#3 春あらし

 寝室を抜け出しベランダのカーテンを開けると、空気はまだひやりとしていた。向かいのマンションに視界を阻まれているこの部屋からは朝日がどんな風に昇ってくるのか見えない。けれどあたりの建物の反射で、もう完全に陽は昇りきっているのだとわかる。今何時だろう。スマホを取りに戻ろうかと振り向いたとき、強い風が髪を揺らした。突風は淡いピンクの花びらを連れてきて、瑛二の肩に触れる。

「……桜だ」

 都内の開花から三日ほどになる。道路を挟んだ正面の公園に大きな桜の樹があった。そこから飛んできたのだろう。
 小さなくしゃみをひとつして、手の中で花びらをもてあそんでいると次の風に飛ばされる。
 桜の季節が来ると思い出す。
 初めて兄さんのことが好きだと誰かに打ち明けた。
 大きな背中、手のひら、唇。
 あの日、事務所の裏庭にも桜が咲いていた。

 

 兄の口から特定の女性の名前を聴いたのは初めてだった。
 HE★VENS結成四周年ライブの翌日、久しぶりの丸一日オフを利用して二人で箱根に行った帰りの車内で兄から報告を受けた。結婚を前提に交際を申し込んだ、と。

 ――瑛二に一番に知らせたかったんだ。

 兄が柔和な笑顔を覗かせる。弟の瑛二にしか見せない、小動物のように愛嬌を含ませた顔。でももうこれも俺だけのものではないのだと思うと泣きたくなった。
 高速をなめらかに走る車の後部座席、等間隔に並んだオレンジの街灯が兄の頬を照らす。それさえ神々しいほど美しく思える。そうなんだ、と瑛二は喜びと驚きを半々にかき混ぜて溶かした声色を作った。

 ――良かったね、兄さん。
 ――ありがとう瑛二。

 目を伏せると長い睫毛が影を落とす。横顔をじっと眺め、兄の視界に自分が入っていないことに安堵した。ずっと見つめていたいけれど、それを悟られるのは嫌だ。軽蔑されたくない。兄がそんなことをするはずないとわかっていても。
 相手の女性は、瑛二も面識のある人物だった。父親同士が旧知の仲で、上京してすぐに何度か食事を共にした。兄の二つ年上で、年齢の離れていた瑛二はその後疎遠になってしまったが兄が時々彼女と会っているのは知っていた。気の合う友人なんだろうと、その程度の感覚で。だから二人が恋愛という方面にシフトしていたのは意外だったし、これまで二人の関係をただの友人だと思い込んでいた自分の迂闊さも併せてショックだ。
 父はきっと二人の交際に反対などしないだろう。それどころか、(父にとっての)最善の選択だと喜ぶかもしれない。男性アイドルは結婚してからも変わらず仕事を続けることがほとんどだし、結婚の話はとんとん拍子に進んでいくビジョンが容易に思い描ける。
 そして瑛二だけが取り残される。昇華できない想いを抱えて、父から叱咤される夢を見る。でもだからといってどうすることもできない。どうしようとも思わない。自発的に生き方を決めるのは難しいから、もういっそのこと誰か――兄さんが決めてくれたらいいのに。瑛二の全てを。
 窓ガラスにこめかみを押し付ける。目頭が熱くて鼻の奥がつんとする。気を抜いたら涙が出そうだ。
 兄さん。俺も兄さんのことが好きなんだよ。
 言えない。言えるわけがない。物心ついた時にはもう抱えてしまっていた兄への過剰な愛情をどう処理していいのかわからないまま、十年以上隣で過ごしてきてしまった。
 門限十五分前に寮に戻り、共有スペースで読書に耽っていた綺羅とナギに挨拶して途中で別れた。
 今日はありがとう、すごく楽しかったよ。笑顔で言えた。行きに乗ったロマンスカーも、予約してくれていたランチも、温泉も本当に楽しかった。

 ――こういう旅は、本当は俺とではなく恋人を作ってしてみたいんじゃないか?

 足湯で温まっていたとき、兄がからかう口調で言った。瑛二はきれいなくるぶしに注いでいた視線を急いで上げて、冗談を装って「兄さんとのデートが一番楽しいよ」と笑った。本心だと悟られないように。
 デート、という言葉をひとつ使うだけでかなり勇気が必要だった。だって誰ともしたことがない。
 兄さんは恋人を作って、デートして、手をつないで、きっとキスをして、大好きの気持ちを伝え合っているのに。
 オフの日に兄と二人で出かけることに、一人で勝手に浮かれてしまったのがひどく惨めだった。部屋の扉を閉める。月明かりがレースのカーテンの合間を縫って差している薄暗い部屋はがらんと静かで、こらえていた涙が次々とあふれてくる。一度流れ始めたものはなかなかすぐに引っ込んでくれない。嗚咽が漏れて両手で口をふさぐ。呼吸を整えようとすると それに逆らってしゃくり上げてしまう。その度背中が震えて涙がぼろぼろと頬をこぼれ落ちた。

「おい、なんの音だ――」

 扉に背をつけてしゃがみこんでいたので、勢い良く開けられて思わず前のめりに倒れ込んだ。振り返るより先に、来訪者――大和に顔を覗きこまれる。床に向かって咳き込んでいたから体調不良か何かだと勘違いしたらしい。ぼろぼろの泣き顔を見て大和は目を丸くした。そして部屋の扉をゆっくりと閉め、しゃがんだまま瑛二の背中をさする。

