アンビバレント

 初夏の緑が揺れて音を立てる。ざざ、ざざ、と心地よい。木の匂いに鼻をくすぐられ、縁側のつるりとした木目に頬を擦り付け体勢を変える。横になれりゃなんでもいいが、ずっと同じ向きで寝転がっているのは疲れてしまう。疲れることなんてなんもしてないだろと突っ込んでくる相手はここにはいない。

「兄さん、そんなとこ寝っ転がってると邪魔だよ」

 ……あぁ、一人だけいたか。
 首を上げ、声の方向に視線をやる。弟の冬馬が不満げな顔をして立っていた。

「ただいま」
「どっか行ってたのか」
「大学。朝からいなかったけど」
「きづかなかった」
「朝からずっとここでだらだらしてたの?」
「んなわけねぇだろ」

 一応、境内の掃除と重い荷物を運ぶ手伝いをした。裏を返せば、今日やったことはそれくらいだ。開け放した襖の向こう、和室の掛け時計を見上げると午後十時過ぎだった。
 冬馬はふと大和の頭上に視線をスライドさせ、腰を折って何かを拾い上げた。

「兄さん、新聞読んでたの」
「はぁ?」

 弟が手にしたのは今日の朝刊だった。そういえば昼過ぎ、母親が何か言いながら寄越したような。でも新聞なんて一行読めば眠くなるから無縁な読み物だった。唯一見る欄があるとすればただ一つ。

「ああ、これか。マッスルファイト、今夜放送――って、もう終わってるけど」

 そうだ。確か「あんたこの番組好きなんでしょ」と渡されたんだった。すっかり忘れていた。あいつの出ない放送には興味がないし、戦う相手が自分じゃないから意味がない。

「これ、最初の回、龍也兄さんが出てた番組だよね」

 マッスルファイト、伝説の初回放送。日向龍也は他の出演者との圧倒的な力の差を見せつけ、最終ラウンドで不戦勝の形で優勝した。誰も日向龍也と戦おうとしなかったのだ。あれから数年、マッスルファイトは年二回放送されるが、日向龍也が姿を現したことはない。

「今日の放送、見なかったの?」
「見てねぇ」
「兄さん、一般枠があったら飛んで行くんだろうね。で、日向龍也を出せ! って大暴れ」
「別にあばれねぇよ」
「てか、兄さんも芸能界目指したら? 実家でごろごろしてるくらいなら。どうせやりたいこともないんだろ」

 冬馬が放った新聞が顔の上に落ちる。インクの染みたこの匂い、ちょっと嫌いだ。
 日向龍也と一対一で戦って勝ちたい一心で、いつだったか、テレビ局に電話をかけたことがある。おれを出せ、日向龍也に勝てる、と言い放ったあの頃、大和はどうしようもなく無謀だった。マッスルファイトが芸能人対抗バトル番組なのも忘れていた。無鉄砲だった十代の頃の自分。

「……ありかもな」

 今日の放送には日向龍也がいない。最強の男抜きでくだらない戦いをしていたんだろう。あいつを倒せないと最強は謳えないのに。

「あいつの会社、なんつった」
「会社……事務所のこと? シャイニング事務所、だったかな」
「わかった。サンキュ」
「え、今から行くの?」
「行く。ねてる場合じゃねぇ」
「非常識……っていうか、誰もいないんじゃない? 東京着く頃には何時になると思ってんの?」
「ごちゃごちゃ考えててもしゃーねぇだろ」
「ほんと、誰に似たんだか……」
「おふくろみたいなこと言うんじゃねぇよ」

 上着を羽織って外に出ると、月に照らされた木々がさざめき合う。バイクにまたがりヘルメットを被る前にスマホを取り出し、冬馬に聞いた事務所名を打ち込む。シャイニング事務所。ここはだめだ。あいつと同じ事務所に入るつもりはない。どこでもいい。他にないのか。日向龍也と同じ舞台で戦わせてくれる場所は。

