ヴァンの境遇が俺達と違っても、瑛二は仲間として上手くやっている。だから、大和のことがもし理解できないと思っても、決して否定してはいけないんだ。分かるな?」
「……うん。あの、兄さん」
「何だ?」

 見上げると、兄の瞳もこちらをじっと見下ろしていた。

「兄さんがスカウトしたんだよね」
「あぁ。そうだ」
「どうしてか、理由を聞いてもいい?」
「皆、ずいぶん大和のことが気になるようだな」

 兄が小さく息を吐き出したのが、嘆息のように聴こえた。困らせてしまっただろうか。

「ナギやヴァンにも同じことを訊かれてな。瑛二がそんなことを気にするなんて珍しい」
「そう、かもしれないね」
「特別な理由はないぞ。ただ俺が、このメンバーでなら高みを目指せると感じたから、それだけだ」

 頭を撫でる手を止めて、窓の外に視線を移した兄がゆっくりと瞬きする。そして目を開く。希望を湛えた瞳が少し怖かった。瑛二は、いや、きっとナギやヴァンも、まだ日向大和という人間を信用していいのか測りかねているから。出会ってまだ一週間と少々の男にそこまでの勝算を感じている兄が不思議で仕方がなかった。
 疑心暗鬼が表れたのか、視線は兄の手元の写真に向かう。気が付いたその持ち主は困ったように笑った。

「瑛二は、大和とは一緒に活動できないか?」
「そんなことないけど……」
「この写真については、もう少しきつく言い聞かせる必要があるだろうな。デビュー前だからといって気を抜いてもらっては困る」
「兄さんが言ったら……喧嘩するの、やめるのかな」
「……どうだろうな」
「さっきは? 部屋に来てたよね」

 少なくとも反省していたようには見えなかったけれど。

「まだ俺の耳に届いた限りでは一回目だからな。ただ注意しただけだ。大和も、分かったとは言っていた」
「そうなんだ」

 曖昧な返事だ。もうしないとは言っていない。仮に大和がもうしないと誓ったとして、それを信じられるかどうかさえまだよくわからない。

「なんだ、瑛二。次はお前から大和に言ってみるか? 同い年の俺よりも、年下の瑛二に言われた方が効き目があるかもしれないな」
「えっ、い、いいよ俺は……! ちゃんと大人の人から言った方がいいと思う!」
「そうか? 瑛二は後輩指導に向いていると思うがな」
「向いてないよ!」

 肩を強く掴まれ、小さく抵抗する――ふりをする。本当はほっとした。兄が笑ってくれたことに。
 朝ご飯できてるからね、と言い残して先に部屋を出た。
途中で洗面所に立ち寄って両頬に手をあてる。赤くなっていないか気になった。少し乱れた呼吸を整え、意味もなく頬をぺちぺちと叩く。突然肩を抱かれて心拍数が上がってしまったようだ。

「……びっくりした」

 いつからだろう。兄に触れられると、照れくささや誇らしさの中に、くすぐったい気持ちが混ざり始めたのは。
 それがときめきと呼ばれるものなのか、経験の浅い瑛二には分からなかった。尊敬する兄に認められた喜びや、それかもっと、ただ触れられて心地よい、動物の本能的なものなのかもしれない。
 けれど、もっと触ってほしいと願うのは確かで、兄という安心のかたまりのそばにいたいと思う気持ちも嘘じゃなくて。いつしかそれを「恋」だと呼びたくなっていた。

「メシ」

 後ろから声をかけられ、背筋を電流が駆け上るようにびくりとして振り返る。この寮で唯一兄よりも長身の持ち主は死角に立っていて、鏡には写っていなかった。

「チビが、おせぇってキレてたぞ。ミイラがなんとかつって」
「ミイラ?」
「ミイラとミイラとり? よくわかんねえ」
「あ、ミイラ取りがミイラになる?」
「しらねえけど」
「俺、ミイラになってないよ」
「しらねって」

 遅くなったのはあなたの話をしていたからで――とはさすがに言えなかった。というか、あれ。普通に話せちゃってる。

「早くしろよ。そろってから食うっつってきかねえから」
「うん。すぐ行く」
 不思議だけれど、これが日向大和との「ちゃんとした」ファーストコンタクトだった。


 +


 俺は兄さんと喧嘩したことないな。
 ふと思ったのは、数日後の早朝。日課である花の水やりのため庭に出た時、たまたま大和の姿を見つけたからだった。半袖にハーフパンツのラフな姿で、ランニングから帰ってきたのか、寮の裏門の錠をかけているところだった。
 殴りかかるくらいだから、大和と日向龍也の兄弟仲はあまり良くないのだろう。
瑛二には想像もできない。自分が兄を殴ることも、逆に兄がそうすることも。世の中の「兄弟」の全てが自分たちみたく仲が良いわけではないことは分かっているつもりだった。それでも瑛二にとって兄は瑛一ただ一人だけで、兄を慕い、憧れ、大切だと思う気持ちはどうしても変わらないだろうから、大和の行動はいつまで経っても理解できそうにない。
 つぼみが膨らみ始めた立葵の葉を分ける。害虫の予防や駆除はこの季節、水やりと種まき以外の主な仕事のひとつだ。肩くらいの高さにまで茂った葉に手を伸ばすと初夏の陽光はこんな時間にも眩しかった。
 毎年梅雨の季節に花期を迎えるこの花を、傘をさして兄と見るのが好きだった。梅雨の終わり頃にはてっぺんまで全て花を咲かせ、いくつにも連なった葉や花びらの間から「ここに居たのか」と兄が顔を覗かせるのが。

「こんなとこにいんのかよ」

 そう、こんな風に。

「え?」

 この声、兄さんじゃない。
 つばの広い麦わら帽子がぽすりと頭に乗せられる。これは俺のものだとわかるのに、どうしてこの人が? という疑問が勝ってずいぶん高いところにある大和の瞳を不躾にじっと見上げた。

「リーダーがわたしてこいって」
「あ、うん。ありがとう。兄さん仕事じゃなかったっけ?」
「あぁ、さっきそこですれちがった」

 通用口の辺りを立てた親指で指し示す。天に向かって伸びた立葵のつぼみを眺めながら「なあ」と口を開いた。

「これ食えるやつか?」
「え? ……薬やお茶にしたりするみたいだけど、食べるのとはちょっと違うかな」

 ちっとも興味がなさそうなのに、大和は葉やつぼみを見やりながら曖昧に頷いた。

「作るならミニトマトとかいいよね。この庭でもできそう」
「ん、うまいよな」
「つくってみる?」
「おれが?」
「え、俺がつくるの?」
「……おれか」
「うん」

 答えながら思わず笑ってしまった。野良猫みたいに奔放そうに見えるのに、ちゃんと会話を成り立たせようとしているのが意外だった。

「一緒につくろっか」

 提案すると、大和は真横の瑛二を振り向いて目を瞬かせた。

「おまえさ」
「ん?」
「名前、なんていうんだ」
「え」

 覚えてないんだ。
 大和が入所した日、皆で一通り自己紹介したはずなのに。兄さんと一文字違いで覚えやすいのに――もしかしたら、「瑛一」という名前すら覚えていないのかもしれない。

「鳳瑛二、です」
「えいじ」

 初めて覚えた言葉を忘れてしまわないように反芻する。自分よりずっと身長が高くて、年上のはずの大和のそんな姿が少し可愛く見えるのが不思議だった。けだるげな橙の瞳にじっと見下ろされる。大和は、と初めて名前を呼んだ。

「みんなの名前、覚えてないの?」
「ヴァンはおぼえた。名前よべってうるせえから。あとチビはナギだろ。で、瑛二な」
「そう。それから、兄さん……リーダーが瑛一で、もう一人が綺羅」
「ん、おぼえた。たぶんな」
「ちょっとずつ覚えていけばいいよ。……あの、大和は、どうしてうちの事務所に入ったの?」
「……瑛二は?」
「え、俺?」

 他人に興味があるようには見えないのにオウム返しみたく大和に問われ、うろたえた。

「俺は……兄さんがいるから、かな。俺たち、子どもの頃は山梨に住んでたんだけど、兄さんは中学生になる頃に上京して、デビューするために事務所に入って……だから俺もそうなるのかなって思ってて……言い方は良くないけど……なんとなく、なのかもしれない」
「ふーん……」

 大和は、と訊き直すことはできなかった。訊かれたくないんだと分かったから。
 呆れられたかな、とも思った。理由は何だとしても、自分から事務所にやってきて入れてくれと直談判した大和と比べて、やる気がない奴だと思われたかもしれない。きっと、父親が社長じゃなければ、そして兄が先に事務所に入っていなければ、瑛二はアイドルを目指していなかった。
 視線をそっと上にやる。大和はもう瑛二を見ていなくてほっとした。代わりに、目の前をひらひら飛び回る薄い黄色の蝶をじっと見ていた。花の手入れをしていれば虫と出会うのは日常茶飯事で、中でも蝶はかわいい方だ。花に大きな害もないし。ふと、伸ばした大和の指の先に蝶が止まる。怖くないのだろうか、そんなにじっと見つめられて。

「こいつ、おれのこと木かなんかだと思ってんのか」
「そうかもしれないね」
「虫って目わるいんだな」
「そうみたい」

 瑛二が肩を揺らすのにつられたのか、大和がはっと息を吐き出す。今、笑った? そう思った瞬間に蝶は指先を離れどこかに飛んで行ってしまった。大和も我に返ったように踵を返す。

「あの」

 もったいない、と思った。
 この人のことがもっと知れるかもしれないのに。

「ミニトマト、ほんとに作る?」
「つくらねえと食えねえだろ」

 首を縦に振ると鮮やかな金髪がふわりとしなった。

「うん。みんなで食べれるくらい、いっぱい作ろうね」

 もう一度、大和が笑う。
 もっと話してみたい。知らない土地から来た転校生を珍しがるような気持ちだったはずなのに、少しだけ、欲の芽が出始めている。知りたい。そして知ってほしい。大和の後ろ姿を視線で追う。真夏の陽炎みたいなのに、その輪郭はしっかりとそこにあった。

 

 

 


「なぁ、やまちゃん見んかった?」

 後片付けを済ませて寮に戻るとレッスン着に着替えたヴァンが駆け寄ってくる。

「ちょっと前まで庭にいたよ」
「え、そうなん?」
「うん。兄さんに頼まれたみたいで帽子渡しに来てくれて、それから十分くらいかな。立葵の花を見てて、喋って……。探してるの?」
「そうやねん。逃げよったなぁ、あいつ」

 わざとらしく舌打ちする。それから、一緒にレッスンする約束を取り付けていたのに逃げられたのだと教えてくれた。

「えーちゃんらと比べるとワイら遅れとるやろ? 入ったんも遅かったし。せやからダンスレッスンしよって話しててん。あぁもちろん、えーじちゃんも誘うつもりやったで」
「そうだったんだ」

 なんだ、と心の中でつまらなく思ってしまったことに、自分自身が一番驚いた。
 ヴァンから逃げるために、庭で俺と話をしたんだ。名前も知らない俺なんかに話しかけてくるなんておかしかったんだ。なのにどうして事務所に入ったかなんて訊いてしまって、迷惑がられたかもしれない。ミニトマトの話だって、本気にしたのは俺だけかもしれない――と。

「えーじちゃん?」

 純粋な心配の色を孕んだヴァンの瞳に覗き込まれ、はっとする。どうしてこんな見当違いな気持ちになってしまっていたんだろう。

「あ……ごめんね。大和、探そっか」
「出かけてないとええけどな」

 ヴァンの言葉にそれ以上の意味はきっとなかった。けれど、「うん」と返事をした瑛二は、見つからなかったらいいのにと思っていた。ついさっき庭で隣に並んでいたはずの大和とは全く違う人みたく感じてしまいそうで、怖くて。

 

 


 瑛二が大和と二人きりで話をした。ただそれだけのことがなぜか兄の耳に届いていて、その夜、感心したように切り出されて驚いた。

「兄さん、どうして知ってるの?」
「ヴァンから聞いたんだ」

 それしかないはずだった。あれから結局大和は見つからなくて、夕飯を終えたあとに何もなかったような顔をして帰ってきたのだから。

「大和は俺ともあまり話をしないから驚いたぞ」
「話したっていうか……立葵を見てるだけって感じだったよ。食べれるのかって聞かれた」
「大和が俺達の誰かと同じ空間に留まっただけでも驚きだ」
「オーバーだよ」
「いや、そんなことはない」

 兄はぴしゃりと言い放つ。そこに嫌味のような響きは全くなく、むしろ大和の奔放さを歓迎しているようだった。
 確かに、食事以外で大和と顔を合わせることは滅多にない。あってもたまたますれ違うとか、共有のシャワールームで一緒になるとかそれくらいなものだった。

「……何はともあれ、仲が良いに越したことはない。俺は瑛二も大和も、もちろんヴァンも、正式にメンバーとして昇格してほしいと思っているからな」
「うん。頑張るよ」
「あぁ」

 仲が良いという言葉は不釣り合いな感じがして引っかかるけれど、今ここで暮らす六人でデビューしたい気持ちは瑛二にもある。もうすでに芸能活動を始めている兄と綺羅とナギ、まだ候補生であるヴァンと大和、そして瑛二。全員が仲が良いに越したことはない。それは間違いない。

「おやすみ、瑛二」

 そっと頭を撫でられると猫になったみたいにくすぐったかった。もっと触ってほしい気持ちに反して兄は視線を扉の方にやる。夜更かしには厳しい。いつまでも子ども扱いだ。歯向かうつもりもなく兄の部屋を出る。と、ちょうど隣の部屋に入ろうとしていた大和と目が合った。

「あ……」
「おう、おやすみ」
「あ、うん、おやすみなさい」

 扉が閉まる。大和の部屋が兄の隣だったこともたった今初めて知った。ばったり遭遇して挨拶を交わしたことに得した気分になりかけて、いけない、と頭を振るう。朝のことだって向こうはちょっとした暇つぶしで、今だってたまたま出くわしただけなのだ。仲良くなんてなってない。少しでも心を開いてくれたような「気がした」だけで、勘違いに過ぎないのだと。

 

 

 

 しかし、翌朝も大和は庭にやってきた。寝ぐせのついた重たい前髪の下でゆるく開いた瞳はまっすぐ瑛二を射抜き、トマトは? なんて能天気な顔で訊いてくる。

「……ほんとに育てる気だったんだ」
「昨日話しただろ。やる気もねえのに言ってたのかよ」
「そうじゃないけど……そ、それに、種か苗がないと育てられないよ」
「道具がたりねえってことか?」