「……なんかわるいもんでも食ったか?」
「違うよ!」

 首をぶんぶん振って否定したあと、そういうことにしておけばよかったと後悔した。泣いている理由を根掘り葉掘り訊かれたって答えられない。しかし大和は黙って背中を上下に撫で続ける。大和はもともと自分の言葉で話すのも、人の話の意味を汲み取って聞くのも苦手なタイプだ。上手に人から言葉を引き出すなんてこともできそうにない。でもそばにいてくれる。聞き上手な兄とは正反対だ。少しも重なるところがない――そう思うとまたこみ上げるものがあって、泣きだすと大和がため息をついた。
 面倒くさそうに長い欠伸もそれに続く。わざわざ見に来なければよかったと思っていそうなのに、ほっとけないところが大和も「お兄ちゃん」なんだなとふと思う。不器用で時々乱暴ではあるけれど根は優しい。もちろん根本的な解決にはなにひとつ至らないものの、しゃんとしないとという意識と一人じゃない安心感が涙をふっとゆるめさせた。

「……ごめんね、大和」
「なにがだよ」
「なんだろう、わかんないけど」
「わかんねぇのにあやまんなよ」

 ごめん、とまた言いかけて言葉を引っ込める。
 大和は立ち上がり、部屋の電気をつけた。さっきまで同じ高さに合わせてもらっていた目線がぐっと上がり、目が合わなくなった。

「はらへってねぇか」
「え、ううん」
「そうか。じゃ、あったかくして寝ろよ」

 ぽんぽんと頭を軽くたたかれる。大きな手のひらを乗せる置物になったみたいだ。
 瑛二は泣き止んだし、これでさよなら、おやすみなさい。明日は仕事があるし、消灯時間は過ぎたし、本当にお腹も減っていない。だから大人しく眠るのが正しいはずなのに、なぜか大和に出て行ってほしくなかった。思わず腕を掴んで引き留めた。

「……やっぱり、お腹空いた」

 指が寝間着のスウェットに食い込んだ。大和は文字通り不思議そうな顔をして瑛二を見下ろしたあとで「じゃあ行くか」と部屋を出る。人ひとり通れるくらい開けたままになった扉に、俺も行っていいんだ、と感じて嬉しかった。
 キッチンには作り置いたカレーがあった。あたためて冷凍ご飯を解凍すればすぐ食べられる。でも大和は戸棚の上の方からカップ麺を取り出すと湯を沸かし始める。沸騰した湯を注ぎ、三分待つ間、互いに何も話さなかった。スマホでかけておいたアラームが鳴る。「できた」と大和が箸を渡してきて、「いただきます」と受け取った。
 お湯を入れて待つだけの、作るのに失敗しようがないラーメンは普通においしかった。ただ、本当はそんなに空腹でもない。腹八分目をゆうに超えるランチをしたし、夕食もしっかり摂った。向かいに座る大和は、肘をついて手のひらに顎を乗せて瑛二をじっと見ている。
 嘘をついて引き止めた。多分大和もそれをわかっていた。
 ――俺はどうしてそんなことをしたんだろう。
 話したかったから? その割には何を話せばいいかわからない。音のない空白に誰かがいてくれたらいい、そんな感じが近い気がする。人恋しさ? そうかもしれない。
 四年間HE★VENSとして活動してきて、大和と特別仲が良いかというとそんなことはない。時々一緒に筋トレして、瑛二が育てた花を興味深そうに見ていたかと思えば「くえるもん育てねぇのか」と食意地を張って――それくらいだ。
 それに、大和が実兄の日向龍也を敵対視していた(という言葉で片付けていいのか瑛二には本当はよくわからない)ことは知っているので、瑛一のことが好きだと知られたらおかしいやつだと思われる気がした。

「もう腹いっぱいか?」
「うん。大和、食べられる?」
「おう」

 ずっと食べていればいいのに。そうしたらこのまま、会話もせず理由もなくこうしていられる。離れたくないと思った自分に驚いた。
 寂しいという感情は恐ろしい。たまたまそばにいてくれた相手でさえ縛り付けてしまいたくなる。
 まるで掃除機みたいな勢いで残った麺を処理したあと、流しにスープを捨てて「部屋かえろうぜ」と大和が振り返る。

 ――そろそろ出ないと寮の門限を越えてしまう。帰ろうか。

 腕時計で律儀に確認をして呟いた兄の言葉を思い出す。そんなのいいよと言いたかった。でもいい加減な奴だと思われたくなくて、そうだねと笑った。本当はもっと二人きりでいたかったくせに。

「戻りたくない」

 腕を掴むと、大和は明らかに困ったような顔をした。呆れ顔、というのが正解かもしれない。
 人のあたたかさを一瞬でも感じてしまうと、一人になる心細さが際立って怖かった。
 いいぜ、と大和は言った。

「え……」
「もどりたくねぇんだろ」

 うん、と素直に首を縦に振る。
 大和の言動には、なにか不思議な説得力がある。こうしたいから、する。こう思ったから、する。理屈より大事なもの。優先したらしたで周りから怒られたり呆れられることもあるけれど、それは今の瑛二に必要なものかもしれない。
 部屋に戻り上着を羽織って二人で寮を出た。裏手に停めたバイクに鍵を差す大和に、「門限破り、初めてじゃないの?」と声をかけると唇を尖らせる。

「しょっちゅうやってるように見えんのか」
「なんか慣れてるから……」
「デビューしてからは初めてだ。入ったばっかのころは、時々ヴァンとやってたけどな。これちゃんとかぶれよ」