「……ん?」

 小さい画面と睨み合っていると、あるネット記事が目に留まる。『伝説のアイドル、レイジング鳳の息子、アイドルデビューか⁉』――なんとなく指が伸びた。内容を読み込む気は起きない。記事に貼られていた数枚の写真と短い見出しを目で追うと、シャイニング事務所の社長と因縁のある男の息子がアイドルデビューすると噂されているとわかった。
 レイジングエンターテインメント、と社名を思わず声にする。知らない名前だ。業界最大手らしいが大和にはどうでもいい。社長同士に因縁があるらしいという縁の深さに心掴まれるものがあった。あいつがシャイニング事務所にいるなら、おれがいるべきなのはここじゃねぇのか。
 地図アプリで事務所名を検索し、目的地にセットする。
 子どもの頃からずっとこうだ。五つ年上の長兄には何をしても勝てず、それでも負かしてやりたくて、大和にとっては兄の存在が高い壁だった。
 兄が祖父に喧嘩の仕方を教わると、おれにも教えてくれと縋りついた。祖父は幼い大和を子ども扱いせず、何でも教えてくれた。
 強くなりたかった。「男は強くあれ」と何度も聞いた祖父の信条に応えたかった。だから負けても兄に挑み続けた。
 中学一年生の頃、ガラの悪い地元の高校生に売られたケンカに勝った。体つきの成長はまだまだでも、ケンカは同世代が相手だと物足りないほど強くなった。今日こそあいつに勝てるんじゃないか。勇んで家に帰ると兄の姿はなく、数ヶ月後、兄はアイドルになるのだと聞かされた。戦って負けた相手との約束だから、と。
 その日から大和の前に立ちはだかる壁は山になった。自然は手を抜かない。容赦なく突き落とし、雨を降らし、いつも真っ向から迎えてくれる。打った分だけ響く。人を相手にしないクライミングは、意外にも肌に合った。
 やりたいことないんだろ、と、弟の言葉を思い出す。
 やりたいことならある。あいつを倒す。誰よりも強くなる。
 戦い方を教えてくれた祖父は去年亡くなってしまいもういない。
 今も覚えている。いつか兄にも勝てる日が来ると、あの人だけが信じてくれたことを。

          *

「止めてくれ」

 不審な影が見えた。
 運転手に声を掛け、瑛一は車を降りる。深夜にも拘らず、事務所の正門前に何者かがバイクを停めて座り込んでいる。近付くと、体格からそれが若い男だと辛うじて判断できた。わざと足音を立てて歩み寄っても男は反応を示さない。じっと地面を見つめたまま動かなかった。

「おい、そこで何をしている」
「…………あぁ?」

 声を掛けると男は首を上げ、視線を寄越した。未成年ではなさそうだがだいぶ若い。全身の毛を逆立てた猫のように反発心を露わにし、大きな瞳をますます見開いて瞬きひとつせず瑛一をじっと見つめる。ガンを飛ばす、とはこういう様相だろうか。

「なんだてめぇ……なんか、見たことある顔だな」

 すっと立ち上がった男の顔が近付く。身長は百八十七か八といったところだろうか。上に盛り上がった髪形のせいで定かではない。

「ああ。あんたのこと、ネットで見たぜ。この事務所調べたときに」
「うちの事務所に何の用だ」
「アイドルになりてぇから来た」

 あまりにもさらっと言うものだから、一瞬面食らった。

「……だからといって、こんな時間に来ても仕方がないだろう。門は明日の十時まで開かないぞ」
「十時には開くんだろ。じゃあ待つ」

 男は再びしゃがみこみ、含みのない仕草で空を見上げた。
 どこかで時間を潰してまた来ればいいのに、その発想はないらしい。どうやらアポ無しのようだし、朝まで待っても門前払いされるだろう。
 見た目は悪くないのにもったいない。童顔ともとれる、華やかで迫力のある顔立ち。服の上からでも分かる鍛えられた体躯。その絶妙な調和が良いと思った。そして、なめらかな鼻濁音の混じったよく通る声と。
 アイドルとしての力量は未知数だが、資質はあるかもしれない。しかし事務所は彼を歓迎しないだろう。良くてオーディションの案内をしてお引き取り願う、最悪の場合、警備室行きかもしれない。こうしている今も防犯カメラにしっかり映っているわけで、朝を待たず警備員が駆け付けて来るかもしれない。残念だと少しでも感じた自分自身に驚いた。ならば俺が貰えばいいじゃないか。