 うん、と短く肯定する。大和は昨日と同じ場所にしゃがみこみ、まだ乾いた土を不思議そうにじっと見ていた。
 ただ調子を合わせて話してくれただけかと思っていたのに、どうやらミニトマトを栽培する話は本気らしい。食欲が面倒くささに勝ったのか、それともそのうち育てるのは瑛二に任せきりにするつもりなのか――なんて、こんな風に考えるのは良くない。誰かを疑うなんて、何よりしてはいけないことだ。

「大和は、花、好きなの?」
「いや、好きとかかんがえたこともねえ」
「じゃあどうして……」

 考えていたことがそのまま口から飛び出した。

「――あ、ううん、何でもない」
「なんだよ」
「なんでもないって」
「なんか言いかけてただろ。言えよ」
「……うん」

 下から凄まれているとどうにも恐ろしい感じがして、隣に座って目線を合わせる。オレンジ色の飴玉みたいな瞳が怒りを含んでいないことは深く見つめてみればすぐに分かった。

「大和は、どうして昨日も今日もここに来たの?」
「……んだよ、怒ってんのか?」
「怒ってないよ」
「じゃあ迷惑してんのか? ……なら、もうこねえよ」
「違うってば!」

 立ち上がりかけた大和の腕をぐっと掴む。

「俺はただ……花が好きでこうして毎朝手入れしてるから、じゃあ大和はどうしてなんだろうって思っただけだよ。怒ってないし、困ってもない。大和が来て、話せて、嬉しいって思った。本当だよ」
「……そっちこそなんでだよ」
「え?」
「なんでおれが来て、うれしいとか思うんだよ」
「それは…………なんでだろう」

 曖昧な返事に大和が口元をゆがめて笑った。嬉しがる理由なんてない、とでも言いたそうに。でも嬉しいと思う気持ちがあったのは事実で。だからこそ言葉に詰まった。
 大して会話も交わしていない。それに瑛二は大和のことを何も知らない。まるで人間同士じゃないみたいに――と考えて、思い当たった。

「……あ」

 そうだ。掴んでいた腕を解いて見上げると、腰を浮かせかけていた大和は怪訝そうな顔して首を傾げていた。

「野生の犬や猫がちょっと懐いてくれた、みたいな感じ」
「ばかにしてんのか?」
「してないよ」
「おれら人間語でしゃべってんだろ」
「そうだけど、それは例えだから」

 それに実際、野生の動物との触れ合いなんて経験したことがない。捨てられた子犬や子猫を見かけても、責任が持てるようになるまでは飼ったり、情が移るようなことはしてはいけないと兄に言われてきたから。子供心に、はじめは無関心だったはずのもの同士が心を許し、懐くという様に小さな憧れがあったのかもしれない。瑛二の周りの人たちはいつも優しくて、けれど、兄以外の人の親切は打算とか大人の処世術のようなものだと子どもながらに分かっていたから、なおさら。
 立葵の葉に目をやりながら「まぁそうかもな」と大和が頷いた。

「野生の動物とかって、なんかしらねえけどたまに人間んとこ寄ってくるときあるんだよな。山からおりてきたり人んちの明かりに近づいてきたりすんだよ」
「よく知ってるね」
「ガキのころから家の裏の山よくのぼっててよ、たぬきとかふつうにいんだよ」
「そうなんだ。たぬきって近くで見るとどんな感じ? かわいい?」
「かわいくねえ。けものくせえし、キバとかこえーし」

 絵本で見たたぬきとは全然違うんだ、と母にめくってもらって見たイラストを思い出した瞬間、猛然と恥ずかしさがこみ上げた。自分の世界はこんなにも幼稚で、今目の前にいる大和の見ている世界がもっと広いのだと気付かされたようで。へえ、と気の抜けた返事をして俯くと、大和が続けた。

「あいつら、なんでわざわざ人間に近づくんだろうな」

 殺されるかもしんねえのに、と呟く声に残酷な響きはなかった。分からないと素直に答えれば何も知らない子どもだと思われそうで言葉が見つからない。大和はすっと立ち上がり、瑛二の真上に大きな影をつくった。

「もうこねえほうがいいのか?」

 ぶんぶん首を横に振る。「来て」と言えばわがままのようで嫌だったし、「大和が来たいなら」と答えるのは偉そうな感じがして違うとも思った。だから太陽を背にした大和を見上げ「来てほしい」と言うのが精一杯だった。縋るような懇願にも聴こえる言葉が、今はやっとだった。
 大和はふいと視線をそらしたあとでもう一度だけしゃがみこみ、麦わら帽子の上から瑛二の頭を撫でる。

「わかった」

 と、ひそかな約束を残し、大和が去ったところから射すように注ぎ込む太陽の光が、眩しくて仕方がない。

 

 

 


 答えを間違えたかもしれない。もっと、大和に委ねるような言葉を選ぶべきだったのかも。結局大和がやってくる理由ははっきりしなかったし、例えに使われた、たぬきが人間のところまで下りてくる理由も分からなかった。
 でもとりあえず、ミニトマトは作れるようにしておいた方がいいんだろうか。この季節に種を植えるところから始めるのは難しいから苗を――と、兄の伝手で出入りさせてもらうようになった園芸店をいくつか脳内でリストアップしていく。スマホのアドレス帳を開きながら麦わら帽子を外して日陰に入ったタイミングで、寮の裏口に向かってバイクが走っていくのが見えた。
 そのときひどく感じたのは、「またレッスンすっぽかして怒られるんじゃ……」という心配ではなく、自分の足でどこへでも行ける大和への気後れと羨望だった。兄のように地に足の着いた大人へはただまっすぐな尊敬があって、あんな風に俺もなるんだと焦がれる気持ちは屈折していないはずなのに。大和を見ているとどうしても、自分がこれから進む道は少しも大和が走っている道と交わらないような気がして、そしてその道がとても拓けた場所のように思えて怖い。

「またサボりよったなあいつ!」

 二階の自室から顔を出したヴァンが大和のバイクの軌道を視線で追いかけ、それから真下の瑛二に気が付く。

「あ! えーじちゃん! ちゃんと大和にアカンって注意してや!」

 今日も二人でレッスンやな、と呆れ果てた顔のヴァンに、「ごめん」と反省している顔を作って詫びることしかできなかった。


 +


「今日のレッスンはどうだった?」

 瑛二が淹れたハーブティーに口を付けながら長い脚を組み替える。兄と話をするとき、特にこうして兄の部屋で一対一で向き合うとき、互いに目と目を見て話すのが常なのに、今日は少し後ろめたい気がして視線をそらしてしまった。心のどこかで引っかかっているのだ。大和がレッスンに来ていないと報告していないこと(これは多分ヴァンから伝わっている)、そして、寮を出る大和を今朝呼び止めなかったこと。
 ローテーブルを挟んだ向こう側から兄の手が伸びてきて、瑛二の頭を撫でる。こんなに優しくされていいはずがないのに、手のひらの心地はまどろんでしまいそうなほど優しかった。

「大和がなかなか参加しないそうだな」
「……うん」
「俺としてはもう少し様子を見たいところだが……瑛二はどう思う?」
「俺?」

 意見を聞かれるとは思っていなかった。

「俺は……」
「焦らなくていい。ゆっくりで」

 兄はすぐに瑛二の心のうちを見透かしてしまう。たっぷり猶予を与えるために机まで資料を取りに行って、またゆったりと向かいに腰を下ろした。

「大和はやりたいことがあって、事務所に入ったんだよね。みんなと同じように」
「あぁ」

 瑛二が使った「みんな」の言葉に瑛二が含まれていないことも兄は悟っただろうか。カップの中で透き通る茶色の水面を見つめて続ける。

「やりたいことがあるなら、自分から参加してくれると思う。今は何か……それが何かはわからないけど、でも、何か大和にも理由があって、だから来ないんだと思うから……俺も待ちたい」
「……そうだな」
「兄さんは、どうして大和が事務所に入ったのか知ってるんだよね」
「どうした、急に」

 兄は存外楽しそうだった。

「最近の瑛二は大和に興味津々だな」
「そんなことないよ」
「そうか? あぁ……大和が入った理由だったな。俺が引き入れたも同然だから知ってはいるが……」

 聞きたいのか、と兄の問いかけに被せるように「ううん」とかぶりをふった。なんとなく良くないと思った。大和は訊いたのに教えてくれなかった。それを、例え兄であっても第三者から聞くなんて、卑しいような気がしたのだ。
 三回、小さなノックの音がして綺羅とナギが顔を覗かせる。

「ごめん兄さん。八時からミーティングだって言ってたもんね」

 まだ中身の残っているティーカップをトレイに乗せてそうっと持ち上げる。綺羅は定位置らしいところに着席して資料を広げ、ナギが部屋の扉を開けてくれた。

「瑛一と瑛二ってほんっと仲いいよね~」
「当然だ。瑛二は自慢の弟だからな」

 誇らしげに笑う兄の顔が、振り返らなくても想像できた。何気ない言葉なのに、兄が自分のことを語ってくれるだけで内側から身体が熱くなる。不思議そうに見上げてくる淡いミントグリーンのパジャマ姿のナギに「ありがとう」と軽く礼をして部屋を出た。
 逃げるようにそそくさと階段を下りる。波を立てたカップの中身が跳ねてトレイにこぼれても気にならなかった。
 キッチンの流しトレイを置くと力が抜けてしまいへなへなとしゃがみこむ。呼吸も脈拍も乱れていないのに深く息を吸ってそれから吐き出して、伏せたまま頭を抱え込んだ。

 ――自慢、とか。

 そういう賛辞を簡単に使わないでほしい。褒められて素直に喜んでしまう自分の浅ましさに気付いてしまうことも、過剰に反応して周囲に動揺を気取られてしまうことも恥ずかしい。それにまだ、兄に誇りに思ってもらえるようなことなんて何もない。自分は物心ついた時から「レイジング鳳の息子」で「鳳瑛一の弟」だった。だから父に手ぐすねを引かれたまま、兄が歩く道をそっくりそのまま辿っているだけに過ぎないのだ。自分の意思を持ってここに集ったメンバーたちが、時々強烈に輝いて見えて苦しくなる。
 どうして俺はここにいるんだろう?
 自問する。答えは返ってこなかった。
 ただ一つ分かるのは、ここじゃないどこかへ行きたいと願ったことは一度もない、それだけだった。


 +


 翌朝、細かなスマホの通知に起こされた。連続で数回続くものだから、電話だ、と思い左手で端末を掴むと四件のLINE通知だった。
 まず写真が二枚。しゅっと画面を上にスライドさせ、暗証番号を打ち込むとそれは植物の写真だった。続いて『ミニトマトの件』とある。先日苗がほしいと依頼した園芸店からだった。今日の夕方頃はどうか、と受け渡しに関するお伺いが続く。寝転んだままメッセージを入力する。ありがとうございます――それから、今日の予定を寝ぼけた頭で思い起こした。困った、少し厳しいかもしれない。
 入力しかけた返信を送らずスマホをベッドに残し服を着替える。二十時からの六人でのレッスンに間に合うように苗を受け取る経路を考えながら、長袖の白いシャツを羽織った。袖をまくって庭に出る。目覚まし時計が鳴る前に起きたから、いつもより三十分早いルーティンの開始だ。
 何も植わっていない部分の土を肥やしていく。本当は何か新しい花を植えようと思っていた花壇の小さな区画を、ミニトマトのために空けていた。やっぱり早く植えたい、と思う。苗からとはいえ、育てるのが難しい季節に差し掛かっている。
 土の湿度を触って確かめていると、真上にぬっと影ができた。視線を上げる。と、大和が立っていた。

「今日ははえーな。……ん?」
「おはよう。どうかした?」
「や、なんか今日、いつもとちがわねぇか」

 隣に腰を下ろす。スニーカーの先から頭のてっぺんまでをじっと舐めるように見つめられ、あぁ、と息を吐いた。

「制服だから?」
「それだ。瑛二、学校行ってたのか」
「うん」
「中学じゃねえよな?」
「高校だよ。一年生」
「じゃあこれからアイドルやりながら高校通うのか? 大変だな」
「うん。そういうコースがある学校だから、入学したばっかりなのにあんまり来てない子もけっこういるんだ」

 思えば芸能コースがある高校を勧めてくれたのも兄だった。同時に、アイドルに専念したいのなら高校に行かなくてもいいと選択肢を増やしてもくれた。瑛二は高校に行かないということは考えていなくて――けれどそれは、普通の十五歳はみんな高校に通うものだと思ったからだ。何が学びたいだとか学校でやりたいことだとか、そういう目標は何一つ抱かず。義務教育を共にしていた友人たちの中にも、最終学歴が中卒と考えていた者は一人もいなかったから、それだけ。
 大和は空いた区画をぼんやりと見やり、能天気な様子で「まあデビューもしてねえのに中卒ってわけにはいかねぇよな」と言った。高校で何がしたいんだとか、大和は訊いてこない。その気軽さが心地よくて、けれど甘えていてはいけないような気もした。

「あぁそうだ、トマトの話なんだけどね」

 会話が途切れたタイミングで話題を変える。

「苗を譲ってもらえることになったんだけど、取りに行く時間がないんだ。もう少し待っててくれる?」
「ならおれが取りにいけばいいんじゃねえか?」

 学校とかも行ってねえし、と申し出る。
 普通の園芸店なら即答でお願いしていたところだが、昔から事務所ぐるみでお世話になっている店だと兄に紹介されて知り合いになった手前、返事に詰まった。俺が自ら出向いて挨拶して……と段階を踏まなければならない、と思う。

「んな遠いとこなのか?」

 電車を降りてバスに乗って……と説明する。

「今日の夕方ならって話なんだけど、六限まであるから行けそうにないんだ」
「じゃあ乗せてってやろうか?」
「え? あ、バイク?」
「あぁ。バイク乗ってけばすぐつくだろ」
「でも……いいの?」
「おまえが行かなきゃだめなとこなんだろ」
「……うん、ありがとう」

 授業が終わる時間と学校の場所を伝え、庭で別れると朝食の際にも会話らしい会話は交わさなかった。仕事に向かう瑛一、綺羅、ナギと一緒に寮を出る。三人が事務所の車に乗り込むのを見届けて、駅へ向かった。兄やヴァンにも大和と苗を取りに行くことは話していない。授業はきちんと最後まで受けるし、レッスンにも間に合うように帰るから特段伝えておく必要はないと思ったのだ。
 校門をくぐるころにはすっかり気温が上がってきていて、半袖のシャツを選ばなかったことを後悔した。くるくると袖をまくりながら、そういえば大和はタンクトップのトレーニングウェアだったな、なんて思い出す。

