二番星、きらきらひかる

「あかん疲れたぁ……死ぬかおもたわ……」

 ぱたり、という謎の効果音まで自分の声で再生して、男はレッスン室の真ん中で倒れこんだ。おおげさなのだ、いつもいつもこいつは。

「桐生院さんはもっと体力つけないとね」

 言い残して、ダンスレッスンの講師が部屋を出て行く。ぺこりと頭を下げてから瑛二が横たわる男に駆け寄った。

「大丈夫? 今日もレッスン厳しかったね」

 労わるようにヴァンの肩をさする。疲れなんて全く感じさせない涼しげな顔をして。
 鬼のようなダンスレッスンの後、決まってヴァンが倒れ瑛二が心配そうに顔を覗く。そして体を起こすのはいつも大和だ。肩を貸してやると、決して細くはない腕がよろよろと大和を頼る。確かにこれは間違いなく体力不足だ。

「おら、起きろ」

「わぁー、大和ほんまたくましいわぁ」

「うるせぇ。行くぞ瑛二」

「うん」

 わざと甘えた口調のヴァンを諫め、消灯と施錠は瑛二に任せて部屋を出る。レッスンの後は大浴場で反省会をするのが三人の暗黙の了解になっていた。「水飲んでくるわ……」と力なくウォーターサーバーに向かうヴァンを見送り、脱衣所で瑛二と並び合って服を脱ぐ。じっとこちらを見つめる目線に気付いて「なんだよ」と言うと、瑛二は脱いだジャージを器用に畳みながら「ごめん」と眉を下げた。

「大和、ちょっと身長伸びた?」

「んなわけねぇだろ、おれもう22だぞ」

「だよね」

「おまえがちぢんだんじゃねぇの?」

 瑛二の年齢は確か十六だったか。一般的には成長期のはずだがまだ来ていないのだろう、多分。平均より低身長なことに悩んでいるらしい瑛二は、「縮んでも伸びてもないよ」と少々拗ねた様子を見せた。

「……大和、牛乳飲んでる?」

「たまに」

「わかめは?」

「食う。それ、髪のびるとかじゃねぇの」

「そうだっけ。じゃあ納豆は?」

「食うけど。あんま好ききらいねぇしな」

「うーん……」

 と唸ったのち、瑛二は脱ぎたてのTシャツにため息をこぼす。まだ真新しいので、タグについたSサイズの文字が褪せもせずくっきりと主張している。

「まだこれからのびるだろ」

「だといいなぁ。大和はいつからそんなに大きいの?」

「小1のころから一番うしろだったからわかんねぇな」

「違う世界の話だ……」

「んなことねぇよ」

 背を叩いて励ましてやっていると「生き返ったわぁー」とすがすがしい顔のヴァンがやってきた。

「なになに、なんの話?」

「こいつの身長がこれからのびる話」

「なんやえーじちゃん、気にしとん? まだ若いのに。今何センチやっけ?」

「……163」

「のびるのびる。ワイもえーじちゃんくらいやった気ぃするけどちゃんとここまで伸びてんから」

 な、とヴァンが笑いかける。誰にでも細かい気遣いができる男だ。

「メンバーん中ではそんなやけど十分やで」

「そうだよね!」

 大丈夫、と自分に言い聞かせるようにしながら瑛二は衣類を外した腰にタオルを巻く。当然男湯で、他に誰がいるわけでもないのに。毎度のことなのでもう気にしていないが、見えても差し支えないはずの場所を隠されることに心臓が跳ねる感覚が時々あった。あれだ、全部見えるより見えそうで見えない方がそそられる――的な。男にムラムラくるわけではないが、ヴァンも嗜好が同様なようで「よぉわからんけどちょっとエッチな感じやんな」と言っていたのがなんだかんだ言って的確だと大和は思う。

「先に入ってるね」

 浴場に向かう背中は未成熟な子どものそれで、いつ柔らかく崩れてしまってもおかしくないくらい頼りない。後ろでヴァンが派手なくしゃみをかます。

「あかーん、風邪ひいてもぉたかも」

 大げさに体を震わせてみせるヴァンを置いて大和も瑛二に続いた。
 これも誰が決めたわけでもないが、体と髪を洗ってから広い湯船に浸かる流れが三人の定番になっていた。瑛二が先に洗い始めるが終えるのは大和とほぼ同じくらい。洗髪に時間がかかるらしいヴァンが五分ほど遅い。これもいつものことだ。
 湯に体を沈めながら息を吐き、琥珀色の天井を見上げる。実家の風呂場も銭湯まがいの広さだったが、比べ物にならない。ちょっとした温泉施設だ。サウナとか露天風呂とか気の利いたものはないけれど。

 そもそもこの事務所寮自体が、デビューも決まっていない研修生である自分たちには不相応だと思う。風呂はないが鍵のついた個室が与えられ、思えばレッスン着や備品も支給されたし消灯時間が決められているわけでもない。二週間前、道場破りの勢いでデビューさせろと門を叩いた時には想像していなかった待遇だ。

「はーいミーティングするでー」

 手を叩きながらざぶっと波を立て、ヴァンが仕切り始める。一ヶ月前までは地元でサラリーマンをしていたという彼は良い意味で平凡で、その社会性や協調性の高さは大和にはないものだ。

「本日の課題、はい大和」

「おまえの体力のなさ」

「善処します!」

「具体的には?」

「朝の走りこみやろうぜ。瑛二も」

「毎日9時からレッスンやのにまだ追加? 鬼なん?」

「俺は構わないよ。大事なことだし」

「まぁ正論やな!」

 決まりな、と畳みかけ、6時に裏門集合の約束を取り付ける。

「他は? えーじちゃんはどない思う?」

「うーん……歌のレッスンはまずまずとして、やっぱりダンスかな? 息合ってないし、三人ともまだ振り間違えることがあるもんね」

「リズムに合わせて体動かすって難しいんやなぁ」

「あぁ。自分の都合でうごかしてりゃいいって問題じゃねえ」

「三人だけだとフォーメーションの確認もやりにくいしね」

「せやなぁ……」

 まぁなんとかせなあかんからな、と落ち込んだ空気を抜かりなく引き締める。小首を傾げ「なんとかって?」と幼気に問う瑛二に、「まかせとき」とヴァンは華麗にウィンクを決めた。

「えーいっちゃんに話してみるわ。歌のレッスン時間をちょっとダンスに割けへんかーってことと、あとあっちの三人と合同レッスンもやりたいやろ? そのへん色々と」

「そうだね! あとは練習あるのみ!」

「倒れん程度にな!」

 励まし合う二人を、大和は離れた場所から見ているような気分になった。ヴァンはすごい。何がって――とにかく、すごい。そこまで歳が離れているわけでもないのに、歴然としたこの差は何なのか。大学に入って、それなりに勉強して卒業して就職して、真面目に働いて、それのどこが偉いのかと自分に問うた後で思い直す。いや、普通に偉すぎるだろ、と。
 事務所の仲間やスタッフからの信頼も厚いし、未だに前の職場の同僚たちから連絡が絶えていないことも知っている。あのまま普通に社会人を続けていれば順風満帆な人生を送れただろう。それをこんな世界に飛び込んで、経験のない歌やダンスに向上心を持って取り組む姿は正直眩しすぎて直視したくない。

 5分ほどああだこうだ話し合った後、ヴァンが先に風呂を出た。髪を乾かすのもヴァンが一番時間をかける。
 ふぅ、と安堵したように息を吐いて隣の瑛二が肩まで湯に浸かる。小さいと肩まで浸かれていいよな、と思ったけれど、地雷を踏み抜くことになるのは分かっていたので口には出さない。

「兄さんたちと一緒に練習できるかなぁ」

 瑛二がひとりごちた。
 瑛一と、大和より一年ほど早く事務所に入ったらしい綺羅、ナギの三人は別プログラムでレッスンを受けている。彼らとの合同レッスンは大和たちにとって刺激になるだろう。が、下手に期待させるわけにもいかないので、変化球を投げた。

「おまえ、ほんと好きだな兄貴のこと」

「えっ、そうかな……普通だよ……」

 ――おまえのふつうはふつうじゃない。

 少なくとも、大和にとっては。
 彼ら兄弟の何を知っているわけでもないが、自分と兄との関係と大きな差があるのは分かる。常にうんざりするほど兄への尊敬オーラを出しているくせに、瑛二はそれを隠したいようだった。俺もあがるね、と細い体がぱたぱたと水滴を落としながら出て行くのを、大和はじっと見つめていた。

 

 

 

 

 アイドルになってやる。
 決心したのは、一ヶ月前、母親が見ていたテレビ番組がきっかけだった。

 いかにも筋肉バカっぽい男たちが集まり、己の肉体で戦い合う、まぁよくある番組だ。あまり機械に頼らず、決勝戦は拳のみで勝負をつけるという潔さが面白いと思った。しかし結局決勝戦は放送されなかった。決勝戦、というものがなくなったのだ。
 誰も勝者の日向龍也と戦おうとはしなかった。いい線いってる選手は何人かいたのに、全員が戦う前から負けを認めた。不戦勝。番組は日向龍也の強さを誉めそやしたが、そんなみっともねぇ勝ち方あるかよ、と大和は思った。

 ばかばかしくてテレビを消して、リングで相手を待つ日向龍也の姿を思い返すと腹が立ってきた。戦える立場のくせに逃げやがって。おれなら――おれならもっと。
 ちゃぶ台に置かれた新聞で番組名を確認し、問い合わせ先を調べた。「おれを出せ」と名前も名乗らず要件を伝えると、番組のファンと思われたのか、芸能人対抗だからと丁重に断られてしまった。

 必ず同じリングに上がってやる。
 夕飯できたわよ、と母親の声を無視してバイクにまたがった。

「テキトーに連絡する」

「はいはい」

 と、母親はその辺のスーパーにおつかいに出すような気軽さで送り出してくれた。
 もともと地元に愛着はなく、それどころか苦手な町だった。高校に入学した頃から実家に帰らないことも多かった。けれど、今度はわけが違う。本当に二度と帰らない場所になるかもしれない。
 信号待ちをしながら、実家の荘厳な鳥居を振り返る。
 じゃあな、と告げる前に赤から青に変わった。
 おれはこの町から新しい場所に出て行けと言われている。
 そんな気がしてバイクを走らせた。あいつを超える、一心だった。

 

 

 

「瑛二、ヴァン、大和。風呂に入っていたのか?」

 脱衣所を出て談話室に向かっていると、階段を下りてくる瑛一と出会った。ジャージ姿で首からタオルをかけている。あちらの三人は今レッスンが終わったところなのだろう。

「兄さん! お疲れ様」

「三人で裸のお付き合いしてたとこやで。えーいっちゃん、一人なん?」

「あぁ。綺羅とナギはシャワールームで済ませるそうだ。今日は一段と厳しかったからな。それに明日も早い」

「タイミング合ったら一緒に入れたのになぁ。話したいこともあったし」

「そうなのか、ヴァン」

「ワイの話やなくて、ワイら三人の話やけど」

「そうか。場所を変えるか?」

 提案した瑛一の首筋に、汗が伝って流れる。飄々としている瞳の奥にも疲労感が見て取れた。

「明日でいいんじゃねぇか?」

 大和が口を挟むと、ヴァンも同じことを考えていたようで「風呂で汗流すんが先やな! 明日話すわ」と頷く。

「ならばそうしよう。……暖かくして寝るんだぞ、夜はまだ冷えるからな」

 後半は瑛二だけに向けられているとすぐにわかった。本人も従順に「うん」と返事をする。ぶんぶん尻尾を振っているのが見えそうだ。
 やっぱりこいつはよくわからん、と少し呆れた。

 談話室のソファに一旦腰掛け、じゃんけんすると瑛二が負けた。公平な勝負(なので時々あみだくじだったりもする)で負けたらキッチンへ飲み物を取りに行く。確かヴァンが決めたルールだ。年下だから率先して動けとか、逆に免除してやるとかそういうのは一切ない。十個歳の離れた瑛二とヴァンも、最後に加入した大和も、等しく同期だからだ。

「えーいっちゃんお風呂やって」

「それがなんだよ」

「なんかエロない?」

「はぁ?」

 とうとう頭がおかしくなったのか。ヴァンは手を横に振って「ちゃうちゃう!」と訂正したが何がちゃうのか大和には微塵も伝わってこない。

「おまえ男でもよかったのかよ……」

「よぉないわ!」

「いやまじでナギとかには手ぇだすなよ。つかまんぞ」

「じゃあ大和にしよ」

「歯ぁくいしばれ」

「冗談やって!」

 腰を浮かせかけた大和に、本気で焦ったのかヴァンが肩を押し返してくる。

「昔付き合うてた子が、えーいっちゃんと同じとこにほくろあってな? なんかちょっと思い出してまうねん」

「ふーん……」

 どうでもいい、というオーラを隠さなかった。
 他人とべたべたするのは嫌いだが、瑛二とヴァンとつるむのは面倒だと思わない。だから朝から晩までこうして共に過ごす日もある。けれどヴァンの昔の彼女とか恋愛事情とか性癖には全く興味がない。一緒にいるのが楽なだけで、二人の何かを知りたいとは思わなかった。

「ワイここ来て2ヶ月やで? 二ヶ月男だらけやもん。さすがに堪えるわぁ……」

「にしても女のスタッフとかにしろよ」

「なんなん大和、好みの子でもおるん? ユキ先生? 受付のマイちゃんか? アスカちゃんか? エミちゃんもかわええからなぁ。ほんまレベル高いよな。あと清掃で来とるしゅっとした女の子おるやん? どの子?」

 ダンスの講師(鬼)、事務所の受付スタッフ(誰がどれか大和にはわからない)、極めつけに清掃員は顔すら浮かばない。ユキ先生の谷間が気になって集中できへん時あるやん、とヴァンが胸が張り出す仕草をして語りだす。おまえは中学生か。早く帰ってきてくれ、と思った頃、タイミングよく瑛二が戻って来た。

「ヴァンは夜でも元気だね」

 ミネラルウォーターのペットボトルをローテーブルに置いた後、眠そうに目をこする。瑛二はあまり夜更かしが得意じゃない。

「今ちょうどなぁー……っていうか瑛二はどうなん? 先生かアスカちゃんかマイちゃんかエミちゃん、どの子がタイプ? あ、あと清掃の子な」

「清掃のって、中田さん?」

「多分そう。よく知ってんなぁ瑛二」

「事務所には二人より早く出入りしてたから」

 社長の息子としてか、鳳の瑛一の弟として、か。同期として括られてはいるが、瑛二は大和より五ヵ月ほど早くここでレッスンを受け始めた。よく流れが掴めていないようで「何の話だっけ?」と瑛二は改まって聞いた。この手の話には慣れていなさそうだ。

「女の子の好みのお話や」

「まじめに答えなくていいぞ、瑛二」

「なんでやねん。こういう話こそ、男同士のコミュニケーションやろ?」

「知ってどうすんだよ」

「俺大丈夫だよ、大和」

「ほらぁ、えーじちゃんもこう言うてるし。最近の子は進んどぉからな、中学ん時彼女とかおったやろ? モテたやろなぁ、えーじちゃんは」

「一人、いたよ。彼女って呼んでいいのか微妙だけど……」

 瑛二は曖昧にうなずく。三本並んだペットボトルの水は一向に減らない。

 ヴァンは当然そうだろうというように聞いていたけれど、大和にはそれが意外だった。確かに瑛二は顔も整っているし、性格も穏やかで優しいし、言葉遣いも丁寧で女子の関心を引くのは分かる。でもその清廉さが際立って、特定の一人と親密になるような光景があまり想像できなかったのだ。

「その子とチューした?」

「してないよ」

 年の割に淡白な返事だ。セクハラっぽいなこれ、と大和だけが思うのは、瑛二を子ども扱いしているからなのかもしれない。

「しようって言われたけどできなくて……多分それが原因で、ふられちゃった」

「あー……ていうかあれやろ、付き合おうたんもその子に告られたからやろ」

「うん。本当は付き合うべきじゃなかったんだって、後から気付いた」

「……んまぁ、ワイからはなんとも言われへんけど」

 ヴァンは下ろした前髪の隙間から額を掻く。もう成人した大人だから、大和にもきっとヴァンにも、最初は意識もしていなかった人と付き合ってみた経験があって。大して惹かれてもいないのにキスしてセックスして。そんなずるい恋愛をしたことがないと言えば嘘になる。けれど瑛二には決してそんなことを教えたくない。

「次はちゃんと好きな子と結ばれたらええな」

「うん」

「今は好きな子、おるん?」

 いたら問題じゃねぇのか。手持ち無沙汰で落ち着かなくなりペットボトルを手に取る。
 瑛二が恥ずかしそうに、口を開いた。

「いるよ」

「え」

「そうなん?」

 こくり、と形の良い頭を縦に振る。
 好きな子。ただ瑛二が一方的に想っているだけ。年頃だし、そんな相手がいたっておかしくない。
 誰だろう。普通の高校に通っていない瑛二の世界は狭い。もしかしたら本当に受付の誰かかもしれないし、大和の知っている人間である可能性は結構高いはずだ。
 相手は誰かとヴァンは聞かなかった。笑いながら話すような内容じゃないとわかったからだろう。

「寝る」

 立ちあがると、二人が一瞬驚いた顔をして見上げてくる。ヴァンはすぐに笑って「おやすみー」と手を振った。瑛二もはにかんでそれに続く。
 弟の冬馬が、中二の春くらいまでは家で末っ子の相手をしたり男友達と虫取りに行ったりして遊んでいたのが、夏休み、急に女の子と出かけるのだと色めき始めたときのあの感覚。子どもだと思ってたこいつも男なんだと、得も言われぬ焦燥感というか寂しさというか。そんな昔のことを思い出した。
 自分はヴァンと瑛二の間に見えない線を引いている。年齢のせいか、それはよくわからない。

 与えられた個室のベッドにうつぶせに倒れると、睡魔はすぐにやってきた。体を自ら包んでくるような上質なシーツに抱かれていると、全てがどうでもいいことのように思えてくる。何より大切なのは明日の早朝ランニングだ。掴んだままのペットボトルをベッドの下に落とし、手探りでアラームをセットした。

 

 

 

 

 

 翌朝、二人は何もなかったような顔で「おはよう」と爽やかに挨拶してきた。大和も一晩寝れば昨日の自分の感情をさっぱり忘れてしまっていて、笑って返事をした。
 朝のランニングでは途中で瑛二が着いて来れなくなってペースを落とし、ダンスレッスンでヴァンがへとへとになる。歌唱レッスンでは、楽譜と漢字に弱い大和を二人が助けてくれる。一日の終わりに風呂に浸かってミーティング。談話室で雑談。これに時々綺羅が混ざったり、眠いと言って瑛二が抜けたり。

 瑛一、綺羅、ナギとのレッスンに合流したのは、大和が事務所に入ってちょうど一ヶ月が経過した頃だった。
 梅雨が始まったばかりで、外はひどい雨だった。彼らは新しい宣材写真の撮影でスタジオに出かけていたので、先に三人でレッスン室に入った。

「つーか洗剤写真ってなんだ? ボールドのCMでもねらってんのかよ」

「わっかりにくいボケやな」

「その洗剤じゃないよ大和。宣伝の材料、って書いて宣材。こういうアイドルですよってクライアントに見てもらう写真のことなんだ」

「結局、今日えーいっちゃんらだけ撮影ってことは、ワイらはまだアカンってことなんやろなぁ」

 もどかしそうにヴァンが漏らす。
 飼い主を待つ仔犬のように健気に窓の外を見つめていた瑛二の後ろに自然と集まり、バケツをひっくり返した勢いの雨を眺めた。
 デビューできる保証はない、と事務所に入る前、はっきりと言われた。瑛一達三人のメディア露出が増えているのだって知っているし、同じグループとして活動するはずなのに差が開いていくのを大和も感じている。けれど悲観するには早いはずだ。一方の瑛二も、そういう意味での焦りを感じているようにはあまり見えない。

「あ、帰って来た!」

 駐車場に滑り込む車のライトを見て、瑛二が嬉しそうに声をあげる。さすがに迎えに行ったりはしないが、もう用はないとばかりに窓際から離れ、曲の準備を始める。
 どんだけ好きなんだよ、と口には出さない。
 ブラコン――というよりは、弟は過度に兄を崇拝していて、兄はとんだ過保護だ。そういう風に大和には映る。

「おかえりなさい!」

 と嬉しそうな言葉は、ほぼ兄にのみ向けられているように聴こえた。綺羅もナギも慣れっこで、「ただいま」と挨拶するもののすぐに話の輪は瑛一と瑛二、他の四人、という二つに分かれる。

「新しい写真見せてぇなぁ! 綺羅ちゃん、ちゃーんと男前に撮ってもろたか?」

「満足いく……撮影だった」

「お、よかったな、綺羅」

「写真自体はマネージャーと、あと瑛一のスマホには入ってるけど、綺羅とボクは持ってない」

「そうなん? ナギちゃんのキュートな写真、ワイも見たかったなぁ」

「どれも超魅力的に撮れてるんだから、今度見てびっくりしてよね~!」

 えへんと可愛らしく胸を張るナギ越しに、瑛一の姿を見た。瑛二の背の高さに合わせてスマホを見せてやっている。画面と兄の顔を交互に見やる瑛二のとろけきった顔は、多分これまで見たことがなかった。同じメンバーのはずなのに、まるでファンのように心酔しきった顔をして。
 大和の視線に気付いた瑛一が画面から顔を上げ、「始めよう」と声をかける。瑛二はやや名残惜しそうだったが、兄の言葉に従わないという選択肢はないのだろう。

 ジャージに着替えるため三人が部屋を出て行き、フォーメーションの確認をしておこうとヴァンが提案した。折り畳み式のテーブルに楽譜と、立ち位置の書かれた紙を広げて覗き込む。
 うきうきした様子の瑛二に苛立った。遊びじゃねぇんだから、と思ったわけではない。もっと何か他の、よからぬ感情だ。何を考えるでもなく勢いで、つい口がすべった。

「そんなにかっこよかったかよ、『兄さん』は」

「もちろん……って、大和……!」

「こら、写真見せてもらわれへんかったからってあたらへんの」

「……んなんじゃねぇよ」

 じゃあ何なんだと聞かれても困るけど。

「ごめん、俺だけ……」

 瑛二の視線は困ったように机上と大和の間を行ったり来たりする。急に突っかかられたのは自分だけ写真を見せてもらったからだと、ヴァンの言葉通り解釈したらしい。

「べつに」

「あとでえーいっちゃんに見せてもらおーなー」

 はいおしまい、とヴァンに背を叩かれる。同じ勢いで叩かれた瑛二が「痛っ」と苦笑したが、大和にはどうってことなかった。

 その日のレッスンはひどいものだった。
 見事なまでに息が合わない。瑛一は言葉を選び良いところを褒めたりもしたが、ナギに至っては「今まで何してたの?」と真顔で言い放った。さすがに笑って受け流す余裕はなく、唇を噛むしかない。これまでだって完璧に揃っていたわけではないが、ここまでちぐはぐなのは初めてだった。
 結局、三十分も経たないうちにレッスンは終了となった。

 

 

 

 

 いつものミーティングが、今日はなかった。シャワールームで綺羅と出くわし、「次は、期待している」と励ましなのかわからない言葉をもらった。
 部屋に戻って黙々と腕立て伏せをする。気分は晴れなかった。壁に向かって逆立ちしても、腹筋しながら上体をひねっても。

 やっぱりあの時、瑛二に突っかかったのが良くなかったのだろうか。何であんなことを言ったのかわからない。勢い、が一番適切な気がする。訊かずにはいられなかった。
 目は冴えているが、もう寝るかとベッドに沈んだ時、部屋の扉を叩く音がした。

「……だれだ?」

「俺だ、大和。開けても良いだろうか」

 いいぜ、と答える。少しよれたTシャツにハーフパンツという寝間着だったが、見られてまずい格好ではない。半分程扉を開けた瑛一は、ベッドに突っ伏した大和を見て「寝ていたのか」と申し訳なさそうな顔をした。

「ねてねぇ。なんだ?」

 瑛一の姿を振り返ると、きっちりバスローブを着込んでいてドラマの撮影みたいだなと思った。いつも無造作風にセットされている髪が、頼りなく肌に貼りついている。

「たまには大人だけの時間も必要だろう」

 言葉に艶と意味をたっぷりと含ませ、瑛一は妖しく笑った。
 向かった先は瑛一の個室で、「待ってましたぁ」とヴァンの明るい声に迎えられる。大人、つまり成人したメンバーだけということか。ビールの缶が並んだテーブルを見てやっと気付いた。

「一ヶ月に一回のアルコール解禁日やねん。ほら座る座る」

「メンバーの半分が未成年だからどうしてもな。あぁ、もちろんナギ達には『二十一時以降にジュースを飲んでも良い日』を設けているぞ、不公平になっては良くない」

「普段夜は水ばっかやから、この一日がほんま染みるわぁ」

 空いたスペースに腰を下ろした大和の目の前に、チーズやクラッカーなど手軽なつまみがずらりと並ぶ。もう少し腹が膨れるものが欲しかったが、事務所に入って夕飯以降にまともな飲食をするのは初めてで心が躍った。

「見てるとすげぇ腹へってきた」

「どんどん食べるといい。たまには息抜きも必要だからな」

「えーいっちゃん、ワインあるー?」

「あぁ」

 こうするとうまいで、とヴァンが言うのでクラッカーにチーズを乗せ、バジルソースをかけて食した。確かに旨い。手が勝手に進んでいく。

「赤でいいか、ヴァン」

「わ、それ結構お高いやつちゃうの? 赤がいいでーす!」

「ヴァンは舌が肥えているからな」

「いやぁそれ、えーいっちゃんのことやろ。ワイはサラリーマン時代に偉いさんの付き合いで飲んでただけやで」

「大和も飲むか?」

 ビールの缶から口を離し、おうと返事する。あまりワインは飲まないが、基本何でも摂取できる体質だ。それに二人が勢い良くチャンポンするものだから、思わず付き合ってしまった。
 乾杯、とグラスを合わせると軽やかな音が鳴る。

「大和と飲むのは初めてだな」

 ここに来て一ヶ月なのだから当たり前だが、とても幸福なことのように瑛一が言った。美しい顔がほろっと綻び、人の好い笑顔をのぞかせる。

「いきなり事務所を訪ねて来てデビューさせろとは驚いたが、やはり大和には素質がある。華もある。声も良いしダンスもなかなかだった」

「えーいちせんせー、でも日向くんは楽譜が読めませーん」

 せんせー、というのが、当たり前だが関西弁の発音だったことにイラッときた。せんせーは金八先生の発音しか受け付けない。

「うるせぇヴァン、おまえはいつもダンスへばってんだろうが」

「悪いが楽譜の読み方はお前が教えてやってくれ、ヴァン。何より、お前と冗談を言い合える相手がナギ以外にできたことが、俺は嬉しい」

「なんやそれ、照れるやん」

 そこは照れるところなのか? 言いかけたが口を噤んだ。面倒だからだ。それと、口に含んだアルコールがとろりと解けて心地が良い。
 瑛一とヴァンは水みたくワインを流し込んでいくが、大和は得意ではないと途中で気付き、ちびちび舐めるように消化する。
 思えば酒を酌み交わすことだけでなく、瑛一とまともな会話を交わすのすら初めてだった。事務所へは瑛一の口利きもあり入れたと聞いたが、別に彼と面接をしたわけではない。
 大和と、ヴァンと、もう一人といえばいつもは瑛二で。見つめれば似た色の瞳をしているが、れっきとした大人の男である瑛一と、発展途上の子どもの瑛二とでは全く違った。まず顔もそんなに似ていない、と大和は思う。瑛一の写真を見つめ、甘ったるい笑顔を見せた瑛二を思い出してはその姿を消そうと努める。どうにも胃がむかむかしてくるのだ。

「それにしても――ヴァンと大和には感謝しなければな」

 とうとうビールをグラスに移さず直接口を付けながら、瑛一がほろ酔いの顔でこぼした。

「お前達と過ごす時の瑛二は年相応の少年らしさがある。俺の見たことのない顔を、二人の前ではよく見せている。兄だと言うのに俺にはできないことだ。ありがとう、ヴァン、大和」

「いややわ、そんな改まらんといてぇや。ワイは一緒におると楽しいし。いっぱい弟できたみたいやけど、えーじちゃんは綺羅ちゃんの次くらいに手ぇかからんで可愛いで」

「そうだろう、瑛二は本当に可愛い」

「大和は今日くだらんケンカしとったけど」

「……わるかったな」

「ケンカ?」

「えーじちゃんばっかり写真見せてもろてるからやきもちやいててんで。こんな図体して、大和も案外かわいいんやから」

「それが原因じゃねぇ」

 テーブルにグラスを置く音が、予想以上に大きく響いた。
 沈黙。二人は大和の顔を見つめ、視線をそらそうとしない。兄の前で面倒なことを言ってしまった。これなら本当に妬いていたということにしていた方が良かった。
 言葉を探してまるいチーズを口に入れると、「あぁ……」と妙に艶っぽい声が瑛一から漏れた。

「瑛二の態度が気に障ったんだろう、大和は」

「態度……っつーか……」

 へらへらしやがって、とは思わなくなかった。
 でもそれがつまりどういう意味なのかは自分でも分からない。

「瑛二は確かにまだプロ意識に欠けた部分がある。今日もああやって写真を見せるべきではなかったな……。向上心の高いヴァンや大和には、無邪気な瑛二がはしゃいでいるだけのように映ることもあるだろう」

「や、そんなことないでほんま」

「あぁ。おれもそんな風におもってねぇ」

 やめろ、と心の底から思った。
 そんな、全てをわかったように弟のことを語るのは。兄弟だからって何がわかるわけでもないだろう。弟は弟の心で考えるのだから、それを汲み取れる気でいるのは兄のエゴだ、と。
 それに、きっと瑛二ははしゃいでいるわけではなく――。

「悪かった、大和」

 兄は弟が罪を犯したとして、誰もが自分のことのように謝れる生き物ではないはずだ。こいつにだけは謝られたくない、と瑛一が何をしたわけでもないのに、思った。

「気にすんなって。ほら、せっかく楽しくのんでんだしよ」

 すかさずヴァンがワインを空いたグラスにそそぐ。サンキュー、と礼を言う。心の中で。

「まぁまぁ、大和も」

 と、まだ少し赤を残したグラスにワインが注がれる。断る理由はないし、社会の荒波に揉まれて来ただけあってヴァンは飲ませ上手だった。どこからこんな大量に出てきたのか、ビールやワインだけでなく、日本酒や焼酎までいつの間にか目の前に現れている。

 それから、ヴァンが会話の主導権を掌握してとりとめのない話をした。あと数年したら綺羅がこの会に仲間入りだとか、その頃ワイは何歳なってんねんとか、まずまだグループ活動は続いているんだろうか、とか。デビューという、近々の話題には酒が入っていても誰も触れなかった。
 だんだん自分の口数が少なくなっていくことに、頭の片隅の方で気が付く。瑛一とヴァンは頭の回転が速く、話題に事欠かない。酩酊の世界に招かれるようにして、ふっと意識が途切れた。

 

 

 

 

 

 

 目覚めた時、部屋は電気が落とされ暗かった。人の気配がある。目が慣れると、瑛一はベッドにもたれかかり、ヴァンは床に仰向けになって眠っているのがわかった。スマホで時刻を確認すると二時をまわっている。元々電池が切れかかっていたから、アラームをかけようとアプリを起動させたら画面が暗転した。

 喉の渇きを満たしたかったがこの部屋には酒しかない。大和の部屋にも飲食物は基本的に置いていないので、自室に戻る前にキッチンに寄ろうと立ち上がる。二人を起こさないよう部屋を出て、静かに扉を閉めた。足取りが覚束ない。ふらふら歩いていると、頭が痛い気もした。
 手洗いに寄って用を足してからキッチンに下りる。小さな明かりがついていた。消し忘れかと思い気にせず覗くと、瑛二がいた。

「……おう」

 先に声をかけたのは大和だったが、声が掠れてしまう。

「やまと、」

「なにしてんだ、こんな時間に」

「喉がかわいて。大和も?」

「あぁ、んなとこだ……うっ」

 頭が鈍く痛む。思わず手をやると、心配そうな顔をした瑛二が近付いてくる。練習後、レッスン室に倒れこむヴァンにそうするように。

「どうしたの? 体調悪いの?」

「ただの飲みすぎだ」

「お酒?」

「においでわからねえ?」

 瑛二は大和の腕の下に自分の腕を潜り込ませ、肩を貸そうとした。全ての体重をかければ共倒れしてしまう細い体。

「ソファ座ってて。お水持ってくるから」

 歩く補助をするなら瑛二の体格でも十分だった。ありがたく肩を借り、ソファにどっかりと深く腰掛ける。今にも眠ってしまいそうなのに、ちらちらと灯るキッチンの明かりが気になって目が閉じなかった。
 大きなコップになみなみ水を汲んで、瑛二が戻ってくる。

「はい、どうぞ」

「あぁ、サンキュ」

 大きな瞳が不安げに見つめてくる。酔っ払いは病人じゃないんだぞ、と伝えるように隣に座る小さな頭を撫でた。多分伝わらなかった。

「今日はごめんな」

 空にしたコップを足元に置いて瑛二の瞳を覗き込む。案外長い睫毛にふちどられた紫は、きょろきょろしてから下を向いてしまった。怖がらせてしまったのだろうか。

「悪かった」

 顔を近づければその分逃げて行く。もしかして、自分で思っている以上に酒臭いのか?