「名前は」

 問うと、目が合った。月の見えない夜でもよく分かる、飴玉を散らしたようなオレンジ色の瞳の虹彩。名前を尋ねただけなのに、男は不服そうに「日向大和」と答えた。

「俺は鳳瑛一だ」
「知ってる」
「ああ、調べたんだったな」

 男――大和に一歩近付く。

「日向大和、うちに来ないか」
「うちってどこだよ」
「俺が住んでいる寮だ。この敷地内にある」

 悪い条件を提示しているつもりはないが、大和は警戒心をむき出しにして眉をひそめた。しゃがんでいるせいか大きな野良猫みたいだ。

「今夜の寝床を提供してやる」
「あやしいな」
「お前の方が怪しいだろう」

 何を疑うことがあるのか、大和は従おうとしなかった。だからよりいっそう、頑なな態度の理由が気になった。深夜に公道で夜を明かすことを厭わないこの男が、なぜアイドルになりたいのか。朝を待てないほど彼を突き動かす衝動の源は何なのか。

「では、一つ条件がある」

 誘うのに理由はない。単純に心惹かれたのだ。全く自分を取り繕おうとしない、まっすぐにしか走れない純真無垢な行動力に。
ただ、したいから、する。その難しさを瑛一は知っている。

「俺のグループに入れ、大和」

 事務所の外周を歩きながら考えた。この男、誰かに似ている気がする。
 バイクを押して歩く大和の横顔を観察する。日向という名字にも聞き覚えがあるのだ。どこで会った誰だったか。

「おまえ」

 裏口から敷地内に入り、瑛一が指定した駐車場にバイクを停めた大和が独り言のように呟いた。

「変わってるって言われるだろ」
「いや、言われたことがないな」
「どんなとこで生きてきたんだよ」
「俺からするとお前の方がよっぽど変わっていると思うが」

 同時に羨ましくもある、とは言わないでおく。

「おれがやばいやつだったらどうすんだよ」
「やばい、とは?」
「なんか盗んで食うとか、暴力ふるうとか」
「盗めば窃盗、殴れば暴行。お前が裁きを受けるだけだ」

 寮の鍵を開ける。瑛一以外は朝型だから、全員すでに部屋で眠っているだろう。客用のスリッパに、大和は不慣れな様子で足を突っ込んだ。

「俺にはお前が悪人には見えない。安心しろ、人を見る目には自信があるからな」
「……ま、そうだろうな」
「どういう意味だ?」
「べつに」

 寮に空き部屋はなく(正しくは、部屋は空いているがベッドがない)大和にはリビングのソファとブランケットを提供した。
 ついでに寝間着も瑛一のものを適当に見繕ってやり、シャワールームに案内する。シャワーも浴びていない見知らぬ男をソファで寝かせたとバレたら、ナギが烈火のごとく怒るだろうから。愛しい最年少に嫌な思いはさせたくはない。
 シャワーを済ませソファにごろりと横になった大和が「なぁ」と呟く。瑛一は部屋を出ようとしていた足を止めた。

「おまえ、おれがあいつの弟ってわかったから声かけたんだろ」

 大和の言葉に一瞬戸惑った。背を向けられているから顔は見えないが、その声音に既視感を覚える。そして、突如として思い当たる――日向龍也か。会ったことはないが当然知っている。シャイニング事務所所属のアイドル。細かい造形は異なるが、確かに顔の雰囲気がよく似ている。そういえば弟が三人いるんだったか。

「……兄弟でアイドルか」
「あいつは関係ねぇ」
「ならばどうして大和はアイドルになりたいんだ」
「同じフィールドで日向龍也と勝負してぇからだ。おれが最強だって証明するために」
「大いに関係あるじゃないか」
「うるせぇよ」
「しかし、勝負といっても何をするつもりだ。まさか歌合戦でも行うつもりか?」
「歌じゃねぇ、マッスルファイトだ」