 

 


 午前の授業を終えて昼食を摂り、うとうとして落ちていくいくつかの頭を眺めたりノートを取ったりしている間に終わりが近付いてくる。
六限目は視聴覚室での授業だったから、教室に戻って片付けをして……と考えると、大和を少し待たせてしまいそうだった。連絡を入れようとポケットのスマホを探る。けれど、遮光カーテンを閉め切って暗くした部屋だと目立つし、授業中の使用は禁止されているので大人しく従った。目敏い隣の席のクラスメイトが小さく声をかけてくる。

「鳳くん、今日デートなの?」
「えっ?」
「スマホ気にしてたから」
「普段はそんなことないのにね」

 後ろの席の女子も興味本位で加勢してきて、うろたえた。

「違うよ。事務所の人と買い物に行くだけ」
「それって女の子?」
「男の人」
「なぁんだ」
「鳳くんって彼女いないの?」
「い、いないよ……!」

 小声で否定すると、彼女らは「えーっ」と声を揃える。からかわれているというより、何で? と純粋に疑問を抱かれているようだった。

「もったいない、鳳くんかっこいいじゃん」
「私の友達とか紹介しよっか?」
「今はあんまり興味ないから……」
「うそー」
「またお願いするかもしれないから、その時はよろしくね」

 やんわりお断りすると、つまらなさそうに、けれどすっと引き下がってくれてほっとした。
 いいのかな、とちょっと思う。彼女たちもどこかのモデル事務所に所属する芸能人のはずなんだけど。
恋愛禁止と口を酸っぱくして言われているのは瑛二と同じ「アイドル」だけのようで、教室では彼氏がどうだの今日はデートだのという会話が飛び交っているから驚きだ。思春期の共学らしく、クラス内でも何組かカップルがいるとかいないとか。
 教室の前方に一台だけある時計の長針が数字の六のあたりを指す。チャイムが鳴る。それから三分ほど遅れて、授業が終わった。

 

 

 

 下校の時間を迎えると、校門の前にはずらりと車が連なって異様な光景に変わる。初めて見たときはドラマの中で見たことあるやつだ、と思った。お金持ちが通う学校ってこんな感じ。少し違うのは、いくつも停まっている車はお抱え運転手つきの高級車ではなく、マネージャーやスタッフが運転するごく普通の乗用車やタクシーばかりであることくらいだ。
 内履きから革靴に履き替えると、大和からLINEが届く。学校の前にバイクを停める場所がない、と。返信を打つ前に、ここにいる、とマップが送られてきた。歩けばすぐの大通りに面したラーメン屋の駐車場だった。

「なんだあれ、毎日あんなすげえのかよ」

 どうやらお迎えの行列のことを言っているらしい。開店時間を三十分後に控えた店前には、最奥に一台車が停まっているだけで(多分店主のものだろう)バイクと大和の姿がひどく目立つ。

「だめだよ。食べに来たんじゃないのにバイク停めちゃ」

 迎えに来てくれたことも送ってくれることも助かっているのは事実だけど、それとこれとは話が別だ。

「ここが一番入りやすかったんだよ。学校からも近いだろ」
「そうだけど……」
「また今度食いにくる。な、いいだろ」
「次からやっちゃだめだよ」
「おう、わかったわかった。瑛二にもおごってやるよ」
「そうじゃなくて」
「もうやらねーって」

 ヘルメットを被せられ、大和が顎の下でアジャスターを調節する。乗れよと言われて恐る恐るまたがると、これが車道を走るなんて不思議だった。しっかりとした車体なのに、いや、だからこそ遊園地の乗り物みたいな感じがして。大和に手首を掴まれ、腰を抱くように誘導される。

「離すなよ」

 乗ったことがないし今後も縁遠いと思っていた乗り物だから、どういう仕組みで動いているかはよく分からない。大和が手首をひねって、すると機嫌よく走り出す。大和が着ているシャツが風で軽く膨らんだ。
 バイクのスピードや、得体の知れないものが見知った道を走っている違和感にはすぐ慣れた。自分が運転しているわけではないので気楽なものだ。しかし今度は、両腕を回してしがみついている大和の身体が気になって仕方がない。
 男ばかりの寮内をいつも薄着で歩き回っているから、密に実った筋肉の存在は知っていた。でも改めて触れてみると身体の厚みや予想外に柔らかな感触に驚いてしまう。それと、風に吹かれても分かるくらいに高い体温にも。
 男の人、とクラスメイトに答えたことを思い出す。
 大和と瑛二とは彼女らが期待したような関係ではなくて、そもそも男と女でもなくて。それは間違いないけれど、なぜか今、大和が自分と同じ男であるということを、強く強く意識してしまっていた。

 

 


 電車とバスを乗り継いで行くよりずっと早く目的地に到着した。事務所と懇意にしてくれている店主に大和を紹介して、苗を引き取ってヘルメットを被り直す。

「バイクで来ると本当に近いんだね」

 ビニール袋に入った苗を安定させながらひとりごとのように言った。ふと視線を上げると、空の低いところで茜色と群青が混ざり合っている。制服のポケットからスマホを取り出し確認すると、レッスンにギリギリ間に合うくらいの時間だった。

「瑛二もそのうち免許とればいいじゃねぇか」
「俺も……」

 考えたこともなかった。そうか、当たり前だけど、誰だって大人になるんだから自分ですればいいんだ。なんだかもっと先に考えるべきことのように思えて、現実味を感じられなかった。

「俺にも乗れるかな」
「だれでも乗れるっての。あぁでも、リーダーがすげえ心配しそうだな」
「そうだね、寮の中でしか乗せてくれなかったりして」
「ひでえな」
「でもそしたら、行きたいところへは大和が連れてってくれる?」

 空の色が溶け合い橙は薄くなる。大和は不自然に一呼吸おいてから、軽い口調で言った。

「女みたいなこと言うな、瑛二」

 男らしくないという呆れや、逆にそんなことを言う「女」への非難がそこに含まれていないことはすぐに分かった。ただただ単純に、大和は本当に女の子にそんなことを言われてきたからだと。
 大人なんだ。
 この人は、と横目で大和を覗き見る。
 バイクに乗れる。彼女がいたことがある。今もいるのかもしれない。どこかへ連れて行ってとせがむ女の子が。
 右手に持ったビニール袋がかさりと音をたてて、拳を強く握っていたことに気付く。それがどんな感情かよく分からない。空の茜色がすっかり闇に飲み込まれるのを見届けたあとで、大和がバイクの方へ振り返る。そろそろ帰らないと、と瑛二も踵を返すのと同時に、大和の腹の虫が大きく鳴いた。

「わ……」
「腹へったな」

 さっきのラーメン屋でも行くか、と大和が言う。

「もう時間ギリギリだよ」

 どこまでが本気でどこまで冗談なのか分からない。そんなこと冗談でも言うなとぴしゃりと叱れる性格だったら良かったのかもしれない。

「二十分おくれるくらいだろ」
「一分でもだめ」
「じゃあ瑛二だけ先におろしてやるから」
「大和は、」

 ぶら下げたビニール袋を叩きつけたいような、そんな衝動に駆られた自分にいちばん驚いた。

「やりたいことがあって事務所に入ったんだよね。そうじゃなかったら、オーディションでもない時に来たりしないでしょ? 何かしたくて入ったんなら、抜け出したり、遅刻したりしたらだめだよ」

 羨望が喉までこみ上げてきて苦い。どうして。問いかける。答えはもう分かってる。
 自分の力で事務所に入れてしまうほどの「理由」と、行動に移せるだけの情熱があって。なのにそれをもてあそんで平気でいられる大和が理解できない。
 俺だって。
 俺だって本当は、誰かの背中を追いかけるだけじゃだめだって知っているのに。

「…………うるせえな」

 手首を掴まれ、とっさに危機感を覚え振り解く。大和はままならないといった表情で「そうじゃねえよ」と言った。

「帰るんだろ。乗れって」
「……大和も一緒に?」
「瑛二がそう言ったんじゃねえか」
「そんなに素直に聞くと思わなかったから」
「なあ、瑛二ってやっぱりおれのことそのへんの犬かなんかだと思ってんだろ」
「思ってない」
「おい、手」

 前にまたがった大和がぐっと手を引っ張る。瑛二はこんなにも気まずい空気を意識しているのにお構いなしだ。背中に額を軽く当て目を閉じると、小さく「わるかった」と呟く声が聴こえた。

「何で俺に謝るの?」

 広い背中に向かって問う。発車したばかりのバイクのエンジン音にかき消されて聴こえるはずがなかった。
 信号で停まる度に、しっかりしがみついているのか確認するように大和は瑛二の手に触れた。会話はない。風の音、人の話し声、ビニール袋の揺れる音。あふれる音が満たしてくれるから、硬い指の感触と少し汗ばんだ背中の温度以外は何もなくていい。ない方がいい。
 ふと顔を上げると、信号や車のライトが視界に広がり眩しかった。大和はその光景を睨むように見つめている。
 素肌に風を感じて、思う。大和は俺と全然違うものを見て生きてきたんだ。
 大和の隣で耳に聴く言葉や触れる景色はいつも新鮮で、初めて呼吸することを覚えたみたいにひとつひとつに知らない色が付く。一枚のガラスも通さず見えるこの街明かりにも。
 寮に戻るとレッスン開始には十分程度の猶予しかなかった。蛍光灯が切れかかって点滅している駐車場で、仕事帰りの兄と鉢合わせる。

「どうしたんだ、瑛二」
「あ、兄さん。苗をもらいに行ってたんだ。間に合わなさそうだって言ったら大和が乗せてくれて」

 袋を掲げて店名を見せると、すぐに納得した様子で頷いた。

「レッスンは?」

 と、今度は大和に投げかける。短く「出る」と返答した大和に、兄は眼鏡の奥の瞳に優しげな微笑を湛えた。兄さんが喜んでる。そう思うと瑛二も嬉しかった。兄の不安が少しでも晴れたことが。六人でレッスンできることも。
一旦事務所に向かう兄と別れると、大和が瑛二のこめかみくらいの高さまで唇を寄せてきた。

「なあ」

 二十センチほど身長差がある二人には時々会話に隔たりが生まれてしまう。だから普段は瑛二がぐっと大和を見上げるのだけれど、今はその必要がなかった。

「瑛二、歌詞の漢字、ぜんぶよめるか?」
「え? 読める、けど?」

 確かに普段は使わない言葉がいくつかあったかもしれない。短い沈黙が生じ、困惑した。何、この間。大和は何も言わない。顔を近付けたままだからどんな表情なのか見ることもできない。俺が何か言うべきなのかと考えて、思い至る。

「……大和は読めないの?」
「よめねえ」
「教えてほしいの?」

 かくり、と音がつきそうなモーションで頷く。教えてくれ、と言えないところが大和らしい。教えてやるよ、なら簡単に言いそうなのに。
 頭を定位置に戻しながら「ありがとな」と呟いた。聴こえるか聴こえないかくらいの声で。大人の男の人にかわいいなんて感想を抱いてしまったことに、もう驚きはなかった。

 

 

 


 ポットに入った苗を庭の決まった区域に植え替えるのは造作もない作業で、五分足らずで終了した。ライトを設置していないガーデニングスペースでは手元がよく見えない。大和がスマホで照らしてくれる明かりの真下で、ネームプレートに『大和』と書き込みミニトマトの苗の隣に立てておく。

「楽しみだね」
「これからでっかくなるんだよな」
「うん、ちゃんと育てたら大きくなってくれるよ」

 いくつかスペースを空けて隣に高々と伸びた立葵のつるを見上げる。

「この花――立葵っていうんだけど、これもね、最初はこんなに小さかったんだ」

 両手を小さく広げてサイズを示すと、スマホのライトでネームプレートを煌々と照らしたまま「へえ」と大和が興味深そうに返す。

「立葵の花言葉は、『野心』とか、大きく望むって書いて『大望』っていうんだけど、こうやって高くまっすぐ成長していく花だから、そう付けられたんだって」
「その、花言葉って、ぜんぶの花にあんのか?」
「うん、多分」
「いろんなこと考えるやつがいんだな」

 ネームプレートの角を人差し指の腹で撫でる。手持ち無沙汰だけど、ミニトマトの葉や茎には触ってはいけないと思ったのだろう。確かに、力加減もまだ分からない大和が触れば、瑛二は咄嗟に注意してしまうに違いなかった。
 ミニトマトの花言葉も調べて、教えてあげようと思った。まず大和はトマトに花が咲くことを知らないかもしれない。つぼみがふくらんだ時の驚いた顔を想像したら、その時まで花言葉は伝えなくてもいいかもしれない、とも思えた。


 +


 漂う…ただよう
 褒美…ほうび
 強引…ごういん

 シャープペンシルを譜面から離し、一呼吸置く。水を止める音がしてヴァンが近付いてくる。当番の皿洗いを終えたようだ。

「ふりがな振ってるん?」
「うん」
「……あ、もしかして」
「そう、大和の楽譜」

 うわあ、とうなだれて見せる。ヴァンの手から台拭きを奪うように取り上げてテーブルを拭いた。ため息交じりにヴァンは皿を拭き始める。

「えーじちゃんは偉いなあ……」
「そんなことないよ」
「自分でさせたらええのに」
「大和、草かんむりとかさんずいも知らないみたいだから、調べるのにすごい時間かかっちゃうんだ。それに、洗濯当番代わってくれてるし」

 と、大きなガラス窓から外を見やる。初夏の青々とした空の下、白いシーツが人数分はためくのを大和がなんとか伸ばしている。なるほどな、とヴァンが笑った。
 見計らったように大和が当番を終え、洗濯カゴを片手に戻ってくる。裏口の引き戸がからから音を立てた。漢字にふりがなを振る作業もちょうど終わったところだ。

「おかえり、お疲れ様」
「おー、シーツってすげえ大変だな」
「六人分もあるとね」
「当番のやつ毎日あれやってんのか」
「毎日は洗わないよ。大和が代わってくれるっていうから、ちょうどいいやと思って」
「ちょうどよくねえよ」

 拗ねるような顔をして大和が隣に腰掛ける。ふりがなを振る代わりに洗濯当番を申し出たのは大和だけれど、こんなオプションまでついてくるとは思わなかったのだろう。少し意地悪をしてしまった気持ちになって、「それじゃあ」と譜面にシャープペンシルを再び走らせる。『maestoso』の文字を丸で囲んだ。