「……なんで逃げんだよ」

「だって……近いよ」

 そっぽを向いて瑛二が声を絞り出す。
 膝と膝がくっついて、大和がやや前のめりになっているから確かに顔も近い。男同士で何を――いや、男同士だから、なのかもしれない。やっぱり、と思った時には、言葉は声になっていた。

「おまえの好きなやつって、瑛一だろ」

 確信が半分。
 残りの半分は、きっと、違うと言ってほしかった。

「そうだよ」

 実の兄に、恋い焦がれるなんて。バレるならヴァンかと思ってた、と瑛二は微笑んだ。

「大和にもお兄さんがいるから、わかるのかな」

 雪を踏むようにやわらかく、瑛二は大和の地雷を踏み抜いてくる。わかっていてやっているのだ。ちがう、と思いながら、「そうかもな」と言った。

「弟で、お兄ちゃんだもんね、大和は」

 違う、そうじゃない。瑛二の気持ちに気付いたのはそんな理由じゃない。
 まだ大和にもよくわからない。でも、それは多分、瑛二のことが好きだからだ。

「ぜったいに、叶っちゃいけない恋だから」

 触れ合った膝を、瑛二が腰を引いて離した。

「早く諦めなきゃって思ってるんだけど」

「……いつから」

「もうわからないんだ。いつから兄さんのことが好きなのか」

「それって、そういう好き、なのか? おまえら仲いいし、そういう……別の、兄弟としての好きじゃねぇのか」

 子どもの瑛二には恋愛なんて分からない。そうやって下に見られていることを自覚したように、瑛二は強い瞳で頷いた。

「俺は、兄さんとキスしたい。その先のことだって……したい。心に、触りたいし、触ってほしい。いつか兄さんが結婚して、俺の隣にいなくなったらと思うと……俺、おかしくなる……」

 どんな想像を働かせたのか、瑛二の指先が小さく震える。思わず手を取り、引き寄せると驚いた瞳に見上げられた。

「大和、俺がおかしいと思わないの? 実の兄さんにこんな感情……気持ち悪いって思わない? 気付いちゃったから今日だって、あんな風に言ったんじゃないの?」

「それだけはぜったいにねぇ」

 まくしたてるように断言する。信じてもらえたのか定かではないが、瑛二は優しい声で「よかった」と呟いた。

「もうどうしようもないんだ。大和はそうじゃなくても、誰かにおかしいって言われても仕方ないって思う。……俺ね、思うんだ。もし兄さんだけアイドルで、俺は普通に高校通って暮らしてたら、兄さんへの気持ちを忘れるために、また誰かと付き合ったりしたのかな、って」

 瑛二の瞳の裏には、ぼんやりとでも、中学生の頃に付き合っていたという彼女の姿が浮かんだのだろうか。
 あの頃からもう瑛二は兄を好きだったのかもしれない。叶わない恋から逃げるように、好きでもない女の子を選んだのかもしれない。

「恋人同士って、どんなだろう? 想像する時、俺は兄さんのことしか考えられないから……わからないんだ」

 ひとつひとつ大切に言葉を紡ぐ男の唇に、心も体も吸い寄せられる。瑛二、と名前を呼んで、肩を抱くと再び膝が触れ合った。瑛二は逃げない。瑛二の意図が、読み取れない。

 瑛二の初めてのキスは、易々と大和のものになった。
 重なる、というよりは、合わせるだけのような。軽く触れて離れると、瑛二は黙ってうすく微笑んでいた。ときめきだとか好きだという気持ちは、そこにはなかった。

「……どうだった」

 気の利いた言葉一つも紡げない自分が、心底嫌になる。

「あの時、キスしてって言ったあの子の気持ちが、ちょっとだけわかったかも」

 だめだ、好きになってしまう。
 ほっそりした体を自分の意思で離していく瑛二を、もうどんな目で見ていいかわからなくなった。

 

 

 

 

 

 

 完全に二日酔いだった。頭が重い。それでも体を引きずって起き出し、着替えをする。外は今日も雨で、朝のランニングは中止だ。もっとも、昨日の今日で集まりはきっと悪かったに違いない。
 キッチンに下りると、昨晩座ったまま寝ていたのが嘘みたいにパリッとした顔の瑛一が「おはよう」と声をかけてきた。髪型もキマっているし、眼鏡に曇り一つない。こんなやつが相手なのだから勝ち目がない、と、ぼさぼさの頭に、よれたTシャツを恥ずかしげもなく着ている自分を鏡に見て思った。

「おはよう、大和」

 奥に立った瑛二が、これまた爽やかに微笑む。昨日ここでキスしたのは夢だったのかと疑ってしまうくらいだ。
 洋風の朝食の前に、瑛一と大和にだけ味噌汁が出てきた。二日酔いの頭には最高だ。手放しに喜びかけたが、これも兄のためなのだろうと思うとやるせない。


 ヴァンは八時半過ぎに起きてきた。うひゃあと危うげに笑いながら、瑛一に「今日のレッスンは午後からだぞ」とさりげなくフォローされ胸を撫で下ろす。

「話しておきたいことがある。食べた者からで構わない、レッスン室に集まってくれるか」

 瑛一の呼びかけにそれなりの返事をして部屋を出ると、綺羅とナギも続いた。わざわざ別室に集めて何の用だ? とは思ったけれど、もともと何事も勿体ぶるところがある男だ。深く考えなくて良いかもしれない。
 しかし、メンバーの顔を見渡して瑛一が告げた言葉は、大和の想像を遥かに上回っていた。

「新メンバーを紹介する」

「え」

 異口同音に全員が口を開けた。大和の時はこうではなかった。六人でフルメンバーだと聞かされていたから。もしかして誰か一人代わりに切り捨てられてしまうのか。そんな不安が伝わってくる。

「シオン、こちらへ」

 姿を現したのは、どこか人間離れした少年だった。雪のように白い肌。ちょっとぶつかれば折れてしまう小枝みたく腕も足も体も細い。髪は真珠の色をして唇も彩度が低く、重たい前髪の隙間から覗くアメジストの瞳が無色の彼に彩りを添えていた。
 名前を呼ばれ瑛一に促されると、少年はゆったりと唇を動かした。

「我が名は天草シオン……宜しく頼む」

 再び上下の唇を縫い止めた後、これで良いだろうかと言いたそうに瑛一を見上げる。子どものような不安げな瞳に瑛一が大きく頷き、綺羅に自己紹介を促した。綺羅からナギ、瑛二、という(恐らく)加入順の流れがここではよく採択される。周りが何を話すか聞いてそれに合わせれば事なきを得られるので、大和としては有り難い限りだ。

「それにしてもお人形みたいにきれいやなぁ。えーいっちゃん、こぉんな美人さんどこで引っ掛けてきたん?」

「引っ掛けたはよしてくれ。……瑛二、シオンに色々教えてやってくれるか? 教育係として」

「え、俺? 務まるかなぁ……」

「問題ない。年齢も近いし、良い友になれるだろう」

「……うん。よろしくね」

 瑛二が微笑みかける。対照的にシオンは小さく頷くだけだった。その光景を日常の一場面として流しながら、隣に立ったヴァンに「教育係ってなにすんだ?」と訊いた。

「ここでのルールとか、施設のこととか教えたり?」

「おれにはいなかったよな?」

「え、ワイやで、ワイ」

「うそつけ。らしいことされてねぇ」

 思えば、事務所と寮の見取り図はコピーしてもらったけれど。とにかくそこまで込み入った仕事ではないらしい。この様子じゃ、普通に会話できるようになることが一番大変そうだ。

 午後のレッスンまで自由時間となり、瑛二は「案内するよ」とシオンを連れ出した。新しい仲間に単純に浮かれている様子だった。しかし一時間後、昼食を摂りに戻って来た瑛二はもう彼を連れていなかった。「兄さんのとこに行ったよ」とやや疲れた様子で大和の正面に腰掛ける。
 瑛一と綺羅は午後のレッスンの調整、そこにシオンが混ざったそうなので残ったメンバーでの昼食になった。ぬるいそうめんを、男四人でつつく。

「まだ慣れへんねやろなぁ、シオン」

 話題の彼の髪の色によく似た麺を、ヴァンは勢いよく啜る。

「うん……。ちょっと怯えてる感じがする」

「そんなのでアイドルなんかできるの?」

「ま、実力ありゃどうでもいいだろ」

 無理にべたべた慣れ合う必要はない。正論を述べたつもりが、「そうや!」と明るい声にかき消された。

「歓迎会せーへん? 実家遠いみたいやし、ホームシックなってるんかもしれんで?」

「それは名案だね! やろう!」

「もう、瑛二もヴァンもお節介っていうか世話焼きっていうか? 好きだよねー、そういうの」

「もちろん二人も盛り上げてや」

「おれはうまいめし食えりゃなんでもいい」

 つゆに浮かんだねぎを掬いながら言うと、「まぁおいしいご飯が一番かもね」と、珍しくナギが意見を合わせた。

 

 

 

 そのナギがブチ切れたのは、その日の夜だった。

「ありえない! 絶対いっしょにご飯食べたくない!」

 歓迎会には瑛一も乗り気で、ナギが好きな食べ物を聞いた時、シオンは黙って首を横に振ったのだ。食べる物は己で選ぶ、と。言葉通りシオンは夕飯の時刻になってもキッチンに姿を現さなかった。様子を見てくると出て行った瑛一にも、それきり会えていない。「過保護すぎる」と綺羅がぽつりと苦言を呈したきり、食事中誰も二人を話題にしなかった。

「あいつすげえ怒ってたな」

 一言物申さないと気が済まないといった様子のナギをたしなめどうにか部屋に送った帰り、笑い話にしてはいけない気がして呟いた。瑛二が「うん……」と真面目な声を被せてくる。
 ナギのように露骨に怒っていないが、瑛二も相当堪えているらしい。俯いた頬に甘い色の茶髪が垂れて、いつもよりその姿が小さく見える。触りたい――いやなに考えてんだ、おれ。

「年の近いシオンが来てくれて、ナギ、本当はすごく嬉しかったんじゃないかな。シオンもまだ慣れてないだけで、ほら、兄さんには……懐いてるみたいだし」

「だな。おれたちとは目もあわさねぇのによ」

「兄さんのこと、信頼してるんだね」

 階段を下れば、その兄さんの部屋というところに差し掛かかる。白い影が視線の先をよぎった。「シオン」と瑛二が小声で彼の名前を発した。
 音をたてずに階段を駆け下りる。シオンが瑛一の部屋に入って、扉を閉めた。示し合わせたように瑛二と扉に耳を押し当てた。なにやってんだ、おれ。

「なに話してんのかきこえねぇな」

 そういえば寮の部屋はレッスン室以外も全部完全防音だとヴァンが言っていたような気がする。
 祈るように縋るように扉に片耳と両手をくっつける瑛二は、もし今部屋から瑛一が出てきても開き直ってしまいそうだ。頬の筋肉がこわばっていてなんだか恐ろしい。しばらくして名前を呼びかけると、やっと現実に帰ってくる。

「兄さんとは、こんな長い時間、話をするんだ……」

「……みてぇだな」

「兄さん……一緒にいると安心できるんだ。みんな、そう思うに決まってる」

 紫の瞳が、扉を透視して室内の二人を見ている。
 嫉妬だ、と気付いて驚いた。
 シオンを手懐けている兄に対して、微かに。
 瑛一という安心の中にいるシオンに対して、微かに。
 そして何より、瑛一の愛する世界のすべてに。
 ともしびみたいな嫉妬の炎が、伝播していくのが見えた。

「歌」

 と、小さく瑛二が言った。

「歌……?」

 もう一度扉に耳を押し当てる。二つの音色は、囁くような会話よりずっとよく聴こえた。これが初めてではないように、重なり、交わり、ほどけていく。
 手を伸ばせば届く距離にある細い体が震えていた。
 これ以上聴かせたくない。大和の願いを聞き入れたように、瑛二は身を翻して走り出した。

「おい、瑛二!」

 名前を呼び、追いかけると室内の歌声はすぐに止んだ。気付かれたかもしれない。でもどうでもいい。瑛一、おまえはシオンと勝手によろしくやってろ。あいつのことはおれに任せりゃいい。
 瑛二よりはずっと体力に自信があるから、追いつくのは簡単だった。すぐに歩幅が狭くなる。細い腕を掴むつもりもなく、黙って後ろを着いて行くと中庭に出た。

「瑛二」

 庭にぽつりと建ったビニルハウス。落ち着いたら花だけじゃなくて野菜も育てたいと言った瑛二のために瑛一が手配したらしい。中にはまだ何もなくて、がらんとした空間がビニールの膜で覆われているだけだ。月の光が半分くらい遮られてしまっているのか薄暗い。
 外から見れば人の形をした影がふたつ。身長で、瑛二と大和だと気付かれるだろうか。

「あの歌、小さい頃、母さんがよくうたってた歌……。東京に来てからは、代わりに兄さんが歌って聞かせてくれてた、子守歌なんだ……」

 振り返る。薄い月光しかないけれどわかる。赤くなった瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。
 兄を取られたみたいでいやなのか、シオンに唯一心を許されている兄が羨ましいのか。多分その両方だった。
 兄に強く依存する、瑛二の気持ちが大和にはわからない。兄が好きとかまじかよ、と思う。でも瑛二の想いを否定したくない。

「つらいな」

 こんな時にもっといい言葉が出てくれば――瑛一みたいに。
 形の良い瑛二の額が胸元にぶつかって、体に両腕がまわされた。しゃくりあげないようにしているのか、肩が上下に揺れる。頭を撫でてやりたい。抱きしめたい。無防備な泣き顔に欲情してしまい、欲望が溢れてきたけれど何もできない。
 おれはかかしだ、と大和は思った。動かない。でも瑛二を守ってやりたい。
 大和のTシャツに涙が染みをつくる。一生消えずに残ればいい。そんなの無理だけど。
 影を重ねて、瑛二に縋られている一分間は一時間にも、五分ともなれば永遠のような気がした。涙の残った瞳を拭いながら「ごめん」と瑛二が体を離すまで、実際五分も経っていなかった。

 一人にしてほしいのかと思いビニルハウスを出ると瑛二が着いてくる。寮の部屋まで送った後、大和は部屋のベッドに仰向けに寝転がった。電気はつけていないし朝からカーテンを閉めたままなので真っ暗で静かだ。
 瑛二の涙で濡れた部分がまだ冷たくてほっとする。
 抱きしめて、好きだと言いたかった。
 でもできない。瑛二の中の瑛一に敵わないのは分かり切っている。それに瑛二はまだ子どもだから、弱みにつけこむとか、無理やりとか、そういう信頼を失いかねないことはできない。
 もう一度抱きしめたい。目を閉じるとあの細く生々しい肉体が、熱が、涙に濡らされる感触がはっきりと蘇る。息が苦しい。
 体を動かす気になれず、風呂は明日にしようとまどろみ始める。夢の中に引きずられるまでは数秒だった。単純でありがたい体だ。

 翌朝目が覚めると、胸元には乾いた涙の跡がくっきり残っていた。

 

 

 

 

 ナギもシオンの教育係をやりたいと言い出したと聞いたのは、シャワーを浴びてキッチンに顔を出した時だった。

「珍しいこともあったもんやなぁ」

「むきになってんだろ、あいつ」

「昨日はかなり腹を立てていたようだからな」

 ブラックコーヒーを注いだマグカップを手に、瑛一が長い脚を組み替える。大和は何も塗らずに食パンをかじり、「で、あいつらは?」と訊いた。向かいでヴァンが苺ジャムの瓶を開けるのに苦戦していた。

「四人でパスポートを取得しに行ったぞ。瑛二はすでに持っているが、シオンの付き添いとしてな」

「海外レッスンって夏にやるんやっけ? 場所決まったん?」

「いや、まだだ。他の仕事との調整が追い付いていない」

 海外で数ヶ月ダンスレッスンを行う、というのはちょうど大和が入所した頃あたりに持ち上がった話だ。パスポートを持っていない、もしくは失効したメンバーは取りに行くように――と瑛一に言われたのを思い出し、「うわ」と声をあげた。

「なんなん大和。パンくず散らさんといてや」

「散らしてねぇよ。おれ、パスポートもってねぇ」

「そうだったのか。今から瑛二達に追い付くのは難しいだろうな」

「まぁまたレッスン落ち着いた日に取りにいきぃや」

「めんどくせぇ……」

 証明書だのなんだのといった、書類の発行はとことん嫌いだ。短気な自分にはとても耐えられなくて、小学校の卒業証書授与を思い出す。級友とふざけていたら、身長のせいで目立つからか担任から注意を受けた。さすがにこの歳になってそういうことはやらないし、度を超えなければ誰にも叱られないけれど。
 二枚目の食パンを食べ終わり、手つかずのシオンの食卓に手を伸ばす。「もったいねぇ」と誰に言ったわけでもなかったが、瑛一が「そうだな」と相槌を打った。

「大和がパスポート持ってへんって意外やな。自分らの世代って修学旅行海外ちゃうん?」

「ふつうに国内。沖縄だった」

「へぇ、そうなんや。初めての海外かいな。楽しみやなぁ」

「飯がうまけりゃなんでもいい」

 打ち合わせがある、と瑛一が部屋を出て行き、ヴァンと朝食の片付けをした。得意じゃないので洗い物は任せ、ジャムやケチャップを冷蔵庫に片すのが大和の仕事。ついでに、シオンの朝食を平らげるのも大和の役目とする。
 必要書類は全員きちんと揃えていたらしく、二時間もすれば四人が帰って来た。キッチンに入るや否や「大和大和大和」と急いた口調のナギに呼び止められ、おはようの挨拶も互いになしにどこかへ連行される。

「シオンに鳥を見せてあげて」

「鳥?」

「シオンは……鳥が、好き」

 庭に出ると、二人分の荷物を持った綺羅が合流する。半分ナギに渡して、これから仕事だと言った。「あそこに巣があるんだって」とナギが角部屋のバルコニーの下を指差す。

「今から綺羅と出かけるから、大和が抱っこして見せてあげて。よろしく!」

「……任せた」

「よくわかんねぇけど任せとけ。じゃあな」

 タクシーに乗り込む二人とは逆方向、ナギが指で示した場所に向かうと瑛二とシオンが会話していた。ぽつりぽつりと、子どもと大人のキャッチボールみたいなものだけど、大きな進歩だ。誰のおかげか知らないが、やるじゃねぇか。

「おつかれさん」

 声をかけてふわふわ頭の上に手を置くと、シオンはびくりと肩を揺らした。上目遣いで見上げられる。真っ白で感情も何もない奴だと思っていたのに、瞳からわずかな緊張が伝わってくる。

「おまえ、鳥がすきなんだって?」

「……あぁ」

「巣、どこにあんだ? 瑛二」

「あそこに――」

 瑛二の見上げた先に、濃い灰色をしたかたまりがあった。ちち、と可愛らしい鳴き声が、そこに命があるのだと知らせる。
 二階のバルコニーの下にできた巣なので、高さ的に問題なさそうだ。片手でシオンの腰を支え抱き上げる。

「かっる……おまえ、ちゃんと食べねぇとこのまま骨と皮になっちまうぞ」

 薄い体。目線を下げると穏やかな顔してシオンを見つめる瑛二がいて、昨晩のことを思い出してしまう。瑛二も負けず劣らずぺらぺらに薄いんだろう、と風呂場で見る体を思い浮かべた。抱きしめたら折れてしまいそうだ。

「……なんと愛らしい」

 甘い声に続いて、感嘆のため息。どうやら満足してもらえたようだ。「何匹いるの?」と瑛二が尋ねて、おずおずと「二匹」と答える。「かわいい?」と問われこくりと頷く。
 大和、と名前を呼ばれる。ちゃんと名前おぼえてたのか。意外だった。

「まるで天草が鳥になったかのような展望だ」

「はは、なんだそれ」

 喜ばれていることは確からしかった。ぐるっとその場で回転してやると声を出して笑う。こんな無邪気な声も出せるのか。

「こんなんならいつでもしてやる。いつでも言えよ」

 地に足をつけたシオンの頭を撫でると、彼は小さく頷いた。そして振り返り、瑛二に礼を言う。「俺も嬉しいよ」と微笑んだ瞳が一瞬光を失っていたことに、気付いたのは多分大和だけだった。

 

 

 

 その日の夕食時、シオンはナギと大和の間の席を選んで座った。瑛一が嬉しそうに目を細める。その隣で、瑛二も自然な笑みを湛えていた。昼間のあの瞳は大和の勘違いだったのかと思うほどに。

「シオン、これでひっくり返すんやで。たこ焼きマスターのワイ見て、同じようにやってみ」

「たこ焼きマスター……?」

「シオン、ヴァンの言うことあんま気にしなくていいよ」

「ナギちゃんほんま冷たいわ!」

 くるりと半分焼けた生地を竹串で回転させるのを見て、シオンが興味深そうに身を乗り出す。ソースとマヨネーズを冷蔵庫から取り出した綺羅が戻ってきて、大和の逆の隣に座った。

「大和が来た時も……たこ焼きパーティだった」

「ていうかヴァンが入った時もヴァン主催のたこ焼きじゃなかった?」

「いや、あん時はお好み焼や! みんなに振る舞ったろ~って気合入ったん覚えてるで」

「シオンもまた作ってもらうといい。ヴァンのお好み焼は格別だ」

「そんな嬉しいこと言うてくれんのえーいっちゃんだけや……。愛してんで……!」

「気持ちだけ受け取っておこう」

「おいヴァン、おれもお好み食ってねえぞ」

「はいはい、また今度なぁ。はい、食べごろやで。シオン、よぉ焼けとぉで。うまいうまい」

 いただきます、と七人分の声は揃わないが、大人数で囲む食卓は悪くない。戦場だった実家での食事を時々思い出す。食い意地の張った男ばかりの実家とここでは全く勝手が違う。
 食事を終え、当番じゃないのでさっさと風呂を浴びようと立ち上がると、服の裾を引かれた。

「シオン、どうした?」

「天草はまた、どうしても鳥になりたい……」

「なんだ、ハマったか?」

 白い頭が小さく縦に揺れる。頼られるのは嫌いじゃない。こういう具体的なお願い事なら特に。
 もっと高い景色を見せてやろうと、片付け中の瑛一に頼んで屋上の鍵を借りた。実は大和も屋上に出たことはないけれど、そういう場所があると聞いていた。
 事務所寮は広い敷地に建てられた五階建てなので、驚くほど高層、というわけではない。星はほとんど見えないし――けれど、遠くに見えるビルの明かりたちがきれいだと思った。

「……空気が、心地よい」

「担がなくていいのか?」

 いらない、という風にシオンはそっと頷く。確かにここは十分高い場所だから。鳥はもっと高くを飛ぶけれど、人間には到底できない芸当だ。
 この季節にしては冷たい空気が肌を刺す。寒さには強い方だと自負しているけれど、薄着で来すぎたかもしれない。控えめなくしゃみの音が背後から聴こえて、思わず笑った。

「なんでそんなとこ突っ立ってんだよ」

「なんや、バレとったんかいな」

「ごめん……黙って着いてきちゃったからつい」

 瑛二とヴァンが隣に並ぶ。手すりにもたれかかり、息を吐くと白くなって高くへのぼっていった。

「瑛二」

 シオンがその名を呼んだのは、大和が知る限り初めてだった。

「鳥の巣を、天草に教えてくれたこと……感謝、している」

「……うん。シオンが好きなもの、見せてあげられて良かった」

「瑛二も鳥を好むのか」

「え、どうして?」

 本当にわからない、と目を丸くして瑛二が訊き返す。

「斯様な場所の鳥の巣に、関心の無い者は気付かぬ」

「あ、あぁ……。すぐそばに庭があったでしょ。俺、そこの手入れをしていて、それで……」

「成る程」

 今度は庭を見たい、とシオンが瞳を輝かせる。これ以上あの巣については踏み込まないようでなぜか大和がほっとした。
 シオンは気付いていない。鳥の巣があったバルコニーが、瑛一の部屋のものであることに。
 姿を現すわけでもない兄の部屋を見上げ、たまたまその存在に気付いたのだろう。きっと部屋が瑛一のものでなければ、瑛二は鳥の巣があることなんて知らなかった。

「それにしても案外いい眺めやなぁ。東京の夜景がこんなきれいなんて全然知らんかったわ……大和? どないしたん?」

 ヴァンに下から覗き込まれ、我に返る。まずいまずい。今おれどんな顔してた――?

「寒そうな格好しとるから……ワイがあっためてあげよか」

「やめろバカ、いらねぇよ」

 大げさに両手を広げる男を片手で押し返す。「兄さんに呼ばれてるから」と瑛二が先に離脱した。パーカーから覗いた白い手首を掴んで行くなと言いたい。もちろん、できるわけがないけれど。
 冷たい空気が堪えたのか、シオンがすすっとくっついてきて思いの外あたたかい。逆側からふざけて寄って来たヴァンは暑苦しいがそのまま放っておいた。
 これからも瑛二は、鳥の巣の様子をうかがうふりをして兄の部屋を見つめるのだろう。なに見てるんだと訊けば、鳥と答える。問い詰めることはなく、大和はきっと、そうかと受け流す。一方通行でしかない想いは結構苦しい。それはきっと瑛二も同じだ。

 

 

 

 

 関東の梅雨が明け、けたたましい蝉の鳴き声で目が覚めるようになった頃、瑛一から招集の連絡があった。そんなものなくとも二日に一回は七人で顔を合わせている気がするけれど、時間まで指定してくるのを考えると、重要な話なのだろうと察しがつく。
 グループLINEに連絡があった時、大和はシオンと走り込みをしていた。『HE★VENS』というグループ名にはまだ慣れずくすぐったい感じがする。近所の公園までのほんのわずかな距離でばてかけているシオンの肩を捕まえ、事務所に戻った。

 鳥の巣のあの日を境に、シオンは少しずつメンバーと馴染み始めた。きっかけは鳥だったのか、大和が知らないパスポートを取りに行った間のことなのか、知る由もない。ただあれから二人目の教育係に就任したナギが厳しくシオンを扱いているのを見るに、何かあったのだろう。そこは深く突っ込まないつもりだ。
 歌は元々抜群に上手いので瑛一の指導に任せ、主にダンスをナギが三日間ほどマンツーマンで教えた。恐ろしいほど体力がないのはこうして大和の走り込みに付き合わせることで解決させる予定だ。ついでにヴァンも走らせたいのが本音だが、三日坊主で終わってしまった。無理にやらせる気は、今のところはない。

「朝から招集してすまない」

 時計を見ると八時半。早すぎることはないが、こんな時間にどうしたのだろうときっと全員が思っていた。なんとなくぴりっとした雰囲気に、出かかったあくびを噛み殺す。

「うたプリアワードの」

 そこで綺羅とナギの肩が小さく動いたのがわかった。

「ノミネートが、決まった」

「……ほんと?」

 黙っていられないと言いたそうにナギが尋ねる。ナギの高さまで目線を下げた瑛一が「あぁ」と返すと、会話に乗り遅れたメンバーを代表してヴァンが手を挙げ「あの~」と割って入る。

「ごめん、それ何の話?」

「こちらこそ悪かった。説明させてくれ。うたプリアワードについても……説明が必要なようだな」

 呆気にとられた大和とシオンの顔を一瞥し、瑛一はふっと微笑んだ。いつもの自信満々な瞳ではなく、わずかながら憔悴が見て取れる。

「簡単に言えば、アイドル新人賞だ。しかしただの賞ではなく、ノミネートされる者はほとんどいないという幻の賞……。輝きを放ち多くのファンを魅了したグループや個人に贈られるものだと言われている」

「すげぇじゃねえか」

 ぽろりと感想をこぼすと瑛一はまた笑った。馬鹿にしたような色がないので腹は立たない。

「俺達は、七人で、HE★VENS……。ノミネートされたHE★VENSは……三人」

 長い両腕を組みながら、目を伏せて綺羅が口を添える。
 それは大和も分かっていた。メンバーの名前や名字の頭文字を取ってグループ名を決めたものの、世間にはメンバーは三人だと公表している。事務所のホームページには、一応研修扱いとして四人のプロフィールが掲載されているが、増員存在をほのめかすようなことはない。

「せやけど……すごいことやん、大和の言う通り。ノミネートされたからって一生三人で、メンバー増やさずにやらなあかんってわけじゃないんやろ? それにワイら加入してからやったら、新人賞てキツいかも――いや、そんな待たせるつもりじゃないんやけど」

「うん、そうだよ」

 ヴァンの言葉をナギが引き取った。

「三人でうたプリアワード受賞して、四人が合流して七人でもっと大きい賞目指そう。ね、瑛一」

「あぁ……そうだな。来週からの国外でのレッスンには、俺達は行けないが……」

 俺達、か。三人と四人。いつもそうだからもう慣れてしまっている。おれだってもっと早くここに来てりゃ『三人』の側だったんだろうし、と大和は思う。
「瑛二」と、兄が声をかけた。彼を振り返ると、とても喜べないという顔で、それでも無理に笑顔を作って「はい」と返事する。

「急な話で悪いが、俺がいなくともヴァン達の言うことをちゃんと聞いて励むように。いいな?」

「……はい」

 開いた手のひらをきゅっと握り、まっすぐ兄を見る。今生の別れでもないのに。
 ずっと口を噤んでいたシオンがナギに近寄り、両手を握った。

「天草には聴こえる……。ナギの、心の震えが」

 膝を折り、ナギの顔を覗き込む。すっかり心を許し合った二人だが、シオンは時々ナギの気持ちが微塵も汲み取れないようで、こうして直接問いかけることでわかり合おうとする。

「……不安なの」

「ナギ……?」

「シオンたちがいなきゃ、不安なの……」

「……すぐ、そちらへ行く」

「ほんと?」

「天草は、嘘は言わぬ」

 うっすらと笑みを浮かべたシオンに、ナギがぎゅっと抱きついた。可愛いものだ。幼い二人の友情と、美しき兄弟愛に取り残された三人で顔を見合わせ、思わず笑った。

「綺羅ちゃん、ワイらもなんかやっとく?」

「例えば?」

「胴上げでもすっか?」

「おぉ、ええなぁ。激励やで」

「人数が、足りない」

「はは、ほんまやな。ナイスツッコミ」

 寂しくはなかった。綺羅とヴァンも同じ気持ちだろう。離れることが辛い年齢でもない、そんな仲でもない。仲間は仲間で、それだけだ。もちろんそのうち日本に帰るわけで。三人ユニットは、七人ユニットになるわけで。
 考えてみる。もし、瑛二と離れることになったら――?
 今日まで、瑛二と特に大きな進展があったわけでもなく、同じユニットのメンバーとして当たり前の距離で接してきた。久しぶりに風呂のタイミングが被って、心臓がどきりとしてしまったくらいだろうか。
 瑛二と離れるとして、別に寂しくない。自分が『三人』の側に加わって日本に残るなら、特にそうだ。けれど瑛二が残って、大和が海外に行く方なら――少し、嫌かもしれない。だってそうだ、あいつの隣には兄がいる。好きな人がいる。それは、困ってしまう。

「ま、ワイらも頑張るし、綺羅ちゃんも元気でやりや」

「なんかしんねぇけどすげぇ賞、ぜったい獲れよ」

「あぁ……」

 強く握手を交わす。最後にヴァンと右手を握り合ってしまい、「いや、なんでやねん!」とお決まりの言葉を浴びせられた。
 翌日からレッスンの傍ら出発準備を始め、『三人』は『三人』で、うたプリアワードノミネートが決まったことで多忙を極めた。もう一組、ノミネートされた七人組がいることは、綺羅との会話の端でちらっと聞いた。が、正直、気にも留めていなかった。

 

 

 

 