 ヘルメットを付けるのは初めてだった。もたついていると大和が手伝ってくれて、後ろに乗るよう指示する。四輪の守られている感がなくて正直かなり怖いけれど、バイクが怖いからやっぱりやめるねおやすみなさいと言うつもりはなかった。
 エンジン音でばれたかもしれない、と大和の背中にしがみつきながら思う。どうしてこんなにびくびくしているんだろう。門限なんて本当はもう、未成年のメンバーになんとなく言い聞かせているものでしかないのに。
 四月とはいえ夜にバイクで移動するのは寒かったけれど、会話する必要がないのはありがたかった。当たり障りのない話題が思い付かない。瑛二も大和も会話の主導権を握るタイプではなかった。
 移動には十分もかからなかった。パーキングにバイクを適当に停め、そこから歩いて少し。ネオンがちかちかする店の扉を引き、大和が先に入る。そういえばどこに行きたいかとか、訊かれなかった。
 注文をカウンターで済ませて大和がスツールに腰掛ける。慌ててその向かいに瑛二も座った。ここじゃないどこかの駅前でも何度か見かけたことのある、チェーンの英国風バーだった。入るのは初めてだったので、店内はこんな風になっているのかと妙に感動してしまう。セルフで会計を済ませる方式なのがいいなと思った。カウンターに座って、マスターと会話しながら注文して、みたいなこなれた感じはどきどきしてしまう。
 細長いグラスに注がれたジンジャエールが二つ運ばれてきてやっと気付く。

「大和、お会計……」
「いまさらかよ。二杯目から自腹な」

 乾杯もせずにグラスに口をつける。瑛二もそれに倣った。
 目の下にラメをつけてキラキラさせた店員の女の子がおつまみのナッツを持って回ってきて、大和がそれを買った。また財布を出し遅れた。二言三言、軽いノリの会話を交わして彼女は隣の席に移動する。レジの前には自由に読める雑誌が種類を問わずがさっと積んであって、あちらこちらでたばこの煙が上がっている。落ち着かないのに、異世界みたいで少し楽しい。

「あんまきょろきょろすんなよ」
「ごめん。……大人が来るお店だなって思って」
「瑛二ももう大人だろ」
「そうかもしれないけど……」

 半年前に二十歳になった。けれどだからといって大人になったという自覚が勝手に伴うわけではない。HE★VENSとして活動していると必ず年下の枠組みに入れられるし、いくつになってもヴァンなんかは「若くてええなぁ」と羨ましがる(?)し。
 酒が飲めるようになったとはいっても、そういう年齢になっただけで味覚が変わるわけじゃない。現に、今も甘くないジンジャエールにびっくりしてしまったばかりだ。
 大和は一杯目を飲み干して氷を噛み砕くと、二杯目を買いに席を立ち、すぐに戻ってくる。小脇に抱えた雑誌をテーブルに置いて、一冊手に取った。瑛二も真似をして一番上を掴む。ぺらぺらとめくりながら、大和を見た。
 喫茶店で新聞をめくるサラリーマンと同じようなポーズなのに、なぜか絵になる。顔のパーツひとつひとつがくっきりしているから、むすっとしているくらいが、ややあどけない少年っぽさを消して年相応に見える。やはり大和も、兄が選んだ「アイドル」なのだ。
 ふと大和が視線を上げて、目が合いそうになって慌てて誌面に戻す。なんとなく、じっと見つめていたことを気取られたくなかった。
 ナイトガーデン、という文字が目に飛び込んでくる。

「なんだ、突然目きらきらさせて」
「これ、都内でやってるところ初めて見た」
「……ナイトガーデン?」
「夜にしか開かない植物を昼間に見るために、昼と夜を逆転させた温室を作ってるんだ。桜の季節が終わったら始めるみたい。すごい、行ってみたいなぁ……」
「行きゃいいじゃねえか」
「もちろんそうなんだけど……最近ますます仕事が忙しいから、昼間に出かける時間ってあんまりないんだよね」
「あぁ、たしかにな。瑛二また少女マンガの実写映画やんだろ」
「うん。多分最後の制服」
「わかんねぇぞ」
「もう無理だよ」

 撮影で着る予定の紺色のブレザーを思い浮かべながら雑誌を眺めていると、ここでの撮影にしてくれたらいいのに……と無茶な要望を突き付けたくなってしまう。もちろん誰にも言わないけれど。

「昼と夜、逆転してなかったら行けたかもしんねえのにな」

 ストローの先っぽを噛みながら大和が言う。

「夜の動物園とかあるだろ、あれの植物園版とか、あってもよさそうだよな」
「実際は難しいだろうけど、ロマンチックだね」
「瑛二がつくればいいじゃねえか」
「え?」
「好きだろ、花とか」

 好き、だけど。
 好きだからこそ、ぴょんっといろんな問題を飛び越えてそんな提案をする大和に驚いた。アイドルが片手間でできることじゃないし、多分少なくとも国内にはまだそんなものないし、知識だって足りないし――そんな正論を、軽々とぶち破ってくる理想論。
 ガーデニングは、今のところただの趣味でしかない。でも、いいなと思った。植物に囲まれると心が凪ぐし、木や花は愛情を注げばその分応えてくれる。
 ふと顔を上げて、大和の背景としか思っていなかった、店内の様子を眺める。カウンターに隣り合ってキスをするカップル、酔っぱらって目の焦点が定まらないスーツの女性、若い店員に絡む男性客――にぎやかな場所では誰も自分以外のことなんて大して気にかけていない。