「シーツのお礼にこれ、音楽記号っていうんだけど、この意味も書くよ。それでいい?」
「……べつに、怒ったわけじゃねえぞ」
「わかってる」

 荘厳に、と書きつけて、あ、と気付いて消しゴムをかける。ひらがなで書き直し、それから、この意味は分かるだろうかと思い悩む。その一連の流れを見ていたヴァンが、麦茶を大和に差し出しながら可笑しそうに声をたてて笑った。からりと氷が鳴る。

「やまちゃん、飼い慣らされとぉな」
「犬みてーに言うな」
「ワイにも可愛いワンちゃんみたいに見えてきたわ」
「忠犬大和だね」
「そんなええもんちゃうわ」
「おまえらうるせーぞ」
「おー怒りよった。こわぁ」

 おどけた足取りでヴァンが出ていくと、部屋は嵐が過ぎ去ったように静まり返る。シャープペンシルが文字を記す音と、ただ息を吸って、吐いているだけの音がやけに耳に響いた。大和は椅子をもっと深く引いて、テーブルに顔を伏せる。片方の頬を大理石の卓につけて、「ひやい」と笑った。
 大人の男の人も、こんな子どもみたいなことをするんだ。こんな緩み切った顔で笑ったりするんだ。快楽に落ちかけた甘ったるい声を出したりするんだ――大和でも。
 じっと顔を見上げられていることに気付くと途端に居心地が悪くなる。顔が赤らんでいくのをどうやったら止められるのだろう。オーディションで品定めをされるような、本質を探るような疑いの視線ではない。言ってしまえばそう、もう自分のことを深く理解してくれている人に何の意味もなく見つめられているだけ。兄さんみたい、とふと落ちてきた既視感はすぐに打ち消した。
 しばらく手元に集中することにして楽譜をめくる。期待したほど記号は羅列しておらず、このままだとすぐに終わってしまいそうだ。右手を動かすスピードを落とした。何か喋ってくれたら良いのに、大和は冷たいテーブルの温度に浸っているのか口を開かない。せめて反対側の頬をつけて、逆を向いていてくれたらもっと集中できるのだけれど、と恨み節を心中で垂れ流していた頃、糸で結ばれていたような視線を突然感じなくなった。そうっと首を傾けると、腕を枕にして眠っている。
 子どもみたい。あぁでも、やっぱりヴァンの言う通り、犬の方が近いかもしれない。本能のままに眠り、腹減ったと呟いたと思えば不要な間食をして咎められ、体力が余れば部屋のどこでも好きにトレーニングを始めて。サボらずレッスンに参加するようになったのも、気の向くままに行動しているだけなのだろうか。俺にはわからないな、と思う。何でもしたい時にしたいことをしていいと言われたらきっと困ってしまう。ある程度規律や予定が決まっている方がいい。思えば子どもの頃からそうだった。ルールはなくても、兄の背中が決まり事だった。

「……終わったよ」

 芯を紙に押し付けながらシャープペンシルをノックする。兄のおさがりをもらった、細身のペンケースにペンと消しゴムをしまい、大和の横顔をじっと見つめてみても起きる気配はない。
 ベルガモットの切り口みたいに瑞々しく目に眩しい金髪が落ちてきて目元を覆う。カーテンを開け放したガラス窓から射しこむ光にむずがり、瞼が細かく震える。とっさに、身体でそっと影を作って遮断した。
 長い睫毛に見惚れてしまう。目を閉じていると、オレンジ色の大きな瞳が隠れてしまうせいか、いつもより年上らしく見えた。普段の大和はもっと見るからに活発そうで、でも時には気だるげな態度を隠そうともしなくて――やっぱり犬みたい、と思うと笑えた。
 音を立てないように椅子を引き、レースのカーテンを閉めて薄手のタオルケットを大和の背中にかける。隣に座り直すと手持ち無沙汰になった。楽譜の角を揃え、ソフトケースに入れていつでも渡せるようにしておく。
大和が呼吸しているのをただじっと見下ろしていると廊下から小さく足音が聴こえた。兄さんだ、とすぐに分かるのはなぜだろう。歩調か、床を踏む音の違いか、それともスラックスの衣擦れの音なのか。入口のあたりに視線をやるとぐっと腕を掴まれ、大和に寄りかかる姿勢にさせられる。タオルケットがふわりと瑛二の肩を包んだ。

「やまと、」

 扉が開く。ほんの少し開いた瞳から覗くぎらぎらしたオレンジ色に肌が震えた。いたずらを思いついた子どものように大和が笑う。そしてまた目をつむる。つられて瑛二も両目を閉じた。二人分の呼吸の音は合わない。
 瑛一ぃ、と高い声がする。ナギだ。唇を閉じたまま、人差し指をあて、しぃ、と息を吐くように言う兄の姿が見えずとも容易に想像できた。兄は小声で続ける。

「寝ているようだ」

 扉が閉まる音は聴こえない。兄とナギ、二人分の気配がまだ色濃くて、理由もない狸寝入りがバレてしまわないか気が気でなかった。例え些細なものだって嘘は得意じゃない。子どもの頃、廊下の角からわっと飛び出して兄を驚かせようとした時もバレバレだった。優しい兄はまだ幼い瑛二に気を遣って、驚いたふりをしてくれたけれど。
 身体の横にだらりと伸びていた方の大和の手が、タオルケットの中で瑛二の背を軽く撫でた。きっと、いたずらの成功を愉しんでいるだけに違いないのに、低い圧で電流を流されたみたいに背がぶるりと震えた。

「わ……」

 声が漏れるのとほぼ同じタイミングで扉が閉まる。目を開けると視線が絡んだ。瞳と瞳の位置が近いことに今さら気が付き、薄いタオルケットから抜け出し「ごめん」と言った。離れたらもっと分かってしまう。自分じゃないひとの体温が心地よかったこと。心音が大きく聴こえていたこと。至近距離で見ると、オレンジの瞳は夕日みたく淡いグラデーションになっていること。誰かと寄り添って感じる、自分以外の肉体、温度、音、色。触れていた肩が熱い。
 ダイニングを飛び出して、部屋に続く階段に差し掛かると「瑛二」と穏やかな声に引き留められた。

「兄さん……」
「目が覚めたのか」
「あ、うん……そう。今から仕事? 気を付けてね。行ってらっしゃい」
「あぁ……」

 矢継ぎ早に言い残すと後ろからナギもひょっこり顔を覗かせ「どうしたの?」と瑛一を見上げる。そんなの俺が知りたい、と思いながら階段を上がった。自室に駆け込んで鍵を閉める。
 誰かだめだと言ってほしい。どうしよう、動悸がおさまらない。兄さんの前でちゃんと立っていられただろうか。笑えていただろうか。自信がない。
 シャツのボタンを上から四つ外し、風を送りながらベッドに転がった。ひどく暑い。「理由」は知らないけれど「原因」は分かっている。
 週に一度程度のその行為が、瑛二は好きではなかった。生理的なものだから仕方がなく。だって皆やっていることだ。
 けれど今はどうしても止められなかった。ふとベッドサイドのデジタル時計に目をやる。朝の十時半。日当たりの良い部屋にはたっぷり陽光が満ちている。
 ベルトを外し、パンツのボタンを外して手を突っ込んだ。出したい。こんな強い衝動に駆られたことはこれまでなかった。どうして? それは、血が繋がった兄弟以外と初めてあんなに近くで見つめ合って、体温を感じて、つまり瑛二が感じたということはそれが相手にも伝わっているわけで――そんな触れ合いのせいだ。子どもっぽくて嫌になる。相手は同性で、大人で、仲間で、そういう意味で「好き」なわけでもなくて。なのに。
 こする。ひたすらに。今も、そしていつだって、機械的にしかしてこなかった行為だ。
 しながら、兄の顔を思い浮かべたことすらない。だってそういうのじゃない。こんな汚いことに使ってはいけないと思っているから。
 今日デートなの? と、苗をもらいに行った日、楽しそうに訊いてきたクラスメイトの言葉を思い出す。あの子たちは、いや、同世代の皆は、きっともっとすごいことをしてる。なのに俺は。自己嫌悪さえ押し寄せてきて、そして、大和と包まったタオルケットの感触やぬくもりが肌に蘇る。いやだ。首を振る。背中を撫でる手の広さを思い出した瞬間、手の中で膨らんだものが弾けた。

「あ……っ」

 思わず声が出る。シーツの剥がれたベッドに縋りつくこともできず、すぐにやってくる虚無と疲労感に身を委ねた。光が眩しい。でも、手で庇を作るのもカーテンを閉めるために立ち上がるのも今は億劫だった。
 目を閉じる。この行為で初めて気持ちいいなんて思ってしまったことを、今は認めたくなかった。


 +


 どうしよう。
 眩しい眩しいと思いながら結局寝こけてしまった。昼食は各々でまかなうことになっていたので事務所の食堂で摂り、仕事が休みの綺羅も合わせて四人でのダンスレッスン中は大和と目が合わせられなかった。大和も異変に気付いているのだろうか。隣り合うフォーメーションで、いつもなら一通り終わる度に声をかけ合うのに、今日はヴァンの声ばかりがスタジオに響く。
 かと思えばレッスン終わり、シャワールームの前で声をかけられ心臓が皮膚のずっと下で少し膨れるのが分かった気がした。

「歌、おしえてくんねえか」

 綺羅に教えてもらった方が、と言いかけて、やめた。正規メンバーである三人には負担をかけるわけにいかなかった。

「俺、教えるのってあんまり得意じゃないと思うけど……」
「瑛二がふりがなふった楽譜は読みやすかったぜ」
「書くのと教えるのは全然違うよ。……でも、大和が俺でいいなら、いいよ」
「いいに決まってんだろ」

 ぐっと顔を近付けられてうろたえた。けれど、意識していると思われたくない一心で、熱のこもった瞳を見つめ返し頷いてみせる。


 +


 翌朝、目覚まし通りに起きて庭に立つといつも通り大和がやってくる。もうすぐ梅雨入りらしく、立葵のつぼみの半分ほどは花を開きかけているところだった。ミニトマトに大きな変化はまだ見られない。昨日撮った写真と比較しながら大和が「まだちいせえな」とひとりごちていた。それに何か応じることはできない。
 バケツに水を汲みながら、トマトのつるを覗き込む大和の背中を見つめる。ゆるいサイズよりも身体にぴったり合った服を着ていることが多いからよく分かる。広い、大人の男の人の背中だ。あの背中に抱きついて、あの背中に寄りかかった。痩せっぽちの、未熟な子どもの自分が――そうか。
 考えて、はたと気付く。
俺は大和から見ても、ずっとずっと子どもなんだ、と。
 変に意識している素振りを見せてはいけない。だって、こんな子どもに変な気を持たれていると知られたら、大和は困るだろうから。
 午後から歌の練習の約束をしていたので「またあとで」と別れる。目を見て手を振った。大和は眠そうに、麦わら帽子の上から頭をぽんぽんと叩いた。ちょうどいい高さ、らしいけれどそれはよく分からない。鮮やかな瞳に幕をするように瞼が少し下りていて、目を閉じた時みたく「大人」の顔だなとふと思った。

 

 


「あった」

 一人きりの部屋の中でつい声に出してしまったのはたぶんちょっとした達成感だった。ほとんど兄から譲り受けた本を収納しておいた箱の中から目当ての二冊を取り出した。楽典の勉強用と花言葉辞典。どちらも子供向けの易しい本だ。ふりがなもしっかりふってある。
 二冊と楽譜をまとめ、ペンケースとスマホを持ってレッスン室へ向かう。防音扉の重たいドアノブを下げ、押し入ると大和が机に突っ伏して眠っていた。
 トムソン椅子に腰を下ろし、その顔を覗き込んでいると、突然声でもかけられたように目を覚ます。

「……瑛二」
「眠そうだね――」

 大和、と続けようとした唇を呆気なく塞がれ、目を見開いた。

「…………え?」
「あ、わるい」

 ねぼけてた、と大和は軽く口にする。軽率さを非難するべきか迷って、しかし、その軽々しさにかえって助けられた気がした。真面目に頭を下げられたって困る。謝るならどうしてしたの、と思ってしまう。それに、抗議して、面倒臭がられるんじゃないかと思うと言葉は出てこなかった。大和は大人なのだ。きっとこんなキス、山ほど経験している。そこまでむきになることでもないかもしれない。例えこれが瑛二にとっては初めてだとしても。
 逡巡の末、「全然大丈夫」と早口で唱えるのがやっとだった。

「瑛二、唇けっこうやわいな」
「へっ⁉」

 すぐに第二波。油断していたところに謎の誉め言葉(?)を浴びせられ、両手で握りしめていた本と楽譜がばらばらと床に散らばった。

「ごめんなさい」
「あやまんなよ」
「う、うん」

 大和のせいだもんね――とは、口が裂けても言えない。二人してかがみ込んで楽譜を拾い集めていると、何やってるんだろうと情けない気持ちになる。低姿勢が辛そうな大和が、「花言葉」と呟いた。

「え?」
「瑛二に言おうと思ってたんだ」

 拾い集めた楽譜を瑛二に手渡し、大和は床に座ったまま子ども向けの花言葉辞典をぺらぺらとめくり始める。だから瑛二も、しゃがみ込んだまま聞いた。

「たんじょうか、って読むのか? 石みてぇに、誕生日ごとに花があんの、瑛二知ってるか?」
「うん。でも、聞いたことあるってくらいかな」
「瑛二の誕生日、十月二十日だろ。誕生花は、リンドウと、ブッドレア」

 左の手のひらに黒いペンで書き付けた花の名前を読み上げる。それがどんな花なのか大和は知らないのだろう。調べてみて初めて聞いた名前なのかもしれない。イントネーションがわずかにおかしかった。
 キスしたことなんて忘れたみたいに、二人して夢中で花言葉辞典のページをめくった。椅子に本を置いて覗き込む。もう一度キスしたければいつでもできる距離。でもどちらからもするはずがないと分かっていたから、妙にほっとした。

「……恋の予感」

 と、大和がブッドレアの花言葉を読み上げる。途端に赤い絵の具でも落とされたように頬が紅潮していくのに気付くと顔を上げたくなかった。文字を読むふりをする。大和もじっと、視線を落としていた。
 しばらくの沈黙の後、適当にページをめくりながら大和が「しらねえ花ばっかだ」と呟いた。

「色がちがうと花言葉もかわったりすんだな」
「うん……そうだね」
「なあ」

 本を閉じ表紙を撫でる。下から覗き込まれ、観念して顔を上げた。

「もしかして、したことなかったのか」
「…………うん」

 キスを。
 補足しなくても、訊き返さなくても何のことかは互いに理解していた。大和は「あー……」と困惑した様子で天を仰ぐ。女の子が相手ならばすぐに謝るのかもしれない。でも瑛二は同じ男で、きっとそこまで繊細に扱われる理由はなくて。ごめん、なんて言われたら恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。この年齢での恋愛経験としては希薄すぎるのかもしれないから。