 瞬く間に、出国。
 そして瞬く間に、到着。

「……ヘア、ット……?」

「ヒースローだよ、大和」

「あかんのは日本語だけと違ったんかぁ」

「うるせぇ。だいたいな、日本語はふつうにいけてるだろうが」

「天草は知っている。昨日も、発足という漢字を」

「あーそうやそうや、はっそく、言うてたっけ?」

「うるせぇうるせぇ」

 場所が違えど同じ面子で歩いているとあまり違和感を覚えることはない。むしろ、寿司屋や見慣れたカフェチェーンが空港内に当たり前みたいな顔して入っていることに驚いた。
 London Heathrow Airport、ヒースローが読めなくても、ロンドンはわかるし、ロンドンがイギリスの首都だということくらいは知っている。

 長時間の旅が運動不足(大和に比べたら、だが)の体に堪えたのか、ヴァンはスーツケースを持っていない右肩をまわしながら先導する。ヨーロッパは初めてと言いながら、地下鉄に乗るのも滞在するフラットに辿り着くのもヴァンと瑛二が率先して動いてくれたおかげでスムーズだった。
 フラット、と呼ばれた物件は日本でいうマンションのようなものだ。寮のように個室ではなく、成人組が各部屋に一人ずつ分かれるように、大和とシオン、ヴァンと瑛二、という部屋割りになった。初めて来る土地にシオンは怯えるだろうと思っていたが取り越し苦労で、窓の外の街並みを一生懸命眺めている。「なんかおもしれぇもんあるか?」と訊くと、黙ってかぶりを振るだけだった。

「大和、シオン。外にご飯食べに行こう。明日からレッスンだから、今日は楽しもうって、ヴァンが」

 隣の部屋から瑛二が呼びに来る。おう、と答えてシオンと部屋を出た。
 日本を発ったのが昼過ぎで、現在二十一時近く。日本とロンドンの時差は八時間だと教えられたので、今日本は――日本とロンドン、どっちが進んでんだっけ。頭がこんがらがってきた。
 明るく雰囲気の良い、瑛二やシオンと同い年くらいと思われる未成年の客もいるカフェ風の店を選んで、注文はヴァンに任せた。酒は成人メンバーだけでいる時しか飲まない、がHE★VENSの暗黙の了解だ。
 オレンジジュースのグラスで乾杯する。メンバーと外食するのは久しぶりだった。

「なんか、四人だけって変な感じだね」

「そうかもな。べつに毎日全員そろってるわけじゃねぇのに」

「瑛二もシオンも、ついでに大和も寂しいやろ。いつでもワイに甘えてええんやからなぁ」

 妙な泣きの演技に、「ねーよ」と憎まれ口を叩く。兄の前では不安そうな顔を見せていた瑛二も、「ありがとう」としゃんとして答えた。

「天草は……ナギが、心配だ」

「へいきだろ。あっちには瑛一も綺羅もいるし」

「活動もだいぶ軌道に乗ってきてるみたいやからなぁ」

「そうだね。体調はちょっと心配だけど、みんなしっかりしてるから大丈夫だよ、シオン」

「もちろんおまえにもおれらがいるんだから、それなりに頼れよ」

「はい大和くんー、口説かへんのー」

「は? くどいてねぇよ」

 ヴァンが茶化すとシオンもつられて笑った。ていうか瑛二、なんもしらねぇでおまえも笑ってんじゃねえぞ……とは、言えない。本当に好きな相手はこうして口説かせてもくれない。

「でもほんま、リーダーや最年少の目が届かへんからって、あんまり遊んだらあかんで。ちゃんと夜はおうち帰ってくるんやで?」

「そういうことこいつらの前で言うなって」

 まず、やらねぇし。心の中で毒づく。

「おまえこそ、遊びにきてんじゃねぇぞ。朝帰りとかしたらはったおすからな」

「しゃーないな、そん時は昼帰りや」

「もう、ヴァンも大和も……」

 やんわりと制する声。本当に呆れられているというより、シオンの前でこれ以上やめろという制止だった。

「わるい」

「堪忍な、瑛二、シオン」

「ほら、ご飯食べよう」

 匂いにつられて「うまそうだな」と気持ちが食事の方を向かされる。それでいい。瑛二が好きとか関係なく、大和もヴァンも健全な大人でいなければならない。実際、そんな男はいないと思うけれど。

 フラットに戻り、二つしかない共有のシャワーを年少の二人に譲ったので部屋で筋トレを始める。腹筋の最中にシオンが帰ってきて、きっちり三セット終わらせてから大和もシャワーを浴びた。
 八時間先にいる(日本が進んでいることはさっきシオンが教えてくれた)三人に対する、微かな焦りがじわじわとわいていることに気付いていた。ここで高度なレッスンを受けさせてもらえることは素直に有り難いけれど。
 ノミネートされたからといって、必ずうたプリアワードを受賞できるわけではないと瑛一に聞いた。だが、日本中の全てといっていいメディアがほぼ内定だと報じ、この一年で増えに増えたHE★VENSの『天使たち』の熱狂ぶりを見ても明らかだと思えた。置いて行かれる。兄だけでなく、メンバーでさえ、おれを。
 年長で一応は先輩にあたるヴァンにさえぶちまけられない感情。どこにこぼすわけにもいかない。排水溝に吸い込まれる湯を眺めながら、シャワールームのタイルを殴った。

 拳がじわりと、痛かった。

 

 

 

 

 

 

 レッスンは翌日から始まった。

 事務所が手配したスタジオはバスで三駅ほどだったので、大和は走って向かうことにした。ランニングの習慣を怠りたくなかった。時刻表通りに来ないバスを待つのが嫌いというのもある。
 ダンスレッスンでは「着いたばっかりやのに過酷やわぁ」と冗談っぽくこぼしていたヴァンが一番びしばし扱かれ、シオンも度々疲れ果てて見学になる。基礎体力の問題なので怒られさえしなかったが、ヴァンとシオンには別のトレーニングメニューが課せられた。瑛二にはもう少し上級者向けのそれが。大和は免除だった。というか、自発的にやっているので必要ないという判断だ。

「で、なんでおれだけ英語の勉強なんだよ……」

 その晩、「はよ寝な死んでまう」と大げさにベッドに入ったヴァンを除いた三人で共有スペースに集まった。ぜぇぜぇ息をしながらメニューにある腹筋をこなすシオンの両脚を、瑛二が支えている。

「英語の歌詞って多いし、発音良くなるに越したことないよ」

「っつったって、これこっちの小学生むけの本だろ? おれはそのへんのガキと同レベルかよ……」

 可愛らしい挿絵に、馬鹿にされた気分になる。これはペンですか――はいそうです。さすがにこれくらい知ってる。マイネームイズペンとかそういうベタなミスはやらかさない。

「つーかおまえらはなんで英語とかしゃべれんだよ」

「俺は兄さんに昔から外国の劇場なんかに連れて行ってもらってて……それでかな。シオンは?」

「……言語は、感性」

「ならおれだってペラペラなはずなんだよ」

 不貞腐れて言うと、「交代して」と瑛二が立ち上がる。瑛二には瑛二のメニューが与えられている。

「あんまいきなりガンガンやっても体痛めるだけだぞ、シオンも」

 毛足の長いカーペットの上で仰向けになったシオンの足の甲を踏むかたちで乗っかり、両脚を支える。いつも低体温のシオンの体が、というか、足首から膝にかけてが熱を持っていた。さっきまで瑛二が掴んでいたからだ。そう思うと、妙に気恥ずかしい感じがする。まぎらわそうと、教本をぺらぺらとめくる。

「お、シオン、これなんかおまえっぽいぞ。Birds of a……フェザー? ロック? よめねえけど」

「Birds of a feather flock together?」

「すげぇな、たぶんそれだ」

「同じ羽の鳥は群れを成す」

「シオンは鳥が好きだから?」

「あぁ」

 なんや単純やな、と言いそうな男がいないので、シオンは腹筋を止めて膝に両手を置き考え込む。

「日本語だと、類は友を呼ぶ?」

「HE★VENSの仲間が同じ羽の鳥だと云うなら……確かに天草はその諺に共感する」

「だろ? なんかすげぇおまえっぽい」

「そんな難しいことわざ載ってたの?」

「最後のほうにな」

 ページを飛ばしまくって読んでいることに、二人とも呆れなかった。このままじゃ進歩はないと思われたかもしれないが。
 ふ、と笑い、シオンは再び体を寝かして起こしてを繰り返す。
 使えもしない英語にいいも悪いもない。少なくとも大和にとっては。ぱたんと教科書を閉じ、申し訳程度にシオンの腹筋の回数を英語で数えると、後ろで瑛二も笑った。

 

 

 

 

 米のない生活に体が慣れ始めた頃、久しぶりに瑛一から招集がかかった。新曲の歌詞を話し合いたい、と。当然顔を突き合わせるのは無理だが、国境を越えても通信手段はいくらでもある。ノートパソコンの画面の中に見える三人の顔が元気そうでほっとした。健康第一、が信条だ。
 まず新曲のデモを送ってもらい、四人で耳を傾ける。フラットにはあと数名のアジア系外国人が住んでいるが、この共有スペースで顔を合わせたことはない。今日も昼間から額を寄せて一台のパソコンに集中していられるのはそのおかげだ。
 仮歌は、満場一致で瑛二が担当することになった。比較的時間の空いている四人のうち、正確に、良い意味で抑揚なく、模範的に歌える人物といえば瑛二しかいない。

『チーム名に因んで神話をモチーフにしたいのだが』

 瑛一の提案に全員が賛同した。ファン=エンジェルへの呼びかけがほしい、HE★VENSというチーム名を繰り返し印象を深くしたい、七人で歌う初めての曲になる予定なので始まりっぽさがほしい……次々意見が飛び交う中、綺羅が大和を指名した。

『大和は……何か、ないか?』

「え、おれか? 作詞苦手なんだよな……」

 困ったように頭を掻くも、画面から見切れてしまっているので三人には気付かれない。『俺が書き留めてやろう、大和』と自信ありげな声が回線を通じて聴こえ、マイクに近付く。

「あ~……、なんだ、おれたちっていう新しい音楽を……ガツンとひびかせてやる、みてぇな」

『いいじゃないか。さすがだ』

「なんかうまい言葉にまとめてくれよ」

 投げっぱなしにしたボールを、瑛一は『arcadiaに届いてnew beat』と返してきた。「こいつ天才か?」と瑛二に訊くと嬉しそうに笑うから、少し気に障った。でもそれは瑛一のせいじゃない。
 エデン、ゴスペル、そしてエンジェル、と出てきた単語を組み立て、仮の歌詞が完成した。先ほどの詞は最終的に大和のパートになるらしい。そういえば、アルカディアってなんだ? あとで調べておこう。すぐ人に頼らず自分で調べる、ということを、英語の勉強の中で学んだ。

 通話が終わった後、バスで移動しダンスと歌のレッスンを受けフラットに戻る。適当な順にシャワーを浴びて、共用キッチンで夕飯を作って食べる。その後は各自ダンスの自主練をしたり、筋トレしたり、英語の教科書をめくって寝落ちしそうになったり、それぞれだ。期待していたわけではないが、観光になんて一日たりとも行けていない。

 そんな日々が二ヶ月も続けば、いつまでこうしているのかという疑問がわいて当然だった。行き慣れたファミリーパブ――とヴァンは呼んだ。未成年も入れるファミレスみたいなもの――を避け、たまにはと二人で入ったやけに雰囲気のある店内で、軽い愚痴をこぼしながらグラスを傾ける。

「ワイらいつまでこうなんやろ」

「いきなりなんだよ」

「大和だってちょっとは思ってるやろ」

「そりゃ……まぁそうだな」

 狭い店内のカウンター席。店内は日本人より体格のいい連中で溢れているから、いやでもヴァンとの距離は近くなる。よく見ると迫力のある、見栄えのする顔だ。こんなところで燻っているのは確かにもったいない。

「おまえの気持ちはわかる、っつーか、正直おれも同じ気持ちだ。でもこんな日にしなくてもいいだろ、んな話」

「……せやな」

 たっぷり含みを持たせ、ウイスキーを呷る。明日はうたプリアワード審査のライブ当日だというのに、という気持ちと、そういう日だからだろうという気持ちが勝手にせめぎ合う。

「ワイ向いてへんのかなぁ、アイドル」

「おれにわかるかよ」

 つい厳しい口調になる。同じ気持ちでいるのは事実でも、大和は自己嫌悪しない。しないようにしている、というのが正しいかもしれない。せめて、マッスルファイトに出てあいつを倒すまでは。弱音を吐いている暇があるなら進む。それだけだ。

「どうしよ大和、ワイこのままやと三十歳新人アイドル? それはちょっとキツいやろ~」

「ありじゃね」

「また適当なこと言うて~……。どこやってそうや、勢いあるうちは新メンバーなんて入れへんねんで。新メンバーはテコ入れ言うねん、うたプリアワード受賞して、HE★VENSにテコ入れなんていらんようなったら……って考えへん?」

「それおれとおまえで話してなんになんだよ」

「……ごめん」

「いや」

 ビールをおかわりする。瑛二にキスしたあの日から、酒は飲んでも少量にしているが、今日は仕方ないと思った。こういう話をするために酒を飲むんだろうし。

「ごめんなぁ大和ぉ~」

「いい、もういい、うるせぇから。なんか明るくなる話しろよ」

「じゃあ話変えてええ?」

「おう、何百回でも変えろ」

 手をひらひらさせてどうぞどうぞと勧めた。グラスに口をつけ、ちびちびビールを消化していく。

「大和、こっちで何人かできたやろ」

「は? なんの話だよ」

「とぼけたってあかん。いい出会いがあったんちゃいますか? 言うてんねん」

「ねぇよ。ひとりもねぇ。出会う気もねぇし時間もねぇ」

「ほんまに?」

「なんでそんなうたがってんだよ」

「……ほんなら、片想い?」

「は?」

 と返してみたものの、正直困った。こいつどこまで察してやがるんだ? バレてるのか? 誘導尋問なのか? 

「なんか、ますます男らしさに磨きかかってきた気ぃするから。ちゃうかった?」

「あぁ、そうだ」

「やっぱりそうやんな――て、え? どっち?」

 ばっさり否定されると思っていたのだろうか。ヴァンは自分のペースで話していたのを止め、大和に向き直る。

「いる。好きなやつ」

「うわ、ほんまにそうやったんや。え、こっちで出会った子? それとも日本に置いてきたん?」

「言わねぇ」

「なんでやねん! ……まぁええけど」

 相変わらずころころと言うことが変わる。会話のテンポがめちゃくちゃだ。気晴らしにはちょうどいいかもしれない。
 ヴァンが食べ飽きたと言うので、注文したフィッシュアンドチップスは大和が平らげる。ぬるいビールを飲み干す頃にはかなり酔いがまわっていて、こちらから喋りかける気にはなれなかった。

「いやぁ、よかったわ。大和と話せて」

「ん」

 ならよかったな、という意味を込めて言った。

「まだまだ頑張らんとなぁ。おじさんアイドルになっても、応援してなぁ」

「は?」

 これは、なんでおれが、という意味。

「帰ろか。だいぶ酔ぉとうみたいやし」

「おう」

 それ以上意味はない。狭いカウンターから立ち上がり、会計はヴァンに任せた。奢るから飲もうと言われたので言葉通りにするだけだ。帰りにコーヒーくらい買ってやらないでもない。あぁ、でもまともに誰かと会話できる気がしない。ヴァンの肩を頼りにフラットに帰り着く。
 普段の就寝時間を三時間越えていたので、シオンはすうすう寝息をたてていた。コートを脱ぎ、ベルトを外して楽なジャージに履き替え、上はそのままでベッドにダイブ。シャワーは明日にしようと思っていたら、隣の部屋の扉が開いて、階段を上る音が聴こえた。ヴァンはこれからシャワーらしい。
 一緒にベッドに放り投げたスマホが、ぴかぴか画面を光らせる。ヴァンからLINEが来た。

『シオンぐーすか寝てたやろ。ワイは瑛二にちょっとだけお説教されました。朝帰りちゃうのに』

 それと、くまが大泣きしている謎のスタンプ。かつての勤め先のイメージキャラクターなのだという。は、と乾いた笑いが口から漏れた。深夜にこっそり戻ってきたヴァンを、瑛二はどんな顔で怒ったのだろう。怒られたいとか、そういうマゾヒスティックな性癖は全くない、が。

「うらやましいんだよ、ちくしょう」

 壁に向かってごろりと寝返りをうつ。返事を打つのは面倒くさいので、堂々と既読スルーをかまして眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 うたプリアワード審査のライブ当日、開始まであと五時間というところだろうか。時差の計算にも慣れてきた。
 フラットの窓から外を見ると、シオンを揺り起こしたいくらいよく晴れていた。
 ベッドから起き出し、シャワーを浴びて戻ってもシオンのベッドには丸い山ができていた。よく眠れているようで何よりだ。
 あまりに良い天気なので、思わず窓を開ける。外の空気が吸いたかった。

――天に響き合おう、今、繋ぎ合おう。

 耳に覚えのある声。肌に馴染んだ歌詞。すぐに瑛二のものだとわかった。瑛一が作詞したパートだ。部屋を出て屋上に向かう。晴れた日は洗濯物をここに干していた。

「神も、知らな――……あ、大和。おはよう」

「おう」

「ごめん、もしかして起こしちゃった?」

「いや、起きて窓あけたら瑛二の声がした」

「そっか。なんだか今日は早く目が覚めちゃって。朝ご飯の支度も洗濯ももう済んじゃった。今日のライブ、俺が出るわけじゃないのにね」

 困ったように笑って見せる。ふと、こいつも昨日のヴァンみたいに考える日があるんだろうかと思い――すぐに考えるのをやめた。HE★VENSにはこいつの兄さんがいる。

「瑛二、もうやることねぇのか?」

「うん、みんなが起きてきたらご飯って思ってたくらい」

「ランニング行くけど、つきあうか」

 今思いついた風に誘うと、瑛二はあっさり「うん」と返事をした。エレベーターはない建物なので階段で一階へ下り、ランニングコースにしている近所の公園までぶらりと歩く。
 大和も瑛二も、何も話さなかった。ステージに上がるわけじゃないのに妙な緊張感がある。
 受賞有力候補はHE★VENS、という見方を、どのメディアも結局曲げなかった。それほど三人のパフォーマンスは圧倒的で、それに着いてくるファンの熱というのも半ば狂気じみていた。
 同じくノミネートされた、ST☆RISHという名前は、ロンドン滞在中に初めて知った。瑛二かヴァンから聞いたのだ。チーム名や人数に既視感を覚えたのは大和だけではなく、後にレイジング鳳と、向こうの社長がライバル関係にあったことを知った。因縁の対決、ということになる。
 ST☆RISHは元々六人グループで、七人目の愛島セシルが加入した頃、HE★VENSにも増員が命じられた、らしい。そこで瑛一が見つけて手を引いてきたのがシオンだ。レイジングがムキになって人数を揃えたことはなんとなく分かった。瑛二の手前、誰も口にはしなかったけれど。

「あいつらなら」

 公園の入り口に差し掛かり、小声で呟くと瑛二が「え?」と問い返す。

「平気だよな。勝つよな」

「大和、心配なんだ」

 どちらともなく軽く走り出す。公園をぐるぐる走るだけなので景色が変わらずなんの面白みもないが、集中できていい。もっとも、ここに来てすぐの頃はすれ違う人の身なりを眺めるだけで楽しいと思っていたけど。

「おまえは心配じゃねーの」

「心配っていうか、気になる? っていうか……でも、兄さんたちなら大丈夫」

「そうだな。ひとの心配してる場合じゃねぇよな」

「うん、そう思う」

 珍しく語尾を伸ばしてゆったりと。小柄な体ながら、ちゃんと大和のペースに瑛二はついてくる。

「早く合流したいね」

「あぁ。でなきゃあいつらばっかりにファンがついちまう」

「ふふ、ほんとだ」

 ひとしきり笑ってから、「見て」と瑛二が五分ほどの袖をさらにまくって見せた。瑞々しい、男の健康的な肌がむき出しになり、一瞬見てはいけないものを見たような気持ちになる。

「大和にはまだ、及ばないけど、結構筋肉ついてきたんだ」

「まだまだひょろひょろじゃねえか」

「そんなこと、ないよ」

 瑛二の息継ぎが不自然になってきたのでペースを落とす。つい甘やかしてしまう。瑛二のためにならないとわかっていても。トレーニングの成果に自信があるのか、腕を突き出して瑛二は「触ってみて」と折れようとしない。
 まじか、と言いたい気持ちを抑え触れてみる。むに、と肉々しい感触。もちろんいい意味で。
 大和が触った瞬間力を入れた筋肉は少しだけ張り出していたが、すぐにやわらかく戻ってしまう。このままずっとさわっててぇな、と思っているのを気取られるわけにはいかず、さっと手を引いた。

「ていうか、おまえに筋肉とかいるか?」

「なんで?」

「ゴリゴリの瑛二とか、リーダーが泣く」

「ゴリゴリは、無理だよ」

 思わずゴリゴリの瑛二を想像した。半袖のTシャツから覗く今の倍以上の太さの両腕――ないな、やめよう。

「あぁでも、シオンはもうちょっと、体力づくり、しなきゃね」

「だな。あいつもペラペラしてんのがらしくていいけど、ライブなんてしたら途中でぶったおれそうだもんな」

「ゴリゴリのシオンは?」

「それもなしだろ」

 瑛二が笑う。大和みたく、ゴリゴリの妄想をしたわけではなさそうだった。
 外周を三回まわってペースを落とし、クールダウンする。普段は倍走っているが、昨日の酒が少々体に影響していた。瑛二も疲れているようだしちょうどいい。
 瑛二を置いて売店でミネラルウォーターを購入し、適当なベンチに二人で腰を下ろす。ありがとう、と笑顔でお礼に続けて瑛二が口を開いた。

「英語、上手くなったね」

「そうか? もの買うのと、道きくのはな」

 指折り数えても、二つだけしかない。

「ことわざ」

「ん?」

「こっち来た頃、英語の勉強してた時興味深そうにことわざのページ読んでたよね。何か使えるものはあった?」

「あー、そうだったな。鳥のやつとか」

「忘れてたんだ」

 ふ、と笑う。
 英語どころか、日本語の意味さえ忘れてしまっていた。シオンっぽいと話し、本人も肯定したことは覚えているのだけど。
 そもそも、教科書に載っているお堅い文法より会話で身に着けるイディオムの方が役に立つ気がして、早々に勉強は諦めてしまったのだ。

「なんか簡単なやつあればおぼえられたんだけどな」

 汗を拭いながら言うと瑛二は曖昧に笑った。ミネラルウォーターを半分くらい飲み干し、残りにはしばらく口を付けずぼんやりと行きかう人々を眺める。
 隣をちらりと覗き見ると、瑛二の横顔がある。毎日会っているから変化はよく分からないが、少し大人びたような。身長もまた少し伸びたかもしれない。全ての鋭さを削ってまるくしたような穏やかさが、やっと地に足をつけた感じ。子どもだと思っていたのに、いつからこんなに落ち着いて、頼もしくなったんだろう。
 帰国したら、あいつは弟の成長ぶりに驚くんだろうか。

「瑛二」

 考えてから行動するなんてできない。それじゃ遅い。判断が鈍ってしまう。だから。
 よく晴れた空も、木漏れ日が差して地面に水玉みたいな影を作るのも、優しく吹いた風に緑の葉が舞うのも、ほぼ約束された彼らの勝利も、大和の背中を押しているのだとしか思えなかった。
 答えはいらない。ただ聞いてほしい。大和のエゴだから、押し付けることはしたくない、けど。

「おれ、瑛二のことが好きだ」

 向かい合った顔がみるみるうちに赤くなる。大和と同じ気持ちだからじゃない。慣れていないからだ。わかっている。

「おまえの気持ちはわかってる。なにも言わなくていい……っつーか、ただ聞いてほしかった。ありがとな」

「俺の方こそ……、その、ありがとう」

 消え入りそうな小さな声で。かわいい、と思った。心から。
 その一瞬だけ瑛二が、出会ったときの姿よりずっと幼く、ちいさく見えた。困らせてしまった。そして困惑した瑛二の姿をかわいいと思い、一瞬でも愛でてしまった。

「ごめんな」

「え?」

「いや、困るだろこういうの」

「そんなことないよ」

 気を遣ったわけではなく、瑛二は強く断じた。

「俺は兄さんが好きだってわかってるのに、気持ちが言える大和はすごいよ」

「ふられんのがわかってたから言えたのかもしんねぇぞ」

「ふられるのがわかってるのは、俺も同じだよ」

 飲み口を指でとんとんと軽く叩く。
 わぁ、と賑やかな高い声がすると思ったら、クリケットのラケットを抱えた子どもたちが駆けて行く。一番後ろを走っていた背の低い少年が派手に転んで、先を走っていた集団から一人、彼を案じて戻ってきた。差し出された手をためらいなくとって、二言三言交わし合い彼らはすぐ視界からいなくなった。兄弟、だろうか。大和にはどうしてもこちらの人たちが同じような顔に見えてしまう。
 瑛二はその数秒の光景を、目を細めて眺めていた。

「俺、大和の強さが羨ましい」

「こういうのは強いって言わねぇんじゃねぇの」

 例えば、無鉄砲とか。その方がしっくりくる。けれど瑛二はきっぱりとかぶりを振った。

「大和を見てると、俺はいつも逃げてばかりな気がするんだ」

「おれはおれ、おまえはおまえだろ」

 思ったまま口にするのは、良くない癖だ。瑛二は残った水をぐいと飲み干して、濡れた口元を指でこすりながら曖昧に微笑んだ。

「かえろうぜ」

 立ち上がると、手首をぐっと掴まれる。
 ずっと、手を握りたくて、離れてしまう瑛二を引きと止めたくて、できなかったのは大和の方なのに――。

「思い出したんだ、簡単なことわざ」

 掴んだ手首をやや乱暴にくるりと回し、手のひらにゆっくり文字を書き始める。

――I’m

「アイム?」

「うん」

 ――in

「イン」

 ――to

「トゥ?」

「イントゥ、だよ」

 ――you.

「あなたに夢中です」

「すげぇ」

 思わず、口をついて出た。何か言わないと口からそのまま心臓が飛び出てくる気がして。
 今ここで、このタイミングでこんなことをしてくる。思わせぶりでとんでもないところも――好きだ。

「I’m into angel――だと、HE★VENSの活動でも使えるよ」

「だな」

「天使とかエンジェルとか……ファンの皆をそう呼ぶの、やっぱりちょっと照れるね」

「……だな」

「引き止めてごめんね。帰ろう」

「おう」

 一本調子になってしまった大和に気付いたのか、今度は瑛二が先に立ち上がる。その手を掴むことは、大和にはやっぱりできない。それほど夢中、なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 日本でうたプリアワードの審査ライブが行われている時間、ロンドンはまだ正午を過ぎたあたりでレッスン中だった。国外に向けた中継もない。だから、その結果は帯同していた事務所のスタッフが稽古場に飛び込んでくるまで知らされなかった。

「HE★VENSが――」

 レッスン中にも関わらず突然扉が開き、スーツをきっちり着込んだ男がスマホ片手に息を切らす。
 その場にいる誰もが受賞を確信していた。ヴァンが「おっ」と声をあげ、全員が待ちわびたように振り返ったが、男の顔色を見た瞬間、世界が止まったような気がした。

「負けました……受賞グループは、ST☆RISHに決定しました」

 うそ、と、瑛二の唇が動いた。シオンは黙って立ち尽くす。ねじが切れた人形のように。ヴァンが電源を切っていたスマホを起ち上げ、大和もはっとしてその画面を覗いた。四人で一台のスマホに群がる。

「あった」

 芸能ニュースの最上部に『ST☆RISHうたプリアワード受賞』、続いてそのすぐ下に。

「解散……」

 タイトルをタップしながらヴァンが呟く。震え始めたシオンの体は人間のそれでなくなってしまったようで、思わず肩を抱き寄せた。瑛二は――青い顔をしながら、自分の足で立っている。

『速報! うたプリアワード受賞最有力候補、HE★VENSが最終審査にてシャイニング事務所新人アイドルユニット、ST☆RISHに敗れ、受賞を逃した。ライブ直前に姿を現したレイジングエンターテインメント社長レイジング鳳とシャイニング事務所社長シャイニング早乙女は、うたプリアワードにノミネートされなかったグループの解散を約束した。両グループ共に困惑の色を隠しきれない様子であったが、HE★VENSはリーダーの鳳瑛一を中心に堂々とした圧巻のパフォーマンスで力量をST☆RISHに見せつけた。しかし、最終的にはST☆RISHが見る者全てを幸福の世界に誘うような煌めきのステージを披露し、うたプリアワードを見事受賞』

 狭い液晶に表示された文字を、淡々と四人で追った。

「ふざけんな……」

 息を吸うより早く言葉がついて出た。支えているシオンの体がびくりと揺れる。「続きあるで」とヴァンはまだ冷静だ。

『ST☆RISHの勝利、そして敗北したHE★VENSの解散が決定し、場内は勝者を讃える声と共に、彼らへの落胆の声に包まれた。HE★VENSの解散を望む者は一人もいなかった。若干十三歳である最年少の帝ナギ含め、全員がその決定を受け入れた時、待ったをかけたのはST☆RISHだった。幻の新人賞であるうたプリアワードを受賞した者に与えられる、望みを何でも叶えられるという特権を、ST☆RISHは彼らの解散を阻止するために行使した。解散を免れたHE★VENS、そして勝者ST☆RISHに、訪れた五万人を超える観客は今度こそ喜びの歓声をあげ、うたプリアワード授賞式は幕を閉じた。今後もHE★VENS、そしてST☆RISHの活躍から目が離せない――』

 最終行を読み終わった時、スマホを握ったヴァンが安堵でほっと息を吐くのがわかった。それが引き金になったのかもしれない。

「なんだよこれ」

「大和、とりあえず落ち付こ」

「は? 逆になんでおまえはそんな落ちついてんだよ。なにほっとしてんだよ。HE★VENSはあいつら三人だけのもんなのかよ。なんも言わずに解散とか決められて……いいと思ってんのか?」

「こんな言い方したないけど……ある意味、しゃーないやん。社長命令ならリーダーやって逆らえへんって、わかってるやろ」

「うるせぇ、んなの関係ねぇだろ。じゃあおまえはあのオヤジにもういらねぇから出てけって言われたらはいそうですかって従うのかよ!」

「そんなこと言うてへんやろ。あっちはライブ中のことやったんやで。同じ条件、ST☆RISHも受け入れたんやで?」

「最後には敵に情けかけられてんじゃねぇか。甘ったれやがって」

「大和……そんな言い方」

 瑛二が割って入る。大和の腕を解いて、シオンがその場に座り込んだ。くそ、どいつもこいつも甘ったればっかりじゃねぇか。瑛二に対してさえ、思わず牙をむいた。

「うるせぇよ」

 わかっている。わかっている。
 でも、わからないしわかりたくない。
 全員で罵りたいわけじゃない。むしろ、瑛二もヴァンもシオンもそういうことができるやつじゃないと知っているし、だからいい。自分と同じように怒り狂う姿なんて見たくもない。

「大和、悪いけどどっか行って頭冷やしてきてくれへん」

「……あぁ」

 荷物を持たず部屋を出た。
 誰にも引き止められないで良かった。
 今あそこにいるメンバーじゃ誰も大和を止められない。瑛一か、せめて綺羅がいないと。

 階段を下りると、上から同じ音が聴こえた。一人にしたなら誰も追いかけてくんじゃねぇよ。
 部屋を出る前、膝を抱いてうずくまったシオンの姿を思い出す。瑛一に連れられて初めてやって来た日みたいに、儚く見えた。十中八九追ってきたのはヴァンだろうと、ずんずん歩きながら振り返ると瑛二だった。
 別に、負けたから怒っているわけじゃない。
 解散を言い渡されて、嫌だと言うわけにはいかなかった。ヴァンの言う通りだ。
 ST☆RISHに救われたのだって、言わせてもらえばあっちが勝手にそうしただけで。あのふざけたネット記事が本当ならば、潔く解散を認めたらしいし。
 じゃあ、何がこんなに腹立たしいのか。

 バス停の手前でぴたりと足を止める。乗客かと思った赤い車体が停車し、動かない大和を見てすぐに走り出す。くい、とウェアの裾を掴まれ、背中に瑛二のまるい頭が押し当てられた。

「……いてぇよ」

「俺も痛いよ」

 からりと晴れた空の下、右に左に流れて行く人々はどれも陽気に楽しそうで。今、自分と瑛二はどんな風に見えているんだろう。人目なんて気にしたことはなかったのに、気になる。