「そういう仕事も楽しそうだよね」
「あぁ――でも夜に強くならねぇとな。さっきからねむそうな顔してんぞ」
「そうかな。今日、朝早かったから、言われてみるとちょっと眠いかも……」
「そろそろ帰るか?」

 大和が読みかけの雑誌を閉じる。疑問形ではあるけれど、瑛二に拒否権はないのだとわかった。ちょうど瑛二のグラスも空になったところだし、ジンジャエールの泡ももう口の中に残っていない。
 帰りたくなかった。でも、帰りたいと思う時なんて一生来ない気がして、だから帰らないといけないとも思う。
 三つ、空になったグラスをテーブルの端へ寄せ、大和が唇の端を上げて笑った。

「リーダー心配してるだろうしよ。さっきも秒で返事きたからな」
「え、大和、兄さんに連絡してたんだ」
「あたりまえだろ」

 ほんの数ミリ程度、顔がこわばった気がする。それを大和は見逃さなかった。浮かしかけた腰をもう一度椅子に沈め、「なぁ」と神妙な顔で声をひそめる。まずい。

「リーダーとけんかでもしたのか? めずらしいな」

 ううんと笑みを繕って、手を横に振って、否定して、と、ちゃんと頭に浮かぶのに行動に移せない。持っていた雑誌を山の一番上に積んで、視線を上げると大和もじっとこちらを見つめて様子をうかがっていた。

「……けんかは、してない」

 好きなんだよ、と、目をそらして、言った。

「は……」
「俺、兄さんのことが……」
「…………まじかよ」
「うん、まじだよ」

 言わなきゃよかった。
 顔に熱が集まるのがわかって、口にしたいと思った衝動は一瞬で恥ずかしさに変わる。言っちゃった。こんなこと、誰にも知られたくないと思ってたのに。するっと言葉になってしまって、瑛二自身が一番驚いた。

「……あつい…………」
「なんで照れてんだよ」
「だって……」

 思わずグラスを掴んで氷を口に流すように突っ込む。舐めて角を取ってから砕くまでの間に、大和はグラスを下げに行ってアイスコーヒーを二つ買って戻ってきた。「これもおごりでいい」と勧められ素直に受け取った。大和はミルクを二つ入れ、空きの容器をテーブルの端に避ける。

「で、帰れねぇのとリーダーが好きなのはなんか関係あんのか」

 答えがわかりきっている問いに小さく頷いた。グラスの汗をかいている部分とそうじゃないところの境目を指で拭う。
 大和は小さな背もたれに身体を預け、ゆったりと腰掛け直した。取り出しかけたバイクのキーを上着のポケットにねじこむ。
 具体的になにがどうかとか、訊かれなかった。だから沈黙に責められているような気持ちになる。
 共有スペースのホワイトボードに二人分の予定を書いて出かけたので、今日兄と二人きりだったことは多分知っているのだろう。
 恋人のことは、兄かがメンバーに直接話をすると言っていた。瑛二がここで大和に漏らしてしまっても兄はきっと怒らない。でもアイドルである自分たちにとっては少なからずセンシティブな話題だから、軽々しく話すべきではない。
 瑛二自身の気持ちを聞いてほしいと思った。誰かに打ち明けて、知ってもらえるだけでいい。
 だってずっとこの熟れ切った気持ちを一人で実らせ育て、抱えてきた。
 グラスで指を冷やしながら、話し始める。

「今日、兄さんと二人で箱根に行ったんだ。二人で出かけるのもオフも久しぶりで、すごく楽しかった。兄さん、俺に、本当は彼女とか作って、彼女と遊びに来たいだろうって言ったんだ。俺にとってそんなこと、ありえないのに」

 自嘲ぎみなトーンになってしまい、慌てて「今は、だけど」と付け足す。大和は口元を覆うように片手で頬杖をついて、瑛二から視線をそらしてまた戻ってくる。

「兄さんは俺の兄さんだから、俺と二人で出かけてくれる。兄さんだから、俺がどれだけ願っても、それ以上には絶対になれないんだ。そう思うとなんだかむなしくて……おかしなこと言ってるってわかってるんだ。ごめん」
「別におかしいとは思ってねぇよ」

 まっすぐ、橙に輝く瞳を見ればわかる。その言葉はうそじゃない。

「相手がリーダーってのはおれにはわかんねぇけど、それ以外、瑛二が言ってること、ちゃんとわかるから」

 だから。
 その続きはなかった。
 大和がくれるのは、共感じゃなくて共有。それだけで十分心強かった。考えていること、思っていること、それがどんなに卑屈な妄想かもしれなくても、知ってくれているだけでこんなに安心する。
 大和はさっきまで瑛二が読んでいた雑誌を、テーブルに置いたままぱらぱらとめくる。間を持たせるためしきりに啜っていたから、コーヒーはすぐに空になってまた氷だけが残ってしまった。
 目の前に、カーキのケースをつけたスマホが差し出された。

「朝まで瑛二にあずける」

 夜遊びしようぜ、と大和が笑う。

「もしリーダーに連絡すんなら、瑛二がしろよ。おれのスマホからしてもいいから」

 両手で受け取る。スマホってこんなに重かったっけ。わかった、と返事をして二つともを鞄にしまった。それが意思表示だった。
 何番の駐車スペースに停めたか確認している間に大和が清算を済ませ、ヘルメットが飛んでくる。バイクにまたがり大和の背中に腕をまわすと「寝るなよ」と手首を叩かれた。

