「原田さん」
咎めるような口調ではなかったのに、名前を呼ばれ原田左之助は肩を強張らせた。しゃがんだまま首を上げ振り返ると、立っていたのは沖田総司であった。
「何してるんですか、こんなところで」
「いや、ちょっとな」
「あっ」
原田の頭の上から覗き込み、その手に撫でられ機嫌よく寝転がっている黒猫の姿を認めると沖田は小さく声をあげた。
「この間見かけた猫ですね。原田さんが連れて帰るのはだめだと言ったのに」
「偶然ここでまた会ったんだよ」
数日前、この仔猫を最初に見つけたのは沖田だった。一度は屯所に連れ帰ろうとしたが副長が認めるわけがないのは明らかなので諦め、もう会うことはないと思っていた。それがどういうわけか、同じ場所で原田を(或いは沖田を)呼ぶように鳴いていたのを見つけてしまったのだ。それからというもの、この場所を通る度につい姿を探して構ってしまう。とはいえ、見かけない時もあるのだが。
退屈そうに寝そべる猫を持ち上げ沖田に触らせてやる。原田のそれよりやや細い沖田の指に、仔猫は喜んでじゃれついた。
「この子があまりに可愛くて忘れられなかったんですか?」
「だから偶然だっつってんだろ。顔見にきてるだけだ。飯やったりもしてねぇし」
「誰に言い訳してるんですか」
沖田が苦笑する。
「この子、名前は?」
「つけてねぇ」
「じゃあ黒豆にしましょう」
その言葉に反応するように、閉じられていた黒猫の瞳が少し開いた。瞳は月の色をしている。
「名付けなんかして、情が移っても知らねぇぞ」
「移りませんよ」
沖田が地面に返してやると、黒猫は原田の草履にまとわり付いた。やけに人慣れしている。
「僕もたまにここに来ることにします」
辺りを確認した後、流れるような動きで沖田がしゃがみ込む。猫の頭をそっと撫でてやり、強く生きるんだよと言い聞かせた。
京を離れるまでの間、原田はその場所を何度か訪れた。猫は時々そこにいて、黒豆、と呼んでみると訝しげな顔で気怠そうに鳴いた。
沖田とそこで遭遇することはなかった。
おまえはあれから黒豆と会ったのか。訊くこともなく、原田と沖田の人生がその後交差することはなかった。
物音に敏感なのは昔からの習性だ。
雨音に混ざって茂みから聴こえる微かな音に、沖田は薄い布団を剥ぎ上体を持ち上げた。
茂みが揺れる。
風か。そうでなくとも人間ではなさそうだ。
目を凝らしていると、音を立てて現れたのは毛並みの見事な黒猫だった。
「猫か」
咳が出て再び横になろうとした動きを、懐かしい気配が止めた。何とも奇妙な感覚だった。庭を歩く猫を見やる。
僕はこの子を知っている気がする。
あらゆる記憶の引き出しを探り、あぁと思い当たった。いつか、京で黒猫を見つけたことがある。あれはもっと小さな、生まれたての仔猫であった。
屯所に連れ帰ろうとしたのを止められ、その後原田に教えられてその仔猫が遊び場にしていたところへ何度か行ってみたが、沖田はほとんど会えなかったのだ。あの子は原田さんに会いに来てたのかな、と大して気にしていなかった。
布団から這い出て縁側に座る。黒猫は他所を向いたまま伸びをした。
「黒豆」
あの日、思いつきで付けた名前を呼んでみる。
黒猫は沖田を振り返り、月の色の瞳を大きくした。
そんなわけがない。ただ音に反応しただけだ。分かっているのに、思わず身を乗り出した。
「ここに彼はいないよ。僕ももう、あれから会っていないから」
黒猫は縁側に近付き、軽い動きで跳ねると縁側の沖田の隣にやって来た。雨と土を踏んだ肉球の跡が床の木目にはっきりと浮かぶ。
黒い毛の感触を確かめる。懐かしいかすら分からない。あの日、原田と撫でてやった仔猫の毛並みはどんなだっただろう。
雨音を聴きながら、あの日の仔猫より大きな黒猫を膝に乗せて背を撫でた。雨に濡れた体は冷たく重い。
「君も……強く生きていくんだよ」
あの頃みたく、敵と間違えて猫を斬ろうとする輩はもういないだろうけれど。
それは千八百六十八年 七月六日のことだった。
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