 小さな体が震えていて、泣いているのだと気付いた。一度溢れると堰を切ったように止まらなくなって、背後から嗚咽が聴こえる。
 ただ行き交っていただけの衆人の視線が次第に瑛二に注がれ始めてどうもいたたまれない。振り返り、こんなとこで泣くなと文句を言いたかったのに、ぐちゃぐちゃの泣き顔を見ると言葉が出なかった。湿っぽいのは苦手だ。ぐずぐず泣かれるよりヴァンとぎゃーぎゃー言い争った方がまだスカッとするかもしれない。瑛二に泣かれると困る。その理由は、本人だってわかっているはずだ。

「……泣くなよ。おれがいじめてるみたいじゃねぇか」

「俺……」

 両手で目を擦る瑛二の顔に、タオルを押し当てて乱暴に上下させる。

「一緒に戦いたかった……。負ける時も一緒にいたかった……。やっぱり俺も出たかった……」

 パズルのピースがかちっとはまったような感覚。そうか、と合点がいった。

 負けたことも、解散の指示を受け入れたことも、情けをかけられたことも、本当は大した問題じゃない。でもそこに自分が、自分たちがもしいられたら。少しでも未来を違えたかもしれない。負けたあいつの隣に弟のこいつがいてやれたかもしれない。最強は自分たちだと示せていたかもしれない。
 八時間分も離れた同じ空の下でただ立ち尽くしている自分が情けなかった。七人で戦いたかった。

「そうだよな……」

 なだらかな後頭部を慰めのようにそっと撫でる。瑛二は何度か首を縦に振った。

「最強はおれたち七人だって、示してやりてぇよな」

「うん……」

「かえろうぜ」

「うん」

「もう泣くな」

 タオルをメダルみたいに大和の首に引っかけ、瑛二が一回り程大きな手をぎゅっと握った。そこに特別な意味はなくて、強く握り返す。頼りない。でもあたたかい。
 無言のまましばらく歩くと、レッスンで使用している建物の下で、ヴァンが手を振っている。シオンもその後ろで帰りを待ってくれていた。繋がっていた手がどちらともなくほどけて、瑛二が「目腫れてる?」と顔を上げた。「ちょっとな」と答えると恥ずかしそうに肩をすくめる。瑛二の涙を知るのは自分だけでいいのに、目敏いヴァンにはきっと気付かれてしまう。

 『シオンを怖がらせた罰』『瑛二を泣かせた罰』『あとなんかヴァンを怒らせた罰』(ヴァン考案)で三回頭を九十度しっかり下げて謝罪させられたのは、その晩の話。

 

 

 

 

 

「すまなかった」

 六人の前に立った男が、深く頭を下げる。トレードマークとも言える二葉のような頭頂部の跳ねた髪も、申し訳なさそうにうなだれる。荷物を置いてすぐの行動に、全員が驚いていた。その最中、当然驚きはしたが、深々と頭を下げてもきっちりキマる男だな、と大和は考えていた。
 えーいっちゃん、と気安い呼び方で、でも声がいつもより硬いのがわかる。ヴァンが一歩前に出て、「顔上げてぇや」と促した。

「負けてしもたこと、怒ってるんとちがうで」

「ヴァン……」

「ワイら七人でHE★VENSやのに、三人だけで解散とか寂しすぎるやろ」

 瑛一はゆっくりと、しかしまっすぐ顔を上げる。ヴァンを、仲間を視界にとらえた瞬間表情にほのかな安堵が灯った。横目で瑛二を見やるとなぜか目が合ってしまい気まずい。おまえは兄さんだけを見てろよ。
 ヴァンに「な?」と求められ、瑛二とシオンが大きく頷く。大和は少し遅れてしまった。たぶん瑛二を見つめていたせいだ。
 瑛一はもう一度深々と頭を下げ(そんなこともうすんなよと大和は思った)、再び全員に向き直った時にはいつもの、王者然とした凛々しい顔つきに戻っている。神聖なものを扱うようにそれを見ていた瑛二が少し涙ぐんだので、一瞬、喉の奥が詰まった感じがした。

 勝者の望みにより解散は免れたものの、『敗者』となってしまったHE★VENSへの圧力はかなりのものだった。国内での活動はおろか、練習場所まで奪われ、途方もなくなり結局国外にしばらく拠点を移すことを瑛一が決めた。まともな活動ができないように仕向けている張本人が、事務所の社長で瑛一と瑛二の父親であるレイジング鳳だというのだから大和は理解に苦しんだが、息子である本人らが一番平然としていた。彼らにとっての当たり前は周囲にとっての違和感だとしても、それが事実で現実だった。ここにはもう、七人と、謀反を企てるみたいに着いてきてくれた数名のスタッフしかいない。
 フラットの空き部屋をもう一つ借り、瑛一と瑛二はそこに移った。シオンと二人で使っていた部屋にナギが入り、多少狭くはなったが二人とも小柄なのであまり気にならないのが幸いだ。

 早朝のランニングを終えると、ナギが開け放した窓から外を眺めていた。三階の部屋からの眺めが気に入ったのか、ただ空き時間を外に視線をやることに費やしているのか。部屋のコルクボードに貼った予定表には、ナギにだけ定期的な予定が書かれている。

「ナギ。学校、今日からだろ」

「わかってるー。そろそろ行くよ」

「おくってってやろうか」

「こっちにバイク持って来てないでしょ。……でも、いっしょに行こっか」

「ん? あ、あぁ」

 歯切れの悪い返事にナギが笑う。重そうな鞄を肩に背負って扉を開ける華奢な背中に続いた。
 十五分歩けば到着するらしいのに誘ってきたのには、何か理由があるんだろうか。話したいこととか? 心当たりがない。けれどナギは人の歩く速さとか、モーニングのメニューとかフラットの上の階の住人のこととか、当たり障りのない話に徹している。
 何時に帰るのかと訊くと、ちょっと面倒くさそうに「三時」と答えた。自分だけまだ一日の何時間かを学校という場所に割かなければならないことに、彼は一切不満をもらさない。そういうところが賢くて、わかっているなと思う。本当はわからなくていいはずのところまで。
 信号待ちの途中で、ぷつりと会話が途切れた。
 観光用の大型バスが通り過ぎ、「ねえ」とナギが言った。ポケットに突っこんでいた手を、なんとなく外に出す。

「あの日のライブ……見た?」

 辺りをうかがうような声色に、なんだよと茶化してやりたくなる。ここじゃおまえのこと知ってるやつなんていねーぞ――いや、ちがうか。

「見てねぇ。つか、あれ日本でしかやってねぇし」

「そっか」

「なんだよ」

「べっつに~。ていうか大和、しぶといよね~。入ってきた頃、すぐにやめるだろうなって思ってたのに」

「あ? んなこと考えてたのかよ」

「だって全然楽しそうじゃなかったし」

 歩き出す。歩みに合わせておかしそうにナギが笑う。

「まぁ、べつに楽しいもんじゃなかったな。最近はそうでもねぇけど」

「楽しいんだ?」

「ぼちぼち」

「よかったね。えらいえらい」

「おまえはおれのなんなんだ」

 優しく肩を押してやる。まだ成長過程の体はぱきっと折れてしまいそうで怖い。
 末の弟より年下で、気は強いけれど体の線が驚くほど細いから、時々扱いに困るのだ。さっきだって何か言いたそうだったくせにはぐらかすし。頭がいい奴って何を考えているかわからない。
 ナギの説明によるとあと五分で到着、というところで「ここまででいいや」と突然さっと線を引かれた。保護者同伴だと恥ずかしいのか。そんなことを気にする性格ではないはずだ。早く帰れば、と大きな瞳に言われているようで、おとなげないがはいわかりましたと踵を返したくなくなった。

「おれもこっちの学校見てぇし。行くぞ」

「わからずや」

「めんどくせぇな。反抗期かよ」

「大和の反抗期って超めんどくさかったんだろうね~」

「うるせぇよ」

 確かに間違っちゃいない。基本的に気性が荒いし母親も穏やかな方ではなかったので、特に派手にやり合った。反面教師にしたのか下の弟の冬馬は全くと言っていいほど反抗期はなく、末っ子の誠人は、幼い子どもみたいなものがちょっとだけあった。

――そういえば、誠人の反抗期によく似てんな。

 遊びに行こうよとねだられて、仕方ないから付き合ってやれば途中で一人で帰ると言い出す面倒な時期があった。単純な奴だったから、菓子を買い与えるか、何でもいいからちょっと褒めてやればころっと機嫌は直った。

「ナギ、アイスでも買ってやろうか」

「突然何? 怖いんだけど」

 こっちの作戦は効かないらしい。
 やっと姿が見えてきたこちらの小学校は、大和が想像していたいかにもなロンドンの学校ではなく、こじんまりとした教会のような建物だった。日本の小学校のいくつかと連携しているのが嘘みたいに、のんびりとした空気がある。

「もう行くから。じゃあね!」

「おいナギ」

「も~、何?」

 走り出した足を止めて振り返る。低い位置にある頭を、手のひらで掴むように撫でた。

「がんばったな、おまえ」

「な、なんなの!? そんなこと言ってほしいなんて頼んでないし! 髪が崩れる~!」

「ほめてほしいやつがほめてくれなんて言わねぇだろ。顔に書いてあるぜ」

「書いてない!」

「つか日本語でやりあってっとかなり見られんぞ」

「そうじゃなくてもナギは宇宙一可愛いから誰にだって見られて当然なの! じゃあね!」

 今度こそずかずかと歩き出す。その姿を最後まで見送る――ことはせず、大和もすぐに来た道を戻った。振り返らない。ナギもきっと振り返ったりしないだろう、多分。

 

 

 フラットの共有スペースに帰り着いた頃、さっきはありがと、と可愛いのか可愛くないのかわからないLINEが来て思わず笑った。

「なんなん大和、スマホ見てにやにやして」

「ナギからLINE。内容はいわねぇ」

「うわーあっやし~」

 軽口を叩きながら、綺羅が持参したキーボードの周りに集まっていたヴァンがおいでおいでと手招きする。新曲だ、と楽譜を手渡された。

「先月作ってもらった曲だ……。権利は押さえられていない……歌って、問題ない」

「おう、サンキュー」

 クリップで留まった紙をぱらぱらめくっていると、瑛二に椅子を勧められる。キーボードの前に綺羅、その正面に瑛二とヴァン。空いた一つはてっきり瑛一かシオンの席だと思っていたが、姿が見当たらない。

「リーダーとシオンは?」

「出かけたよ。シオンに見せたいお芝居があるって。せっかくだからいろんな音楽に触れてほしいんだって」

「ふーん……」

 けろっとした顔で答えるが、おまえはそれでいいのかと問いたくなった。大和の心情を汲んだように、瑛二は「HE★VENS結成前は俺も兄さんに色々連れて行ってもらったなぁ」と独り言のように付け加える。それはそれで面白くない。一般的な兄弟の距離感としてどうなんだろう。大和自身兄との関係が破綻していることを自覚しているので置いておいても、二人の弟ともろくに出かけたことなんてなかった。家の中じゃ嫌でも顔を突き合わせないといけないのに、何でわざわざ外でまで、と思ってしまう。

 綺羅の伴奏で音取りしながら、ついでに歌詞のイメージについて話し合う。パート分けはまだなので、全員が全てのパートを一通りなぞった。
 そうしている間に昼が過ぎ、三十分もすればナギが帰ってくるだろうという頃に大和の腹が鳴った。むしろ、今まで鳴らなかったのが不思議なくらいだ。

「昼作ろか。夕方からダンスレッスンあるし」

 よいしょとヴァンが立ち上がり、楽譜の角を揃える。ざっくり決まっている食事当番は、今日は瑛一とヴァンだった。この流れだと瑛一が夕食係となるのだろう。事務所寮の時代からあったルールだが、大和とシオンが当番になると大体他のメンバーに手伝ってもらう羽目になる(その分荷物持ちや買い出しは進んでやっているつもりだが)。ふんふんと新曲を鼻歌で奏でるヴァンと部屋を出て、大和は自室に向かった。三人部屋になってから手狭になったこの部屋も、二人が留守にしているとずいぶん広く感じられる。
 個人に与えられたスペースはベッドしかないのでごろっと仰向けに寝転がる。ちょっと寒い。でもシーツを引き寄せたらすぐに寝落ちてしまう自信があった。生成りの天井を見上げていると、扉をノックする音が聴こえた。

「大和? 入ってもいい?」

「おう」

 返事をしながら体を起こす。片手に楽譜を持ったままの瑛二が、「おじゃまします」と姿を見せた。椅子や自分の隣に座ればと促すより先に、口を開く。

「兄さんに、言おうと思う」

「言うって、なにを」

「告白する」

 まじか、と言いそうになったが肝心の声が出なかった。大和じゃなくてもそうだろうと思う。だって大和が瑛二に打ち明けるのと、瑛二が瑛一にそうするのでは重みが違う。自分の気持ちが軽いとかそういうんじゃなくて――だって兄弟だろ。
 呆気にとられた大和に畳みかけるように、「好きって言おうと思う」と瑛二が言葉を強くした。

「……すげぇな、おまえ」

 多少言葉を選んだ上での、素直な気持ちだった。

「どうして?」

「どうしてって……兄貴だろ」

「そうだね」

 そうだねじゃねぇんだよ……とは言えない。

「俺、大和が好きって言ってくれた時、嬉しかった。俺も胸張って好きって言えるくらい強くなりたいって思ったんだ。確かに兄さんは血がつながってる、俺の兄さんだけど……でも好きな気持ちは同じだから」

「……そうかよ」

 危ういな、と思った。大和だって十分大人と言うには程遠いけど、危うくて青くて、子どもじみていて、怖い。
 嬉しかったと瑛二は言うけれど、それは瑛二に他に好きな人がいて、大和はそれを承知の上で、振り返らなくたって好きでいるしかないと思っていて、ほとんど自己満足で、自分のエゴによる告白だったから良かっただけだ。強くなんてない。

 もし兄にはっきり拒絶の色を見せられたら(そんなことあってほしくはないが)瑛二は傷付くだろう。何も求めていない風をして、瑛二は見返りを欲しがっている。きっと瑛一はありがとうと笑うだろう。瑛二を傷付けたりしない。でも瑛一の中に秘めた狂おしい程の想いがない限り、弟である瑛二の気持ちに簡単に応えるはずがない。血の繋がった兄弟だから。それで瑛二は、今まで通りいられるのか――? 兄に距離を置かれてしまうかもしれない。それはきっと瑛二のためだ。それを理解して、受け入れることができるのか――?

 そもそもこいつは兄貴とどうなりたいんだろう。恋人になりたい? それともずっと一緒にいたい? 瑛二の『好き』は本物のちゃんとした『好き』なんだろうか――いや、それを疑っちゃいけないけれど。そもそも本物のちゃんとした『好き』って、何だ。

「ごめんね、大和には言っておきたくて」

 好きでもない相手には、こうしてエゴをぶつけられるのに。告白します宣言をするだけして、ごめんねと笑う。大和の気持ちなんてお構いなしだ。でもそれでいい。ここで大和がやめておけと止めたって、ただ報告しただけだから瑛二は言うことを聞かないだろう。それでいい。それに引き金は、大和が引いてしまったみたいだし。

「……うまくいけばいい、とは言えねぇぞ」

「わかってる」

 でも、瑛二が傷付かなければいいと思っている。本当に。
 こてんぱんにやられて傷付いて、そんな瑛二が頼ってくればいいと思わないわけじゃない。そこから始まるのだって一つの正解だ。もう子どもじゃない。でも好きだから傷付いてほしくない。幸せなぴかぴかの瑛二に、叶うなら、好きになってほしい。身勝手とは分かっていても心のすみで願ってしまう。

「ま、しっかりやれよ」

 取り繕った色しかない激励に、「うん」と瑛二が微笑む。
 おれを好きになればいいのに。

 

 

 

 

 

 

 ばかだな、と自分でも思うが、案の定その夜は眠れなかった。
 夕方からみっちりダンスレッスンを詰め込まれ、体はいつもより疲れているはずなのに。観光→レッスン、学校→レッスン、というハードスケジュールをこなしたちびっこ二人はそれぞれのベッドですうすう寝息をたてている。

 時計を見るとまだ二十二時半だった。ベッドに入って三十分も経っていない。
 もう話しただろうか。今日話すと聞いたわけじゃないが、時々ぶっとんだ行動力を持った瑛二のことだ。大和に報告してやる気を出して、今晩打ち明けるつもりでいるのではないかと思った。
 ベッドをこっそり抜け出し部屋を出る。ちょうどいいタイミングで悪い大人を一名見つけたので容赦なく連行する。場所は以前飲んだバーでいいだろう。今日は奢ってやろうと思ったのに、こちらから切り出す前に「今日は大和の奢りか~、嬉しいわ」とにやにやされたので気持ちが萎えた。

「はーい、かんぱーい」

 今の気持ちに似つかわしくない軽い音がグラスとグラスの間から鳴る。ビールを旨そうに呷ったヴァンは「で?」と狭いカウンター席で顔だけこちらに向けた。

「何かあった?」

「そのうち話す」

「なんやねん、話したくてワイ連れて来たんちゃうんかい」

「たまたまに決まってんだろ」

「うわ~、絶対今日大和の奢りや、ワイ傷付きました~」

「そうかよ」

 心配しなくてもやっぱり会計はしてやるつもりだ。具体的に話したいことがないのは確かだが、やかましい奴と飲んで気を紛らわせたい気分だった。面倒だから言わないけれど。
 ピーナッツをちまちま口に運びながら、会話の八割くらいはヴァンに任せた。前職では聞き役が多かったなどと話していたが本当だろうか。どう考えても盛り上げ役にしか見えない。それとも関西人って全員こんな感じなのか?
 三杯目のビールでまた乾杯しながら、「なぁ」と呼びかけたヴァンに「あ?」と返した。いい勢いで飲んでしまい、自分で思うより酔ってしまっている。そしてヴァンは酒の力に任せて、といった風に訊いてきた。

「自分、えーじちゃんのこと好きなんやろ」

 耳によく通る声が当たって、体の奥に入ってくる。そういう事情を他人に踏み込まれるのは嫌いだが、顔に出てるかわかりやすかったんだろうくらいにしか思わなかった。

「あぁ」

「ほんまわかりやすいな」

「自覚はねぇ」

 だらしなく語尾が伸びる。酔っているせいだ。今何時、と訊くと一時と返ってくる。明日も瑛一はシオンと出かけるらしいから、もう寝ている時間だろう。ちゃんと言えただろうか。

「いつから?」

「わかんねぇ」

「三人でよぉ風呂入ってた時は?」

「好きだったんじゃねぇの」

「や~らし~」

「うるせぇ」

 肩を殴ると思ったより力が入らない。顔が赤くなるのは酩酊のせいだ。絶対そうだ。
 三人で毎日のように一緒に風呂に入っていたのが、もうずいぶん前のことみたいに思える。もし今事務所の寮に全員で帰れたとしても、きっともうあんなことはしないだろう。大和は瑛二が好きで、瑛二はそれを知っているから。もっとも、鈍い瑛二はそんなこと気にせずに誘ってくるかもしれないけれど。

 四杯目には付き合わなかった。アルコールよりもっと苦いものが、体内を巡っている感じがした。
 支払いは大和が済ませたのを覚えている。肩を組んで上機嫌でフラットに帰ったことも、水をばかみたいに飲んで部屋に戻ったことも。

 翌朝、いつもの時間に目が覚めた。まだ眠っている二人を起こしてしまわないようにカーテンを細く開けると朝の光が眩しい。
 さっとランニング用のウェアに着替え階段を下りると、瑛二が朝食の支度をしているところだった。別にいいのに、ちょっと手の込んだものを作りたがるのが瑛一と似ている。大和に気付き、おはようと笑った。

「ふられちゃった」

 いつも通りの笑顔に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ふられちゃった。

 その言葉が意味するところを確かめることなく、ここに七人揃ってから二ヶ月が経とうとしていた。瑛二と二人で話す機会がないわけではなかったが、改まって大和から切り出して傷口を抉る真似はしたくないし、瑛二も話したい様子ではなかった。
 仕事がある、と綺羅が席を立った。アイドルの仕事ではなく、現地で見つけたピアノ演奏の仕事だ。大和も力仕事であれば自信はあったが、音楽に関する仕事以外はNGだと瑛一から言われている。レッスンはあっても、仕事はない。ここに来てからずっとだ。このままだとスキルは上がっていっても、モチベーションが枯れてしまうかもしれない。
 暇だ、と喉元まで出かかった時、正面でコーヒーを飲んでいた瑛一に名前を呼ばれた。大和だけじゃなくて、瑛二と、ヴァンとシオンも一緒だ。
 そういえば瑛二に対する瑛一の態度は変わっていない。少なくとも大和が見た限りは。ふられた、ってどういう意味だったんだ。ふった側の男を思わず訝しげに見つめてしまう。

「仕事が入った。四人でステージに立ってもらいたい」

「四人で?」

「会場の都合だそうだ。先方からメンバーの指定があったわけではないが、瑛二、ヴァン、大和、シオン。お前たちに任せたい」

「初ステージが四人かー。意外やけどおもろそうやん」

「だな。いっちょやってやるか」

 隣の席のシオンの肩を掴むとこくりと小さく頷く。瑛一がこうして話す時点で仕事は決定しているので拒否権はないのだが、本人は安堵した様子で「頼むぞ」と目を細めた。
 兄の隣に座る瑛二に視線をやる。大丈夫、笑っている。

 

 

 

 バスと電車を乗り継ぎ、会場近辺のホテルに到着した頃には陽が沈んでいた。ステージの開始時刻が朝早いので前泊となった。その代わり、明日は出番が終われば即帰宅だ。スタッフやマネージャーが何人もついているわけではないので、衣装その他諸々は各自手に持って移動。到着した頃には(主にシオンが)疲れ果ててしまい、ファミレスに似た雰囲気の店で夕飯を済ませた。

「ほなこれ、そっちの部屋の鍵やから」

 マネージャーとホテルの受付を済ませ戻ってきたヴァンが、ルームキーを手渡す。大和だけが受け取って、左右の瑛二とシオンを交互に見やると笑われた。

「個室やと思った? そんな待遇よぉないで。ホテルも自腹やし。ほんならまた明日~」

 行こか、と二人分の荷物を軽々持ち上げてエスコートするヴァンに、シオンは喜んで着いて行く。瑛二と残されてしまった。これまで二つに割るとシオンと二人になることが多かったから意外だ。というか、絶対に仕組まれた。

「俺達も行こう。疲れちゃったから眠くって」

 瑛二が遠慮ないあくびをひとつ混ぜる。意識してるのはおれだけかと情けなくなり、何食わぬ顔をしてエレベーターに乗り込んだ。
 部屋の電気をつけ、「あ」と先に声を出したのは瑛二だった。
 広くない部屋の大部分をダブルベッドの面積が占めている。誰が手配したのか、普通ツインにするだろ、と心の中で悪態をつく。経費の問題だかなんだか知らないが、そんなことは関係ない。
 部屋の隅で肩身を狭くしているソファに荷物を下ろし、「おれこっちで寝るから」と先に宣言した。せいぜい二人掛けがいいところだが、床よりマシだ。

「それなら俺がそっちで寝るよ」

「いい。おれがこっちで寝る」

「でも体痛くなるかも」

「おまえも一緒だろ。風呂、先つかえよ」

「うん……」

 シャワールームに消えて行く瑛二を見届けて、ソファに仰向けになる。膝から下が飛び出してしまうが仕方がない。
 当然、手を出したりすることは絶対にないが、一台のベッドで惚れている男と寝るのは気が引けた。狭くたって何も考えないでいられるソファの方がずっといい。

 瑛二と交代でシャワーを浴びて、再びソファに転がる。譜面の確認をしている瑛二に「電気よろしく」と声をかけてから目を閉じた。睡眠欲より体が痛いというはっきりした感覚が勝ってしまって、しばらく眠れそうにない。

「大和」

「ん――?」

 目を開ける。近いところから声が聴こえると思ったら、瑛二はソファのへりに両手を添えて大和の顔を覗き込んでいた。

「明日に差し支えるから……ダブルだし、一緒に寝よう?」

「平気だっつってんだろ」

「でも、足つらそうだから」

 手のひらにそっと撫でられて、でもあまり感覚がなかった。本当に体に悪いかもとは思うが、最悪明日の朝しばらく痺れて動かなくなるくらいだろう。

「いいからもう寝ろって」

「……わかった」

 やっと諦めたか、と目を閉じた時、腹の上にずんと重いものが乗った。瑛二の両腕と頭だった。上体を軽く起こすと、瑛二が悪びれもせず腹に突っ伏しながらもごもご話す。

「俺も今日はここで寝ることにしたから」

「やめろって」

「じゃあ」

「わかった、わかった」

 いいからどけ、と言う前に瑛二の顔と体が起き上がる。よかった。下腹の辺りに顔を埋められていると妙な妄想をしてしまう。
 電気を消して、シーツに潜り込む。壁にぴったりくっついて、瑛二に背を向けた。

「シーツ、夜中とったらわりぃ。とりかえしてくれ」

「うん」

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 ベッドは十分広かった。足がはみ出ることもない。シーツに包まれて温まると寒かったんだと気付く。振り返らなくても瑛二が遠くにいるのがわかった。体温を微塵も感じない。だからといって一切意識しないのは無理で、同時に、瑛二はいやじゃないのかと疑問に思う。一方的に好意を寄せられている相手と同じベッドで寝るなんて。
 もし大和がその気になればいつでも手を出せる。まだきちんと成熟しきっていない体は大和に抵抗できないだろう。Tシャツの裾から手を突っ込んで肌に触れることも、健やかで真っ白な足を下から撫で上げることもできるのだ。けれど事務所寮の風呂場で何度も目撃したはずの瑛二の裸がはっきり思い出せない。あ――やばい、勃ちそう。

「ねえ」

 良からぬ妄想に興じていたので、声をかけられた瞬間口から心臓が飛び出るかと思った。

「大和、起きてる?」

「おう」

「ちょっと話、してもいい?」

「おう」

 柔らかな衣擦れの音と共に、Tシャツの後ろをくいっと引かれる。振り返らない。絶対に振り返らない。シーツを通じて瑛二の体温が伝わってきそうだと思うだけでもうやばいのに。

「兄さんに告白した日、久しぶりに、こうやって隣に寝たんだ。兄さんのベッドで」

 あまり聞きたくない話だった。でも話の続きが気になる。ゼロか百かだ。一切聞かないか、全て聞いてしまうか、どちらかでありたい。そして今は完全に後者だった。

「兄さん、好きだって言ったら、ありがとうって言ってくれた。俺の想いには応えられないって。当たり前だよね。でもこれからもいい兄弟でいたいって。兄さんの中で、俺はいい弟であることが最上で、それ以上望めないなら……それしかもうなかった」

 はっきりした言葉は白い波を打つシーツを通じて大和の体にぶつかる。
 想像した通り、というか、展開は理解の範疇に留まっていた。瑛一が弟の瑛二をはっきり拒絶しないのは分かり切っているし、想いに簡単に応えないのも、そうだろうなと思う。ただ甘やかすことが愛情だと履き違えない。最善の答えだと思えた。

「俺は……兄さんが一緒に寝ようかって言ってくれて、それをこんな俺に許してくれるのが嬉しかったけど……でも悔しかった。俺がどういう意味で兄さんを好きなのか、全然わかってないんだって思った。……違う、わかってるけど、わかってないみたいにしてたんだ、兄さんは。さっき、大和がソファで寝るって言って、やっぱりそうだよね……、俺も、そうだもん……」

「おまえひどいやつだな。わかってんじゃねえか」

「うん、ごめんなさい……」

「おまえ、兄さんとキスしたかった?」

「うん、したい」

「兄さんとセックスしたい?」

「……わかんないけど、たぶん……したい」

「そりゃしたいよな。好きなんだもんな」

「したい、したいよ」

 おれだってしたい。今は言わないけれど。
 ごめんなさい、ともう一度瑛二は呟いた。くぐもって聴こえづらい声だった。

「兄さんの隣で寝た。幸せだった。でもすごく寂しくて……大和の顔が浮かんだ。何度も浮かんで、こわかった。兄さんに触れてるのに、大和に会いたいって思った……」

 くそ、と両手を握りしめてしまうのは、腹が立つからではなく瑛二を抱きしめたくなるからだ。

「でもだめって思った。俺が兄さんを好きなように、同じように想ってくれてる大和に、甘えるのは卑怯だから。でも俺、兄さんと一緒に眠って、抱きしめたい……抱きしめられたいって思ってたのに、大和にそうしてほしいって、思っ……」

 言葉が途切れる。
 体を反転させて、こちらを向いた瑛二を転がして。後ろから、シーツごと抱きしめた。振り返るな、と言った。ぜったい振り返るなよと。

「がまんできなくなる……」

「……いいよ」

「よくねぇんだよ。つーかそれはおれのせりふだ。おまえは卑怯じゃねぇし、おまえはおれに、抱きしめろって言っていい」

「だめだよ」

「わかんねぇ」

「優しくされても、俺は大和が俺を思ってくれるように、大和のことが好きなわけじゃないから」

 だからだめだよ、と嗜める口調で続けた。
 自分が同じだけ好きじゃなきゃ、自分を好きでいてくれる相手に求めてはいけないのか? 大和にはわからない。多分、『好き』と『好き』が重なった恋愛なんてしたことがないから。
 瑛二は後ろからまわされた腕を掴んで、「でもありがとう」と彼らしい礼を言った。

「えーじ」

 名前を呼ぶ。すぐ目の前に丸い瑛二の頭があって、さらりと流れる髪から、大和と同じ香りがした。備え付けのシャンプーに感謝するなんてたぶんこれが最初で最後だ。

「……おれは、おれの兄貴のことがきらいだ」

 短い沈黙があって、瑛二は「うん」と続きを促した。何を突然、と思われたかもしれない。

「だからおまえら兄弟が、よくわからねぇ。おれは下にもふたりいるが、あいつらのことも弟以外のなんにもおもえねぇし。つーかアイスとられて泣いてたりとか、犬にびびって泣いてたりとか、んなガキのころからあいつらが変わってねぇっつーか、いやもちろん変わってんだけど……おれの中ではガキのまま、みてぇな。あいつも含めて」

 あいつ、はもちろん兄のことだ。瑛二もそれを察して、また「うん」と言った。

「でもおまえはリーダーが好きで……、なんでだよってすげぇ思った。ふつう恋愛対象になんねぇだろって、おれは思った。でもおまえ見てたら、おまえが兄さんのこと好きなのは本物の気持ちだって、すげぇ伝わってきて、そんたびにイライラして、おれ瑛二のこと好きだって何度も思った」

 もう「うん」はなかった。その代わり瑛二は、「ありがとう」と繰り返す。
 何もしてやれなくてもどかしい。叶わないとわかっているのに告白して自爆して。そんな瑛二をばかだなと笑い飛ばすことはできない。だからといって、気持ちに応えず、なのに一緒に寝たという瑛一を責める気にもなれない。兄としてはその行動もわからなくないのだ。瑛二が生まれた時から仲が良くて、そのままここまで来た二人のことだからなおさら。傷付いた瑛二が慰めてほしいと思ったのは大和で、でもそれは大和が無条件に瑛二を好きだからに過ぎない。自分を愛してくれている人に縋りたいと願うのはおかしいことじゃない。
 思考の大渋滞が起こり、ところどころ衝突したり間一髪で大事に至らなかったり。脳を切り取ったらそんな風になっているんじゃないかと思った。

「あ~……くそ、もうわかんねぇし、がまんできねぇし寝る! おやすみ!」

「えっ……うん、おやすみ」

 腕の中で瑛二が笑った。部屋が静まり返ると、瑛二を抱きしめているのがすごくいけないことのようで一瞬離そうかと思ったが、それも不自然なのでやめておく。
 小さな体なのにあたたかい。足の痛みから解放されると眠りに落ちるのは結局一瞬だった。

 

 翌朝、起床予定時刻の十分前に目が覚めた。目の前でアップになった瑛二の顔に驚いたが、昨晩のことを思い出し頭を掻く。
 上体を起こし、甘い茶色の髪に触れる。前髪をかき分け、額にそっと唇で触れた。ばかばかしい。居たたまれなくなってすぐに顔を洗いに洗面場に向かった。
 昨日のことは夢とでも思えばいい。
 それで、いい。

 

 

 

 