「寝たら落っことすからな」

 冗談とは思えない声色でそれだけ言って走り出す。遠くに行くのと訊いて見上げても返事はなかった。きっとそれが肯定なんだとわかった。
 気分は高揚していてもまぶたは勝手に落ちてくる。運転している方って、眠くなったりしないんだろうか。
 眠気覚ましがてら歌をうたうと信号待ちの途中で何の歌かと訊かれた。

「今作った歌」
「オリジナルかよ」

 着くころには覚えちまいそうだな、と、笑う顔が赤いライトに照らされる。

「こんな時間でも案外人がいるんだ」

 砂利にロープが引かれてできた駐車場には車が十台ほど停まっていた。ヘルメットを渡すと今度は黒いキャップを被せられる。大和はマスクを装着して、スニーカーで小石をじゃらじゃら踏み鳴らしながら歩く。

「お店じゃ変装しなかったのに?」
「写真とってるやつがうじゃうじゃいるらしいからな」
「どういうこと?」

 以前に、ここがどこかも結局聞きそびれてわからない。途中の標識からもどんどん知っている地名が消えていって、新宿までの距離を示す数字はだんだん大きくなっていった。
 街灯のない小道を歩いていると、向かっている方向にぼんやりとオレンジ色の明かりが見える。木々の間からきらきらと光って見えるものは水面だろうか。

「――あ!」

 突然視界が開けて、きらきらの正体は池だとわかった。その半周くらいを囲むように大きな桜の樹が植わっている。ほのかなオレンジの明かりは、等間隔にぶら下がった無数のちょうちんだった。

「写真で見るよりきれいだな」
「さっきお店にあった雑誌でちらっと見てたの、ここだったんだ」

 転落防止の柵ぎりぎりに近付き、しゃがんで目線と水面を平行にする。向こう岸の池のふちを境目に、桜とオレンジの明かりたちが池の表面に映って揺れている。きれいだね、と呟きながら、まるで別の世界みたいだとも思った。飛び込めば違うところへ行けそうで。子どもの頃、絵本の中に入ってみたいと空想したのと同じ感じだった。
 それでも、自分だけが向こう側に行くのは怖い。一度入り込んでしまったら、こちらからは消えて、水面に映る自分の姿だけになってしまいそうだ。想像したらぞっとした。
 そして、思った。一緒に来てほしいって言ったら、大和はゆらゆら揺れる別世界にも連れて行ってくれるのかな。

「いこうぜ」
「え……」

 ぽんと背中を叩かれ、思わず「どこに?」と問いかけた。もしかして、考えてたことが伝わった? 大和は池の向こう岸を指差す。夏の雲みたいな勢いで咲き乱れている春の桜を。

「あっちの方がすいてんだろ」
「みんな桜が近くで見たいから、あっちの方が人が多いんじゃないかな」
「や、目当てはこっち側だと思うぜ」

 大和が顎で軽く示す方向に、三脚にセットされてこちらを向いたカメラがずらっと並んでいた。それはもう、ぱっと見じゃ驚いてよろけてしまうほどに。その持ち主はというと、レジャーシートを敷いて寝転がっていたり、スマホゲームに熱中していたりまちまちだ。
 被写体は桜の樹と、それが池に映った姿だった。朝日がのぼるタイミングがいいらしい、と大和が雑誌の受け売りをそのまま教えてくれた。車で来て、こうして朝まで場所取りをして張っているというわけだ。

「じゃあ俺たち邪魔しちゃってたんだね」

 一度存在に気付くとカメラマン達の視線が痛い。日が昇る時にそこに突っ立ってたらぶっとばす、くらいの気迫を感じる。まだその気配すらないこのタイミングで、百八十八センチの大男相手に声を荒げる猛者はさすがにいなかったけれど。
 池の外周に沿って歩いていくと、角度によって水面への映り方が変わって面白い。本物は真夜中でも鮮やかな色なのがわかるのに、池に映った方は半透明のフィルタをかけたようにくすんで見えて、でも瑛二はそれが好きだと思った。どちらもこの目でじかに見る本物であることには変わらない。
 途中、自販機であたたかい缶コーヒーを買った。そろそろ何か返さないと、という気持ちで二本渡すと一本は突き返される。無糖の方。

「きれいだね」
「瑛二、さっきからそれしか言ってねぇな」
「きれいなものはきれいだから。それ以上、なんて言ったらいいかわからないし。大和は桜、好きじゃないの?」
「んなことねぇよ」

 けれどやっぱり桜を眺めようとはせず「おれは」と言う。

「おれは?」

 続きを促すとなんでもねぇよとはぐらかされる。風が吹いて、大和が振り返る。桜を見ているんじゃなくて、瑛二の紫色の瞳を覗いていた。

「なに?」
「あいつのどこが好きなんだよ」
「え……」

 一瞬戸惑ったけれど、そんなの決まってる。よどみなく「全部」と答えると大和は不満そうだった。好きなところなんて、本当は十本の手の指だけでも、それに足の指を加えたって足りないくらいある。

「いつも堂々としててかっこいいし、みんなに優しいし、兄さんといると安心する。尊敬してるし、俺が、支えたいと思うし、そんな兄さんに愛されていたいって思うんだ」

 周りをちゃんと見てくれているところ。自分でも気付けない他人の長所に気付くところ。それをちゃんと褒めてくれるところ。自分に自信があるところ。努力家なところ。なんでもできるのに、それを人に押し付けない。背の低い瑛二が辛くならないように、でも自尊心を傷つけないくらい自然に、膝を折って話してくれる(父さんは絶対にそんなことしない)。一週間に一度やすりで整えるきれいな爪。自分で靴をぴかぴかに磨くところ。時々昔を懐かしんで見せる目を細めた笑い方。どれも大好きで苦しくなる。