「なんつーか……あんなのしたうちに入んねえよな」

 そうなんだ――と言葉が喉のあたりまで出かかり、すんでのところでせき止める。そんなことは知らない。一方でゆっくり視線を下ろしてきた大和は、瑛二の言葉を待っていた。それこそ賢い犬のように。今の発言はまずかっただろうか、怒っただろうかと探るというよりは祈るようなものを感じた。
 だから精一杯の笑顔をつくって、そうだよねと言った。

「気にしてないよ。……大和、楽譜は持ってきた?」

 おう、と大和も笑う。良かった、正解だった。
 ピアノで音階を辿っているときも、抑揚の付け方を教えているときも、発声練習のときも、まともに顔が見れなかった。したうちに入んねえ、と大和の声が狭い部屋に反響するように時々耳の中に侵入してくる。じゃあ、『キスする』ってどういうこと? 瑛二にはわかりそうにもない。
 レッスンが終わった後、楽典の教本といっしょに花言葉辞典を大和に貸し出した。一人、部屋や共有スペースのソファで本をめくる姿は想像できなかったけれど、読みたいと大和が言った。子ども向けの本だから、大和の手に収まるとミニチュアみたいに見えて、誰にも気付かれないように、瑛二は小さく笑う。


 +


 今日はなぜか、寝ている人によく遭遇する。
 全員での夕食、それからシャワーを終えて共有スペースを覗くと、珍しく兄がソファに座ったままうたたねしていた。
ベッド以外の場所で眠っている姿を見るのは、海外旅行の機内を除けば初めてだ。そっと眼鏡を外してみても起きる気配がないので身体を覆うようにタオルケットを引っかける。腰を折って目線を低くすると、気になるのは唇だった。
 キスを、兄さんとしても、同じ感じになるんだろうか。
 昼間の自分はどうかしていた。大和と唇が触れ合ったとき、自分ではどうにもできないくらいに動揺した。それなのに、意識していることを悟られたくなかった。茶化すことも拒むことも叱ることもできず、ただあのとき、互いに正気を失えばどうなるんだろうと一瞬だけ考えた。真夏の陽炎みたいな軽いくちづけに浮かれてもいて、寝ぼけてそんなことができる大和との経験値の差が浮き彫りになったみたいで悔しくもあって。
 確かめてみたい。
 兄さんとキスしたら、どんな気持ちになるのか。
 ソファの肘置きに体重をかけてぐっと近付く。目を閉じていても迫力のある、整った美しい造りの顔。ためらいがないのは、血が繋がっている、その安心感なのか。
 かた、と音を立てて眼鏡がフローリングに落ちる。
 その音に、兄の紫の瞳がゆっくりと開いた。

「…………瑛二?」
「わっ、あ、あ……その、おはよう!」
「あぁ……俺は眠ってしまっていたのか」
「そ、そそそうみたい!」
「……どうした?」
「なんでもない!」

 ばっと身体を離して這いずるように床の眼鏡を拾い上げる。キスしようとしてた、なんて言えるわけがない。試しに言ってみたらきっと兄は嫌な顔をしないだろうけれど、どうしてしたいのかと訊かれても上手く答える自信がなかった。

「珍しいね、兄さんがソファで寝てるなんて」

 苦し紛れに話を振ると、兄は決まりが悪そうに苦笑した。

「どうやら少し疲れてしまったようだ」
「仕事、忙しいの?」
「あぁ……。活動を軌道に乗せる下積みのようなものだからな。マネージャーやスタッフ達も尽力してくれている。それを無駄にするわけにはいかない」

 手招かれ、隣に腰を下ろす。とっくに乾いた瑛二の髪を撫でながら「俺も風呂に入らないと」とひとり言のようにこぼした。しかし動く気配はない。ぴったり肩を寄せ合ったままだ。家族ならではのこの距離にひどく安心して、キスしなくて良かった、と心から思った。
 ふと、眼鏡の奥に光る瞳が、じいっと内側を見透かすように瑛二を射抜く。

「瑛二、悩みでもあるのか?」

 糸で操られたみたいに、うん、と小さく頷いた。

「俺――……」

 話し始めた途端に言葉に詰まった。温かい手のひらがぎゅっと手を握っていてくれる。
 考える。俺は、俺自身のこの感情の名前が知りたい。でも兄さんにわかるわけがなくて。だって俺にもわからないのだから。じゃあどう伝えればいい?
 兄は小さな子どもの精一杯の背伸びを愛おしむように目を細め、瑛二の目を見ずに問うた。

「恋でもしているのか?」
「えっ…………」

 恋。
 何にもくるまれていない、通りの良い甘い兄の声で紡がれた単語は、初めて聴いたわけじゃないのにはっとするほど鮮やかに瑛二の心に落ちた。
 恋という言葉を、音にせず口の中で何度も転がしてみてから「わからない」と答えた。
 恋と名前を付けたかったのは、兄に向かうこの気持ちのはずだった。いつでも安心できて、穏やかで、ほんの少しくすぐったい。幸せなばかりの感情。でもこれは、そうじゃないのかもしれない。

「兄さん」
「何だ?」
「俺、まだよくわからないんだけど……兄さんに、恋、してるような気がしてた……あの、現在進行形の話じゃなくて」
「俺に? ……瑛二はどうして、そう思うんだ?」
「兄さんはいつも優しくて……俺にだけじゃないよ、皆にすごく優しくて、一緒にいて、話してると落ち着くなって思うし、かっこいいし、こうやって、俺が悩んでることにも気付いてくれる……だから」
「そうか」

 一呼吸おいて、兄が続ける。

「瑛二こそ、いつも誰にでも優しく親切だ。俺も瑛二といると落ち着いて、気持ちが和むんだ。それは昔から変わらないな。俺の気持ちに敏感でいてくれている瑛二は分かっていると思うが……俺も瑛二のことが好きで、愛しているぞ。……大切な、唯一無二の弟として」

 そっと頬を撫でられる。そのとき初めて気付くことができたのだ。兄に触れられて感じるドキドキした心地さえ、大きな安心に包まれているような感覚に変わっていることに。

「うん……俺も、俺もね……わかったんだ。兄さんのことが、家族として、兄さんとして、大好きなんだ」
「……不思議だな、血が繋がっているというのは」

 器用にタオルケットを畳みながら兄が返す。
 何かを口ずさむように動く薄い唇を見て思う。恋という感情は全く別のところに芽吹いているのだと。

「兄さん」
「あぁ」
「人を好きになるのって、どんな気持ち?」
「……それは、俺が瑛二を愛おしく思うのと違った意味での『好き』ということか」
「そう。俺が兄さんを大切だって思ってる、この気持ちでもなくて……」

 きっと瑛二は生まれたときから最期の日までずっと、兄のことを愛するだろう。どこかで衝突することがあるとしても、家族なのだから。血の繋がりを不思議がる兄の言葉がよく分かる。

「俺は多分、兄さんのことを『好きになった』ことなんてないんだ。生まれた時から好きだったんだもん。だから……何もないところから始まった人を好きになる気持ちって、どんな感じなんだろうって」
「……瑛二はどう思う?」
「え、うーん……ドキドキする、とか……?」
「それもあるだろうな」

 兄は顎に手をあて考える素振りを少しだけ見せる。そして流れるような所作で小首を傾げ、微笑んだ。

「美しいばかりではないだろう」

 なんて、美しい顔面に言われて戸惑う。同時に、身体を浸すような苦味があったことを思い出した。欲望に任せて朝から自慰に耽ったとき。キスしたのを「したうちに入らない」なんて言われたとき。

「相手に同じ気持ちになってほしい、近くにいたい、話していたい、触れたい、触れられたい、思い通りにしたい、手に入れたい……美醜には例えられない渇望だな……。浅ましさ故にいじらしい感情だ」
「……兄さんは、大人だ」

 呟き返すことしかできなかった。
 大きな手のひらで頭に触れられたとき、嬉しかった。そしてもっと触れていてほしいと思った。俺も、と願った。
 キスされたときだってそうだ。あの微睡みみたいな行為に意味がほしかった。寝ぼけてたなんて、したうちに入らないなんて、聞きたくなかった。
 恋を猛烈と自覚した。その瞬間、今隣にいるのが実の兄だということが面映ゆくて顔が赤くなる。

「瑛二」

 硬質な声色に呼ばれ、我に返って居住まいを正す。

「さっき、瑛二は俺について『誰にでも優しい』と言っただろう」
「うん」
「瑛二は誰にでも優しい俺のことが好きか?」
「うん」

 もちろん。即答すると、次の言葉を紡ぎかけていた唇はきゅっと引き結ばれる。ややあって「そうか」と笑った。

「お前に特別だと想われる相手は幸せ者だな」
「……そうかな」
「そうだとも。生まれた頃から瑛二を見てきた俺が言うのだから」
「兄さんは俺に甘いからなー……」
「何を言う。事実だろう」

 組んでいた長い脚をすっと解く。共に部屋を出て、シャワールームの前で別れた。
 広い掃き出し窓が雨を弾く音がやけに耳につく。関東は今日にも梅雨入り――と、気象予報士が言っていたような。雨音であふれる長い廊下を歩きながら「幸せ者」と兄が発した単語を内心で反芻した。
 相手が女の子なら、そして、高校の同級生や先輩みたく狭い世界ですれ違える人ならそうなのかもしれない。でも――大和はそうじゃないだろう。あっちは大人でこっちは子ども、そもそも多分大和の恋愛対象は女の人だ。どんな人が好きなんだろう。好きになった人とはどんなキスをするんだろう。考えたくないのに、雨に急かされるように思い描く。
 ばらばらと雨音は銃声みたく勢いを増し始める。
窓の向こうは建物の造りにそぐわず日本風の庭園になっていて、紫陽花が雨に負けじと咲き乱れていた。ふと目をやると、突然うすぼんやりとした影が浮かび上がってぴたりと足を止める。白く輪郭がぼけたそれが一瞬、子どもの頃に絵本の中で見た幽霊みたく思えたのだ。しかし目を凝らすとそれはくっきりとした人型で、ただ白いワンピースを纏っているだけだとすぐ気付く。ストレートのロングヘアにベージュの傘。ここは男子寮だけれど、すぐ隣が事務所なので庭に女性が歩いていてもおかしくない。石畳が滑りやすいことを教えてあげるべきだろうか。灯りはあるけれど松の木が生い茂っていて足元は不安定なはずだし――迷っていると、彼女はゆっくりと後ろを振り返った。見つめる先に現れたのは、ビニール傘を差した大和だった。

「え…………」

 逢瀬、という言葉がぴったりだった。
 向き合う二人の姿は色とりどりに濡れた紫陽花に縁取られ、ドラマのワンシーンみたいに見える。鼓膜を柔らかく刺激する雨音だけの世界で何を話しているのかは聴こえない。ガラスを伝う滴を拭いたかった。どんな表情を浮かべているのかさえ瑛二には分からない。
 錠を外し窓を開ける。降り付ける雨音がいっそう耳を裂く。大和が彼女に笑いかけた、気がした。ポケットに突っ込んでいた片手を取り出し、そして、その手をどこに伸ばすのか見つめていた瑛二に気が付いた。
 視線が交わる。途中で絡んでしまった糸のように、すぐそらすことができなかった。
 えいじ、と唇が動く。
 大和。呼んでも聴こえない。訊きたいことは言葉にできない。
 遠くの方で、ビニール傘が宙を舞って、石畳に落ちた。大和がずんずん近付いてくる。二人を繋いだ糸がそこでぷつりと切れた。我に返り、反射的に窓を閉めて錠をかける。
 怖かった。気付かなかったら良かったのに。気付かなかったら――大和はあの人とどうしてた?
 逃げるように階段を上がり、部屋に駆け込んで鍵を閉めた。へなへなと腰が崩れて、フローリングに座り込んで膝を抱えると服の前面がしっとり濡れていて冷たい。
 一度、力任せにドアを叩く音と「瑛二」と大和の声が聴こえた。

「なぁおい…………なに鍵かけてんだよ」

 ドアノブを下ろし、ドアを開こうとして阻まれる。
 自分自身に問いたい。俺は一体何がしたいのか。分からないから、大和に答えを返せない。まだ人の気配がする。このまま黙っていれば、大和はいなくなってしまう。傘が落ちたところに戻って、また。それはどうしても耐えられなくて、音が鳴るように鍵を開けた。ため息が漏れる。俺は、姑息な人間だ。

「……なんかあったのか」

 首を横に振る。来てくれて嬉しい、と思った自分の心の醜さが圧し掛かって顔を上げられなかった。ふつふつ沸き立つ独占欲の芽をむしり取る。けれどそれは、一人じゃ追いつけない速さで新しく生まれてくるのだ。

「おまえもぬれてんじゃねえか」

 薄暗い部屋で大和の手がTシャツの裾を引っ張る。触れられた、と思うと、途端に俺も触れてみたいと欲望が目覚める。手首を掴む。と、予想以上に濡れていて驚いた。

「……びしょびしょだ」
「あたりまえだろ」
「ごめんなさい」
「瑛二がわるいとか思ってねえよ」

 タオルくれ、と大和が囁くように言った。立ち上がるとおもむろにTシャツを脱いでしまう。絞ればたっぷり水が出てきそうなそれをまず一枚目のタオルの上に置いて、二枚目で身体を拭いて、三枚目は首から下げた。くっきりと割れた腹筋から不自然に目を背ける瑛二の手のひらを掴み、引き寄せられると何も考えずとも大和の腕の中だった。

「つめてぇ」

 瑛二のTシャツの前面についたロゴに文句をこぼす。このままでは無理に脱がされてしまいそうだったので自らTシャツを脱ぎ捨てるとまた抱きすくめられる。冷えた身体同士なのに、くっつけていると熱が生まれ、それを分かち合えるのが不思議だと思った。鼓動が速いのは自分だけじゃない。この大きな身体に心臓しか入っていないんじゃないかと思えるほど、生命を刻む音は直に、大きく響いた。

「瑛二、よく情緒不安定って言われねえか?」
「……そんな難しい言葉、よく知ってたね」
「ばかにすんじゃねえ」
「大和はよく、行動がおかしいって言われない?」
「なんでだよ」
「だって……」