 アジアのアイドルグループばかり集められたライブで手厚い歓迎を受け、パフォーマンスも大きな問題なく終えた。往路と同じくバスと電車を乗り継ぎ、フラットに帰り着いた頃には夕飯の時間帯だった。初ステージを祝して三人が作ってくれていた料理はどれも美味しくて感激する。あぁ一仕事終えてきたんだと、目の前の料理を(シオンが残した分も)完食した頃に実感がわいてきた。
 食後、熱い緑茶を啜りながら、瑛一が片づけを任せて良いかと申し訳なさそうにナギに依頼した。答えはあっさりオッケーで、ナギは瑛二とシオンを巻き込んで片付けを始める。

「ナギちゃんはほんま賢いな」

「あぁ。いつも助かっている。では、行こう」

「……あぁ」

「何ぼけっとしてるん、大和もやで」

 肩を叩かれ、おうと返事するのがやっとだった。四人で話をしたくて瑛一はナギに後片付けを頼んだのか。ヴァンも綺羅も気付いたようだったが、大和には全く分からなかった。
 フラットを出てすぐのバーガーショップに入った。四人分の飲み物と大和が食べるつもりでポテトを頼む。「元気だな」と瑛一に、我が子の成長を喜ぶ親みたいな顔で見つめられる。

「さて、本題だが――」

 個室じゃないし、隣の席に客が来れば会話は駄々漏れだ。けれど日本語で話している以上余計な心配はしなくて良いだろう。

「帰国命令が出た。来月、SSS選考ライブに合わせて」

「トリプルエス? ってあのスポーツの?」

 得意分野なのでさすがに聞いたことがある。

「あぁそうだ。スポーツもそうだが、SSSのオープニングではいつもどこかの国を代表する歌手が歌唱するだろう」

「その順番が、次は日本ってことかいな」

「その通りだ。しかも今回は日本を代表するアイドルグループ。もう国内では選考が進んでいる。現在はQUARTET NIGHTと、ST☆RISHの一騎打ちという見方らしい」

「選考は、どこまで……進んでいるんだ?」

「一週間後に最終審査のライブが開催される」

「なんだ、んな近いのかよ……」

 落胆の声をあげると、瑛一に「いや」と諫められる。

「俺達HE★VENSもその選考ライブに出場する。既に手筈は整っているようだ――あまり好ましくない手段でな」

 それが恐らくレイジング鳳の、もしくは事務所の圧力ということは大和にもわかった。謎めいたおっさんだなと思っているが、業界で敵に回してはならない存在の一人だと言われていることくらい知っている。

「俺達は、手段を選んでいる場合ではないだろう。迷っている暇があるならば進まねばならない」

「要するに、人にはあんまり言えへん方法で、出られるようになったってことやろ? それってちゃんと審査対象になるん?」

「事務所としては、審査で選ばれようとは考えていないようだ」

「どういうことだ?」

「この勝負、十中八九シャイニング事務所所属の例の二グループのうちどちらかの勝利となる。俺達HE★VENSが奴らと同等、もしくはそれ以上のパフォーマンスを見せつけ、天使達の支持を得られたら、どうなると思う?」

「それでも審査からは外されるんだろ」

「そうだ。しかしST☆RISH、もしくはQUARTET NIGHTは圧倒的な勝利を望むだろう。そのために公平な審査が必要となる」

「……初めから、再戦を狙う、ということ……」

「あぁ、その通りだ。三グループの平等な審査を勝利したグループが求めるような、圧倒的なパフォーマンス。今の俺達にならばそれができる!」

「ええなぁ、メッチャ燃えてきたで!」

「なんだかよくわかんねぇけどやってやる!」

「俺も、全力で……戦う」

「あぁ、七人となったHE★VENSの歌を、愛を。エンジェル達に届けようではないか」

 やり方は何だっていい。結局再戦を納得させるだけのパフォーマンスを見せなければ終わりだ。けれど自信に満ちていた。
 翌日、残りの三人にも一週間後に控えた舞台の概要を説明し、早速帰国準備にかかった。
 うたプリアワードの後、マスコミがHE★VENSを探し回っていると聞いたが、結局見つからなかったな――などと思っていると、神妙な表情で立ち尽くしたナギが視界に入った。「どうしたん」と先に声をかけたのはヴァンで、大和はその一部始終を眺めるだけに徹する。

「別に」

「別にちゃうやん。日本帰れるの、嬉しないん?」

「そういう話じゃないよ。なんていうか、こういうやり方なんだって思っただけ」

 こういう、というのは、具体的に一つを指しているわけではないらしかった。大きな権力による出場、被審査権はないはずなのに選考に滑り込もうとする手段、他二グループの圧倒的な勝利を求める気持ちを利用する形での再戦。どれも、十四歳のナギに美しく映らないのは分かり切っている。

「ナギちゃん、ほんま大人やな」

「わかるだろ、ナギ」

 思わず口を挟んでいた。

「わかるよ。わかるけど、まだナギはわかりたくないんだよ。正々堂々やるために、こういうことするんだ……」

「せやで」

 はっきりと言い切るヴァンに、大和が驚かされる。

「どんな手段使っても、ナギちゃんは待っててくれとぉエンジェルの前に戻るんや。それに、ワイらのパフォーマンスが認められへんとこの話はパーになるんやから。まず頑張らなな」

「……うん、わかった」

 それと『パーになる』っておじさんくさいよ、とナギの指摘に、ヴァンが心臓を矢で射貫かれたリアクションを取る。それが古臭いんだって教えてやろうか。
 瑛二とシオンは、何もわかっていない顔で、ただステージに立てることを喜んでいた。ナギの賢さと同じくらい、その天真爛漫さに救われてきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「緊張するね」

 リフターに乗る前、瑛二が『人』を手のひらに三回書きながら言った。正面から見て右端が大和、その隣が瑛二なので、同じ位置でスタンバイしていた。ステージからST☆RISHの楽曲が漏れ聞こえている。
 同じテイストの衣装を七人で纏うのは初めてだ。深い青、時々灰色。からっと晴れたような色でないところが、今のHE★VENSらしくて気に入っている。
 手のひらを口元に押し当て、「よし」と笑う。ブルゾンを整えたその手を捕まえて、人の書かれていない手のひらに口を寄せる。

「……大和!」

「おれにも食わせろよ」

「もう……自分で書いて食べて」

 耳まで赤くした顔を俯かせて抗議されると本気だとは思えない。本番直前にふざけて悪かったとは思っているけれど。
 もう想いを隠していたくない。
 やがて沈黙が訪れる。
 新しい幕が上がる。

 瑛一、綺羅、ナギを乗せたリフターは先にぐんぐん上がっていき、場内が驚きの声に包まれる。あの高い場所から見る景色はどんなだろう。
 続いて、瑛二、ヴァン、大和、シオン。背後に、扉をイメージしたセットがせり上がる。

 視界が霞んでしまいそうなほどのスモークを抜けると、一面光の海だった。歓声は一際大きくなる。体中の血がどこか一点を目指して駆け巡り始める感覚。マイクを握りしめた左手が熱い。
 やっと同じ場所に立てた。

 

 ようこそ新世界へ!

 

[newpage]

 

 ここまで上手くいくとは思っていなかった。いや、上手くいくなんて言い方をしていいのか分からない。でも、事態はこちらの想像通りに転がってくれている。可愛く言うなら「兄さんの言う通りになった」だ。やっぱり兄さんはすごい、とでも言いたそうな素直な表情が愛らしくて、憎らしかった。
 SSSオープニングアーティストの選考ライブの再戦が十二月二十四日に決定した。話の流れに着いて行けず途中取り残されそうになったものの、とにかくHE★VENSのパフォーマンスは認められ(審査的にはやはり失格だったが)、勝者となったQUARTET NIGHTが再戦を望み、審査員側がそれを受け入れるかたちとなった。

「なんかすげえなぁ」

「何が?」

 日課の早朝ランニングをこなしながらひとりごちると、隣に並んでいた瑛二が目を丸くして聞いてくる。そうだ、今日は庭で瑛二と会って一緒に走ることになったんだ。

「なんつーか、光速でいろんなことが起こってんなって」

「そうだね。いろんなことがあった」

 途中までは大和のペースにちゃんと着いて来られるので、メニューを半分にした。今日はこれからレッスンもあるし。
 ちらりと姿を見やる。ここに来てから毎日のように顔を合わせているけれど、大人びたなと感じることが増えた。

「瑛二、最近背のびたか?」

「ううん。百七十で止まっちゃった」

「あぁでも七十いったのか。おれが入りたてのころおまえ、身長のことかなり気にしてたよな」

「そうだったね。兄さんや、父さんに比べると全然だけど、六十卒業できたから満足かも」

 へへっと笑ってみせる。本人が納得しているなら何よりだ。
 事務所の外周をぐるっと二周して庭に帰る。変わらず瑛一の部屋の下あたりの区画が、瑛二がガーデニングに使うスペースだった。以前は見せかけだけだったビニルハウスも、最近ちゃんと活用されているらしい。
 立っているものは大和でも使え、ということで、肥料やバケツを運ぶ手伝いをする。適材適所なので文句はない。何より花を見つめている時の真剣な顔が好きだ。
 両手で花壇の土に触れている瑛二の隣にしゃがみこみ、「なぁ」と声をかけた。なに、とほんの少しだけ顔の角度を変えた瑛二の唇を、自分のそれで捕らえる。

「っん……!」

 一秒に満たない短いキスは、驚いた瑛二が尻もちをついてしまって途絶えた。長く触れるつもりはなかったし、二回目も、今日はない。ただ一度でいいから今したかった。体の熱を集めるように顔と耳を赤くした瑛二が、何も言えずに口をはくはくさせている。起こしてやろうと手を差し伸べると、素直に掴み従った。

「瑛二」

「……うん」

「前、おまえのこと好きだって言ったろ。あれ、本気だし変わってねぇ」

 手を離すと瑛二は二つの足で自分の体を支える。抱きしめたかった。それができる距離だ。愛想よく笑いはせず、でも怒った風でもなく、瑛二は何も言わない。だから大和が言葉を続けた。

「瑛二がリーダーのこと好きでも、おれはおまえが好きだ。ぜったいにおれの方向かせてやる」

 呆れたのか、驚いたのか、瑛二は両手についた土を払いながら目を泳がせた。赤い顔のまま。大和だって、なぜ今こんなことをしたのか訊かれてもわからない。キスしたい衝動はずっと秘めていた。
 きっと、瑛二が大人になったから。そんな瑛二にとって、人畜無害な安全地帯ではいたくないと思ったから。頼ってくれるのは素直に嬉しいけれど、大和の気持ちを知っているのに、ただのいい仲間みたいに相談されたり慰めを求められたり、もうしたくない。抱きしめて、何もできない夜なんて二度と来なくていい。
 それが無理なら少しくらい愛してほしい。瑛一を想う気持ちの、一千分の一くらいでいいから。考えてしまってから、女々しさに辟易した。

「わかった」

 瑛二は言った。笑って誤魔化したりされなくて良かった。そういうことをしない奴だから、好きなのだ。
 空のバケツを持って、変わらず瑛一に宛がわれている部屋を見上げる。鳥の巣はいつの間にか跡形もなくなってしまっていた。

 

 

 

 なんだかものすごく気が抜けてしまって、夜の歌番組の収録まで単調な筋トレにしか身が入らなかった。頭を使うのは普段から得意じゃないが、今日は特にそうならざるを得ない。
 例の決戦ライブ乱入以降、仕事は倍増どころではなかった。世間の関心を向けられることに特別な喜びは感じないが、この調子なら案外すぐにあいつと同じ舞台に立てるのではないかと思った。マッスルファイトの決勝戦。事務所にもどうしても出たいのだと伝えてあるし、HE★VENSの活動を阻まない程度にそちら方面にも売り込んでもらっている。
 アイドルの仕事は嫌いじゃない。歌も踊りも元々それなりにできたし、練習すればするほど上達する、手ごたえが感じられるのは面白いと思った。何より、日向龍也がアイドルでいるならば大和もアイドルとして存在して、勝ちたい。
 しかしだからといってどんな仕事も自分の成長につながると割り切れるほど、大和は大人ではなかった。自社とシャイニング事務所、双方の社長から突然告げられたデュエットプロジェクト。はいがんばります、と良い子の返事はできない。
 ソングフェスタの収録後、スタジオのエレベーターホールでたまたま顔を合わせたST☆RISHの一同も、不安を隠しきれない様子だった。中でも一際背の低い男――来栖翔を一瞥し、「やってらんねぇ」と思わず呟いた。

 

 

 

 帰寮後まず聴いたのは、共有スペースのクローゼットが乱暴に閉まる音だった。

「あちゃー、こらあかんな。鍵かけとくんやった」

 頭を抱えながら、ヴァンと瑛二が内側から閉められた調度に近付く。大和もそれに続いた。
 華奢な男二人くらいなら無理なく飲み込んでしまう大きさの扉がついたクローゼットは、無音を保っている。一人で閉じこもってしまったらしいシオンの呼吸さえ聴こえてこない。
 いつからここにあったのか、大和には覚えがない。少なくとも、時々シオンがここに閉じこもるようになったのはつい最近のことだ。主に収録前など人前に出なければならないタイミングで、普段はメンバーの誰かが声を掛ければすんなり出てくるのだが、

「シオン、出ておいでよ」

「ST☆RISHとデュエットしたかて、何かが減るわけちゃうんやから」

「いや減るだろ、なんかいろいろ」

 扉を隔てたシオンには聴こえないよう口を挟むと、「うるさいねん」と小声で注意を受ける。

「減ってしまう……」

 クローゼットの中から、生まれたての小鳥がさえずるようなか細い声が聴こえた。

「HE★VENSと歌う時間……HE★VENSのための、天草の全てが……」

「あー……こらあかんな。ナギちゃんかえーいっちゃん呼ばな」

「俺、二人を探してくるよ」

「頼むわ」

 クローゼットに耳を寄せていた瑛二は部屋を出ると、ものの数分後に瑛一とナギを連れて戻ってきた。シオンにとっては四人でいた時間が長いとはいっても、心の根っこの部分を許しきっているのは瑛一とナギらしかった。「ここは任せてくれ」と瑛一に言われ部屋を出る時に、瑛二の顔をちらりとうかがう。心からシオンを心配する色に満ちていて、安心した。
 各々部屋に戻るつもりで廊下を歩いていると、ダイニングの電気がついていた。綺羅がまだ上着を羽織ったまま水を飲んでいて、なんとなくそこでたむろする流れになる。
 綺羅もシオンの様子が気になっていたが、大人数で群がるのはどうかと思い一人で残ったと言う。
 デュエットプロジェクトに乗り気でないのはどうやら大和とシオンだけらしい。カウンターに片肘をつき、「ありえねぇ」と漏らすと、ヴァンに肩を叩かれる。

「ワイら、まだ仕事選べる身分ちゃうやろ?」

「成長の……チャンスかもしれない」

「それはそうかもしんねぇけど……やっと七人でまともな活動はじめる時期にやることかよ」

「今しか学べないことって絶対あるよ。ね」

「そうそう。出会いは大事やで」

「どんな相手とも……切磋琢磨し、向上することが……大切」

「……おまえら大人だな」

 ヴァンはともかく、二人は年下だというのに。たっぷり息を吐き出すとため息みたいになってしまった。自分の言い分が間違っているとは思わないが、正論を返されると正直ぐうの音も出ない。
 所属事務所も違う、SSS決戦ライブではライバルとして戦う相手とデュエットすることに何の意味があるのだろうか。話題性は大和にも理解できるけれど。
 ST☆RISHが兄と同じシャイニング事務所のアイドルということを知ったのは、こっちに帰ってくる少し前のことだ。一応まだ新人アイドル扱いのST☆RISHと日向龍也とでは格が違うだろうから、あいつが話題にのぼることもないことを願うが、兄弟だということは知れているだろう。正直だるいと思った。おれはおれ、あいつはあいつだ。
 おまえもそうだろ、と声には出さないが念を込めて瑛二を見やる。不思議そうに首を傾げるだけだった。

 

 

 

 こんなに上手くいっていいんだろうか。いいことの後には悪いことがあるとは思っていないが、順調すぎて恐ろしい。
 マネージャーから知らせを聞いて足が勝手に庭に向かっていた。昨日、肥料やら重い荷物を運び入れるのを手伝ったから、今日瑛二は庭にかかりきりになるだろうという読みだ。それは当たっていて、大和に気付くと首からかけたタオルで汗を拭う。

「大和、そんなに急いでどうしたの?」

「マッスルファイト、出ることになった」

「そうなんだ! 大和がずっと出たがってた番組だよね」

「あぁ。しかもシャイニング事務所から、日向龍也が出る。初回放送以来はじめてらしい」

「大和のお兄さんも? 良かったね」

 両手を合わせて自分のことのように喜んでくれる。当然マッスルファイトへの出演が決まったことは思わずガッツポーズするくらい嬉しかったが、瑛二が祝ってくれるのも同じくらい嬉しい。
 右手に変わったかたちのはさみを握る瑛二の隣にしゃがみこみ、「これなにしてんだ?」と訊いた。

「剪定だよ」

 せんてい、と瑛二の言葉を繰り返す。オレンジの花をつけて高々と茂った葉を左手でかき分け、まだはさみは使っていなかった。興味本位で顔を寄せると瑛二の細い肩がぴくりと反応した。

「……なんもしねぇよ」

「ごめん。つい……」

「おまえがいやならしねぇ」

「嫌ってわけじゃないけど……」

「あいつの部屋から、見えるから?」

「違うよ」

 ためらいなく茎を切る。ぱつん、と軽い音がした。

「だめだからだよ」

 嫌なんじゃなくて――瑛二はそう答えた。その意味は訊かなかった。分かっている。瑛二は大和のことが好きじゃないから、キスなんかしたらだめだと言っている。そういうさっぱりとした清廉さも好きだった。
 膝に肘を乗せて、顎を支えながら「なんで切るんだよ」と話を変えた。

「こうやって内側を向いてる葉っぱや茎を切って、風通しを良くしてあげるんだ」

「ただ肥料まいて水やってりゃいいんじゃねぇんだな」

「肥料もあげすぎちゃだめだし、水も花によってあげ方が違うし、奥が深いんだよ。この花は暑さに弱いから、一番暑い時期に半分くらいに一回こうして切るんだ。そしたら秋にもう一回咲くから」

「へぇ……」

 足元に置いたカゴに、次々と間引かれた葉や茎が入れられていく。はさみの刃が触れ合う音は軽やかなのに、大和は自分の一部が瑛二に切り取られていくような感覚を覚えた。項垂れ茂っていた部分を失い数枚残った葉が妙に可哀想なような。

「収録、いつ?」

 話を戻して瑛二が訊いた。マネージャーから話が合った通りの日程を答えると、「大和のデュエットプロジェクトの時期と被ってるんだね」と他人の予定を諳んじて言う。当事者である大和は、そちらの予定をすっかり忘れてしまっていた。面倒くさいことこの上ないからだ。

「デュエットどうだ? 瑛二はもうはじまってるよな」

「楽しいよ。刺激を受けることがたくさんあって。一ノ瀬さんとはずっと一緒に歌ってたみたいに息が合うんだ」

「あー……あいつ、よくここ来てんな」

 事務所のエントランスやレッスン室のあるフロアで時々出会う見覚えのある男が、きっとその『一ノ瀬さん』だろう。わざわざこちらに呼んで、HE★VENSの指導に来ているコーチにレッスンを見てもらっている。それを瑛一も許可しているらしい。

「一ノ瀬さん、なんだかちょっと兄さんに似てるんだ」

「……そうか?」

 一度挨拶されたことがあったようななかったような程度なので、全く共感できない。

「いろんなこと知ってるし、その知識をひけらかさないし、すっごくできる人なのに俺の意見にも耳を傾けて取り入れてくれるし、音楽に誠実で、あと話す時に俺の目をじっと見て話すところも」

 左手の指を折り数える。思いつく限りめいっぱい褒めそやした後、「でも」と表情を曇らせた。

「最近週刊誌に書かれてること、知ってる?」

「なんかあったのか」

「一ノ瀬さんがST☆RISHを脱退して、HE★VENSに移籍か……って。俺がここに来てもらってばかりなのも問題だと思うんだけど……」

「んなの、ただのガセネタだろ?」

「どうだろ……。父さんと一ノ瀬さんが二人で話してるとこ、見ちゃったんだ。父さんが何て言おうと一ノ瀬さんはST☆RISHを大切に思ってるし、抜けるなんてないと思うけど……父さんが一ノ瀬さんを欲しがってるのは、嘘じゃないと思う。何話してたのかはよくわからなかったけど」

 決戦ライブを控えたこの時期に対立している事務所に移籍なんてことがあれば大騒ぎだよな、と他人事みたいに思った。そんなことが本当にあれば全く他人事じゃないのに。
 一ノ瀬トキヤ。よくわからない奴だが、本気でレイジング鳳が欲しがっているならスキルは高いに違いない。兄さんと似てると瑛二が話すのが引っかかる。
 剪定の手を止めて、瑛二は花を見つめていた。純真で幼気な瑛二のことだ。良かれと思って事務所に招いたのが裏目に出たことに心を痛めているのだろう。小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。

「そんな顔すんなって」

「あ、ごめん……俺どんな顔してた?」

 どんな、と訊かれると語彙の乏しい大和には難しい。どんな顔してたって『小奇麗な顔』という言葉でまとめられる顔立ちだし。

「なんつーか、かなしい顔? とにかくあんま気にすんなよ。なるようにしかなんねぇし、一ノ瀬って奴の気持ちは瑛二もわかってんだろ」

「うん……そうだよね。ありがとう。大和もデュエット頑張ってね。あと、マッスルファイトも」

「おう」

 瑛二が再びはさみを入れるのを確認してから立ち上がる。目線を上げた先の瑛一の部屋にぼうっと人影が浮かんでいた。瑛二はいつもここから、その姿を見ているのだろう。
 寮を出て、すぐ隣にある事務所へ向かった。二日に一度は顔を出し台本やら進行表やら、仕事に必要な書類を受け取る。広い室内はいつも整理整頓されていて、逆に居心地が悪い。置いてあるものを手に取ったら一ミリの狂いもなく元の場所に返さないといけないような感じがして。
 だからラックに並んだ週刊誌にも手が伸びなかった。拍子に躍る『ST☆RISH 一ノ瀬トキヤ』の文字に目をやり、すぐそらす。その後にどんな見出しが続いていたのかわからない。
 そういえばST☆RISHのパフォーマンスをまともに見たことがなかった。気乗りはしないがデュエット相手であり、十二月には戦う相手になるのに。
 その時初めて、デュエット相手の来栖翔という男にほんの数滴の興味が湧いた。しかし受け取った資料の中にマッスルファイトの進行表を見つけ、それはすぐに消え失せてしまった。

 

 

 

 ほんの少し湧いた興味は結局気のせい、ということにしておいた。デュエットプロジェクトの顔合わせ兼第一回打ち合わせの当日、作曲家と共にやってきた来栖を見て、そういえばこんなやつだったなと思った。瑛二よりさらに背が低い。
 七海と名乗った作曲家に希望の曲調やイメージを問われ「べつに」と答える。本気で関心がなかった。何が来たって問題なく歌ってやる。そんなことより、公平を保つためにどのグループも同じ作曲家がつくとかいう話だったが、この女さっき来栖と同期だとか言ったよな? それって公平なのか? 瑛一の気に入りらしいから、作曲の腕を疑ってかかるわけじゃないが。
 なんでもいい。べつに。とくに。三つの言葉をとりあえず場面に合わせて選びながら、再来週に控えたマッスルファイトの顔合わせのことを考えていた。実兄なのに会うのは年単位で久しい。
 兄が実家を出た時、大和は十三歳だった。実家を出てどこで何をするのか聞かされた両親も祖父も信じられないという顔で送り出していたから、只事ではないのだろうと子どもながらに感じていた。伝説のアイドルとやり合って負けて、アイドルになるため家を出たというのは日向龍也がデビューしてから聞かされた。
 武道館でのライブも、初主演映画も、大和だけが観に行かなかった。そのうち公演の度送られてきていたチケットが一枚減って、三年前に祖父が亡くなってからはもう一枚減った。
 向かいの席で帽子を頭に乗せた背も座高も低い男が何やら言っている。よく聴こえなかった。
 曲に関しては、作曲家に丸投げした。意見を出さない代わりに出て来たものに文句を言うつもりもない。それでいいだろと思った。悪いことだと思わなかった。
 よく知らない人間と、社長同士の方針でやらされるだけの仕事だ。望んだ他の仕事が目の前にあるのに、集中できるわけがなかった。

 

 

 

 その後の打ち合わせとレッスンの日程は可能な限り来栖に合わせてやった。その日は無理だと言って他の日程を提案するのが面倒だったからだ。おかげでデュエットの打ち合わせ後、事務所にとんぼ返りしてレッスン、ということも少なくなかった。体力あって良かった、とこういう時に思う。
 初回を含めて三回の打ち合わせを経た後、デュエット曲のレッスンに入った。
 瑛一が見込んでいるだけあって七海春歌の作曲の腕は確かで、修正点を挙げた後のとりかかりが早い。もたもたされるのは嫌いなので、余計なストレスを増やされず済んで助かった。
 困った――というより腹が立ったのは、レッスンが始まってからの来栖に対してだった。
 呑み込みが遅い。大和に比べて、だが。考えてみればおかしいことではない。デビューしてアイドル業をこなしていた来栖と、二年間ほぼレッスンしかしてこなかった大和とでは差が生まれて当然だ。
 楽譜を読むのは相変わらず得意じゃないが、耳で聴けば歌えるようになる。ダンスも体に馴染めばすぐ踊れる。大和が一日でできるようになったことが、来栖はその三倍くらいかかった。けれど裏を返せば時間さえかければ二人は同じレベルに到達できるということで、三回もレッスンを重ねれば来栖はちゃんとついてくるようになった。
 来栖がいつも何かを言おうとして、こらえているのを知っていた。文句の一つでも言いたいのだろう。ちゃんと意見を出せとか、やる気出せとか、気持ちが大事だとか。でもレッスンで後れを取っている立場で言い出せない、というところだろうか。じゃあ一生こらえてろ、と思った。
 瑛二が実に清々しくデュエットプロジェクトを終えていた(一ノ瀬トキヤの脱退説もすぐに撤回された)のとは対照的に、大和も、きっと来栖もフラストレーションをため込んでしまっていた。早く終えたい。明日のレコーディングが一つの区切りだ。

 

 

 

「デュエット順調?」

 部屋を訪ねると瑛二は快く招き入れてくれて、テーブルの上で楽譜の角を揃えながら訊いた。

「くだらねぇ」

「そっか」

 瑛二の部屋には丸い小さな島みたいなカーペットが敷いてあって、そこから落ちないよう腰を下ろした。あぐらをかいた姿勢から片方の膝を立てそちらに体重をかける。テーブルを隔てた先で瑛二は静かに微笑んでいる。
 デュエット相手と兄が似ていると瑛二が言ったのを思い出す。偶然だが、そういえば来栖翔と日向龍也もどこか似ているような。いや、兄はうっとおしいくらい何でもできる奴だけど――何か言いたそうにこちらを見て、諦めたように口をつぐむ姿とか、波風立てないように黙っている大和に意見を促してくるところとか。

「大和……何かあった?」

 苛立ちが顔に出ている自覚はあった。気がすすまねぇだけ、と答えておく。あいつと兄が似ているなんて瑛二に言って何になるのだろう。それに、似ているから何だ。
 カーペットに手をついて、低いテーブルを回りこむ形で瑛二に近付く。隣に腰を落ち着けても逃げられなくてほっとした。

「どうしたの?」

 柔らかな視線に見上げられる。この角度が好きだ。これ以上伸びなくていい。

「キスしていいか?」

「俺とキスしたら、大和、元気になるの?」

「でもだめだって言うんだろ、おまえ」

「……そうだね」

 妙に空いた間が気になった。同情でも何でも、いいよと言われるんじゃないかと期待した。

「だめだよ」

 肩が触れる。離れない。この距離を、二人は自然なものだと受け入れている。大和を見上げた紫の瞳は潤みを帯びていて、もし音のない世界なら交わりをねだっているように見えた。

「いやじゃねぇんだろ」

「……うん」

 小さく頷く。同意の上ではできないけれど、不意打ちとか無理やりとか、そういうやり方なら受け入れるのだろうか。でもそれは大和が嫌だ。不本意だ。
 背中に手を添える。だめだって、と小さな唇が動いた。肩を内側に入れて近付くと、瑛二の両手が胸を押し返そうとする。拒絶されたくなかった。これ以上誰かに否定されたくない。背中を支えた手で服を引っ張ると、想像以上に軽い身体は大和の力に従って、カーペットの上に瑛二を押し倒すかたちになる。
 拒否する相手と本気でキスするつもりはなかった。すぐに起こしてやろうと背中と床の間に手を差し込むと、上半身がびくりと揺れる。大和の方が驚いてしまった。

「なんもしねぇ、瑛二」

 不自然に視線が泳ぐ。スイッチでも押されたように顔が一気に真っ赤になって、触れた背中が熱い。なんだこの顔。これは襲われても文句言えねぇだろ、と思いながら体を起こそうとするとぶんぶん頭を横に振る。

「やだ……!」

「じっとしろ、けがすんぞ」

「やだ、こわい……!」

「なにがだよ」

「…………大和が、こわいよ」

 仰向けになっているから、溢れた涙は耳に向かって流れた。まさか泣かせてしまうとは思わなかった。体を離して起き上がる。瑛二は目元を袖で拭いながらもたもたと体を起こした。
 俯いた顔を覗き込もうとすると、きれいに揃った茶色の髪がふるふると横に振れた。

「おれが悪かった。力が入りすぎちまって……」

「見ないで」

「瑛二」

「ごめん……出て行って。一人にしてほしい」

 肩か頭かを撫でようとした無遠慮な右手を引っ込め、わかったと言い残して部屋を出る。
 好きだから触れたい。何もおかしなことはない。嫌じゃないと瑛二は言う。でも、瑛二は大和を好きじゃないからだめなのだと意見を曲げない。期待を抱かせてしまうから? そんなものとっくになくなってしまっている。
 実の兄を好きだと言って泣いていた、あの危うさに惹かれた。大和の世界にはありえない感情で、そんなものに振り回されている瑛二のことを知りたいと思った。好きになってしまったから、触れたいと思った。
 自室に向かって廊下を歩く途中で瑛一とすれ違った。視線が注がれ、口が彼が発した言葉のかたちに動くのは分かったのに、何と声をかけられたのか聴こえなかった。音のない世界を願ったからかもしれない。

 

 

 

 

 スニーカーの紐が、ぶちんと切れた。
 良くないことは続くらしい。替えの靴を取り出して足を突っ込み、力いっぱい靴紐を引いたことを反省して優しく結ぶ。違う靴を履くと気の持ちようも変わる気がして、今日は朝のランニングコースを変更した。
 空は晴れて気持ちが良いはずなのに、どしゃぶりで外を走れないのと同じくらい沈んでしまう。というより、気が立っている。
 瑛二のことだけではない。一昨日のレコーディングで終わるはずだったデュエットプロジェクトのことを思い出すと、悠然とその辺に生えている木を殴って回りたいくらいいらついた。もちろん実行には移さないが。
 あいつ――来栖翔の口から、もう我慢してらんねぇとばかりにとうとう苦言が飛び出て来た。何のミスもなくお利口に歌ってやったというのに。気合を他人の物差しで測られたり、振りかざされるのは大嫌いだ。何より『日向龍也の弟と』歌うことを期待していたなんて告白されて、大和も無視を貫けなかった。だから迷いなく暴力に任せた。
 日向大和は、日向龍也ではない。ただの血を分けた兄弟。それ以上でも以下でもない。全く違う存在で、全く違う個体だ。違うものだから瑛二は瑛一に恋をしたのだろう。同じものだったら好きにも嫌いにもきっとならなかった。
 走りながら、あいつ、もしかして日向龍也が好きなのかと考えた。そうだとしたら、弟と近付くことを楽しみにする下心のような気持ちもわからなくない。でも来栖と兄は同じ事務所で、弟なんていう厄介な存在を媒介する必要は無いはずだ。
 あーわからねぇわからねぇ。ただ、今まであいつは日向大和ではなく『日向龍也の弟』として大和を見ていたのかと思うと、やはり死ぬほど腹が立つ。
 適当に切り上げて寮に帰ろう。明日にはマッスルファイトの出演者発表会もあるし、本番は来週だ。筋トレをすれば全て忘れられる、はずだった。

 


「……久しぶりだな」

 走って目の前にやってきた人物は、大和を視界に認めると歩調をゆるめた。今一番――いや、来栖の次だから二番か――会いたくない人物。コースを変えたりしなければ良かった。
 男――日向龍也は、数年ぶりに会った弟に向けるのに相応しい、親近感を湛えた、けれど温かくはない眼差しを大和に注いだ。