「俺は兄さん以外誰も好きになったことがないけど、これが好きっていう気持ちなんだと思うし、どうして好きかなんて、言葉にできる理由なんて、本当はないんじゃないかな」

 好きという気持ちは突然降ってくるものだった。いつこの感情を自覚したのか思い出せない。いつから兄のことが好きだったかなんて、その瞬間に戻りでもしない限り絶対にわからないだろう。
 口を重くして瑛二をじっと見つめる大和に「俺なんか変なこと言った?」と問いかける。明らかに瑛二を見ているはずなのに目が合わない。なんでもねぇよとはぐらかされた。

「早くいこうぜ」

 コンパスの違う大和と歩いていると、せかせか早歩きしないと隣を歩けない。途中までそんなことなかった気がしたのに、大和は両手をポケットに突っ込みながら自分のペースを乱さない。兄さんはいつも合わせてくれる、と思い出し、頭を横に振った。楽しかった時間のことを考えると、今隣にいるのがどうして兄さんじゃないんだろうと思ってしまう。
 ちょうど半周過ぎたあたりは、見上げれば空が見えないくらいの桜に覆い尽くされていた。満開にはまだ早い。かわいいつぼみと開ききった花びらとが混ざったピンク色を眺めていると、いきなり足を止めた大和にぶつかった。

「わり」
「どうしたの?」
「なんでもねぇ。まじで誰もいねぇな」
「桜見るならお昼の方がいいのかもね」

 ぽつぽつ灯ったちょうちんのおかげで足元は薄ぼんやりと見えるけれど、少し頼りないような気もする。そのせいか二人だけで違う世界に来てしまったような心地を覚えた。一人じゃないから怖くない。
 太い樹の幹に背をつけ、大和が座り込む。瑛二、と呼ばれてそれに倣って隣に腰を下ろした。大和がマスクを外すのに倣って瑛二も帽子を取る。

「肩かせよ」
「肩?」
「眠い」
「こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ」
「寝ねぇと帰り事故る」
「マフラー持ってくれば良かったね」
「風邪ひくなよ。おれもひかねぇから」

 どうやって、と訊く前に大和は寝落ちたようだった。こういうのをなんていうんだろう。破天荒? 自由奔放? 兄と同い年なのにいつまでも良い意味で少年の面影を感じさせる大和に正直ほっとした。兄と全然似ていなくて。
 肩を貸したまま頭上を見ると髪が頬にあたる。シャンプーの匂いがした。これが大和の匂い。
 毎日忙しすぎたこともあって、桜が咲き始めていたことに気付いていなかった。
 兄と二人で箱根の駅に降り立って、桜が美しいなと言われてはっとした。もうそんな季節だったんだ。寮の裏手にも咲いていたはずなのに、知らなかった。
 きれいなものに気付くとき、いつも隣に兄がいる。
 好きな人がそばにいる。だからきれいなものをきれいだと思えるのかもしれない。兄の隣で、同じものを美しいと感じられることはなんて幸せなんだろう。
 スマホを二つ取りだした。まず自分の端末を確認して、それから大和の端末のディスプレイを点灯させた。アプリの通知が一件だけ。

「連絡してきてほしいのかよ」

 眠っていたと思っていた大和に突っ込まれ、肩がびくりと揺れる。

「わかんない……でもちょっと、がっかりしたかも」
「同じ兄弟でも、ちがいすぎてよくわかんねえな」

 瑛二と、おれ。大和は寝言みたいにそう言った。

「大和は、弟さんたちのこと好きじゃないの?」
「好きとかきらいとかじゃねえよ。弟だなぁとしか思わねえ」
「……お兄さんのことは?」
「べつに。おれより先に生まれたやつ。それだけだろ」

 小さく唇を尖らせる。桜の花びらがはらはら落ちて積もっていく。橙の灯りに花や枝の輪郭がぼんやりぼやけた。

「おまえ、兄さんと付き合いてぇのか」
「付き合う……とかは、よくわからない。俺、誰とも付き合ったことないし」

 縁遠い単語に顔が熱くなる。
 兄さんは、と考える。
 この関係に「恋人」という名前をつけなくても二人で出かけられるし、手だって繋げる。してほしいと言えば多分抱きしめてくれるし、もしキスしてしまったって、何にもなかったみたいに笑って流してくれるかもしれない。
 ほしいのは行為じゃなくて気持ちだ。けれどどうやってそれを渡して、どうやって受け取ればいいのかわからない。
 兄は瑛二が好きだと言ってくれる。それは間違いなく本心で、その種類がちょっと違うだけだった。それをどうやって瑛二のものと同じにしてもらって、どうやって証明してもらうのか。大人になればわかると思っていた。
 気持ちを、心を欲しがれば、きっと兄は困るだろう。
 キスしてほしいと言えば、もしかしたら応えてくれるかもしれない。だってそのための唇はちゃんとついているし、目に見えるものだから。
 心は難しい。目に見えないから。兄に、恋人みたいに振る舞ってほしいわけじゃない。なのに恋人ができたと聞いてショックだった。その分瑛二への愛情が減るわけでもないのに。

「……なんで泣くんだよ」

 言われて初めて、自分が泣いていることに気が付いた。
 桜の花びらが落ちていくのよりずっと速いスピードで、頬に涙が転がっていく。大和の指が溜まった涙を掬ってくれる。