 もう何百回も繰り返した受け答えのように即答する。

「……だからお前はアイドルになりたいのか」
「そう言ってんだろ」
「そのためにこんな深夜に来たのか」
「……んだよ、わるいかよ」

 やはり大和の方が変わっている――とは言わなかった。おかしくない。身近な存在に影響されること。誰かに勝ちたいと願うこと。ふと脳裡に父の顔が浮かんだ。

「悪くない。……大和は面白いな」

 返事はなかった。リビングを出て二階の自室に向かう。
大和に伝えそびれてしまった。俺はお前が日向龍也の弟だと気付いていなかった、と。

          *

 わかっていたはずだった。
 日向龍也の領域に足を踏み入れる以上、自分は『日向龍也の弟』に過ぎないと。
 これまでもそうだった。日向龍也が最強の男として名を馳せたから、地元では『日向龍也の弟』と噂されて勝手に持ち上げられ、時に恐れられてきた。
 鳳瑛一という胡散臭い男が妙に親切なのもきっとそうだ。大和が『日向龍也の弟』だから。そこら辺の一般人とは違う。大和自身が何か成し遂げたわけではないが、有名人の血縁者というのはどうやらすごいらしい。マッスルファイトに出してほしいとテレビ局に電話をかけたときも同じだった。おれは日向龍也の弟だと告げた大和に、電話口の男は苦笑した。

 ――本当にそうだったらすごいんだけどねえ。
 ――ほんとうだ。
 ――……君、仮に本当に弟だとして、お兄さんに迷惑かけるようなことしちゃだめだよ。

 正論だった。でも認めたくなくて、雑に電話を切っていらだちを鎮めた。
 寝るには少し物足りないサイズのソファでごろりと寝返りを打つ。日向龍也の弟という肩書をもっと上手く使えれば、楽になれるだろうか。でもそんなの、自分を殺しているみたいで嫌だ。おれはおれだ。たまたま五年早く生まれた兄がいるだけで、『その弟』なんて扱いを受けるのはうんざりだ。
 どうすれば『日向大和』として兄の存在を超えられるのか。わからない。しかしわからないなりに、スタートラインに立ちたくてここに来た。じゃあおれはこれからどうするんだ。自問する。答えが見つからないうちに、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。


 翌朝、肩を揺さぶられる振動に目を覚ました。
 頭まで被っていたブランケットを下ろすと太陽光が眩しい。昨日は気付かなかったが、上の階まで吹き抜けになっている部屋の作りと広い窓が、朝の光をたっぷり取り込んでいる。見上げると、怪訝な顔をした黒髪の男が大和を睨んでいた。

「……不法侵入」
「おまえ、誰だよ」
「こっちの……台詞」

 男は何かに気が付いたように目を眇めた。

「瑛一の……Tシャツ」
「ん? あぁ、昨日借りたんだったな」
「瑛一の客人か」
「客っつーか……」

 どう説明すれば良いか大和にもわからない。客ではないにしろ、あいつに拾ってもらったのは確かだ。きっぱり答えない大和に、男はますます不審そうな顔になる。あいつ早く起きてこいよといらだち頭を掻いたとき、瑛一が姿を現した。

「おはよう。昨日はよく眠れたか?」

 不信感に満ちた黒髪の男の視線を気にせず、呑気に問いかけてくる。

「微妙。ソファかてぇし」
「それは悪かったな。しかし路上よりは良かっただろう」
「そうだな」
「……瑛一。説明……してくれ」
「ああ、すまない」

 ブランケットを律儀に畳みながら、「日向大和。アイドル志望だそうだ」と瑛一は簡潔に紹介した。何も間違っちゃいないが、アイドル志望なんてどうもむず痒い。黒髪の男は黙りこくって無遠慮な視線を大和に向け、足先から頭のてっぺんまでねめつける。品定めされているようで正直良い気がしなかった。本人にではなく、瑛一に訊く。

「こいつは?」
「皇綺羅。俺の仲間だ」

 綺羅と呼ばれた黒髪は、紹介されてとりあえず会釈を寄越した。

「しかし見つけたのが綺羅で良かった。ナギだったら今頃大騒ぎだ」
「俺も十分……驚いた」
「そうだな。すまなかった。お前たちに相談せず軽率なことをした」
「気にして……いない。ただ……驚いただけ」
「そうか」
「瑛一」

 うろたえた様子で綺羅が呼ぶ。
 大和は二人の会話を他人事のように(実際他人だし)眺めていた。「六人目」と綺羅が口にする。疑問形なのかただ単語を発しただけなのかわからない。瑛一は力強く頷いた。