 腕の中で小さく身じろいだ。だって、人肌を寄せ合って暖を取るなんて古いドラマの遭難シーンでしか見たことがない。

「……ううん、何でもない」

 離れてほしくなくて誤魔化した。肩にかかったタオルに頬を擦り付けて目を閉じる。直接大和の身体に触れるより、いくらか緊張せずに済んだ。
 今頃、大和にぴったりの素敵な女の人を抱いていたかもしれない手が俺を抱きしめてくれている。汚い優越感が込み上げてきて己を恥じた。でも離れたくない。どこかに行ってほしくない。
 額や頬に、大和の髪から雨が滴ってくる。降らせている本人はきっと気付いていない。だからもっと浴びたい、と願った。
 どうしてだろう。大和が優しくしてくれるのは。
 気まぐれ? その言葉がしっくりきてしまう。誰でもいいんだ、と自分に言い聞かせる。俺はちょっとだけ、大和に親切をしたから、と。つくづく犬みたいな人だと思った。

 

 

浅い眠りにはそれからすぐに落ちた。
 身体を優しく包んでくれるシーツやタオルケットよりも心地よくて、しかも自動的にベッドまで運んでくれて。損得勘定じゃ割り切れないとわかっているのに、濡れていないTシャツを被せられてベッドに横たえてもらったとき、得した気持になってしまった。
 夢に落ち切ってしまう直前、唇に熱が灯る感触があった。指の腹が髪をそっと撫でる。

「瑛二、おれはな――……」

 

 

 

 

 

 翌朝、雨は上がっていた。降り注ぐ陽光がまともにまぶたを射して、目を開けるとさらに痛い。寝返りを打ち、壁を見ながら身体を起こす。ベッドに入った記憶がなかった。昨日は兄さんと喋って、それから、それから……。

「うわ」

 思い出すと声が出た。当然大和はもう部屋にはいない。身を寄せて感じた体温も心音も蘇らないのに、Tシャツを大和が着せてくれたのを思い出して裾を引っ張りぎゅうっと身体を縮めた。愛おしくて。表と裏が逆になっているところも。
 もったいないけれど着替えをして、帽子とアームカバーを装備して庭に出る。四月末から日焼け対策をするように言われてきたのがやっと習慣として身についた気がする。
 昨晩はひどい雨だったのに、いつ止んだのか、日照りのせいで土はすっかり乾ききってしまっていた。バケツに水を汲んでいると背の高い影が背後から伸びる。大和かと思い振り返ると、立っていたのは兄だった。

「兄さん! おはよう」
「おはよう瑛二。少しいいか?」
「うん」

 勢いよく水を吐き出していた蛇口を捻って止める。悠然と伸びる立葵を眺めながら、兄が朗らかな口調で言った。

「瑛二とヴァンと大和、三人でのテレビ出演が決まった」
「俺たちだけで?」
「あぁ。俺達――俺と、綺羅とナギと同じグループになる予定だということはまだ口外禁止だからな。瑛二とヴァンは以前にも出たことがあるだろう、深夜帯のオーディション番組だ」
「あ、うん。覚えてるよ」

 いわゆるアイドルの新人発掘系オーディション番組。とはいえオーディションとは名ばかりで、デビューを控えたアイドルが事務所を問わず二十人ほど集められ、その中でくじ引きで選ばれた二人にだけパフォーマンスの時間が与えられる。その他の時間はMCが番組を回して、アイドル達はひな壇に徹する。ヴァンはアイドルの中で最年長ということでいじられているシーンが多く使われたが、瑛二は隣でにこにこしているだけのカットしか映されなかった。

「大和は初めてだな」
「うん。でもすごいね。うちの事務所から三人も呼んでもらえるなんて……」
「まぁ、そこは親父の力といったところだろうな。それより瑛二」
「ん?」

 眼鏡の奥の瞳がすっと細くなり、視線は移ろって立葵の花から瑛二へと注がれた。砂糖を何個溶かしても同じにならないくらい、甘く、称えるような瞳の色。

「大和のこと、結果的に瑛二に任せきりにしてすまなかったな」
「そんな、任せきりなんて……兄さんたちは忙しいんだし、大和は俺たちの仲間なんだし、当たり前だよ」

 特別な感情の気配を押し殺して笑うように努める。

「いや。本来なら俺が教え導くべきだったんだ。この場所に馴染めるように配慮するのも俺の役割だった。大和は俺が引き入れたのだからな。しかし瑛二がその役目を完璧に果たしてくれて俺も嬉しいぞ。ありがとう」
「ううん……! 俺、早く兄さんと活動できるといいなって思ってるから……頑張るね」
「あぁ。その意気だ」

 麦わら帽子の上から頭を撫でられ気が良くなる。恋とか好きとかそんな感情は全部置いておいて、ずっと背中を追っていた兄に褒められると舞い上がってしまう。
 二人の間にすっと長い影が伸びてきた。同時に視線をそちらにやると、大和だった。トレーニング終わりなのか、肩を上下させている。

「おはよ――」

 言い終わる前に気付いてしまった。息を切らせているわけじゃない。憤りに近い何かが、大和の肩を震わせているのだと。ぎらぎらと燃えるような瞳が言葉を制した。
 大和は唇を噛み、踵を返す。

「……大和?」
「ごめん兄さん。……行ってくるね」
「あ、あぁ……」

 バイクを停めている駐車場に大和はいた。
コンクリートの壁を殴り付ける。それからわなないた拳を解くとふつふつと血が滲むのが分かった。大和、と手首を掴むとすぐに振り解かれてしまう。

「『兄さん』のためかよ」
「え…………?」
「兄貴のためかって訊いてんだよ」

 落雷のように鋭い声色が肌を刺す。弁解の言葉を差し込む間もなくまくし立てられた。

「きかなくてもわかれっつー話だよな。おまえらなんなんだよ。兄弟でべたべたして、わけわかんねえだろ……。そんなにあいつのことが好きかよ。なぁ?」
「好きだよ。……俺の兄さんなんだから」

 は、と大和は鼻で笑った。さすがに腹が立ち、何でもいいから言い返したくなる気持ちは、振り返った大和の据わりきった目付きを見て消え失せる。見境がなくなって殴り合いにでも発展してしまえば確実に負ける、という恐れも少しだけあった。
 兄さんのためじゃない、と言い切るのは嘘になる。だから反論できなかった。兄が褒めてくれたら嬉しいし、大和がアイドルとして自立すれば兄が喜ぶことは分かっていた。

「なぁ」

 麦わら帽子のつばをぐっと上げられる。だんだん角度の付き始めた日光を、好戦的に唇の端を歪めて笑った大和が全て遮った。

「おれに、どうしてここに来たのかって、前に瑛二、きいたことあっただろ」

 そんなの決まってる、と大和は吐き捨てた。

「……あいつを、日向龍也を倒すためだ」

 兄を倒す。
 大和は確かにそう言った。
 理解が追い付かない。言葉の意味は咀嚼できても、その裏側にあるはずの事情が自分たちとはまるで違うから。頭のてっぺんを日照りで焼かれて突然くらくらきた。目の前にあるタンクトップの布を掴む。その手の甲を覆うように大和の手が重なった。

「……なんで?」
「じゃあおまえは? おまえはなんで兄さんのことが好きなんだよ」
「だって、なんでって……兄さんは俺の兄さんだから」
「おれも同じだ」

 掴んだ手をゆっくりと下ろされる。二十センチ高いところから腰を折り、目線をぴったり合わせて大和は言った。

「あいつがおれの兄貴だからだ」

 丸い頭のかたちを確かめるように、手のひらにそっと撫でられる。その手付きがなんだか切ないような寂しいような、言葉にし難い大和の気持ちを孕んでいるような気がして目をはっと見開いた。拍子に涙腺が瞬間的に緩んでしまったのだろうか、瞳に涙が溜まった、と思ったときには頬に流れていた。

「泣きたいのはおれのほうだ」

 瑛二、と呼ぶ声は、大和が去ってもしばらく耳に残って離れてくれなかった。

 

 

 

 

 

 


 一体何がいけなかったんだろう。
 どこで間違ってしまったんだろう。
 ベッドにうつ伏せになって、考えて悶々として、それから寝返りをうち天井を仰ぐ。兄には、心配かけてごめんとメールを送った。今日も綺羅とナギと三人で仕事のはずだ。あれから大和と何を話したのかは書けなかった。
 あてどなくぼんやりしている間に太陽はすっかり高くなっている。ほんの一瞬だけ迷って、ヴァンに宛ててメールを打つ。仮病なんて初めて使った。けれどそうでもしないとレッスンに引っ張って連れて行かれそうだし、今どんな顔で大和と話をすればいいか分からないし――仕方ないよ、と自分に言い聞かせる。小さなため息が出た。

(……お腹空いたなぁ)

 気分が落ちていても食欲はしっかり催されて安心する。ぐう、と短く鳴る正直な腹の音にも。
 身体をひねって壁の方を向き、考える。大和のことを、俺は何にも知らなかったんだ。
 一口に「兄弟」と言っても、いろんな関係性がある。自分たちのように仲の良い兄弟ばかりじゃないんだと兄に説かれた時、分かったような気でいた。当たり前だとさえ思った。
 小学生の頃、クラスメイトが話していた兄弟げんかにも驚かなかったし、弟がむかつくとか、今日はお姉ちゃんのこと無視してるとか、そんな愚痴っぽいおしゃべりを聞いてもなんとも思わなかった。
 じゃあどうしてだろう。心の中に得体の知れないモヤモヤした気持ちが広がり続けるのは。 
 まず、俺は大和のことが好きで。
 それから――。
 自覚したばかりの感情を胸の内に広げるとむず痒いような居ても立っても居られなくなってしまうような、焦げ付いた照れと戸惑いが押し寄せる。
 大和が事務所に入った理由を聞いて、嫌だと思ったか? 答えはたぶん、限りなくノーに近かった。
 自分と大和が違うからといって、大和を否定する理由にはならない。何よりまず、違う、と漠然と思った。確かに衝撃はあったけれど、大和が日向龍也のことを倒したいと考えていることよりも、大和のことを自分が何も知らないのだと思い知らされたことがショックだったのだ。
 ……でも、なんで? ベッドの冷たいところを探して足をさまよわせながら考える。行き付く理由はやっぱり、大和のことが好きだから。それしかなかった。
 目の前にある壁を撫でる。じっとしているとどうにも落ち着かない。こんな気持ちを誰かに抱くのは初めてだった。何も知らないことがもどかしいとか悔しいとか、もっと分かり合いたいと願ったりとか。でもそれは叶わないかもしれない。大和は怒っていた。謝らないと、と関係修復を考え、はたと立ち止まる。どうして大和はあんなに怒っていたんだろう。俺は何を謝るべきなんだろう?
 俺たちの兄弟仲が良すぎるから? いや、俺が兄さんにべったりだから? でもそれは大和には関係ないはずで――いくらなんでも自分たちと違うからって怒ったりしない、と、思いたい。
 また寝返りをうつ。一人用の広くはない個室にむわっとした熱気がこもってひどく暑かった。
 兄さんのためか、と大和は言った。
 きっと、その前の兄との会話を聞いていた。違うとは言い切れなかった。でもそれだけじゃない。そんなことくらい、言わなくたって分かることだ。
 大和は勝手だ。大和のことが好きだから、なんて言えるわけがないのに。自分で勝手に解釈して、勝手に機嫌を損ねて当たり散らして。でもそんな大和を簡単に嫌いになることもできない。
 好きだ。わかってほしい。でも気付かずにもいてほしい。怒らないでほしい。何も知らないまま、それでも隣にいてほしい。勝手なのはどっちだ。
 窓を開ける。吹き込む風がカーテンを揺らす。心地いい。このまま包まれていたい、と思った時にはもう、深い眠りに落ちてしまっていた。


 +


 ノックの音で目が覚めた。
 上体を起こして振り返る。窓の外の空はすっかり夕暮れだった。再び響くドアを叩く音に肩がすくむ。少しがさつで急いた三連打。兄さんじゃない、と思った瞬間、「えーじちゃん?」と様子をうかがう声がする。ヴァンだ。

「大丈夫か?」
「うん……大丈夫」
「腹減ったやろ。晩飯持ってきたで。入ってもええかな」
「うん」

 髪がひどく乱れている気がして両手で軽く整える。片手でトレイを持ってやって来たヴァンがその姿を見て笑った。

「やまちゃんとなんかあったんやって?」

 簡易テーブルにトレイを置き、カーペットにあぐらをかいて首を傾げる。どうして知ってるの、なんて訊かなくてもわかることだった。兄経由の情報だろう。けれど小さく首を振る。心配をかけたくない気持ちと、瑛二にも大和と一体何があったのか説明できないモヤモヤとがあったから。

「うそや」
「うそじゃないよ」
「泣いた跡、残ってんで」

 指で頬を示されはっとする。でもそんなに泣いた覚えなんてないのにどうして? あたふたと顔をぺたぺた触っていると、痺れを切らしたようにヴァンが「……っていうのはうそやけど」と苦笑した。

「でも部屋引きこもってんのは体調不良だけが理由じゃないやろ? あ、怒ってるわけじゃないで」

 あったかいうちに食べ、と手招きされてテーブルの前に腰を下ろす。夕飯の献立はヴァン特製のお好み焼きだった。ソースとマヨネーズの懐かしいような香りに嗅覚をくすぐられ、強烈な空腹を自覚する。

「……ごめんなさい」
「怒ってないって。あと、ごめんじゃなくていただきます、やろ」
「そうだった。いただきます」

 両手を合わせると、ヴァンがヘラでお好み焼きを切り分けてくれる。味噌汁の豆腐を掬って口に運んだ。

「……やまちゃんのこと、好きなんやろ」
「え⁉」

 器に口をつけて含んだばかりの味噌汁を吹き出しそうになるのをギリギリ堪える。ヴァンは「あー出さんかったかー」と膝を叩いて笑ってみせた。

「いや分かるって。気付いてないのは本人と、鈍いお兄ちゃんくらいやろ」
「……ほんとに?」
「うん」
「そんなバレバレだったんだ……」

 自分でもつい最近自覚したばかりの感情をこんな近しい相手に気取られていたなんて。熱を孕んだ瞳で見つめていたとか? 顔が赤かったとか? 触れたい、と大和に抱いていた欲がにじみ溢れていたとか? ヴァン曰く「鈍いお兄ちゃん」に気付かれていないことが唯一の救いだろうか。
 どーぞ、と促されてちょうどいいサイズに切り分けられたお好み焼きに箸を伸ばす。まだほんのり温かかった。

「食べ終わった頃にまた来よか?」

 グラスに冷たいお茶を注いだあと、ヴァンが腰を浮かせる。

「それとも、ワイでなんか力になれることあるか?」
「うん」
「お、即答」

 珍しいな、と口元を緩ませる。それから、もう一つ持ってきていたグラスの半分くらいまでにお茶を汲んだ。

「力に、っていうか、話を聞いてほしいだけなんだけど……それでもいい?」
「え、それワイでええの?」
「え?」
「やまちゃんに言わんでいいんか? ……や、恋のお悩みとかやったら全然のるけど」