「いくらでも泣けんだな。つかれるだろ」
「ごめん……ありがとう」
「なんもしてねぇよ」
「でも、今日は一人になりたくなかったから……。大和が一緒にいてくれて、本当に嬉しかった」

 視界が涙でにじんでいく。水彩画みたいに揺れる世界に、白い花びらが舞う。触れてみたくて手を伸ばすと、指先が大和の頬に当たった。
 ごめん、と引っ込めかけた手首を、ぐっと掴まれる。
 大和の体温が離れていく。少し距離を取って見つめられ、真剣な瞳に心臓がどくんと跳ねる。こんな感情の名前を瑛二は知らない。
 この瞳の深いところに自分が映っているような気がして目が離せない。見えない糸で引かれ合うように唇と唇がそっと触れた。

 キスだ。

 きっと一秒にも満たなかった触れ合いのあとに、その単語が降ってきた。それはすぐに降り積もってきて瑛二の心を占めてしまう。初めてだった。むきだしのこんな部分が人と触れると、勝手に心臓がどきどきするなんて、呼吸が苦しくなるなんて、知らなかった。
 吸い込まれてしまったみたいに視線をそらせない。鮮やかなオレンジ色の瞳に桜が映って、ぎらぎらしてきれいだった。燃える炎みたいに熱くて、ステージで浴びるスポットライトのように強烈で。

「おれにすりゃいいじゃねぇか、瑛二」

 朝日が昇ってきて、目を細めた。
 ぱちぱちと瞬きして世界の表と裏を確かめる。この目に確かに見えている方の世界は、眩しくて、そして怖い。

 

「連れ回してわるかったな」

 瑛二を寮の裏手に下ろしたあと、大和はバイクに跨ったまま口をへの字に曲げた。きっと、本当に悪いことをしたと思っている顔。走り足りないらしい大和にスマホを返して、ありがとうと微笑んだ。久しぶりに自然な笑顔が浮かんできて安堵する。もう大丈夫。
 あのキスのあと、帰ろうと言ったのは瑛二だった。また池の周りを歩いて対岸に戻ると、カメラマンの数は倍以上に増えていた。誰も二人に興味を示すことはなく、するっと通り抜けて一言も口を利かないまま帰ってきた。
 初めてのキスはそれだけで衝撃的で、しばらく顔の赤みが引かなかった。見られたくなくてキャップのつばを下げ、下を向いて歩いた。まだ薄暗い道を、大和と手を繋いで歩いた。深い意味は何もなくて、ただどこかで触れ合っていたい、そう思った。

「……なぁ瑛二」
「大和」

 同じタイミングで口を開き、思わず笑う。なんだよ、と順番を譲られて、訊いた。

「どうしてキスしたの?」

 そんなことしてねーだろ、と忘れたふりをされてもおかしくない。でもそれは嫌だ。夢にしてほしくない。
 わかんねぇけど、と大和が頭を掻いた。

「してぇなと思ったら、していいか聞く前にしてた。わるかったな」
「ううん、謝らないで」

 慌てて否定すると大和はちょっと複雑そうな顔になった。弱ったというか、困ったというか。そんな風なニュアンス。
 大きな手のひらにくしゃくしゃと頭のてっぺんを撫でられる。したことはしたことで事実なのだから、冗談にされるのは嫌だ。

「俺、初めてだったけど……なんていうか、こんな感じなんだなって思って……。よくわからないんだけど、大和とキス、したこと……多分一生忘れられないと思う」
「じゃあ」

 大和はちょっと黙ってから、瑛二の髪を一房掬って手の中で弄ぶ。

「もう一回していいか」

 一瞬どきっとしたのは、大和が真顔でそんなことを訊くからだ。返事の代わりに背伸びをして近付く。
 ただ嬉しかった。大和は「俺」を欲しがってくれている。たまたま慰めてくれて、何かの気の迷いでキスしてしまっただけだとしても。こんなに誰かに求められたいという欲望が自分の中にあったなんて知らなかった。
 大和の手のひらが頬に触れて、そっと唇を重ねた。何かを確かめるようにくっついては離れ、また触れ合うとほっとする。まだ終わりじゃないんだ、と。じっと見上げていると大和も目を開けていて、だから唇が離れていても視線が絡まりどぎまぎする。目のやり場を、硬直してしまっている腕を、支えらえた頬をどう動かせばいいかわからない。

「なぁ」

 少し距離を取り、頬を覆った手に耳を撫でられる。

「なんて言えばいいかおれにはわかんねぇけど……その、なんだ……つきあおうぜ?」

 語尾が小さく跳ね上がるのに、微かな緊張が見て取れた。二人で出かけて、キスをして、別れのタイミングで、告白。少女漫画じゃよくある展開だ。でも実際に鳳瑛二として経験するのは初めてで言葉に詰まった。だって大和のことが一番に好きなわけじゃない。

「……なんか言えよ」
「あ……ごめん、嬉しいけど……だって俺兄さんのことが好きなんだよ?」
「さっきも聞いた。わかって言ってんだよ。リーダーじゃなくておれを好きになれなんて言わねぇし、思ってもねぇ。リーダーのこと好きな瑛二がいい。だからもう一人で泣くなよ」
「なんでそんなこと言ってくれるの?」