「あいかわらず余裕のツラか」

 ぎらぎらと敵対心を露わにしている自分を恥ずかしいとは思わない。むしろ、視線一つで伝わるなら言葉がいらず楽だ。

「おれも出るぜ、マッスルファイト。覚悟しとけよ。……昔のおれじゃねぇぞ」

「……俺の代わりに、来栖が出ることになった」

「なんだと……! てめぇ逃げんのか!」

 声を荒げた。龍也はどこまでも対照的に、その姿を冷静に見ている。まるで自分とは関係のない出来事がたまたま目の前で起こっているみたいに。地元で柄の悪い不良共を束ねていた時もそうだった。落ち着き払った、静かな瞳。

「黙ってねぇでなんとか言ってみろ!」

 胸倉を掴む。物心ついた頃から、喧嘩を吹っ掛けるのはいつも大和だった。それに渋々付き合って、年下だからといって手加減せず一番優しい方法で大和をあっさり負かすのだ。嫌いだ。大嫌いだ。けれどその感情が原動力になって、ここまで来てしまった。

「お前、何のためにアイドルをやってるんだ」

「は? アイドルなんて知ったことか。おれはおまえを倒すためにレイジングエンターテインメントに入ったんだよ」

「お前はまだそんなことを言ってるのか」

 素直に驚き、呆れたような声色だった。まさか、それ以外の理由で大和がアイドルを目指したなんて本気で思っていたのか。

「あたりめぇだ」

「来栖は強いぞ」

「あんなチビが強いだと?」

「やってみれば分かる」

「……待ちやがれ!」

 話は終わったと言いたそうに脇を通り過ぎた男を振り返り、腕を振り上げる。顔の高さに放った拳は、大和に背中を向けたまま受け止められた。こういうところが、本当にムカつく。

「来栖を倒したら、おれとタイマンはってもらうぜ」

「……いいだろう」

 手のひらに包まれた拳にぐっと力を入れる。それを押し返すように圧をかけられる。タイマン張らなくても勝負は見えていると言いたそうに。手を離すと龍也は、ふと兄の顔になった。

「ちゃんと飯食ってるか? たまには家に顔くらい出せよ」

 最高に日向龍也らしくて、最高に大和が嫌いそうなせりふを残して、男はまた走り出す。反吐が出る。いつでも年長者の余裕みたいなのをまとって。
 大和の知る誰より強くて、勝利に飢えていたはずの男が、易々と戦いの場を――マッスルファイトの出場権を、来栖に譲った。

「首を洗って待ってやがれ……」

 あいつと正面からやり合うために越えなければならない壁が増えてしまった。まぁ、そう高い壁じゃない。来栖が強いなんてあいつの贔屓目だろうと、深くは考えなかった。

 

 

 

 

 

 

 顔に傷を作ってしまった。
 アイドルがアイドルを殴っていいのかよ。グローブをつけていても小さいと感じる来栖の拳に顔面を殴られて吹っ飛び、地面に叩きつけられながらそう思った。
 アイドルという肩書には本当に大した興味も抱けていないが、それでも顔は商売道具の一つだと思っている。それくらいのプロ意識はある。トーストの上に伸ばしたバターみたいにうすーいものかもしれないけれど。
 リーダーに怒られるだろうか。それとも綺羅か? 仕事も入りだしたこんな大事な時期に至る所に傷を作ってしまって。
 小学生の頃、近所の中学生と取っ組み合って家に帰りづらかった時のような気まずさ。あの時は母親に散々叱られてから、あとでこっそり祖父に笑われた。おまえも結構やるもんだな、と。

「――大和?」

 寮の門の前、後ろから声をかけられ両肩が跳ねる。振り返ると瑛二が立っていた。部屋でキス未遂をやらかしてから二人きりになることはなかったから、どう接すれば良いかいまいち掴みかねる。

「その怪我どうしたの」

「収録だった……マッスルファイト」

「ちゃんと手当しなきゃ痕になるよ。来て」

 ぐっと左腕を掴まれ、たじろぐ。そんな大和にはお構いなしに、瑛二はもう一度強く腕を引いた。
 座ってて、と言われ共有スペースのソファに腰を下ろした。瑛二が救急箱を持って来て足元に座る。
 吹き抜けになっている一つ上のフロアの窓から夕陽が差して、まっすぐこちらを見上げる瑛二の瞳をつるりと輝かせた。ふくらはぎにできた傷を指で撫でて、痛い? と訊く。

「すげぇ痛い」

「うん、痛そう。傷になったところ、ちゃんと洗った?」

「あぁ」

 水を含ませたタオルをとんとんと押し当てる。

「マッスルファイトの出演者発表会、ニュースでやってたの見たよ。大和のお兄さんじゃなくて来栖さんが出てたんだね」

「出させてくれって頼んだんだってよ。おれに勝ったらレコーディングやり直させるっつって」

「大和、ちゃんとレコーディングやらなかったの?」

「ふつうに歌っただけだ」

「普通に歌ったなら、やり直ししようなんて言われないよ」

「……うるせぇよ」

「うるさくないよ」

 傷口に、消毒液を染み込ませたガーゼが触れる。じゅわ、と溶け込むのは鋭くとがった痛みだ。

「レコーディング、もう一度やるの?」

「やる。勝負はひきわけだったけどな」

「そっか。――次、腕見せて」

 Tシャツの裾をまくり、二の腕の傷を露出させる。

「瑛二」

「なに?」

「今日……あいつに負けたときみてぇな悔しさはなくてよ、でもケンカして勝ったときのスカッとした、やってやったって気持ちもなくて……なんなんだろうな、おれ、あの番組に出て、あいつと戦って勝ちてぇって思ってた。来栖に勝てばタイマンはってやるってあいつ言ったんだ。でも地面にぶっ倒れた瞬間、あいつとは戦えねぇのかとは思わなかった。後ろで来栖がぶっ倒れた音きいて、終わったのか……よかったって、思っちまった」

「……うん」

「来栖に勝てねぇおれが、あいつに勝てるわけねぇ。今日たまたま来栖に勝てたとして、おれは多分あいつにぼこぼこにやられんだ。それか、うまくかわされて相手にもされねぇ。……びびっちまった」

 そっか、と言葉を噛みしめるような相槌。手足の消毒の後、絆創膏をぺたぺた貼られ見かけが大げさになっていく。

「大和はどうしてお兄さんに勝ちたいの?」

「理由なんてねぇよ」

 即答すると、不思議そうに首を傾げて見上げられる。そんな目で見るな。

「……ガキん頃、おれもあいつもじいさんっ子でよ。ケンカとかメンチの切り方とかめちゃくちゃ仕込まれて育った。男は強くあれ、ってな……。おれとあいつじゃ五つ離れてて、体もあいつの方がでかかったから、ガキの頃はケンカしてもやる前から勝ち負けはきまってるようなもんだった」

「弟さんたちは?」

「すぐ下の弟はまずあんまじいさんになつかなかったな。頭が良くて口げんかは得意だったが、手を出すことはまずなかった。一番下も、勝負にこだわるたちじゃねぇ」

 弟たちのように、兄と違う生き方を何の抵抗もなく選択できればもっと楽だったのかと、思わなかったこともない。

「強い男になっておれがほしいと思ったモン、あいつはだいたい気がつけばもう持ってた。なりてぇって思ったモンにあいつはなってた。つーか、あいつがなったモンにおれもなりてぇって思っただけかもしれねぇけど」

「アイドルも?」

「たぶん、半分はそうだ。アイドルっつーか……とにかく同じ場所で戦いてぇって思った。やっと年の差で負けるガキじゃなくなったんだ。おれもリングにのぼりてぇって思った」

「……すごいや。もう半分は?」

「マッスルファイトの初回放送、知ってるか? あいつが勝つんだけどよ、不戦勝なんだ。他の奴らみんなビビっちまって、決勝戦はなかった。あいつと戦える資格もった奴らが無理だってやる前から決めつけてんじゃねぇぞって感じじゃねぇか。おれがもしあそこにいたなら戦えたのかって思うと、いてもたってもいられなくなって、そのまま事務所入れろってここに来て、あとは瑛二も知ってんだろ。……つーか、」

 四角い絆創膏が貼られた右手をひらひらと振ってみる。隣に腰を下ろした瑛二が、顔の傷を見ようと頬に手で触れて心が跳ねた。

「さっきの、すごいってなんだよ」

「ずっと負け続けたひとと、同じところで戦いたいって思うのが」

「なんでだよ。おれが野球で、あいつがサッカーでって勝負はやらねぇだろ、ふつう」

「それはそうだけど――……顔、痣になってる」

「おまえだってリーダーと同じことやってるわけだろ」

「俺は兄さんに勝ちたいとか考えたことないよ。それに俺は多分、この分野なら俺が得意で、でもあれは兄さんが得意でって、そういう風に考えるかな」

「よくわかんねぇって思ってんだろ」

「うん、あんまりわからない」

「おれもおまえら兄弟、よくわかんねぇし」

 それはそれでいいと思う。大和が理解してもしなくても、瑛二が兄を好きで、尊敬するのに変わりはない。救急箱にふたをして膝に抱えながら、「でも」と瑛二はまっすぐに大和の瞳を見つめる。その奥の、心を覗かれているみたいだった。

「俺にとっても昔の大和にとっても、兄さんって一番近くにいる人だから、その上を行きたいって思うことはおかしくないと思う。弟として、当然の感情なのかもって、俺も思うよ」

「瑛二もんなこと思うのか?」

「俺だっていつも兄さんの後ろにくっついてたわけじゃないし、俺が立派なアイドルになることが恩返しなのかもって……完璧じゃなくても、俺が一つでも兄さんより自信持てるものが見つけられたら、兄さんも喜んでくれると思う。だから、俺はそうなりたいな」

「すげぇな、おまえはほんと」

 何度生まれ変わっても、日向龍也の弟である限り瑛二の言い分は理解できそうにない。けれど、自分より先に生まれて、どう抗おうと絶対に自分の先を行く存在に追い付き追い越したい。その想いは互いに分かり合える。それが嬉しい。

「大和は」

 言葉を選ぶように短く切って、続ける前に大和の隣に腰掛ける。

「案外、弱いところがあるんだよね。俺、大和のことを知るたび、なんだかびっくりするんだ」

 頬に貼った四角い絆創膏に細い指が触れる。大和の気持ちを知りながらわざとしているのか、それとも天然か。どちらにしてもたちが悪い。

「大和のこと、もっと知りたいとも思ってる」

「おれもそうだ」

 好きだ。気持ちが高いところから降ってくる。
 優しくて、小さな体で頑張って、いつもにこにこ笑っている。二人で眠った日に見せた涙も、大和を呼ぶやわらかい声も。心の容量が瑛二でぎりぎりまで満たされていく。

「なぁ瑛二」

「ん?」

「おれ、やっぱりおまえが好きだ。あきらめらんねぇ」

「……うん」

「こないだ、おまえの部屋で、こわがらせて悪かった」

 瑛二はううんとかぶりを振る。黙って許されてしまうのはいやだ。これがだめだとかこうしてほしいとか言ってもらえた方が、望みがある気がして救われる。大和にはその権利すら与えられない。

「なんでかな、あの時、大和に怖いって言っちゃったの……。怖かったのは、自分の気持ちがわからなくなって……自分の気持ちがバラバラになった気がしたからだと思う」

「バラバラって?」

「一瞬、どうなってもいいって思ったから」

 触れたい。でももう触れてはいけない。
 膝の上で組んでいた手を、瑛二が流れるような手つきでそっと掴んだ。手の甲と指の間、ちょうど出っ張った骨のあたりに唇が触れる。祈るように両手で大和の手首を支えながら、「だから俺の方こそごめんなさい」と申し訳なさそうな声色で呟いた。

「……いや、」

 キス、されてしまった。手の甲にだけど。期待してしまいそうになる。深い意味はないとわかっていても、浮かれそうになる。体中に作った傷の痛みが全て溶け切ったゆるゆるの感情に上書きされていく。
 なんでこんなことをするのか。訊けるわけがない。夕飯当番だった、と瑛二が立ち上がるまで、沈黙の空白が何秒間だったのか大和にはわからない。

 

 

 

 

 久しぶりに大浴場の洗い場で髪を洗っていると、「珍しいなぁ」とヴァンがからから笑って隣に腰掛けた。

「広いんだからとなりくんなよ」

「つれないなぁ。せっかく大和と話せると思ったのに」

「おれは話したくねぇし。あ、そういえばおまえ今デュエットプロジェクト中か」

「めっちゃ喋っとうやん」

 言われてみれば、と突っ込まれてから気付く。

「レンちゃんと、歌だけやのーてドラマも共演しとってな? こんなに燃えるん久々やわ」

「あいつらとのデュエットで力尽きてもしらねーぞ」

「気を付けまーす」

 長い前髪を下ろし、もう一度かき上げる。にょろにょろと英語が書かれたラベルの容器(多分シャンプー)をプッシュして、鼻歌まじりにヴァンが髪を洗い始める。話は終わったかと立ち上がると、泡だらけの手にふくらはぎを軽く叩かれた。

「ちょぉ待ちぃや」

「んだよめんどくせぇな」

「でっかい声じゃできひん話や。もっかい座って」

 はいはいと椅子に再び腰を下ろす。でかい声じゃできない、と言われたのが少しばかり引っかかって思わず曇りガラスの向こう側をじっと睨んだ。大丈夫だ。多分、脱衣所にも誰もいない。

「なぁ、なんか最近めっちゃあやしない? 大和とえーじちゃん」

「どこ見たらそう思うんだよ」

「いや、よぉわからんけど……距離感? 許し合っちゃってます的なオーラ? 出てんで?」

「ねーよ。気のせいだろ」

 むしろ、それがあったらどれだけいいか。

「ほんま? 付き合うたらちゃんと教えてな?」

「わかったわかった。まぁありえねーけど」

 髪洗うまで待ってて、と言われ素直に隣で待機した。断るのが面倒というのもあるし、別に断る理由もない。ヴァンとは軽率なノリでやり合ってしまうことも多いが、ここではいさよーならと先に出て行くような仲でもない。
 湯船に浸かり、疲れ切った声を吐き出すヴァンに「おっさん」と声を潜めると肘でどつかれた。

「デリカシーなさすぎやろ」

「事実だろ」

「ワイはおにーさんや! まだ!」

「そーかよ……」

 おっさんとおにーさん、の境界なんて知らないし興味もない。けれど、ヴァンよりも瑛二との歳の差の方が大きいことをふと思い出してしまい、おっさんいじりは金輪際やめよう、と誓った。瑛二が二十四の時、大和は三十代に突入していることになる。小学一年と六年の歳の差だから、思った以上に衝撃的だ。

「キスしたやろ」

 朝ご飯食べた? みたいなテンションで訊いてくるものだから、思わず「は?」と問い返した。なに言ってんだ。ていうか何で知ってんだ。見てたのか?

「そういう距離感やって言うたやん」

「わかんのかよ」

「……ほんまにしたんや」

「カマかけんじゃねぇよ」

「ちゃうちゃう、そう思ってたのはほんまやって。でも大和が否定ばっかりするからやん。チューしてんのに」

「なんつーか……そういうんじゃねぇよ」

 合意の上ではしたことない――とは言えない。
 けれどヴァンはざっくりと意味を汲み取って「あー……」と気まずそうな顔をした。

「あんまりずるいことしたらあかんで? 相手未成年なんやから」

 ずるいって、何だよ。
 大和からすれば、この間の手の甲への不意打ちキスが一番ずるい。自分から仕掛けた唇へのキスよりもずっと大切にしたい感触だった。触れられた部分だけ熱で燻ってなくなってしまいそうなほど熱くて。

「わかってる」

 わかりたくない、のに、そうとは言えない。

 

 

 

 メンバー全員が顔を合わせるのは一週間ぶりだった。デュエットプロジェクトも終盤に差し掛かり、指揮をしばらくヴァンと綺羅に任せていた瑛一が顔を出し、SSS選考用の楽曲の打ち合わせが始まる。
 歌詞がついて譜割りも完了した楽譜を渡され、続いて今後のスケジュールが配られる。すでに衣装も手配済みで、あとはレッスンを重ねるのみだ。
 楽譜に視線を落とすと、歌い始めの担当は大和だった。どんな曲でも一番好きな部分だ。曲の色を自分が決めるのだと思うと責任は重いがわくわくする。どうせやるならそういう部分を担いたい。
 小一時間の打ち合わせの後、解散となった。綺羅、ヴァン、シオンはこれから仕事があると忙しなく出て行き、ナギとくだらない世間話をしながら部屋を出る。楽譜を胸に兄に声をかけていた瑛二が気になったが敏いナギに何か気取られそうなので知らぬふりをした。

「大和、袖なくなってたね」

 衣装のデザイン画をめくりながらナギが率直な感想を述べる。

「うっせぇ。いいんだよ」

「うん、イメージぴったり」

「ナギのもいいんじゃねぇの」

「でしょ? キュートなナギにぴったりって感じ?」

 三十センチくらい低いナギの目線で書類を覗き込む。性格だけでなく身体的にも個性的なメンバーに合わせてよく作り込まれている。袖の布がないデザインになっていたことには驚いたが、まぁそうなるならおれだよなとも思う。
 階段の踊り場に差し掛かった頃、パーカーのポケットに手を突っ込んだナギが「あ」と呟いた。

「どうした?」

「スマホ置いてきちゃった」

「戻るか」

 振り返り、来た道を戻る。着いて行く理由はなかったけれど、年齢のせいか事務所内だというのに世話を焼いてしまった。ナギも特に何も触れて来ず「スケジュール管理が大変」とぼやく。

「でもナギは天才だから大丈夫、だろ?」

「まぁね~」

「おまえは頭いいからいいよな」

「何言ってんの。大体は事務所が調整してくれてるじゃん」

「それはそうなんだけどよ」

 台本を読み込んでおく順番を決めるのとか、歌やダンスの個人レッスンのスケジュールとか、自分で決めなければならないことは案外多い。話したところでナギの理解は得られそうにないので話を濁しておく。

「俺にはできないよ――兄さん」

 小さなナギの手がドアノブにかけられ、数センチだけ開いた、と思うと最後の一滴を絞り出したような瑛二の声が聴こえた。身動きが取れなかったのは大和もナギも同じだった。大和の拳ほどしかない隙間から見える景色に目を凝らす。いつもと変わらない会議室の一角だった。

「こんな大きな、大事な舞台でセンターなんて――」

「瑛二」

「兄さんがやるべきだよ」

「総合的に評価された結果だ。お前がやるべきなんだ、瑛二」

「でも……」

 今回の楽曲はBメロの手前とサビに瑛二のソロパートがあり、全体的にも実質瑛二がセンターになる。暗黙の了解というか、呼吸よりもっと自然な感覚で、HE★VENSは瑛一が中心のグループという認識だったので確かに一瞬大和も戸惑った。が、瑛一の言う通り、総合的な評価による判断なら妥当だろう。
 見えていないから、瑛二がどんな顔をしているかわからない。兄の前だ。不安をありありと滲ませているのか。それとも、声色に反して案外冷静な表情で訴えているのかも――わからない。

「兄さん、俺怖いんだ。もし、負けたら――」

 負け、という単語にナギが肩を震わせた。この小さな背中は敗北を自分のものとして知っている。瑛二と対峙しているはずの瑛一も。チームの解散を経験している彼らと、それに立ち会えさえしなかった自分たちと。どちらがどうだと違いを主張したいわけじゃない。けれど悔しくて、もうあんな思いをしたくないと誓ったのは同じだ。

「瑛二、お前のパートだ」

「……兄さん」

「お前が背負うんだ」

「あっれー、瑛一に瑛二、まだいたんだ?」

 勢いよく扉を大きく開きナギが部屋に飛び込む。充電器に繋ぎっぱなしのスマホをポケットにおさめ、兄弟に向かって「どうしたの?」と首を傾げる。
 わざとらしい。あえて二人の会話が聴こえていたのだと匂わせ、それでも毅然とした顔で。なんでもないよと瑛二が微笑む。その視線は扉を開けたまま立ちすくむ、不自然のかたまり――大和の姿に注がれた。

「昼食にしよう。昼から四人で稽古だ」

 いつも通りのよく通る硬質な声で、瑛一が全員を部屋から出す。瑛一がさっと作ったパスタを流れ作業みたいに胃に送り込み、午後からダンスレッスンに入った。七人揃っていなくても、センターの位置の床に貼られた赤いガムテープがあるから瑛二が中心に何度も立っているのがわかる。妙に落ち着かない気持ちになるのはおかしいだろうか。
 目の前の鏡の中にいる瑛二の姿を何度も見つめる。ちゃんとセンターやってんじゃねぇかと喉元に出かかった言葉は声にしなかった。

 

 

 


 その晩、筋トレ後のクールダウンの最中に、瑛二が部屋にやってきた。

「ごめん、今日は変なとこ見せちゃって……」

 ドアを開けるなり勢い任せに謝罪をするので迷いつつ部屋に招く。瑛二はすんなり受け入れた。床に直接二人で腰を下ろし、おおげさなくらい距離を取る。

「今日、聞いてたでしょ。兄さんと話してるの」

「おう」

「みっともないとこ見せちゃってごめん」

「いや」

「本当は、喜んで当然なのにね」

 膝を抱え、そこに頭を突っ伏しながらため息をつく。力を込めた指先が寝間着にしている薄ねずみ色のジャージの布にしわをつくった。

「そうだな。全員が立ちたい場所かもしれねぇ」

「……うん」

 少し顔を傾けて、瑛二が視線をよこして見せる。ちらりとだけ覗く顔にどきりとさせられる。そうでなくても自分の考えを言葉にまとめることは苦手で、いろんな言葉を知っているわけじゃないのに。次の言葉に臆する。センターは、と瑛二がぽつりと言った。

「兄さんの場所だから。少なくとも俺はそう思ってて、そこに立つ兄さんを見るのが嬉しくて、ぴったりだって……思ってた」

「でもおまえだって、兄貴の上をいきてぇって言ってたじゃねぇか」

「言ったけど……」

「おまえも同じとこ、立てたんじゃねぇか」

 大和は立てなかった。兄と同じ場所に。でもいつか同じ舞台に立つ。そして勝ちたい。勝った先にあるものは分からないけれど、そこから見えるものを大和も見てみたい。

「瑛二。おれはまんなかじゃねぇけど、だからどうだって話だ。まんなかじゃねえから手ぇ抜くとか、まんなか立ってんだから頑張るとかじゃねぇだろ」

「……うん」

「兄さんの場所で、おまえもがんばれよ」

「……」

 次の返事は涙だった。ぽろりぽろりと大粒がこぼれたかと思うと瑛二の袖と膝の布の色が変わっていく。肩に手を伸ばしかけてすぐ止める。でも、どうして。目の前で惚れた相手が涙を流すのを黙って見ていないといけないのだろうか? 肩を抱くのに理由はいるのか。好きだから――じゃない。いやそれもあるけど。でもそれだけじゃない。大切だからだ。

「瑛二」

 肩を抱き寄せると、途中から磁石みたいに瑛二の体がくっついてきた。これで正解だった。胸元に抱き縋られて、緊張するとかドキドキするとか、そういう感情以上にこの小さな体をただ慈しんだ。しゃくりあげる背中をさすってやる。あぁ今なら押し倒せるなと思わないわけじゃないけれど。
 触れたい。好きだから。大事にしたい。好きだから。丸い頭の形を確かめて、うなじに触れる。それを何度か繰り返す。
 広い舞台のセンターに立って歌う瑛二の姿を想像した。瑛一と同じくらいしっくり来る。百七十で止まってしまった背丈も真ん中に立てばちゃんと映えるだろう。立つ位置は違えど、同じ瞬間同じところにいられる自分を思い描くと誇らしかった。
 胸の中で瑛二が顔を上げる。

「ぐちゃぐちゃじゃねぇか」

「ご、ごめん……」

「おれの服じゃなくて、おまえの顔」

「服もぐちゃぐちゃにしちゃった」

「そんなん気にすんなよ」

 確かに濡れそぼってしまったスウェットに、瑛二がもう一度顔を伏せる。おい、と声をかけて引き剥がし、目元に残った涙を袖の布に吸わせる。
 肩を抱いた手を下ろしても、体は触れ合ったままだった。本当に磁石になってしまったみたいだ。あれって、違う極を近づけると引き合うんだったか。真逆――というほど遠くないけど決して同極じゃない。大和と瑛二の関係はそんな感じだから、引き合っているのかもしれない。物理的に。
 床に置いた手の指先をきゅっと握られる。信じられなくて、名前を呼ばれるまで時が止まってしまったようだった。

「まだ四人だけでロンドンにいて、うたプリアワードで負けた時、俺、せめて負ける時はそばにいたいと思った」

 誰の、と言わなくても分かる。

「でも、七人揃ったら負けるなんて嫌で、みんなで勝ちたい。もうあんな悔しい思いはしたくないし、寂しい思い、させたくないから」

 人差し指の二つ目の関節までがそっと絡まる。

「勝って、俺達の歌を、もっとたくさんの人に聴いてほしい。だから、俺がセンターなんてって思って……。兄さんの方がいいって思ったのも本当だけど、多分、もし俺がセンターで負けたら、責任感じるなって……怖くて……」

「そんな必要ねぇよ」

「大和はそう言ってくれると思った。それに俺だって、大和や、みんなが同じことで悩んでたら、そんなことないよって言ってたんだと思う」

 うつむいたまま瑛二が笑う。顔を上げて、視線がかち合うと心臓がどきりと跳ねた。

「俺、頑張るよ。みんなといっしょに頑張る」

 目を閉じて、紫の瞳の光彩が消える。淡い桃の唇がつんと突き出され、何を瑛二が望んでいるかは一目瞭然だった。信じられないけれど。

 おかしなやつ。
 そして身勝手なやつ。そんなところが好きだけど。

 この思わせぶりで天然な態度に振り回されてきた。だからそう簡単に落ちたくない。だってこいつは、違う男が好きなのに。
 きっとくちづけをねだっていた唇に餌は与えず、ぎゅっと抱きしめる。好きだ、と思った。でもしない。今はしない。

「おやすみ、えーじ」

「おやすみなさい」

 妙に聞き分けが良すぎるところも好きだ。ちょっと憎たらしいくらいに。

 

 

 

 

 しかし、浮付いた気持ちは長く続かなかった。
 社長に歯向かったことが原因でHE★VENSは活動自粛に追い込まれたものの、ST☆RISHが完成した楽曲を届け活を入れにきたことで自分たちの力だけで選考ライブに立つことを決心した。うたプリアワード落選後に共に海外に着いてきてくれた古株をはじめとした数十名のスタッフも力を貸してくれるという。
 幸い追放される前にパート分けも振付も完成していたので、レイジング鳳の目を盗んでレッスンを行えれば何とかなった。選考ライブを前にして世間から姿をくらましたと思われるのはマイナスだったが、メディアに顔出しすればすぐにレイジングの耳に入ってしまう。それだけは耐えてほしいと瑛一が指示を出し、全員素直に従った。
 急ピッチでライブの準備を進め、瑛一とヴァンは主催側への根回しに奔走した。選考ライブ前日、衣装の搬出を手伝いながら「夜逃げみてえだな」と呟くと瑛二が苦笑する。衣装係の指示通りなるべく軽い小道具を運び出していたシオンが、綺羅とトラックに乗り込み会場へと向かった。
 強くなったな、と思う。シオンも瑛二も、きっと大和自身も、みんな。

 残った瑛二とナギと三人でダンスの確認を行う。センターの位置に貼った赤いテープの上に瑛二が立ち、両手を広げる。斜め後ろからその姿を見つめ、頷いた。
 打ち合わせから帰宅した瑛一とヴァンも合流し、一時間もすれば綺羅とシオンも帰ってきて、七人で最終リハ。ラストのポーズを揃って決めた後、数秒の間を置いて瑛一が「イイ!」と叫んだ。

「七人の想いが一つとなり、最高の形として表れている。音楽への絶えぬ情熱とエンジェルへの愛を燃やし尽くそうではないか!」

「うん、兄さん!」

「俺達が、今できる……最上のパフォーマンスを……」

「信じて待ってくれとぉエンジェル達のためにもな!」

「ドカンと派手にやろうぜ!」

「会場のみ~んな虜にしちゃうんだから! ね、シオン」

「あぁ、それが天草の誓い……」

「俺達HE★VENSに不可能は無い。明日はそれを証明しようじゃないか。そして……」

 顔を上げ、紫色の美しい瞳が眼鏡の奥で光る。しかし、その先を話すことはなく、手を合わせた。

「解散にしよう。今夜は皆よく休んでくれ」

 はーい、と誰ともなく輪になっていたのが、やはり誰ともなく崩れ散り散りになる。誰も瑛一が言いかけた言葉の続きを気にする様子はなかった。明らかに、何か言いたかったけどやめた感じだよなと思った。でも大和もいちいち蒸し返して訊いたりしない。
 レッスンルームの隅に置いておいたジャージを拾い上げ、部屋から出ると隣に瑛二が並んだ。

「おう、おつかれさん」

「お疲れ様、大和。なんだかずっとバタバタだったから、明日が本番当日なんてなんだか信じられないね」

「だな」

 ごく自然に瑛二と並び立つ。誰から見てもおかしいところはないだろう。もう負けたくないのだと泣いていたあの日から、ゆっくり二人で話す機会がなかった。

「なぁ」

「あの」

 切り出したタイミングが同じで思わず顔を見合わせる。話す順番を譲り合う前に、間にヴァンが割って入った。

「なぁなぁなぁ~! ……あれ、話し中やった?」

「ううん、大丈夫」

「ほんま? なら良かった。昔みたいに、三人で――や、シオン合わしたら四人やな。四人で風呂入らへん?」

「え……」

 ヴァンを挟んだ先にいる瑛二が困り顔で目配せしてきて、大和の方が困ってしまう。一方的に好かれている相手と仲良く風呂になんて入れない。その気持ちは理解できるが、なら断れよとしか言えない。それに無理やり同じベッドに寝せようとしてきたのだって瑛二で、大和はそれなりに気遣ってきたつもりだ。

「おう、久しぶりにそうすっか」

 先手を打って同意する。瑛二はほんの一瞬迷った表情を浮かべたが、すぐに頭を縦に振った。

「うん、支度して向かうね」

「ほんならワイも着替え取ってくるわ。シオンにも声かけとくし」

「ん、頼んだ」

 

 

 

 

 脱衣所で服を脱いで洗い場に行くまで誰も姿を現さず、シャンプーを流している間、やっと隣にシオンが腰掛けた。シャワー室でも出くわしたことがないから、風呂に入っているシオンを初めて見たかもしれない。なんとなく無機質で人間離れしていて、汚れなんて払えばすぐに落ちそうなイメージを抱いていたから、古き良き日本の銭湯然としたここの大浴場が似合わない。真っ白な肌をソープをつけた手のひらで撫で回す姿は、平らな胸と下半身に植わり込んだ男の象徴がなければ女の子と錯覚するほどきれいだ。思わず見入ってしまうのは物珍しさからくる自然なもので仕方がない。からからと引き戸が開き、後ろを歩く瑛二と薄曇りの鏡の中で目が合った気がした。
 湯船に体を沈め、琥珀色の天井を見上げる。しばらくそうしてぼんやり眺めていると小さな波が寄せて、瑛二が隣に並んだ。

「センター、さまになってきたな」

 いつヴァンかシオンが会話に混ざってもいいような、無難な話題を選んで声をかける。ありがとうと瑛二ははにかんだ。

「大和も、歌い出しのところすっごくかっこいいね」

「おー、サンキュ」

「あの、大和、俺ね……」

「お~い、ワイらも入れてぇな!」

 ざぶざぶっと、派手な飛沫と共にヴァンとシオンがやって来る。顔に湯がかかり、ヴァンめがけて反撃すると、瑛二がくすくす笑った。両手を使った水鉄砲でシオンも大和に加勢すると、「なんやねん!」とヴァンがおどけてよろけて見せる。

「シオン、水鉄砲なんてよく知ってるね」

「瑛一に……教わった」

「へぇ。そうなんだ」

 瑛一の名前が飛び出してどきりとしたのは大和だけのようで、瑛二はシオンのレクチャー通りに手のひらを重ねて間に空気を入れる。ぴゅっと吹き出る湯の勢いを面白がって、浴槽から露出した大和の胸元に命中させようとした。それすら愛おしくなるから勘弁してほしい。