 ヴァンは片膝を立てて足を楽に組み替える。たわみながらも張っていた緊張の糸が解け、瑛二も正座の足を崩した。箸は置かず「わからないんだ」と言った。

「俺、大和のことがわからない。お兄さんのことも、大和が何を考えてるかも、なんにもわからない……。俺は兄さんのことが好きで、尊敬してて……だからこれが恋っていうものなんだって思ってた、でも……」

 でも。
 でも、違った。だって。
 心に響いたものを言葉にするのは難しい。今、大和に向けて芽吹いた気持ちは与えたいだけでなく、ともすれば与えられたいと願う情欲が勝っていそうで、それを吐露するのが怖かった。そもそも突然大和のお兄さんの話なんて――と、聞き手のことを微塵も考えていない発言をしてしまった自分の配慮の足りなさに突然気後れを感じ恥ずかしくなる。視線をさまよわせてばかりいると、「大丈夫」とヴァンに背中を軽く叩かれた。

「なんでも吐き出したらええ」
「俺、あの、」
「うん」

 皿に箸を揃える。人を好きになる気持ちについて、兄に尋ねたつい昨日の夜を思い出す。同じことをヴァンにも問うてみたかった。教えてほしかった。そして、その答えが今の自分に当てはまるのか確認してみたかった。でも違う。今大切なのは、人が人を好きになる気持ちじゃなくて、瑛二が大和を想う気持ちだ。

「……初めてなんだ。誰か、人に対して、もっと触ってみたいって思ったのも、俺を見てほしいって思ったのも、大和が、知らないことを俺が教えたいって思ったのも、なんにもわからない大和のこと、大和の気持ちを、知りたいって思うのも、全部、全部初めてなんだ」

 息を吸う。ヴァンの顔を見ることはできなかった。

「好きなんだ。俺のこともわかってほしいんだ。頼ってほしいんだ。大和にも、好きになってほしいんだ」

 何かを人に望むこと。瑛二には、簡単にできることではなかった。
 吐き出しきると胸がすっとすいたような気分になって、ヴァンも何も言わないので箸を取って残りを食べ進める。さっきと全然違う食べ物みたいに、ものすごくおいしいと思った。数分前の自分は口に含んだものの味さえちゃんと分かっていなかったのかもしれない。味噌汁を飲み干し、グラスのお茶まで空にすると、ヴァンが「青春やなぁ」と笑い出す。

「いいなぁ、かわええなぁ」

 バカにされてる、わけではなさそうだ。

「ワイがえーじちゃんくらいの年の頃って、なんかもっと、ちょっと優しくしてくれたとか顔がタイプやとか、話しとったらノリが合っておもろいなとか、そんなんですぐこの子が好きや!って思とった気がするわ」

 大和の優しいところも好きだけど、と思ってしまうのは惚れた弱みというものなんだろうか。あぁでも、顔がタイプっていうのはよく分からないかも。きれいな顔だなぁ、という感想は、真隣に座るヴァンにもよく抱いてしまうし。

「なぁ、えーじちゃん。その気持ち、やまちゃんにぶつけてみいや」
「ええ…………」
「そこで引くんかい」
「引くっていうか……」

 逃げ腰になっている、という方が正しい。ヴァンは軽く伸びをしたあと「怖い?」と視線を寄越してみせる。いつも通りの気安さがちゃんとそこにはあって安心した。うなだれるほど深く頷いて、でも、確かに大和に気持ちを伝えたいとも思った。好きだとはっきり言わなくても、大和のことがもっと知りたいとか、どうして怒ったのか教えてほしいとか、そういうことをちゃんと話すべきだと。

「怖いよな」
「うん」
「怖いって思うんは、えーじちゃんが真剣やからや」
「……そうだね」

 初めてだった。
 誰かに気持ちを打ち明けたいと思うのも。それを怖いと感じることも。胸の奥で、拒まれたくない、同じ気持ちでいてほしいと願ってしまっている。だから怖い。こんなに誰かを好きだと、欲しいと求めてしまうのも初めてでもどかしい。例えばヴァンみたく経験豊富な大人だったら。例えば兄さんみたく、人の気持ちを慮れる余裕があれば。
 膝の上で握った拳にヴァンの手のひらがそっと重なる。

「えーじちゃんのいいところはいっぱいあるけど、一番は、ホンマに誠実なところやな。まっすぐないい子や」
「……俺!」

 己を奮い立たせるようにして腰を浮かせる。と、うわっと驚いた様子でヴァンが後ずさった。

「あ……ごめん」
「びっくりしたわ。どしたん?」
「俺、大和にちゃんと伝えたい」

 おう、とヴァンが力強く頷く。

「今から行っちゃう?」
「え、今からは、ちょっと……」

 心の準備が。

「明日! 明日にする」
「えーじちゃんらしいな」
「そうかな」
「うん、めっちゃ」
「あ、でも大和なら、決めたらすぐ行動、って言いそう。ヴァンもどっちかっていうとそのタイプって感じがする」

 それなら俺もそうした方がいいのかな。できなくはない、と思う。ただ少し怖いだけで。一晩経っても「やっぱりやめとこう」と気持ちが冷めることもないだろう。それに、時間を置くのは逃げ道を作っているだけにも思えてきた。

「ええんちゃう?」
「え?」
「やまちゃんはまぁ、じゃあ今から行くかって言いそうやけど、えーじちゃんは違うんやろ。やまちゃんがそうしそうやからって合わせることない。違うからおもろいことも、違うのがいいこともあるやん?」

 当たり前みたいにヴァンが話す言葉を飲み込めず、ただ必死に内容を咀嚼してうんうん首を縦に振った。
 違う。だからおもしろい? 違う方がいい? どうしても同じ方がいいような気がしてしまうけれど、ヴァンが言うならそうなのかもしれない。
 お盆を持って立ち上がるヴァンに、自分で持って下りると申し出ると「夕食当番やから」と断られてしまった。

「あんまり力になれた感じせんけど……ちょっとはすっきりした?」
「うん、すっごく」
「なら良かったわ」
「ありがとう。俺、頑張るよ」
「ん、その調子や」

 部屋の扉を引く。と、足元で何かがぱたりと倒れる音がした。

「ワイが来た時はなんもなかったのに」

 しゃがんで拾い上げる。まじまじと見つめなくても分かる、大和に貸した花言葉辞典だった。返しにきてくれたのか。でもどうしてこんなタイミングで? 声もかけずに置いていったのは、瑛二が一人じゃないと分かったからなのか。訊きたいことがまた増えた。

「ほなな。ちゃんと寝ぇや、えーじちゃん」

 部屋から人の気配が失せるとどうしようもない寂しさに襲われる。花言葉辞典を胸に抱いても大和の感触が蘇るわけでもないのに、たまらなくなってかすかな残り香を求めてしまった。触れた肩の温度も、唇の熱も、雨に濡れた身体の冷たさもはっきりと思い出せない。
 話したい。
 笑ってほしい。
 触ってほしい。
 もう一度、キスをしてほしい。
 けれども足は衝動に任せて走り出したりしない。すくむわけでもない。それでいいんだ、と思えることが嬉しかった。
 ふと、手の中の本の一ページに短く付箋が飛び出していることに気付いた。
 めくってみると、黄色いエニシダの花の写真が視界に飛び込んでくる。大和と誕生花の話をしたことを思い出し、ベッドに座ってスマホを手繰り寄せた。予想通り、エニシダは三月三十日の誕生花に間違いなかった。花言葉は「謙遜」「卑下」。大和にはこの言葉の意味が分かっただろうか。頭を抱えて、同じようにスマホで検索する姿を想像すると胸がつかえるくらい愛おしかった。
 子ども向けの本だから、ページの半分くらいを占めるサイズの写真と、大きな文字で花言葉が載っていて、その下に二行だけの解説、そしてあとはオレンジ色の吹き出しで一口メモが付いているだけだった。メモにはファンシーなフォントで「エニシダの花言葉はフランスの王子様のお話が元になっているんだよ」とあった。
 そんな話を昔、何かの本で読んだ気がする。
 本格的な植物図鑑に花言葉が載っているのは稀だから、趣味の色が強い本だったか、それとももう少し対象年齢が上がった学生向けの辞典だったか。あれかこれかといろんな本を引っ張り出し、索引からエニシダのページをめくって、たどりついた。
 王位のために兄を殺めた弟のお話。
 あっと驚く展開もなく、ほんの三行だけで書き記されてしまうようなものだった。そういえば山梨で暮らしていた幼い頃、「弟の王子さまは、お兄ちゃんにひどいことをしてしまいました」と母親が読み聞かせてくれたっけ。
 ――僕はお兄ちゃんにひどいことなんかしないよ。
 その「ひどいこと」が何なのかも知らなかったあの頃、母と兄は「瑛二はいい子だ」と笑ってくれた。あの夜の三人分の笑い声がなぜか今、どこか近くにあるように反響する。

 

 

 

 

 どすりと重たい物音がした。
 音の方向は廊下に続くドアではなくて、おそらく、窓を出た先のバルコニーだった。夢かもしれない。枕元に広げっぱなしにしてあった花言葉辞典を閉じ、おそるおそるカーテンに手をかける。まだ深い夜だった。窓ガラスをコツコツと鳴らす音が聴こえた。ちゃんと人間が鳴らしているリズム。
 もし、不審者だったら。とりあえず兄さんに連絡しよう。スマホを探して手に取る。そうしている間に、窓の外の誰かは窓ガラスに手をかけてスライドさせる。もちろん鍵は閉めているので、ギイ、と鈍い音が聴こえるだけだった。
 カーテンを細く開ける。淡い月明かり、と。

「……大和?」

 目が合うと、口の形で「えいじ」と呼ばれているのが分かった。声が聴こえないほど厚いガラスではないので、一応他の部屋に配慮して小声で呼んでいるようだ。

「びっくりした」

 窓を開ける。むっとした初夏の夜の熱気と共に大和が部屋に滑り込むように足を踏み入れる。来訪方法に動揺してしまって、一瞬、大和との間にあったことを忘れてしまった。

「わるい、ねてたよな」
「うん。すごい音がして起きちゃった。……何で窓から来たの?」
「この方が近いだろ。おれの部屋、このすぐ上だからな」
「危ないよ」
「瑛二に会うってきめたら、一秒でもはやく会いたくなった」

 なんて、まっすぐに目を見つめて言うものだから瑛二の方から不自然にそらしてしまう。瑛二がベッドに腰を下ろすと大和はフローリングに座り込んだ。これで目は合わない。少しほっとした。わずかに開いたカーテンの隙間から漏れる月明かりが、大和の柔らかい髪に細い光の筋をつくる。
 大和に貸した子ども向けのものと、引っ張り出したばかりの花言葉辞典とを手に取って「これ」と呟く。大和は振り返り、瑛二の膝の上をじっと見つめた。

「付箋貼ってあったところ、読んだよ」

 ぱらぱらとページをめくる。薄暗い部屋でも子ども向けの大きな文字は読み取りやすい。

「大和の誕生花だね」

 大和の視線がすっとのぼってくる。窓の外に照らされた瞳は生まれたての動物みたいに無垢で、何も知らないきれいな色をしていた。
大和は俺に怒ってたんじゃないの、と問いかけたい衝動はすっと冷える。ちゃんと顔を突き合わせて、話をするために来てくれたと分かるから。階段を下りる時間さえ惜しんで。

「エニシダの花言葉の由来、大和は知ってる?」

 薄い方の本を閉じる。沈黙が答えだった。

「フランスの王子様のお話が元になってるんだって。その王子様もね、俺や大和といっしょで、お兄さんがいるんだ」

 大和の肩が小さく動く。顔をふいとそむけ、膝を抱える腕の間に沈めてしまう。それでも、話し続けていいんだと思った。黙っていても何も伝わらない。

「王子様のお兄さんは、王様。俺、フランスの王制ってよく知らないけど、弟の王子は王様にはなれないんだ。……弟だから」

 小さな頃、母は確かここまで話してはくれなかった。少なくとも母は兄と自分を分け隔てなく育ててくれたし、むしろ、母にも兄にも甘やかされ可愛がられて何も考えることなくここまで来てしまったと思うくらいに。父親から期待されているのが兄の方なのは分かっているけれど、それはただ長男だからじゃなくて、もし自分が兄だとしても、同じ能力のまま逆転すれば結局こうなるのだとも思う。

「王子は、実のお兄さんを暗殺して、自分が王様になるんだ。でもね……弟は、お兄さんの命を奪ってしまったことを後悔して、結局王位を捨てて、旅に出るんだって。お兄さんへの懺悔とお祈りをする時にいつも持っていたのがエニシダの花だった、っていう由来があるんだ」

 美しい花を手に、毎夜祈ったという男の気持ちが瑛二にはきっと一生分からない。この弟は、兄のことが嫌いだったのだろうか? 憎かったのだろうか? 実兄を殺めるほどに弟を駆り立てる野心を、ほんの少しだけ羨ましいとすら思った。
 両足の間に顔をうずめたまま「謙虚」と大和がこぼす。

「調べたとき、後悔するとか祈るとか、そういう意味って書いてなかった」
「調べたんだ」
「わかんねえ言葉だったんだ。でも、今の瑛二の話、ぜんぜん『謙虚』じゃねえだろ」
「うん、それは俺も不思議。本当はお話に続きがあるのかもしれないね」

 それか、弟が抱えていた苦い葛藤とか兄に対する想いだとか。けれど瑛二にも大和にも知る由がない。ぽつりと、大和が呟いた。

「どっちかっつーと瑛二っぽいって思ったけど、ちがうな」

 突っ伏すようにしていた顔を少し上げる。瞳は虚空を捉える。だから、瑛二はまっすぐ大和を見つめた。大和が今の話を聞いてどう感じたのかが気になる。知りたい。どうしてこんなに違うんだろう。自分たち兄弟のことを、誰もが「仲良くていいねぇ」と肯定してくれた。きょうだいと喧嘩した、と愚痴っぽく話す友達さえ「お前の兄ちゃんはいいよな」と言ってくれた。瑛二の狭い世界にいる、大和以外の人はみんな。

「……お兄さんのこと、聞いてもいい?」

 大和の隣に腰を下ろす。ラグの上じゃなくて、直接フローリングへ。指で触れると、木目は冷たくて意外と気持ちが良かった。

「…………わかんねえ」
「……うん」
「おれ、べつにあいつがくたばったら、おれがどうにかなるとか、んなこと思ってねえよ」
「エニシダの王子様みたいに?」
「あぁ」