 純粋な疑問を口にすると、大和もきょとんとしてなんでだろうなと呟いた。困ったようにはにかむのがちょっとかわいくて、そんなことを思ってしまう自分に驚いた。

「むずかしいことはわかんねぇけど、好きだからだろ」
「…………好き」

 その単語を自分で口にした瞬間、ぶわっと音をたてそうな勢いで顔が赤くなるのを感じる。
 俺は、兄さんが、好き。その「好き」と同じはずなのに、全く知らない感情のようで受け止めきれずあふれてしまう。冷たい両方の手のひらが頬を包んで、大和がおかしそうに声を漏らした。

「すげぇまっか」
「だって……そんなこと言われると思ってなかったから」
「言われなれてるだろ」
「エンジェルたちから言われるのとは違うから……あの、ありがとう……嬉しい、です」
「ん」

 優しく触れられて、涙が出そうになった。
 兄を好きでいる限り、想いは一人で抱えていくものだと思っていた。誰ともわかり合えず、分かち合うこともなく。だけど優しい手のひらが、一人にしたくないと伝えてくれる。

「俺、兄さんが好きなのに、いいのかな……」
「おれがよくて、瑛二がいいならいいんだろ」
「そういうもの?」
「そういうもんだ。な、瑛二――」
「大和、キス……したい」

 もう十分できそうな距離まで来た大和を見上げると、今度はそっとまぶたを撫でられた。

「目閉じろよ。ずっとあいてんの気になんだよ」
「……うん」

 心の底から、大和を好きになれたらいいのに。
 願いをキスにする。まだまだ、こうして触れ合えるのが幸せだと思える距離には程遠い。きっとゆるやかな安全地帯だ。兄が唯一埋めてくれない部分を埋めてくれる人。それでもいいと言ってくれる人。本当は甘えてはいけない人。
 抱き合った背中を掴んだ。心の全てを塗って、塗って、塗りつぶして、いっぱいにしてほしいのに。

 じゃあなと手を上げ大和は再びバイクに跨った。ありがとう、と見送った。
 振り返り、寮を見上げる。鳥のさえずりだけがそこにある音だった。夢かもしれない。
 眠たくて目をこすると、さっきまで気にならなかった寮に植わった桜が満開だったことに気が付いた。まるで春あらしの魔法のように。

 

 小さなくしゃみがひとつ出た。四月上旬の空はまだ冷える。パジャマの上に羽織るカーディガンを取りに行こうかと振り返ると、窓を隔てた向こう側に大和が立っていた。

「冷えんだろ」
「うん」

 手にした大和のサイズのパーカーを当たり前みたいに肩にかけてくれて、二人でベランダに並ぶ。一人で見ても二人で見ても変わらない日常の光景。風に乗って運ばれる桜の花びらだけがいつもと違う。

「桜、けっこう咲いてきたな」

 大和も桜を見てはあの日のことを想うのだろうか。景色の移り変わらないこの部屋で。肩に乗せていた頭を上げてキスをねだると「目つむれよ」と笑う。途中で開けるといつも怒る。それがわかるくらい、大和はずっと開けているのに。

「好きだよ」

 指を絡めて手を繋ぎ、ぴったり寄り添い合う。好きだと言葉にするのはまだ少し照れてしまう。けれど言わないと伝わらない。言葉のいらない交わりに身を預けすぎてしまったから。
 大和、と呼ぶと手を強く握られる。

「俺ね、年末に家出してナギのところに行った時に、言われたんだ」
「ナギに? なんて」
「大和のこと好きなんでしょって。すごくシンプルなことなのに、俺、今までどれだけ大和のことが好きかなんて、考えたことなかった。当たり前みたいに大和の家に帰って、キスも、セックスもしてるし、なのに俺、大和のことどう思ってるんだろうって、考えたことなかった」

 大和とけんかしちゃった。それだけ言うと、ナギは当然のことみたいに家に泊めてくれて、深い事情を何一つ話していないのに砂の城を崩すみたいにそっと核心に触れてきた。心はそのままさらさら溶けだして、子どもみたいに泣いた。目を背け続けていたことに気付いてしまったから。

「俺、どれだけ大和が好きなんだろうって考えたんだ。そしたらすぐにわかったよ。大和のことが大好きだって」

 だから兄に話すことを決めた。大和とは、大好きな兄に胸を張っていられる関係でいたいと思った。

「俺、昔仕事でいっぱい少女漫画の実写やってたでしょ? だから結構色々読んだんだけど、どうしてみんな、血も繋がっていない人をあんなに好きになれて、夢中になって、自分のいろんな部分をさらけだしていられるんだろうって不思議だったんだ。俺は兄さんにしか無理だって思ってたから」

 でもわかった。家族じゃないのに家族みたいに大切に思える人がいる。悲しませたくない人がいる。もし自分の一部が必要になるなら何だってあげたい。身体だけじゃなくて。

「俺を好きになってくれてありがとう。大好きなのと同じくらい、大和に感謝してる」
「礼言うことじゃねぇよ」
「ううん。すごく嬉しかったし、今も大和が俺を愛してくれることが、すっごく幸せ」

 繋いだ手の甲にキスをして、桜の花びらさえ入り込む隙間ができないようにぴったり寄り添い合う。
 隣で派手なくしゃみがひとつ。はいろうか、と見上げると甘やかな二度寝のお誘いがあった。うんと頷き低くなった体温を分かち合う。
 好きだ、と唇も身体も瑛二にささやく。受け止めるだけじゃない。大好きの気持ちを瑛二も伝える。だって思っているだけじゃ届かない。
 何度でも二人でひとつになりたい。
 それもきっと気持ちを確かめる魔法になる。