「こうしてみんなで風呂入るの久しぶりやから嬉しいなぁ。えーいっちゃん達も呼べば良かったわ」

「だな」

 七人で浸かっても十分余裕のある浴槽を見渡す。二人はすでに水鉄砲に飽きたようだ。

「なんか不思議やなぁ」

 耳に心地の良い関西弁が、ゆるやかに訪れた沈黙を破る。

「アイドルになってから、なんかめっちゃ時間流れんのが早い気がすんねん」

「歳くったからじゃねぇの」

「ちゃうわ!」

「でもそれ俺もわかるな」

 瑛二が頷く。

「すごく遠くに来た気がする」

「ほんまに遠いとこにも行ったしなぁ」

「もう全員で海外とか、行くことあんまねぇだろうな」

 七人でロンドンに身を寄せていたのは大して昔ではないのに、あれからもう何年も経ってしまった気がする。デビューして取り巻く環境が変わったから? それとも、体に馴染んでいたはずのあちらの生活習慣が一瞬で抜けてしまったからだろうか。
 年齢を重ねると時の流れを早く感じる。それが身に積まされる感じがする。兄相手を中心とした勝負事にばかり明け暮れていた十代の頃は一年が、一月が一日がとても長くて持て余していた。実家の裏手の山を一人で登っている時だけが無心になれて、時間が流れるのを少しだけ早く感じられて、好きだった。
 でも確かに今は思う。恐ろしい速さで日々が過ぎ去っている。風呂からあがって、部屋で眠って目が覚めて、二十四時間後には決戦ライブが終わり勝者が決定している。その瞬間のために、ずいぶん長い時間をかけてきたとも思う。
 茹だったたこみたいに顔を赤くしたシオンがざぱっと湯船から出て行き、その後をヴァンが追った。珍しく感傷に浸ったりしてしまったから反応が遅れた。後に続こうとした瑛二に、「もうちょいあったまっといで」とヴァンがウインクを投げる。瑛二の顔も少し赤かった。

「やっぱあがるか?」

「ううん」

 瑛二は首を横に振る。肩と肩の間にひとり分くらいの距離を取って並んだまま顔を覗くと、耳のあたりまで赤みが差していた。そうだ、と思い「なぁ」と呼びかけると瑛二は首をこちらへ傾ける。

「今日、リーダーなんか言いかけて、やめたよな。最後」

「……うん、そうだね」

「おまえあーいうのわかんのか? 兄貴がなに言いたかったのかとか」

 問いかけると、多分ねとやや投げやりな返答。瑛二にとっても訊かれたくないことだったのかもしれない。この話はさっさと切り上げてしまおうと次の話題を探していると、瑛二が呟いた。

「父さん」

「あ?」

「父さんの目を覚まさせたいって、言いたかったんだと思う」

「あのオッサンの? んなの、みんな思ってんだろ」

 少なからず、大和も。

「そうかな」

「そうに決まってんだろ」

「なら良かった」

 ちり、と胸の奥に、何か熱い嫌な感じのものが広がった。
 瑛二と自分との間に、見えない線がさっと引かれてしまったような。それはいやだと思った瞬間、「やめろよ」と口走っていた。

「大和――?」

「その、おまえら兄弟と、おれじゃちがうみてぇなの。おれは瑛二のこと、わかりてぇって思ってんのに」

「ごめん」

「怒ってねぇよ」

「兄さんのことは?」

 とろっと零れそうな紫の瞳に見上げられる。
 瑛一のことは弟のおまえが一番わかるだろ――とでも言えばいいのだろうか。でもそうは思わない。兄が弟を、弟を兄が分かってやれるなんて、やっぱりそう思い込んでいる側のエゴに過ぎないと大和は思うから。

「リーダーのことも、同じように思ってる。ここまで一緒にやってきた――仲間だろ」

 仲間という単語を口にしたとき、なんだかとても照れ臭い気持ちになった。その気恥ずかしさが瑛二にも伝播したのか、俯いて、それから顔を上げて「ありがとう」と微笑む。

「大和、あのね……俺、明日のステージが終わったら、話したいことがあるんだ」

「ん……? 今言えばいいじゃねぇか」

「え、それは……ちょっと」

「ちょっとなんだよ」

「暑くなってきちゃった」

 逃げるように瑛二は出て行ってしまう。手すりに引っ掛けていたタオルを腰に巻いて、濡れたタイルの上を歩く音が耳に残った。出会った頃から変わらず華奢だけれど、凹凸が少なくて浮き出した骨に触れたいと思った。でも手は伸ばせない。
 明日、話したいことが……。口の中で言葉の意味を噛み砕くみたいに繰り返す。困ってしまう。瑛二が好きなのは瑛一なのに、みっともない期待を抱いてしまいそうで。だからさっさとここで今言ってほしかった。
 肥料買いに行くの付き合ってとか――いやそれはさすがに改まって言わなくていい。もう一回瑛一に告白する? ありうる。わざわざそれをおれに報告するなと思うけど。そういえばさっき、瑛一のことも同じように思っていると伝えた時、瑛二は少し面白くないような、拗ねたみたいな顔で俯いた。大好きな『兄さん』を、赤の他人である大和が理解したいなんて厚かましいと思ったのだろうか。もしかして瑛一と付き合うことになったとか――? ないとは言い切れない。

「あーくそ……」

 わからない。だから考えても無駄だ。明日が来ないと何もわからない。
 風呂から出ると脱衣所にはもう瑛二の姿はなかった。部屋に戻ってベッドに腰を下ろし、そのまま倒れ込む。と、世界が九十度傾く。
 目を閉じる。なかなか寝付けなかった。こんな夜だけが、ただ無意味に永い。

 

 

 

 

 

 ライブ当日というのは、想像以上に慌ただしい。一部のスタッフにしかHE★VENSの出演は知らされておらず、辞退したことになっている以上、移動にも気を遣わなければならずいっそう疲れた。
 メインステージの対角線上に位置するリフトから登場する手筈になっていた。数週間活動休止を強いられていて、今日のステージも十中八九出演しないだろうと言われているHE★VENSのエンジェルたちは、果たして今日このステージを観に集まってくれているのだろうか。
 スタンバイの号令がかけられ、瑛一から順にリフトに乗り込む。大和、と名前を呼ばれて振り返ると瑛二が両手を伸ばしてきた。

「ネクタイ、ちゃんと結べてないよ」

「……おう」

 手触りの良い青い布に瑛二が触れるとさらに上質なもののように見えた。腰を折ってありがたく結び直してもらっていると瑛一にじっと見られているのがわかって少しうろたえてしまう。瑛二の手つきは慣れたものだった。

「できた。俺たちも行こう」

「おう。ありがとな」

 リフトはすでに三十センチ程上昇していた。不要なのは分かっていたけれど瑛二に手を伸ばす。ためらいなくその手を取って、七人全員が位置についた。
 モニターに会場の様子が映し出されている。ちょうどST☆RISHの入場が始まったところだった。続いて雷の演出と共にQUARTET NIGHTが。
 大歓声の波が引いた後、司会がHE★VENSの辞退を伝える。落胆に満ちた会場の声が、モニタを通して、そしてうっすらと会場からも聴こえてきた。

「行くぞ」

 瑛一が全員を鼓舞し、六人は思い思いに応える。ぐんぐんとリフトが上り出し、待ちきれないとばかりに瑛一が高らかな笑い声を挙げた。その気持ちが今の大和にはわかる。ファンを悲しませてしまったことや進行に水を差すかたちになったのは申し訳ないが、それでもこの瞬間、最高に気持ちが良い。
 七色のペンライトに包まれた客席。自分たちを迎えてくれる天使達の歓声。メインステージにもそれを見守るST☆RISHとQUARTET NIGHTの姿があった。

「イイ!」

 瑛一が叫ぶ。会場が揺れる。熱い勝負とその先にある確かな勝利が、見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼いころから勝つことに人一倍執着していた。反面、誰もが勝利に対して貪欲でないことは知っているつもりだった。
 些細なことでもそうだ。例えば幼い頃の夕食時に起きる、おかずを取り巻く争い。実家は大皿に作った料理を盛り付け、各々がほしい分だけ取って食べるシステムだったから、ここでも負けず嫌いが滞りなく発動された。兄が唐揚げを五つ食べようものなら、自分も同じか、それ以上取ってみせる。三男は面倒ごとが嫌いで二人が同数になるように譲ってくれたし、末っ子とは胃の許容量が違ったので相手にならなかった。何をするにも負けたくなかった。けれど、大和が負けないよう手を抜かれるのも嫌いだ。兄はそれを知っていたから、ぼこぼこにやられた。五つも年齢が違うんだからと父になだめられては、うるせーよと歯向かっていた。
 勝利に固執しない人間がいることは、弟の冬馬がありありと思い知らせてくれた。同じ血を引きながら、争い事には全く興味がない。運動会の徒競走で一位を取れなくったって平気な顔をして女の子の後ろに並んだりしていた。運動ができるのはその年頃の男子としては譲れないステータスだったはずなのに。
 末っ子の誠人も勝負事には無縁のタイプで、特に長男とは十歳も離れているものだから、喧嘩しているところなんて見たことがない。けれど二人とも、面と向かって龍也や大和を非難するようなことはなかった。
 好戦的で勝利にこだわる性格は成人してもあまり矯正されず、気付けば年下が多くなった環境下でも、そういう面では自分が一番ガキっぽいと自覚していた。

 だから、だろうか。

 全てを出しきって戦って、それでも勝てなかった時、自分以上に感情を露わにする小さな背中に驚いた。

 頑張った。最高のステージだった、と思う。それなのにどうして勝てなかったんだとナギは泣いた。愛おしくて、尊くてきれいな涙だったと思う。
 寮に帰って手短に反省会を行った後、なんとなく、年少の三人を年長メンバーが部屋に送ってやる運びになった。ナギはもうすっかり笑っていて、反省会では微妙にフォーメーションがずれてしまったことなどを冷静に指摘していてまた驚いた。
 階段を下りると、逆方向に歩いてきた瑛一と踊り場でかち合った。ナギは、と開口一番訊いてくる。瑛一は瑛二を部屋に送って行ったはずだ。

「心配ねぇよ。すげぇ元気になってる」

「そうか」

「いっしょに寝てやろうか? っつったら、実家に電話かけるから出てけだってよ」

「大和がいては話しにくいだろう?」

「そりゃそうだけどよ」

 遠く離れた両親に電話をかけて、また泣いてしまうのかもしれない。でも子どもが親と話しながらこぼす涙の理由はきっと一番が安心から来るものだから、とやかく言うつもりはなかった。

「瑛二は?」

 階段を上って、瑛一も部屋に帰ろうとしているということは何事もなかったんだろう。反省会でも、これからもっと頑張らないと、と前向きだった。何より実の父親の心を少しでも動かせたことが、二人にとっては嬉しかったんだろうと思う。
 瑛一は大和を見つめ、深く頷いた。

「好きな人ができたと言っていた」

「は?」

 眼鏡の奥の瞳が、心から喜ばしいことだというように輝く。

「リーダーのことだろ?」

「俺と、もう一人……と。よく相談に乗ってもらっていたと聞いた。やはり、大和だったんだな」

「なんだよ……それ……」

 やばい、思わず頬がゆるんでしまう。
 好き? 瑛二が? おれを? うそだろ? リーダーに騙されてるのか? なんのつもりで? なんの得がある? じゃあ本当に、瑛二は――。

「……つーかそれおれに言ってよかったのか?」

「それもそうだな」

 顎に手を添えて、しまったと笑う。今気付いたのか。

「瑛二は?」

「庭だ」

「いってくる」

「大和」

 走り出そうとしたら腕を掴まれる。廊下は走るな? いや、ここにそんなルールはない。足を止めると瑛一は居住まいを正して向かい合い、軽く頭を下げた。

「弟を頼む」

「……改まんなよ」

「そうだな。行ってやってくれ」

 言われなくても、そうする。
 瑛二の庭までは普通に歩いたって二分とかからないのに、今すぐ会いたかった。逆に近すぎて何かを考える余裕もない。
 瑛二が好きなのは『おれだけ』じゃなくて『二人』でもどうでもいいし、本人より先に瑛一に言われてしまったのだって気にしない。好きだと思ってくれることが嬉しい。それをちゃんと兄に打ち明けていることが、もっと嬉しい。胸を張って正々堂々、大和も瑛二を好きだと思っているから。
 事務所から洩れる灯りと月のおかげで、夜の庭はそれなりに明るい。ぼんやり浮かび上がる男の影は、何も咲いていない花壇の隅で小さくしゃがみ込んでいた。ちゃんとコートを着ていて、マフラーも巻いている。部屋着だけで来てしまった大和の方がずっと寒々として見えるだろう。

「瑛二!」

 駆け寄ると、瑛二は笑いながら「スリッパのまま」と指を差した。完全に忘れていた。
 顔を合わせると昨日何か話があると言っていたのを思い出す。それが、つまり、そういうことだよな。察しの悪い大和でもさすがにわかる。好きだ好きだ好きだもうどうしようもない。

「大和、俺……」

 立ち上がった瑛二にダイブするように抱きしめた。

「大和?」

「つめてー……」

「大和はあったかい。薄着なのに」

「走ってきたからな」

「どうして?」

「瑛二に会いたかった。すげー会いたかった」

 少し体を離すと瑛二が「俺も」と笑う。ステージ上でもあまり見せない、子どものような可愛らしい笑顔で。
 愛おしさが募り、気持ちは風船が破裂する寸前みたく膨れ上がっていた。髪を撫でると大和の上半身をホールドしていた両腕が解け、ゆるく首の後ろに回される。
 二人の間に存在していた距離がなくなっていく。それがどんな速さで、どんな風に、どんな強さで、どんな想いでゼロになったか、わからなかった。

「……ん、」

 唇と唇が、ただ触れ合う。
 離れて、思わず目を見開くと紫の瞳がこちらを見ていた。恥じらいが瞳の色から伝わることがあるのか。二回目も三回目も、瑛二からだった。短い間隔で、きゅっと閉じたふたつがただくっ付くだけ。
 膝も腰も瑛二に合わせて折っていたから、傍から見ると不格好だろう。でも誰も見ていない。だからどうでもいい。
 四回目で、瑛二の舌の先端が下唇に触れる。熱い。すごく熱い。音をたてて溶けてしまいそう。
 目を開ける。瑛二もまだじっとこちらを見つめていて、離せなくなった。下唇に触れた舌を逃さないように同じものでつつき、次を促す。触れ合った唇の隙間から瑛二の熱が潜り込んできて、大和はそれを喜んで迎えてやる。咥内で絡ませ合うと気持ちがいい。感じ入っているとろけきった表情が可愛くて視姦のごとく眺めた。

「ん……んっ」

 ざらっとしたこの舌触りが、本当は好きじゃない。でも瑛二のものなら全部味わわせてほしい。可愛いところと好きなところしかない体だ。
 息継ぎの隙を与えて、またすぐに捕らえる。下唇から上になぞり上げると、瑛二も真似をする。自分の唇は乾燥してちくちく皮が剥けているのに、瑛二のそれはつるりとなだらかだった。
 押し付けて舌をくぐらせるとマフラーの下の首が少しのけぞった。ん、と吐息みたいな声を漏らしながら目をつむる。感じている、大和とのキスで。愛おしくて思わず唇を離し抱きしめた。ぽつりと瑛二が、「よかった」と呟いた。重い荷物をぜんぶ下ろしきったみたいに、肩で大きく息をする。紫の瞳は上から下へと、糸で操られているのかと思うほどまっすぐに大和の顔を見上げた。

「――大和が好き、大好き……」


[newpage]

 

――言っちゃった。

 

 

 濡れた上と下の唇を触れ合わさず、大和はぽかんと呆けた顔をしている。こんな、大人のキスまでしておいて今さら驚くんだ、と可笑しくなった。とっくに気持ちはバレているかと思ってたのに。
 びゅうっと冷たい風が吹き抜けて、薄着の大和が肩を震わせた。十二月の夜に外に出る格好じゃない。マフラーを外して巻いてあげる。大和が寒いのも風邪をひくのも嫌だから。

「瑛二、わりぃ」

「え?」

「おまえの気持ち、知ってた」

「やっぱりそうだよね」

「さっき、リーダーから聞いちまった」

「兄さんに?」

 思わぬところで思わぬ人の名前が飛び出してきて、もう……とひとりごちた。

「兄さんってば……」

 先に言っちゃうなんて。でも瑛二と大和を思ってのことだろうから、兄さんらしいな、とも思う。ずる賢さも上手な駆け引きも知っているのに弟の瑛二には決してそれを悟らせない、素直なひとだから。呼吸をするように自然なその気遣いに守られてきた。そんなあたたかなものの中心にいられることが嬉しかった。だから兄のことが、大好きだ。『好きだった』じゃない。

「大和、でも俺、兄さんのことも好きなんだ」

「知ってる」

「あのね、でも俺兄さんとはキス、しない」

「……おう」

 寒そうに、巻き付けたマフラーに大和が鼻までうずめる。首筋に顔を寄せて自分の匂いを嗅がれているみたいでドキッとした。もう一回、俺も――。

「大和とキスしたい」

「……リーダーとしねぇのは、あいつがしてくれねぇ、の間違いだろ。おまえ、あいつがいいっつったらあいつんとこいくんだろ」

「行かない。行かないよ」

「なんでだよ」

「だって、大和のキス、好きだもん」

「あいつとしたことねぇのに?」

「そうだよ。でも大和とは何回もした」

「瑛二」

 両肩を掴まれた。と思った瞬間にはもうくちづけられていた。一回確かめるように触れて、それだけ。今すぐもう一度できる距離で睨むように見つめられる。

「何回も、じゃねぇよ」

「へ?」

「これから、その数百倍すんのに」

 抱き寄せられ、足がもつれた。
 あぁもうなんだっていい。触れてもらえるなら自分が花になったっていい。気まぐれで手放してほしくなくて両腕を背中にまわした。もっとたくさん手がほしい。背中じゅうに抱きつくための手と、頬を撫でる手と、髪に触れる手とぐちゃぐちゃのマフラーを巻き直す手と、それから――。

「あー……もう、やべぇ」

 密着したまま額にくちづけられる。瑛二からもしたいのに高低差がありすぎて届かない。

「奇跡かよ……」

「なんで?」

「瑛二がおれを好きとか、ありえねぇだろ」

「好きだよ」

「あーくそ、すげーかわいい」

 まぶたに、鼻先に、耳に、唇で触れられたところから、スタンプを押されるみたいに色がついていくような気がした。ぼんやりした紅色に。寒いのに、色がついたところが熱い。火がついたばかりの花火のように性急に求められ、何もかも差し出すつもりで応える。大和が欲しいと言うならぜんぶあげたい。

「二番目でいい」

 今はまだ、と付け加えて皮膚の上から喉仏を舐めるようにキスする。甘ったるい刺激に背がしなって、返事できなかった。

「でもぜんぶ、おれにくれ」

 と大和は言った。

「リーダーのこと好きなおまえも、ぜんぶほしい」

「うん、あげる」

 即答した。

「ぜんぶ、大和にあげる。他の人のものになりたくない」

 本当だよ、と付け加えると一気に嘘っぽい感じになってしまう。もう弁解の言葉も選べなくて困惑していると、唇が重なった。今この瞬間、もう大和のことしか見えない。
 大和を好きだと思う気持ちだけで瑛二はできているわけじゃない。きっと大和だってそうだ。だからこそ、全ての気持ちを分け合いたい。預けたい。大切にしたい。
 二階の角部屋に、灯りがついた。
 胸はもう痛まない。家族愛とは違う兄に向かった感情は、ゆっくりと、いつか穏やかに均されて一つになるだろうか。そうだといい、と思った。隣に大和がいてくれたら、愛は生きて、強くなれる。

 

 

 

 

 

 キスしている夢ばかり見る。もうずっと。大和と。

 初めてのディープキスも夢の中で、大和に捧げた。部屋で押し倒された(わざとじゃないのはわかってる)日の夜だった。やっぱりあの時、大和にキスされてしまいたかった。
 一回り以上大きな体に組み敷かれ、ほんの一瞬、このまま大和のものにしてほしいと思った。自分から願い乞うことはできなくて、大和がそうするならしてほしい、と。受け身でしかなかった自分が、今はとても恥ずかしい。
 夢に見た自分は笑っていた。大和の隣に寝転がって、すごい寝相で幸せそうに眠る男にくちづける。そうしたら大和はすぐに目を覚まして、瑛二を抱きしめてキスの雨を降らせる。そのまま溶けて大和の心に染み出してみたかった。

 いつから、俺は大和を――。

 はっきりとはわからない。自分が気付くより前から、大和のことが好きだったと思う。でも兄さんにふられてすぐ、コースを切り替えるみたいに大和を選ぶことはできなかったし、そうしてももっと早く同じ幸せを得られていたわけじゃない気がする。
 本当は、センターを務めた選考ライブに勝って、想いを打ち明けるつもりだった。少し前にこの想いに勘付いたヴァンに「生きて帰って結婚するっちゅうやつ? フラグやん」と苦笑された理由がわかった。かといって、負けたのが自分の、HE★VENSのせいだとは思わなかった。反省すべき点は確かにあった。けれど納得できるパフォーマンスをした自分たちよりもST☆RISHが上をいっていた。だから彼らが勝った。そういうことだ。
 それに、勝利が全てじゃないことに、父親も、大和も気付くことができた。それが瑛二にとっては嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 今日も夢で大和の唇に犯される。
 かわいい、と囁いて唇に触れる。自分とは縁遠い言葉だと思っていたので、大和に言われる度いちいち胸が甘く焦がれてしまう。せめて夢の中では言われ慣れたいのに。

――愛してる。

 夢の中の大和は、普段の大和からは想像できない甘ったるい言葉をぽんぽん使う。瑛二の潜在的願望ではない――とは言い切れない。夢の中の瑛二はそれをすんなり受け入れてときめいて、目が覚めてから、大和はあんなこと言わないのにと自分で自分に突っ込んでみたりして。
 愛してる、ともう一度言った。夢の中なので瑛二は俺もとにこにこ笑うだけ。ご都合主義の世界だから、いつの間にか寝間着が脱げている。上半身は裸の大和に組み敷かれ――胸元を硬い手が這った。

『ぁん、ん――……』

 声をもらす唇はすぐに塞がれる。乳首を構ってもらうとめちゃくちゃに感じてしまう。初めてじゃないみたいに、そういう類の女優みたいに(見たことないのに)上手に感じて、瑛二は喘いだ。
 ざらりと湿った舌で先端をちろちろ舐められ、時々歯で甘噛みされる。気持ち良くて体が震える。もう限界だ――と思った瞬間、目が覚めた。
 鈍い音がして、カーペットに頭を打ち付ける。頭を下にして、上半身がベッドから落ちてしまっていた。低いベッドでよかった。

(……あ、)

 下腹部の熱い感覚は夢まぼろしじゃなく本物だった。まずい、夢精してしまうところだった。
 よろよろとベッドに座り直し、片手で性器を甘やかしながら空いた方の手で大和に触られていたところに触れてみる。薄っぺらい胸板。夢ではもっと、乳首がつんと立っていた気がする。自分で触っているからか、こんなところじゃ微塵も感じない。けれどとりあえず出しておかないとまずそうで、筒を作った手の動きを速めた。自慰という行為が瑛二はあまり好きじゃない。時々衝動に勝てず、自分の体のためにする、といった感じで。何の感動もなく果てて、冷静に処理をした。夢ってやっぱり色々美化されてるなぁ、と、ティッシュを丸めながら思った。

 

 

 

 着替えを済ませてキッチンに向かうと、今日の食事当番は瑛一と綺羅だった。二人とも昼過ぎから仕事らしく揃って台所に立っている。おはよーさん、とヴァンが寝間着のまま下りてきて、ナギの隣に腰を下ろした。

「ナギちゃん今日お仕事は?」

「書いてあるじゃん。十時からインタビュー。シオンと瑛二と」

 ほら、と壁に立てかけたホワイトボードを指し示す。各々の名前の横に、予定を記入したりマグネットを貼るスペースがある。例えば黄色のマグネットは早出、緑は泊まり、という風に。食事当番の名前の横には魚と肉のかたちをしたマグネットが貼られることになっているが、仕事があれば手の空いた誰かが代わりをしたり、全員外食になったりもする。

「つれないなぁ。ナギちゃんとお話したかっただけやのに」

「もっと面白い話ないの?」

「今遠回しにおもんないって言った? あ、そういえばシオン起きてきてへんけど間に合うん?」

「も~、しょうがないなぁシオンってば」

 ナギはすでに身支度を完了させていて、瑛二も八割くらいは終わっていた。部屋を出ようとするナギに続く。ナギがミイラ取りがミイラになる現象を起こすことはないが(大和とヴァンは時々やらかす)、朝に弱いシオンは時々手ごわい。

「じゃあシオン起こしてくるから、そっちよろしく」

「へ?」

 瑛二もシオンを起こすつもりで来たのに、ナギはさっさと一人で部屋に入ってしまった。残された瑛二が任されたのは、間違いなくもう一人の問題児だ。毎朝早起きしてトレーニングに励んでいるはずの大和は、こうして月に一度くらい起きてこなくなる日がある。大体は付き合いの飲み会が前の晩にあったのが原因だ。

「大和? 入るよ?」

 ドアを開ける。
 物が少ない部屋の奥にどんと鎮座した広いベッドの上に、シーツを抱きしめるようにして眠る大和の姿があった。よく見ると上半身は裸で、下もボクサーパンツだけという豪快すぎる格好だった。朝から刺激が強すぎる。

「やまとー……?」

 静かすぎて、思わず口元に手をかざす。と、ちゃんと規則正しい呼吸をしていた。
 ベッドの横に膝をつき、肩をゆする。びくともしない。アルコールの香りがして、昨日は遅かったんだろうと思う。肩を揺さぶり続けると、むにゃむにゃ言いながら寝返りを打って仰向けになった。すごい身体、と月並みな感想を抱く。バキバキというほどではなく、アイドルらしく、きれいに薄く割れた腹筋。鍛えてるひとの胸筋って、なんだかおいしそう――なに考えてるんだか。
 そのふっくら柔らかくおいしそうなところの真ん中に、瑛二の体にあるのと同じ粒がついている。男を――というか、これまで兄しか好きになったことがないので、男の体に欲情する性癖なのかわからなかった。少なくとも兄の見てくれや体だけで好きになったわけではない。けれど今確かに瑛二は、そこに触りたいと思っている。

(触ったら……さすがに、起きるよね……?)

 触りたい。でも目を覚ましてドン引きされたら生きていけない。体を揺さぶるふりをして親指でちょっとひっかいてみる? だめだ、そういう考え方をしてしまっている時点で、自分を許せなくなってしまいそうで。

「大和、朝ご飯できるよ。起きて!」

 おしまいにしよう。変な夢を見てしまったせいだ。
 声を張り上げると、案外簡単に大和は「んー……」と寝惚けながら鼻にかかった声を出す。オレンジ色の瞳がうすく開き、瑛二を捉えるとぐっと腕を引かれ抱きすくめられる。

「大和!」

「んー……?」

 そのままベッドに引きずられ、手足でがっしりホールドされる。セーターに大和の胸元が擦れている。くすぐったくないのかな、と見下ろすけれどよくわからない。

「……よばいか?」

 よばい? あぁ夜這いか。目をぱちくりさせるのを大和が面白そうに見ている。

「違う! もう朝だよ!」

「朝這いとはいわねぇだろ」

「起こしに来たんだって」

「おまえが?」

 さらにぎゅっと腕の力が強くなる。こもっていた声がだんだんクリアになってきた。分厚い素肌から心音まで伝わってきそうで冷静でいられない。この後、仕事なのに。

「はー……起きねぇとな……」

 瑛二を抱えたまま起き上がる。思い思いに跳ねた髪をかきむしりながら大あくび。まだ酒くせぇ、とひとりごち、広げた両脚の間にすっぽりおさまった瑛二の顔を覗き込んだ。

「おまえ、熱あるか?」

 前髪の上から額を軽くぶつけられる。体をさらに引き寄せられてぴったり密着した。目の前にそびえる勇ましい筋肉に触れたい衝動に駆られる。熱がないだろうことを確認して、軽く唇と唇を合わせた。
 触っていいかと訊いたら、大和はだめだとは言わないだろう。むしろ、触るだけで終わればいいけど。仕事があるし、残ったアルコールのせいで大和も辛そうで唇といっしょに体も離す。

「瑛二ー! 大和起きた?」

 もしかしたら我慢できないのは瑛二の方かもしれない。そそくさとベッドから下りると、ナギの容赦ない声に呼ばれた。

「先行くね。服着てから下りてきて」

 抱きしめられていたからか暖房のせいか、熱っぽいのは大和のそばが温かかったからだ。ひやりと冷たい廊下に出るとセーター一枚では寒いくらいだった。シオンに寄りかかられながら助けを求めるナギの代わりに肩を貸し、キッチンに向かう。

「大和は?」

 階段は自分の足で歩かせる。ナギが手を引きながら、瑛二を振り返った。

「服着てなかったから」

「えー、最低」

 おどけた口調で茶化す。

「全裸じゃないよ?」

「わかってるよ~。まぁ男ばっかだし、いいんだろうけど」

「俺は無理だなぁ」

 貧相だし。着ない側として発言したのに、ナギはそれを見る立場だと受け取ってまた冗談めかす。

「ね~、見たくないもの見せられても」

 笑って流すことにした。シオンは生まれたばかりの赤子のように拙いながらナギの手を頼りに着席する。それを確かめてから、ナギはその隣、瑛二は向かいに座った。
 普段は洋食派の兄が、綺羅と当番になると古風な日本食を作る。六人で手を合わせ、まず鮭の切り身に箸を入れた。
 見るからに薄手のパーカーと、下にしっかり黒いパンツを身に着けて大和がのろのろやってくる。空いた席に座り、半周遅れくらいで手を付け始めた。
 食べ終わるとナギがシオンの背中を押して着替え、歯磨き、髪のセット、と甲斐甲斐しく世話を焼く。ヴァンも歯磨き粉を歯ブラシにつけて渡したり、大和がワックスを雑にもみこんだり。一人でもできることだが時間の短縮になるし、何よりこういう連係プレイを全員楽しんでいた。寮を出る直前、兄に呼ばれて駆け寄ると帰寮は何時かと問われる。

「夕飯までには帰れるよ」

「そうか」

「何かあるの?」

「見せたいものがあってな」

「え、なになに?」

「楽しみにしておいてくれ」

 いいものだから、と目を伏せる。食器洗浄機に皿を並べながら瑛一がひらひらと手を振った。

「うん。じゃあいってきます」

 兄に背を向け、テーブルの周りで談笑していた三人にも挨拶をして部屋を出る。まだ眠いのか二日酔いか、大和は黙って視線だけで瑛二を追いかけてきた。扉が完全に閉まるまで。体調悪いのかな。気になったけれど、エントランスで待つナギとシオンに追い付かないと、と思い小走りで向かった。

 

 

 

 

 兄が見せてくれるものは興味深いものばかりで瑛二を満たしてくれる。インタビューを受けている間も、なんだろうと考えるだけで胸が躍った。幼い頃に見せてもらった海外の画集や古いレコードを思い出しながら仕事を終わらせ寮に戻ると、瑛一は共有スペースのソファで台本を読んでいた。

「兄さん、ただいま」

「瑛二。早かったな」

「兄さんこそ」

 台本を閉じテーブルに伏せる。上着を脱いで隣に腰掛けると、瑛一は足元の紙袋から一冊、古ぼけた本を取り出した。
 本とはいってもA4くらいのサイズで、どちらかというと――

「アルバム?」

「あぁ。実家から預かった」

 赤いハードカバーの表紙をめくる。兄弟の成長記録でもつけていたのかと思ったが、一ページ目からかなり若い男の写真が出てきた。革張りのソファに座った彼を、かなり上から抜いている。ずれたサングラスから覗く目元が兄によく似ていた。

「……父さん?」

「そうだ」

「すごい、兄さんそっくり」

 次のページに移動すると、父がこちらを睨み付けている。廃墟のような場所のシャッターの前で真っ黒な服を着て。こういうのが流行った時代なのかな。微塵も昭和というものを知らない瑛二には未知の世界だ。
 スタンドマイクを振りまわす写真。真っ白な衣装を着て街中でポーズをキメる写真。頭に羽(に瑛二は見えたが違うのかもしれない)をつけた写真。こんなに「アイドル」している父がいたなんて。現在とのギャップに、思わず笑ってしまう。