 そうだね、と返事をする。だって全く違う世界の話だ。

「じゃあどうして?」
「なにが」
「大和、お兄さんを倒したいって言ってたから。倒したいって、どうすること?」

 怪我をさせたいとか芸能界から追い出したいとか、ましてや暗殺だなんて物騒なことを考えたわけではない。でも、どちらかといえばそのくらい極端な方が分かりやすかった。大和の言う「倒す」は、瑛二には実体を持たないふわふわしたもののように思えた。

「……倒すは倒すだろ」
「……例えば、俺が……俺が兄さんを倒したいとするでしょ? そしたら、兄さんがどうなれば倒れたってことになる?」

 例えが良くなかったかもしれない。声が震えた。大和は顔を上げずに「しらねえよ」とかすかに笑った。

「気持ちの問題?」
「かもな」
「大和にもよくわからないんだ」
「…………あぁ」
「そっか」

 お兄さんに認められたいの――と、考えなしに問いかけそうになったのを飲み込んだ。大和の心は大和にしか分からない。少なくとも、まだ今は。
 大和は再び膝を抱えて子どもが拗ねるときのように、大きな身体を縮こまらせてしまう。長い息を吐く。思わず、広い背中に手を添えた。なぜかそうしないといけない気がした。大和のことが好きなんだ、と、これまでのどんな時よりも鮮明に自覚して、胸の奥が苦しい。

「大和」

 名前を呼ぶのが精一杯だった。
 どんな言葉をかけたらいいんだろう。分からないままにTシャツの布を掴む。何を言ってもうそだと思った。瑛二に大和の想いの全ては理解できない。物語の、エニシダの王子の『謙虚』を疑うのと同じ気持ちで、大和のことが分からない、と思う。
 ぽつりと、おれも、と大和が呟いた。

「おれも調べた。瑛二にかりた本で、瑛二の花言葉、おれも調べた」

 たどたどしく言葉を紡ぐ。頬が熱くなるのを感じた。大和が自分にまつわるものを探してくれていたことが嬉しくて。

「誕生花、ふたつあっただろ。あの、レッスン室で話したとき、調べなかったほうの、リンドウっつー花の花言葉、『悲しむあなたを愛する』って書いてあった」
「知らなかった」
「おまえは、」

 慣れない呼び方にどきりとする。大和が顔を上げて、額同士が触れ合いそうな距離で目が合った。月の光を遮るのが自分だと気付いて首を傾ぐ。と、オレンジ色の瞳は明かりを反射させて獣のそれのように鋭く煌めいた。

「……おまえはおれが、かわいそうなやつだと思って、いろんなこと教えてくれてたのか。おれが悲しんでると思ったから、それで、近くにいてくれたのか?」
「え……」
「瑛二は、すげえちゃんとしてんだろ。学校行きながらレッスンやってて、瑛一たちが仕事んときは当番かわってやって、おれに楽譜の読み方とか、漢字の読み方も教えて、瑛二みたいなまともなやつがなに考えてんのか、おれには全然わかんねえ」

 背を撫でる瑛二の手をそっと大和が払う。行き場をなくした両手をフローリングに付けて「違うよ」と首を振った。
 俺が大和の近くにいたいと思うのは。何かしてあげたいと思うのは。
 大和のことが好きだから、それしかない。ちゃんとした打算だ。
 疑るような寂しげな瞳に、好きだとは言えなかった。

「それに俺……ちゃんとなんかしてない」
「瑛二がちゃんとしてなかったらおれはなんなんだよ」

 少し口元を綻ばせて茶化す。だからもう一度、違う、と強く断じた。

「俺が学校、行ってるのは……中学生の時の友達がみんな受験したから俺もって、周りに合わせただけだし、学校だって兄さんが選んでくれたし、事務所に入ったのだって、父さんと兄さんがいるからで……一人だったら、アイドルになるなんて考えなかった。大和も、兄さんも、みんな、アイドルになりたくてここにいるけど俺だけ違う」

 見開かれた橙の大きな瞳に自分の姿が映っていた。このきれいな虹彩に不純なものが混ざり合ってしまった気がして顔を背ける。と、勝手に涙があふれ出してきた。ぽろぽろこぼれて止まらなくなった。

「大和は、お兄さんを倒したくてアイドルになりたいのかもしれないけど、俺にはそんな目標もないんだ。だから俺は、自分がやれることをとりあえずやってるだけなんだよ。大和が思ってくれてるみたいな、ちゃんとした人じゃない」

 口に出したらたちまち恥ずかしくなってしまう。自分の、人間としての未熟さを認めて、誰かにさらけ出したのは初めてだった。それも、感情的になって泣きながらなんて。
 沈黙の心地が悪くて言葉を探す。呆れたのか困り果てたのか、大和が嘆息して肩が震えた。こんな弱くて、みっともない姿を見せたくなかった。
 小さな子どもにするように頭を撫でられ、そしてそのまま抱き寄せられる。皮を剥いで裸になった心ごと包まれているような抱擁だった。

「瑛二が泣いたら、リーダーがすっとんでくんだろ」
「……来ないと思うよ」
「あいつなら来る」

 だから、と耳元でささやくように落とされる。不器用でまっすぐな、瑛二の好きな大和だった。親愛以外何の意味もないと分かっているのに、大和に抱きしめられていると思うと居ても立っても居られなくて両手は所在なく宙を行ったり来たりさせることしかできなかった。

「瑛二はえらいな」

 お手をちゃんとできたペットを褒めるような口調だったので、何も応えずただ頷いた。

「おれも高校は出たけど、なんのために行ったかなんてわかんねえし、目標とか考えたこともなかったな」
「お兄さんを倒すことじゃないの?」
「じゃあ瑛二といっしょだな。あんまみとめたくねえけど、おれもあいつがアイドルなんてやってなかったらここに来てねえよ」
「そっか……」
「目標、いっしょに探すか」
「え?」

 なんの迷いもない口調に面食らって変な声が出た。大和がどんな顔をしているのかは分からない。想像もできない。だから知りたい。寄せ合った身体を少し離した。大和は笑っていた。なんだよ、とまた引き寄せられる。

「つーか、瑛二は気づいてねえけど、ほんとはなんかあんだろ。もっとうまくなりてえとか、なんかのテレビに出てえとか、ライブしてえとか……兄さんに、追いつきてえとか」

 兄さん、という単語を発する一瞬の緊張を、密着しているからこそより濃く感じる。瑛二の、という意味で使った言葉に大和の本心が見えた気がした。追い付きたい。その気持ちはきっと、瑛二の中にも大和の中にも存在するのだ。

「おれはまだアイドルとか、音楽のこととかよくしらねえ。でも瑛二と――瑛一と、綺羅とナギと、ヴァンと、アイドルやりてえって思ってる。それじゃだめか?」
「だめじゃない。……俺も、俺だって、思ってるよ」
「おう、そうだろ」

 兄さんの横に、胸を張って並びたい。綺羅と、ナギと、ヴァンと大和と、そして大和のようにこれから仲間に加わるかもしれない誰かと――みんなで。歌いたい。何のため、じゃなくて、ただ、歌うことが好きだから。みんなで声が揃うと気持ちがいいから。考えるだけで胸が弾んだ。これが俺の目標なんだ、と何の疑いもなくそう思えた。
 体温を溶かして合わせるようにぴったりと抱き合っていた。大和の息遣いが近くに聴こえる。肩口に顔を沈め、やっと両手で広い背中を抱き返す。夢かもしれない。でもこれは夢じゃない。
 瑛二、とちいさく名前を呼ばれた。

「昨日……わるかったな。ひどいこと言った」

 大きな手のひらがぎこちなく肩を掴む。

「瑛二にあの花言葉の本かりてから、いろいろ読んでた。さっきの『悲しむあなたを愛する』ってやつ見たら、そういやどうして瑛二はおれにいろいろ教えてくれてんだって考えるようになった。瑛二、前におれがレッスン遅れてもいいだろっつった時、怒っただろ。おれみたいなやつのこと、まじめな瑛二はきらいだよなって、ふつうに考えりゃわかんだけど、そんとき思って……瑛二はおれのこと、かわいそうなやつだって思ってんだろうなって……兄貴とも仲いいしな。瑛二におれの気持ちなんてわかるかよって。でもさっき、おまえはちがうっつったから、信じる」

 その時、触れ合った部分の温度が上がるのが分かった。大和の首筋に汗が流れる。それに気付いたのか、そっと身体が離れてただ黙って見つめ合った。高さの変わらない月が触れられる距離にある大和を照らす。殺気にも似た真剣な表情に釘付けにされ、大和にも自分の表情がはっきり見えていることさえどうでも良かった。

「瑛二のことで頭がいっぱいだった。借りた本読んで、立葵の話してたなとか、瑛二はどんな花が好きなのかとか、瑛二のことばっかり考えてた。昨日、おまえと瑛一が話してて、おまえは、瑛一がよろこぶからおれの世話してたんだと思ってかっとなった」
「違うよ。……俺は、」

 好きだから。
 理由は簡単で、でも口に出すのは難しい。
 大和が首を横に振る。何も言わなくていい、と示すように。見上げたふたつの瞳は、太陽のようでも、満月のようでもあった。

「……瑛二のことが、好きだ」

 言葉は呪文のようだった。深い夜が一瞬で朝になってしまうような。つぼみの花たちが一斉に咲き始めるような。
 迷わず、頷き、抱きしめていた。一回り以上大きな身体はたちまちぎゅっと強張り、「はっ?」と動揺の声をあげる。

「俺も。俺も好き」
「……うそだろ?」
「なんで」
「瑛二がおれを好きになる理由がねぇよ」
「いっぱいあるよ」

 わざと首を撫で上げて髪に触れた。緊張からきているらしい汗を、本当は舐め取ってもいい気持ちだった。でもそこまでするのは気恥ずかしい。初めてだし、大和にどう思われるかを考えるととてもじゃないけれど行動には移せなかった。

「昨日の、朝のこともそうだけど、大和のこと、よくわかんないとこもいっぱいあるよ。でも、そういうのも全部合わせて全部好き」

 腕を引いて手のひらを強く握る。自分からできるのはこの程度の接触だった。大和は真顔だった。手を握り返される。それから大和の顔が近付いた、と思った時にはもう、くちづけられていた。
 ほんの数秒の触れ合いの間、互いに目を開けたままだった。それがちょっとだけ可笑しい。決まりの悪そうな顔をした大和に、あの日、レッスン室でした初めてのキスを思い出す。

「……前にキス……した時、本当に寝ぼけてた?」
「んなわけねぇだろ」

 子どもみたく笑う。

「ずるい。すっごくドキドキしたのに」
「おれだってそうだ」
「……大和もドキドキしてた?」
「……おう」
「そっか……」

 一言一言、交わし合う言葉は深呼吸のようだった。短く、深く、伝え合っていないと苦しくて。指先まで心臓になってしまったみたいにばくばく鳴ってうるさい。これは知らないドキドキだった。わずかな距離を埋めるようにまた抱きしめられ、心音を鳴らす源が弾けて溢れてしまいそうになる。

「しんじらんねぇ」

 背中に触れる両手が持つ意味がさっきまでと変わったのがなんとなく理解できる気がした。親しみだけじゃない。もっと何か求めるような、揺さぶるような温度に頬が熱くなる。

「……俺、たぶん全然、謙虚なんかじゃないよ」

 俺も同じだと、もっともっと、このいじらしい身体に刻むように教えたかった。

「大和にもっと触りたいって思ってたし、触ってほしいと思ってたし、二人でいっぱい話したいって、いつも思ってたし、大和が女の人と二人で話してた時……見たくなかった。大和が楽譜の読み方がわかんないって俺に頼ってくれたのだって嬉しくて、もっともっと、難しい漢字の曲があればいいのにって思った」
「……瑛二、もっと、キスしていいか」
「……うん」

 頷いて、顔を上げる。そして目を閉じる。大和はきっと目を開けて、じっと見つめているだろうと思った。
 唇と唇が触れ合うだけの行為がこんなに幸せだなんて知らなかった。こするようにぴったりとくっつけて、そして、湿った舌の先が上下の唇の間をつつく。ゆっくり口を開けて迎えて初めて、咥内にこんなにたくさん気持ちいい部分があることを知った。大和の腕に縋るようにしがみつく。は、と漏らした吐息さえ愛おしくて身体が震えた。好きだと言いたくても声が出ないから、ただ、大和の全てを受け容れる。舌を。髪を梳く指先を。抱く腕を。瞳を。心を。
 大和と少しずつ恋がしたい。全身が震えて叫んだ。
 もっとして。俺だけにして。甘ったるいわがままはきっと届いている。

 

 

 

 

 

 

 

 


 細く射していた月明かりはいつの間にか朝陽に変わっていた。背後から聴こえる自分のものではない寝息、そして下半身に絡んでいる大和の足に突然全身が熱を帯びだす。
 夢じゃなかった。夢じゃなくて良かった。
 朝はこんなに早くやってくるのに、それでも、朝を待てずに来てくれた大和が愛おしくてたまらなかった。
 冷たいシーツに手を伸ばす。分厚い方の辞典を手に取ってぱらぱらめくり、リンドウのページで手を止めた。花言葉は『悲しむあなたを愛する』そして、『あなたの悲しみに寄り添う』。群れて咲かず、単独でひたむきに育つ姿が由来らしい。後者の方がいいな、と思ってまたページをめくった。

「…………えーじ?」

 鼻にかかる寝息は声に変わる。手がシーツをまさぐり布が擦れる音。大和がゆっくり上半身を起こし、顔を覗き込んでくる。

「おはよう」
「……夢、じゃねえよな」
「俺もさっき、同じこと思ったよ」

 なんだか可笑しかった。大和にとっては初めてじゃないはずなのに。告白も、キスも、好きな人と迎える朝も、「おはよう」の幸せな響きも、きっと。
 手を伸ばす。唇の端に薬指で触れると、望んだ通り大和が優しくくちづけてくれた。
 どちらともなく誘い合って庭に下りる。バケツに水を汲んでいると、一足先に花の様子を見に行った大和が「瑛二!」と名前を呼んだ。

「どうしたの?」

 しゃがみ込んだ大和の後ろから覗く。大和の指先は、小さな黄色いつぼみを示していた。

「トマトって花咲くんだな」
「知らなかった? あの本にも載ってたよ」


 トマトの花言葉は『完成美』っていうんだって。
 大和に教えるか、少し迷って、やめた。
 まだまだこの恋に似合う言葉じゃないから。
 完成されないことを、きっとささやかに願っているから。