「そうだ。大和を俺たちのメンバーとして迎えたいと考えている」

 綺羅に対して返事をしたあと、瑛一はソファに座った大和に歩み寄る。所作は上品だが、やけに力強さを感じさせられた。

「昨晩言った条件、覚えているか」
「おまえのグループにはいれっつー話だろ」
「あぁ。お前の熱量は実にいい」
「……熱量、な」

 不思議だった。瑛一が気に入ったと言う『熱量』の根源は兄への対抗心だ。それでいいのだろうか。
 それとも、日向龍也の弟を手に入れたいに過ぎないから、きっかけはどうだっていいのか。なんにせようじうじ悩んでいるのは性に合わない。立ち上がり、眼鏡の奥の瞳をまっすぐ見つめる。

「昨日も言ったよな。おれはあいつに勝つためにアイドルになる」

 綺羅の表情がほんの少し歪む。その反応が正常なのは大和もわかっていた。

「それ以外に理由なんてねぇ。なのにおまえがおれを誘うのは……おれが日向龍也の弟だからだろ」
「兄は関係ないと言ったのは大和、お前だろう。俺がお前とやりたいと思うことと、お前が日向龍也の弟であることは関係ない」
「そんなわけねぇだろ」
「意外と自己評価が低いんだな」
「どういう意味だよ」
「まるで兄と切り離した自分に価値はないと言っているようじゃないか」
「んなこと言ってねぇだろ」
「自分に自信がないのだろう」
「おまえにおれのなにがわかんだよ!」
「会ったばかりの大和のことが俺に分かるわけがないだろう」

 静かに、しかし力強く大和の言葉をねじ伏せるように瑛一は言った。

「しかし俺も今はまだ、『レイジング鳳の息子』と呼ばれることが多いから、お前と境遇が似ているかもしれないな。俺は日向龍也の弟ではなく、日向大和という一人の男と組みたいと誘っているが」

 そんなのうそだ、と思ったが口にしなかった。それこそ自分に自信がないと認めるようで癪だ。
 あぁこいつは『レイジング鳳の息子』なのか、と瑛一の言葉で思い出した。変な奴だとは思ったが、そんなこと気にしていなかった。だから、「日向大和と組みたい」と言った瑛一の言葉を信じられる気がした。
 でも大和はずっと『日向龍也の弟』として扱われてきた。そもそも『日向龍也の弟』だからアイドルになるために動き出してしまった。兄と大和は違う生き物なのに。勝ちたい気持ちがいつも大和の身体を兄の方へと引き寄せるのだ。その引力にはもう抗えない。

「おまえのグループに入る」

 半ばムキになって答えた。

「デビューすれば出られるんだろ、マッスルファイト」
「ああ」

 即答だった。こいつにできないことはないのかもしれない。そう思わせる力強いオーラが鳳瑛一にはある。右手を引っ張り握手を交わすと、「頼もしいな」と笑った。

 勝ちたい。
 強くなりたい。
 その感情は悪くないよな? 心の内で問う。浮かぶのは祖父の顔だった。

 亡くなる直前の春、筋肉が衰え細くなった腕で大和の肩を叩いた感触を覚えている。お前はまだまだ強くなれる、と。そして、強くなる意味を考えろ、とも。
 高校を卒業してから毎日ぼーっと過ごしていた孫を案じただけかもしれない。でも大和にとっては特別で、深い言葉として残っている。その言葉が諦めない理由になった。

「もっと強くなれ、大和」
「あたりまえだ」

 こいつはいいやつかもしれない。それだけで十分だ。

          *

 大和を事務所に連れて行き、契約関連の書類の手配を依頼して寮のリビングに戻ると、綺羅がピアノを弾く手を止めた。

「納得できないか、綺羅」

 綺羅は黙って頷く。

「十分に説明せずすまなかった。大和とは昨晩、事務所の門の前で会ったんだ。アイドルになりたいからと、何も考えずに来たらしい。面白いだろう」
「面白く……ない」
「他のことが何も考えられぬほどの行動力。見習いたいものだ」

 慎重で真面目な綺羅が不信感を示すのは予想の範疇だった。逆に、ナギはあれこれ文句を言いつつ瑛一の直感に同調するだろう。偶発的な事象を意外と重んじるタイプだ。
 綺羅はため息を隠さず、視線を手元の鍵盤に移した。

「メンバーは……瑛一が、選ぶべき。反対は……しない。ただ、すぐに……納得できない」

 穏やかな声色に、少しずつ棘が混ざる。

「さっきの男にも、桐生院さんにも……すぐ声を掛けた。どんな人間か分からないのに。しかし瑛一は……素性を知り、能力もある弟を……同じグループに入れることを……渋る。俺には……分からない」