「父さん……かっこいいなぁ」

「そうか?」

 瑛一は苦笑した。確かに、現代を基準にした純粋なかっこよさとは遠い気もするけれど。

「父さんって本当にアイドルだったんだなぁって思って」

 開き癖のついたページに、父のラストステージの写真があった。
 豪奢なファーをあしらったジャケットに、お得意のスタンドマイクを使ったステージング。マイクに巻いたリボンが揺れ、写真の中の父は舞台の上で生きていたのだとわかる。

「俺の中のアイドルをしてた父さんって、この写真のイメージしかなかったから」

 色褪せた他の写真に比べて、これだけ新しい。
 現役の頃の話を父としたことはないし兄もあまり話したがらなかったから、まるで父は生まれた時から事務所の社長席でふんぞり返って葉巻をふかしているようなイメージで。瑛二が見たのと同じ景色を父も見ていたのが信じられない。
 瑛二、と呼ばれ自然な手つきで肩を抱かれる。家族として当然の行為みたいで、嬉しかった。
 兄の長い指が空白のページをめくっていき、最後の紙にたどりつくと一枚の写真が貼ってあった。
 これまでのどの写真よりも大人びた顔の父、その足元に五歳くらいと思われる兄。隣には母親が笑みを湛えて座っていて、腕に、瑛二を抱いていた。
 自分たちの家族写真がこの世に存在するなんて、知らなかった。

「兄さん、この時からもう、めがねだ」

「瑛二はこの頃からお袋によく似ている」

「え、この写真じゃよくわかんないよ」

 つるりとした光沢紙に指で触れる。父は一世を風靡したはずのアイドルなのに写真が苦手な平凡な父親みたいに頼りない顔をして、兄の方がよっぽどしゃんとしているのが面白い。
 デビューしてから軽くうんざりしてしまうほど撮影の機会があって自分が写った写真は見慣れているはずなのに、その一枚を何分も見ていられる。子ども用のスーツを着こなして澄ましている兄と、ぎこちなく斜に構えている父の対比がやっぱり特にいい。
 瑛二が覚えていない撮影の日の話を瑛一が聴かせてくれて、夢中になった。だから共有スペースのドアが開いたことに、二人とも気付かなかった。
 無言で目の前を突っ切っていく影に顔を上げると、目が合った。すぐにふいとそらされてしまう。大和は瑛二を一瞥して上のフロアへ消えた。
 何も言ってくれないのが大和の心情を表していた。大和も瑛一も好きだと最低な告白をしてしまっている以上、面白くない光景なのは当然だ。

「いいのか?」

 放っておいて、と兄が冷やかすように口を添えた。なんだか、どこにでもいる兄弟みたいでくすぐったい。

「行ってくる」

「ああ」

「兄さん」

「何だ?」

「また家族で写真が撮れたら、俺嬉しいな」

「そうだな」

 家族揃って、と瑛一は穏やかに目を細めた。

 

 

 

 鍵付きの大和の部屋が開いていて、ほっとした。ノックしても返事がないので恐る恐る入ると、ベッドに寝転がって入り口に背を向けていた。ベッドの空いた部分に腰を下ろす。直感で寝てるんじゃないとわかった。拗ねてるのかな――かわいい。その種をまいたのは瑛二なのに、勝手にときめいてしまう。
 さて、どうしよう。
 悪いのは自分だとわかっているので、意識的に考える。
 大和が拗ねている(多分)原因はわかっていて、瑛二はそれを改めることができる。兄は家族として近い距離感で接してくれているけれど、瑛二から向いている感情は同じじゃない。瑛二は家族として以外の意味で、瑛一のことが好きだ。大切な気持ちで、今はすぐに変えられそうにない。
 でも、兄とわざと距離をとったりはできない。半分は瑛二の身勝手で、半分は瑛二も兄のことを家族として大好きだからだ。この願いはわがままだろうか。自分を変化させることが、誰かと恋愛することなんだろうか。勝手なのはわかっていても、自分の心を鎖で縛るみたいで簡単には決められない。

「あぁぁぁぁぁぁぁ!」

 突然大和が頭をがっとかきむしりながら、腹筋を使ってバネみたいに跳び起きた。驚いて瞬きしつつ振り返ると、橙の瞳も瑛二のことをじっと見ていた。

「おれがわるかった」

「それは俺のせりふだよ……」

 いくら考え込んでも、本人を目の前にするとするりと言葉が落ちてしまう。悪かったのは自分の方だと。けれど大和は「いや」と強く断言した。

「おまえ、兄貴とあーいう風にできなくなんの、やだろ」

「……それは、そうだけど」

 誰が好きとかいう前に、やっぱりそれはいやだ。隣に大和が腰掛ける。目がそらせない。この人に好きでいてもらえる自分でいたいと強く思った。

「でも大和がいやなら俺もちゃんと考える」

「いやっつーか、頭ん中、ごちゃごちゃする。わかんだろ」

「うん」

「でもおまえにがまんさせんのはもっといやだ」

 頭の後ろを支えられ、性急にくちづけられる。わ、と衝撃みたいな甘い感動が走る前に舌で求められて、本能的に応えた。ちゃんと俺も歩み寄りたい、と気持ちを込めて。

「……かっこわりぃな」

 自嘲めいて、額をこつりとぶつける。抱き寄せられると鼓動が速いのがわかるのに、それがどっちのものなのか判然としない。

「時々、すげぇ不安になる。おれのことも、好きっておまえは言ってんのに」

 も、の部分を強調され、かっと頬が赤くなる。とても下劣なことを言ってしまったような気がしたから。

「ごめん、大和……俺、」

「あやまんなよ」

「でも俺……最低だよね。大和はまっすぐに好きって言ってくれてるのに、俺だけそんな、どっちつかずっていうか……大和にも兄さんにも失礼だなって思って……」

「今さらかよ」

 困ったように笑うので、さらに自分を責めたくなる。俺が悪い俺が悪いと何度戒めても、この手から離れるなんて考えられないくせに。

「おれがそれでいいっつってんだから、おまえは堂々と兄さんもおれのことも好きって言ってりゃいいんだよ」

 鼻で鼻先をこすられる。もう一回キスがしたい。浅ましい感情が溶けるまで抱きしめてほしい。「ごめん」はやっぱり嘘っぽい気がして、もう言えなかった。

「好きだよ、大和。本当に好き」

「ほんと、っつーと逆にうそっぽいな……さわっていいか?」

「うん」

 どこにとは言われなかったのに、二つ返事で承諾した。だってなんだっていい。大和は俺に何してもいいんだ。
 手のひらが両頬に触れる。大きいなぁ、と感動していると上を向かされ、唇がまぶたにあたった。指先が前髪をかきわけ、額に、鼻に、顎に。変に緊張してしまって体が動かない。大和は声に出して笑った。

「べつに食ったりしねぇよ」

「……緊張、して」

「なんだ、こうしてんのはずかしいか?」

「たぶん……」

 いい意味で。というのは大和にも伝わっていたと思う。耳たぶをそっと舐められ、唇にはさまれる。食べないって言ったのに。
 中に舌をゆっくり差し込まれ、「ひゃっ」と自分でもちょっと考えられないくらいの声が出た。

「ここ、いいのか?」

「よく、ないよ……! そんなとこ……」

「なんでだよ。すげーよさそうじゃねぇか」

「や、ぁ、ちょっと……!」

 むずむず、というか、ふつふつ、というか。くすぐったいのとも少し違う感じ。この感覚がなんなのか瑛二はまだ知らない。体中に甘くて弱い電流を流されたような微かな痺れ。
 耳で遊び飽きたのか、それが何かわからないうちに唇は離れ瑛二のそれに嬉しそうに吸い付いた。キスも全然得意じゃないけれど、同じところで同じことをしている感じがして好きだ。両肩に手を置くと、するりと腰を抱かれる。

「俺、大和とキスする夢いっぱい見るよ」

 いっぱいいっぱいで混乱している胸をかきわけて伝えると、大和は目を丸くする。

「でも、今日はその続きみたいなこと、する夢だったから、今ちょっとびっくりしてる」

「続きって、どんな?」

「ここ」

 胸の筋肉に指先だけで触れた。首を傾げて「ここ?」と繰り返すのが可愛い。意味を汲み取ったのかそうでないのか、曖昧に「ふーん」と唸った後、また軽くキスをする。こうしていると、触れ合っていないのがおかしいような気持ちに抱かれてしまう。

「瑛二は、はじめてだもんな」

 意味ありげに言って、また唇が触れる。

「なにが?」

「セックス、すんの」

 これから俺たち、セックスするんだ。肌がそれを思い知らされたみたいにぴりぴり疼いて、爪の先まで硬くなるような感覚。これから俺たちはセックスする。セックスする。

「……うん」

 耐えきれなくて瑛二からキスした。したい。早くしたい。大和と全部したい。餌に飛びつく仔犬みたいに夢中で唇を何度も食んで、たまらない気持ちで抱き合った。

「……兄さんとは、しない」

「あたりまえだろ」

「ね、触ってみていい?」

 くっついた体に手を這わせて、たくましい胸の筋肉に触れた。夢の中の瑛二は先端に触れられてよがっていた。でも、大和の胸板ではそこにたどりつくことさえ難しい。服の上からだと余計に。
 仕方がないので水晶でなにかを見る占い師みたいな手つきで撫で回す。大和は「マッサージみてぇ」とまんざらでもない様子で、安堵した。

「大和、ここきもちいい?」

「ん、ちょっとくすぐってぇくらいじゃね? 女でもねぇし」

「だよね」

 女の子はここが気持ちいいんだと知らなかったけれど、そこに突っ込むのは野暮な気がして同意した。マッサージと愛撫の間みたいな行為を続けていると、大和が不思議そうな顔をする。

「なんでそんなの気になんだよ」

「夢の中の俺はここが好きみたい。でも、俺もわからなかった」

「自分でさわったのか?」

「だって、気になったから……」

「ふーん……」

 厚い胸板を上に下にさすられながら、大和はじっと瑛二を見つめる。視線がくすぐったくなってそらしてさまよわせる。
 大和の両手が、断りもなくセーターの中に侵入してきた。肌と毛糸の間を阻む肌着に気付き、迷いなく引き出される。両手が揃って腹を撫でて、胸の尖りを見つけた親指がくにくにとそこを刺激する。

「あっ……」

 喉をそらす。夢の中より気持ち良くて、信じられなかった。

「ここ、瑛二は感じんじゃねぇの?」

 親指が小刻みに小さな粒を押したり引っ掛けたりを繰り返す。信じられないのに、気持ちがいい、気がする。体が反応しているというよりは、大和が触ってくれていることに脳の一番賢いところが驚いて、使い物にならないくらいどろどろになっていっているみたいな。

「――ひ、いや……」

「きもちいいんだろ」

「だっ……て、大和の、さわりかた、変なんだもん……」

「おれのせいかよ」

 爪の先でひっかかれて、背中がしなった。性器でもない体の一部に触れられただけなのに。声を塞ぎたくて大和の首筋に顔を押し付ける。指は容赦なくそこをいじめ続け、声の代わりに瞳がじわりと熱くなる。気持ち良すぎて涙が出てきてしまう。いやだ。そんなのすごく、いやらしい気がして。

「力ぬいてろよ」

「え――あ、ぁっ!」

 手が離れていったと思ったら、腰を支えて抱き上げられる。小さな子どもを抱えるみたいに持ち上げられて、思わず頭にしがみつく。無造作にセットした髪が崩れるのに構っている場合じゃなかった。

「大和、なに……」

 瑛二を担いだままどかどか歩いて、入り口に向かう。いやだ、こんな時に外には出られない。ぎゅっと目をつむると鍵をかける音がするだけで、すぐにベッドに戻って大和の膝の上に座らされた。

「だれか来たらやべぇだろ」

 今からセックスするんだから、と言われているみたいで頬が熱くなる。
 早く触ってほしい。何をするのか細部まで具体的に思い描けないけれど、大和としたい。熱の灯った瞳で見上げると、手を取りきゅっと握られた。お手のポーズみたいで変な感じ。

「なぁ、自信ねぇっつったの、うそじゃねぇからな。みとめたくねぇけど、おまえの言ったとおりおれはたまに弱いのかもしんねぇ」

「俺、そんな大和が好きだよ」

「おまえほんと甘いな」

「でも、本当だから……。ごめん……、やっぱり俺、まだ兄さんのことただの家族だって思えてないけど……でも今はキスしたいのも、触ってほしいって思うのも、大和だけだよ」

「……しゃーねぇからまだ二番でいいぜ」

 世界が――大和の部屋の壁と天井が、スローモーションで傾いだ。スプリングのよくきいたベッドに背中を受け止められ、視界が大和でいっぱいになって――その瞬間、思い出した光景がある。

「……瑛二」

 大和もきっと同じだった。
 いつだったか、瑛二の部屋でこうなったことがある。あの日はきっと不慮の事故だった。大和がわざと押し倒したんじゃないことくらいわかっていた。

「大和?」

「わり、思いだしちまった。おまえを泣かせたの」

「……違うよ」

 両手を伸ばして首に絡める。
 今言ったって信じてもらえないかもしれない。
 二人の前にはもうこうやって結ばれる今があるから。

「大和のせいじゃない。あの時、俺、大和にキスしてほしいって思った。大和の好きなようにしてもらって、楽な方に流されたいって……でも、大和にも兄さんにも失礼なことだから……考えたら、涙が出た。あの時からもう好きだったんだよ、大和のことが」

「……二番目に?」

「そんな風に言わないでよ……」

 仕切り直して、近付いた顔が茶化すように笑っていて心底自分が嫌になる。大和はそんな瑛二のことが好きだと言うから、どう考えても変わってる。優しく唇がふさがれた。

「でも、おれとすんだろ?」

「うん……大和と、セックスする……」

「あー……ここまで我慢したおれのこと最高にほめてやりてぇ」

 顔じゅうにキスが落ちてきてくすぐったい。すごいねと瑛二が褒めるのは違う気がして、黙って受け止めた。大和が頭の横に両手をついて作った檻の中で、捕食者の姿をうっとりと見上げる。

「なんでも、全部して」

「やめてくれって泣いてもしらねぇからな」

「泣かないよ」

 自分の浅い恋愛経験を顧みると、そうは言い切れないけれど、泣いて拒絶すれば大和が傷付くのはわかっているから。
 大和の手が再びセーターと肌着の下をそろそろと這う。先端を掠められ、こぼれそうになった声を抑えるため喉の奥をきゅっと締めた。ここが気持ちいいんだと気付かされる。知っているのは夢の中の瑛二だけだった。それが今大和に知られてしまって、反応を楽しむように指の腹で擦られる。

「ぁ、や……っ、あ」

 愛撫を施されながら二枚まとめて脱がされて、肌をさらす。触られたところが火傷したみたいに熱くて、真っ赤に熟れていたらどうしよう。それをまじまじ見つめられるのは恥ずかしい。
 大和もパーカーを脱ぎ捨てて、瑛二の隣にごろりと寝転がった。抱き寄せられてくっつくと、岩みたいに見える胸と腹の筋肉が意外とやわらかい。

「おれも男とやんの初めてだから……きもちわるかったらすぐ言えよ」

 視線が胸に、腹に、そしてその下へと順に注がれて、パンツのボタンを外される。両方の親指がかけられ、ずるりと下ろされるとあぁセックスするんだと思い知らされる。下着の上から形を確かめるように撫でられ、電流が駆け上げるように体が震えた。そこを凝視されるのが恥ずかしくて鼻の頭に唇で触れてキスをねだる。応えてもらいながら性器を甘やかされていると、すぐにとろとろと涙を流し始めた。

「――ぁ、あ、や……、やまと……」

「いけそうか?」

 ふるふると頭を振る。

「直接、さわってほしい……」

 肩にしがみつく。見なくても、先にこぼれたもので下着が濡れそぼっていることがわかった。女の子にないものがグロテスクに脈打って張り詰めて興奮して、大和が引かなければいいけれど――ボクサーパンツを膝まで下ろされ、思わず祈った。
 層の少ない筋肉を撫でて大和の手が性器を握りこむ。それだけで溜まっていたものが出てしまいそうになる。ゆるりと上下に動かしながら、空いた方の手は頭をさすってくれた。

「いやじゃねぇよな?」

「ん……いい、きもちいい……」

 加減を知った自慰より大和の好きにしてもらえる方がずっと。ゆるゆると扱かれ硬直を促される。ひたひたと水音が聴こえてきて何をされているのか見なくとも想像力だけで補えてしまう。
 一瞬手が離れ、全てが空気に触れる。と思ったらガチャガチャとベルトが外される音に続いて硬いものが性器の先端にあたった。目を見開いて大和を見上げると、「おれも出したい」と笑う。

「あっ……、ぁ、あ……」

 風呂場でなんとなく視界に入ってしまうのとは違う。質量も全長も瑛二のものとは迫力の違うそれから、大和の興奮を感じ取ってしまう。ひたりと二つは触れ合って、筒を作った大和の手に上に上にと扱かれる。
 どこからがセックスなんだろう。もうこんなに気持ちがよくて、いやらしい。誰にも見せられない。大和と体を触れ合わせて、性器を束ねて二人で気持ち良くなろうとしている。これがセックスじゃないわけがない。ぬるぬる滑りの良いものが、自分が出したものなのか大和のそれなのかわからなくなる。

「あ、あ――、あ、やっ……! や!」

 がしがし高められ、大きな声が出た。大和の顔が、重ねている場所が気になって、見たいのにそれどころじゃなく肩口に顔をうずめる。何も考えられない。いきたい。出したい。

「えーじ、いくときは、いくって言え」

「やっ、やぁ……」

「セックスってそういうもんだろ……えーじ」

 正しい判断とか、大和が冗談を言っている時の顔とか、もう思い出す余裕もない。気が付けば、夢中で繰り返していた。

「いく、いきたい……やまと、いきたい……!」

「ん、ほら……」

「あ、いく、いく、いく……!」

 めいっぱいこすられ閉じたまぶたの裏に火花が散る。
 いつもならどろっと不快になるはずのものが先端からこぼれて、わけもわからず小さく叫んだ。いった後も高められ続けにちゃにちゃ音がする。
 一人でやるならこれで終わりだ。ただの「処理」なら。でもそうじゃないから、一度の射精じゃ終われない。もっと大和とできる何かがある。
 大和の手の中で可愛がられればまたすぐに性器はみなぎって天を仰いだ。
 向き合っていた体を倒され、背中をシーツにつけた。両脚で大和の体を挟むように開かされる。すっかり興奮して存在感を示している中心を隠すのも女々しい気がして、両手でシーツを掴んだ。
 さっきまで性器を束ねていた左手が器用にそこを探り当てる。どうやって男同士繋がるかを教えるように、指先がその場所をやわらかく抉った。

「ひっ……! なに、」

 思わず腰を引き、逃げた。大和の手は無理に追って来ず、逆の手で太腿を撫でられる。触らないと息ができなくなってしまったみたいに、必死に。

「えーじ」

「ごめん、違う……あの、」

「いれたい。いやか?」

「いやじゃないよ。びっくりしただけ……したことないから」

「おれだってそこにいれたことねぇけど」

「でも……女の子にはあるでしょ?」

「全然ちげぇよ」

 腰の下に枕を挟まれ、角度がつけやすくなる。割り開いた膝下をすくわれて持ち上げられる。後ろまで大和の視線にさらされているのが恥ずかしくて、でもそこが繋がる場所になるんだと思い知らされると最初からそのための器官だったみたいにも思えて不思議だ。
 指が、もう一度そのふちにひっかかった。

「ん、ぁ……や……」

 皮膚を指の腹に擦られて、そこは開かれる。自ら濡れることのない場所だから、瑛二の出したものでぬるぬると湿らされる。一度体から出て行ったはずのものが、大和の手で戻ってくる。もっと強い衝動を連れて。

「ぁ――いた、痛い……」

「わり……まだ、ちょっとしか入ってねぇ……」

「や、ぁ、あ」

 ぴりぴりと体の一部を失うみたいな痛み。数ミリずつ抜き差ししながら深く沈んでくる。いいとか悪いとかそんな感想はまだ抱けなくて、違和感だけが脳を沸騰させる。

「あ、あ、ぁ……ん、ぁ……」

「えーじ、力むな……って……」

「ゃ、あ、あ――」

 異物感で下腹の辺りが破けてしまいそうだ。性器はすでに萎え始めて、シーツを握る手の力ばかり強くなる。
 大和がしたいなら応えたい。セックスってもしかして、こちら側はそんなにいいものじゃないのかもしれない。でも大和に気持ち良くなってほしい。もう瑛二は一度してもらったし――だから。

「これじゃむりか」

 ずるりと指が引き抜かれる。その瞬間、全てが体から放出されるような脱力感があった。
 大和は枕元の引き出しを開けると小さな容器を取りだす。めちゃくちゃに外装を剥いて再び瑛二の足を持ち上げた。その光景を見ようと頭を上げると大きく開いた脚の間で大和がこちらを見ていて顔が赤くなる。
 両脚の間に垂らされたそれは生温くて肌がぞわりと粟立つ。

「えーじ、もっかい……」

「ん……」

 ぬるぬるとそこへの侵入を促す。やはり気持ち良くはないけれど、痛みが軽減された、気がする。
 大丈夫。大和のしたいようにしてほしい。なるべく力を抜いて天井を見上げていると、人じゃない何かになったみたいだ。

「痛いか……?」

 体の奥を弄られながらもう片方で腰を撫でられ、薄目を開けた。心配そうな顔をしている。そんな風に見られたくなくて、なんとか笑顔を作る。

「大丈夫」

「ほんとか?」

「うん。大和に早く、きもちよくなってほしいな」

「その前におまえだろ……」

「え」

 ぐるりと指が狭い内側でまわされた。

「ん――ッ!」

 どうしてこんな。まるでいじめられているみたいで涙がにじんだ。こぼさないようにするので必死で、感じているふりなんてできない。内側のあちらこちらを擦られる度、ふちを拡げる指の付け根のせいでじくじくと痛みが広がった。
 ローションを足して、二本目が入ってくる。狭いそこが拡がってくるのがわかる。こわい、けど、これで大和が好きだと伝わるなら。
 たまった涙がこぼれるのと同時に、二本の指が同じ場所をぐり、と抉った。

「や、あああ!」

 熱が高じて、溶けるかと思った。
 どんな痛みも一瞬で忘れてしまうくらいの快感。ここか? と再び刺激されて、腰を浮かせた。大和の手に扱かれ性器がまた膨らんでいく。体はこんなに身勝手で気持ちのいいことに従順だった。瑛二はそれを知らなかった。
 中を擦られながら性器を高められると二度目の射精までは一瞬だった。

「あ、いく、ぁあ、あ――!」

 気持ちいい。気持ちいいけど、足りない。この、もっと奥に触れられたらどれだけいいだろう。すぐに三本目が入ってきたけれど、中指より短い薬指だから、同じようにしかできない。三度目の絶頂に連れて行かれながら、もっと、もっとと願った。

「あ、ぁ、ぁん、ぁ……」

「えーじ、すげーエロい……。ほんとに初めてとか信じらんねぇな……」

「あ、ぁ、そこばっか、いやぁ……」

「でもここがいいんだろ。うそついてただろ、おまえ」

「ごめん、なさ……っぁ、あ、あ――」

「あやまんなって……」

 腿に、ぱたぱたと汗が落ちてくる。三本揃って指が引き抜かれても、そこは大和の形を覚えていて開かれているような感覚だった。餌を求める魚が口を開けているみたいに、そこに与えられたくて仕方がない。重たい前髪をかき上げながら大和がゆっくり倒れてきて、唇を重ねた。
 腹に、硬くなった大和の性器が押し当てられる。早くいれてほしい。内側でこの熱い温度を感じたい。手を伸ばしてゆるゆる扱くと、ぴくぴく反応してすごく可愛いと思った。

「きて……大和」

 唇が離れてすぐねだった。ぺろりとおまけみたいに舐めてもらって、大和は瑛二の足を抱え直す。

「――んっ……」

 その質量に、息が詰まった。
 じわじわと満たされていく。先端のくびれまでを飲み込んで、二人で呼吸を整えた。

「ぁ――、は、っあ、あ……」

「えーじ、やべぇ……」

 ぎらぎら、瞳が瑛二を見下ろす。やばい、と言葉の意味をどう受け取っていいかわからず頷くと、性器は軽く抜け出す動きをしてからまた少し深く進んだ。
 脳が、体が、つながったところが溶ける。意識がもう危うくて、一生懸命目を開いて見つめ合った。

「あ、ぁ、あ」

「なか、きっつ…………」

「んっ、ん……」

「えーじ、もーちょい……。今、きもちよくねーか……?」

「わかんな、でも……すきっ……」

「……おれも」

 キスと一緒にぐっと深くを抉られ、大和の唇を噛んだ。
 ぜんぶ、これでぜんぶ、と何度思ってもまだ先があって、臓器を押し上げられているみたいだ。血の味がして、いてぇと大和が呟いた。

「あ、ぁ、ぁん、あぁぁ……」

「これで……奥まで」

「は、ぁ、ああ!」

 とどめみたく深く刺されて、細い体はシーツの上で跳ねた。嬉しかった。全部、大和とつながった。キスしながら動きを止めてもらっていると内側が大和の熱のかたちに変えられていく気がする。このまま同じになりたい。大和だけを受け入れて、大和だけが好きな瑛二になりたい。せめて体だけでも。
 両手で腰を掴まれ、角度が変わる。まっすぐ、もっと奥まで飲み込んでしまい喘いだ。

「うごくぞ、えーじ」

「え、ぁ、ひぁぁ!」

 はしたなく開いた両脚の間で大和が腰を振る。好きなところの奥へ奥へと打ち付けられてずり上がろうとする体を、ぐっと押さえられた。どこへも逃げられない。与えられる快楽を全身で受け止めることしかできない。

「ぁ、あ、あ、あ、ぁあ、あ! や、ぁあ!」

「なか、すげーきもちいい……」

「やっ、あ、ぁ、あ、おれも、おれも……っ!」

「こんどは、うそじゃねぇ、よな……?」

 音が鳴るほど奥まで抉られ、言葉を失った。あるのはこの体が好きで、痛いことも全部、なんでもしてほしい衝動だけ。意識せず、抜け出そうとした性器をぎゅっと締め付けた。瑛二を呼ぶ声にももう自信がない。揺すられているのか自分が揺れているのかあいまいだ。指よりもっと長くて太いもので感じるところを擦られて、甘いものがどろどろ溢れそうだった。

「あ――、いく、いっちゃう、やまと、いく――……!」

「おれも、たえられねぇ……!」

 低い唸り声をあげて、獰猛な獣のように腰を振る。ぱちゅぱちゅ響く音が耳から、たっぷり見つめてくる瞳が視界から瑛二を犯した。

「ん、ぁ、やっ、あ、ぁ、ああ!」

 腰を持ち上げられ、視線の先で大和が瑛二の体に腰をこすりつけて身悶えている。片手で荒々しく性器を高められ、呆気なく果てた。白濁がどろどろと腹から胸に滑り落ちてくる。

「や、だめ――だめ……いま、いってる、いってるからだめぇ」

 抽挿のスピードはおさまらず、大きく張り詰めた性器が瑛二をいっぱいにする。弾けるのは一瞬だった。

「好きだ、えーじ、おまえが好きだ……ッ! おまえの中で、いかせてくれ……」

「あ、ぁ、でも……っ!」

「ああッ!」

「や――!」

 熱いものがどくどく体内に流れ込んでくる。焼けるほど顔が赤くなるのは、大和の熱がここまで到達したからじゃないかと思えた。大和の吐精は長く激しく、音もなく瑛二を満たしていく。

 

 

 

 

 

 

 夢の中でも、懲りずに大和とセックスしていた。

 おまえエロいなとからかわれるのが好きだ。この体を隅から隅まで知っているのは自分だけだと思うとたまらない優越感を覚えてしまう。俺のことも大和以外に知ってほしくないな――そう言って笑うと、大和の長い腕に抱き寄せられる。

「瑛二」

「…………やまと?」

 夢から覚めても目の前に大和がいる。セックスは、もうしてないけど。肩を抱かれシーツの中でぴたりとくっついた。あったかい。大好きな体温をうつしてほしくて頬を胸板にすりつける。はーっと息を吐いて、大和が瑛二の頭のてっぺんにキスをした。

「夢じゃねぇ」

 手を握られ、指が絡まる。
 夢じゃない。大和と結ばれて、大和に大人にしてもらった。あれからのことはよく覚えていない。ずいぶん長い間眠っていたような気がする。
 名前を呼ぶと、「ん」と短い返事といっしょに指を手の甲で動かす。

「またしようね」

「……おう」

「気持ちよかった」

「おれも、すげー……最高だった」

 大人たちはこうして――きっと兄さんも、大人になったんだ。大好きなひとと一つになって、大好きだよって伝えて。抱き合った大和にそう言うと、雲みたいなシーツの真ん中で笑った。

「なに?」

「おれも今大人になったばっかかもしんねぇな」

「どうして?」

「なんとなく」

 はぐらかすと、大和は瑛二の顎をつかんで上を向かせる。笑っていた。だから瑛二も幸せだった。

「次のオフ――実家、帰んだけどよ」

 瞬間、驚いたのを隠しきれなかった。ここに来てから大和が実家に帰るなんて初めてだった。

「おまえも行かねぇか?」

「え……俺も?」

「あ――ちげぇからな、そんな大した意味じゃねーから……メンバーの一人として、だな……」

「行きたい」

「いいのか?」

 困惑した表情がふっとゆるんだ。大和にこんな顔をさせられるのはこの世で自分しかいないのではと思ってしまうくらいの、かわいい顔。

「うん、大和のこといっぱい知りたいから」

「そんなおもしれぇもんねぇけど……あ、でも神社には花とかけっこう咲いてたな」

 二人の弟はまだ実家にいる。静かなのとうるさいの。父親は留守がち。母親は気が強くて声がでかい。実家は古い一軒家で大きな風呂がある――事務所寮と比べるとちっぽけだけど。それと、犬がいる。大和にはあんまり懐いていない。それから――。
 ずいぶん遠い記憶を掘り返すような口調はやさしくて、頭を撫でられているうちにうとうとしてくる。俺はここにいていいんだ。大和の思い出の場所に行ってもいいんだ。そう思うと、心の奥がぽかぽかあたたかい。

「……寝ちまった」

 花が綻ぶようなはらりと穏やかな声に、このまま抱かれ続けていたい。大和がそうしたいと願うなら、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ステージは凄まじい熱気に包まれていた。鳴り止まないアンコール。天使達が七人を求める、声。
 全員で行う初めての単独ライブも、クライマックスを迎えようとしている。ダブルアンコールであと一曲披露したら本当に終わってしまう。次のツアーは決まっているのに、それを発表して笑顔で終われるはずなのに、初めては特別だからなんだか寂しい。
 早くもライブTシャツに着替えた大和とハイタッチして、瑛二も衣装のジャケットとインナーを脱いでTシャツを被る。後れを取ってしまい焦っていると、足元にすっとひざまずいた影があった。

「兄さん!」

「靴紐が解けているぞ。じっとしていろ」

「ほんとだ……。ありがとう」

 早く早くとナギとシオンが横をすり抜けて行った。
 忙しない足音がなくなると静けさの中に、HE★VENSを呼ぶ声だけが聴こえる。わぁっと響いて、厚く、止むことはない。
 兄さんが――そして父さんが感じたかった熱がここにもある。
 よし、と立ち上がり、瑛一は瑛二の右手をとった。

「走るぞ」

 不思議だった。まるでそれはスローモーションのように、モノクロで、音さえも失った。振り返る兄の瞳だけが自分のそれと同じ色にきらめく。

 よかったね、兄さん。

 よかったよ、俺も。

 震える手と手が触れ合って、そこには揺るぎない安心があった。この手を離さない。家族として、メンバーとしてそばにいる。
 舞台袖に控えた仲間たちが、思い思いに二人を呼んだ。追い付くと自然に大きな輪ができて兄と大和と肩を組んだ。
 綺羅。ナギ。瑛二。ヴァン。大和。シオン。
 順に名前を呼んで瑛一が息を吸う。
 大和の背に回した手をぐっと握りしめる。

「――兄さん!」

 思わず叫ぶと、メンバーも揃って「瑛一!」と声をかけた。顔は見えないのに兄が目を丸くして、それから得意げに笑ったのがわかった。

「――いくぞ、HE★VENS!」

 わっと輪は散り散りになって、ステージへと駆け出す。七色の光に招かれて、自分たちの方が天国へと連れて行かれるような気分になった。

「天使たちに捧ぐラストナンバーだ。タイトルは――」

 瑛一が長い人差し指を、天へと向けて突き上げた。

 

 そのずっと遠くにある星たちは、今夜も色とりどりにきらきら、ひかっている。