 突然弟の話を持ち出されて動揺したが、平静を装う。

「ではなぜ俺が綺羅に声を掛けたと思う?」
「それは……むしろ俺が……訊きたいくらいだ」

 答えは単純。出会ったその日に不思議な巡り合わせを感じたからだ。綺羅もナギもヴァンも大和も。それだけで十分だろう。瑛一は自分自身の直感を信じている。綺羅は食い下がった。

「……俺は、アイドルになると決める前……ピアノや歌を……瑛一に聴かせた。それで瑛一は……俺を選んだのではないのか」
「無論それもある。綺羅の芸術的な素養は実に素晴らしい。だが、綺羅と共にやりたいと感じたのは、初めて会ったあの夜だ」
「道案内を……してもらっただけ」
「俺にはそれで十分だった」

 綺羅は顔色を変えず、まっすぐ瑛一を見つめた。大きな窓から差した光が整った肌を均一に照らす。眩しそうに目を細める。その僅かな表情の変化だけで、綺羅を選んだのが正解だったと感じる。言葉では表しがたい。ただ美しいとか顔の造形が素晴らしいとか、それだけではなくて。はっと意識を奪われる。つい目で追ってしまう。綺羅もナギもヴァンも大和も、他者を惹き付けて止まない己の魅力を知らないところが良い。

「俺たちは良いグループになれると思わないか?」

 ゆるやかなカーブを描くグランドピアノの側板に手のひらで触れる。窓から注いだ光を瑛一が塞ぐと、綺羅の肌に影が落ちた。

「綺羅は持ち前のセンスに加えて吸収力も素晴らしい。皆の良い手本になるだろう。ナギは聡明で誰よりも伸びしろがあるし、ヴァンの社会人経験もきっと良い作用をもたらすはずだ。あの社交性の高さはグループ活動でこそ生きるだろう。大和はやはり積極性が楽しみだ。綺羅からも大いに学んでほしい」

 光を失った黄色い瞳は何か言いたげだった。綺羅が何を訴えたいのかは分かっている。だから先に口を開いた。だが的確な言葉が見つからなかった。

「……瑛二は――……」

 瑛二をグループに合流させよと父に正式に命じられたのは一ヶ月前だった。
 音楽家だった母の血を濃く継いでいるのか、瑛二の歌の資質は目を見張るものがあった。まだ何色にも染まっていない、でも様々な色を混ぜて仕上げたような、謎めいた魅力。その歌声を聴いてから、ステージに瑛二と並び立つ未来を何度想像したか分からない。皆その歌声を褒めたが、謙遜なのか本当に自分の能力の高さに気付かないのか、瑛二は「そんなことないよ」と困った様子だった。
 瑛二と共に歌いたい。希望を抱く次の瞬間には、本当にそれで良いのかと冷静なもう一人の自分が問いかけてくる。瑛二を丸め込み、アイドルの道を選ばせたからには、もう逃げることを許してやれなくなる。瑛二の未来を狭めるかもしれない。今ここで解放してやらなくて良いのだろうか。父の決めた道を歩かせて良いのだろうか。

「……瑛一」

 綺羅は瑛一を見上げ、首を傾げた。

「さっきの、大和という男は…………六人目か?」

 ――瑛二を除いて、五人目、ではなくて。
 当たり前だとすぐに肯定すれば良かった。しかし曇りのない満月のような瞳を見つめ返すと曖昧な言葉は選べず、視線をそらした。綺羅は微かに息を吐き、立ち上がった。

「俺は……瑛一が、心から望んで、決めたことなら……それで良い。信じているから」

 背を折り、下からぐっと見上げられると目を合わせるしかない。綺羅の瞳はまるで心を映す鏡だ。嘘を許さず、まっすぐで凪いでいる。初めて会った日から変わらない。綺羅の内面を映したように意思の強さを感じさせる。俺の見る目は間違っていない、と、綺羅の存在が証明してくれる。
 もう一度椅子に腰掛け、綺羅がピアノを弾く。毎朝のルーティンだ。
 信じている、と強く断じた綺羅の言葉は何より重く、だからこそ心地良かった。