リフレイン

「こんばんはー!」

 夜なのに朝の挨拶のような明るい声が聴こえ、瑛二はナギと同時に顔を上げた。

「荷物重かったー! 綺羅ちゃんおる? ちょお手伝ってくれへんー?」
「来て早々うるさすぎるんだけど~」
「にぎやかになって楽しいね」
「ナギはもっと落ち着いて暮らしたいの!」
「……同感だ」
「ね~、綺羅も絶対そう言ってくれると思ってた!」

 三人で迎えに行くと、キャリーケースを携え土産の紙袋を三つぶら下げたヴァンがぶんぶん手を振る。

「今日からお世話になりますー。いやあ、人と一緒に住むの久しぶりやから楽しみやわ」
「あ、これ見たことある! 神戸でしか売ってないスイーツでしょ? 食べてみたかったんだよね~」

 ナギが紙袋に印字された菓子店の名前に目敏く気付く。

「これ全部みんなへのお土産や。とりあえずえーちゃんに渡しといて」
「ヴァン、センスいいじゃん」
「そらどうも。ナギちゃんが喜んでくれたなら良かったわ」
「……ヴァンの部屋は、三階」

 綺羅がキャリーケースを軽々と持ち上げる。自分で持つとヴァンは断ったが、綺羅は首を横に振った。手伝うことがなくなり手持ち無沙汰の瑛二は、三階に向かう一行の最後尾に着いて歩く。

「こんな派手にお迎えしてもらえるとは思ってなかったわー」

 ヴァンは上機嫌で、お土産に釣られたナギも軽い足取りで階段を上っていく。

「も~っ、ヴァン、うるさくしないでよね~? ナギたちみんな繊細なんだから」
「ナギちゃんの中でワイどんなイメージなん? それに、綺羅ちゃんとえーじちゃんはともかく、ナギちゃんホンマに繊細か?」
「超繊細だもん。ね、瑛二?」
「えっ、うん。えっと、そうだね?」

 突然話を振られて曖昧に答える。この二人、会話のテンポが速すぎる。ナギは不満を言い足りないという風に唇を尖らせた。

「ただでさえ最近は大和が歩く音がどすどすうるさいし~? ドア閉める音も大きいし、しゃべる声も大きいしガサツだし――」
「しゃべる声がでけぇのはおまえもだろ」
「わっ!」
「ほらな」

 二階の自室から大和が出てきたと思うと、ナギの髪をぐしゃぐしゃかき乱す。

「聞いてたの?」
「きこえたんだよ。ナギの声でけぇから」

 笑いながら大和がピントを隣にずらす。ヴァンとは初対面のはずだった。

「あんたが日向大和やな? えーちゃんから聞いとるで」
「おう」
「ワイは桐生院ヴァンや。よろしく」
「よろしく。んなことよりはらへった。そろそろメシか?」
「兄さんが、そろそろ支度できるって」
「早くくいてぇ」

 大和がナギの紙袋をひったくる。中身の食べ物に興味があるわけではなくて、ナギが持つのを代わってくれただけだ。出会ってすぐの頃は意外だったけれど、大和は特に年下のメンバーには親切だ。四兄弟の次男だと聞いて納得した。兄っぽくもあるし、弟っぽい面もある。
 冬の終わりにライブハウスでヴァンと出会い、梅雨入り前に兄が拾ってきた大和が寮生活に加わって、夏が過ぎようとしている。ヴァンは月末に退職するから、それまでは東京と関西を行ったり来たりの生活になるらしい。

「わー、なんか新生活感あるなぁ」

 三階の部屋に到着すると、ヴァンは嬉しそうに内装をぐるりと見渡す。真新しいベッドが部屋の最奥にどんと鎮座していた。まだ物が少ない殺風景な部屋なのに、秘密基地を作り上げた子どもみたいに笑うヴァンを見ていると、ここがなんだかとても素晴らしい場所に感じられる。

「あ、でもまだカーテンないやん。電気つけたら丸見えやんか」
「寮は事務所の、敷地内だから……別に……誰も見ない」
「そもそも来月から住む予定だったのに、ヴァンがいきなり今月から来たいって言ったからじゃん?」
「それはそうやけど……。思いのほか有休消化できたから、今月ちょっと暇になってもぉてんもん。はよ住みたいやん」
「なぁ、んなことよりはらへった」
「やまちゃんはメシのことばっかりやなー」
「変なあだ名つけんなよ」
「いいやんいいやん。ワイのこともヴァンちゃんって呼んでくれてええし」
「よばねぇよ」
「うんうん、仲良ぉしよなー」

 引っ込み思案な瑛二には不思議だった。年齢も生まれた場所も、アイドルを目指す理由もバラバラな六人が、どうしてすんなり打ち解けられているのか。ナギが手を引っ張ってくれて、綺羅はゆっくり耳を傾けてくれて、そして兄がそっと続きを促してくれるから、ここでは自然体で話ができる。ヴァンや大和ともこれからそんな関係になれるといい。

「ずいぶん賑やかだな」

 兄もヴァンの部屋に顔を出した。食事の呼びかけに歓声があがる。
 みんなで暮らす家はちょっとうるさいくらいがいい。しんと静かな暮らしよりも、誰かが一緒にいてくれると感じられる方が安心できて暖かい心地がする。


 一階のダイニングに広がる光景に、ヴァンが息をすうっと吸った。全員が視線を注ぐと、高らかに一言。

「いや、なんでたこパやねん!」
「……おぉ~……!」

 一同(といっても瑛一とナギと瑛二の三人)は、揃ってぱちぱちと拍手をおくる。

「本場のツッコミだ」
「やっぱりキレが違うよね~」
「迫力があったな」
「なになに? これ、全力のボケってこと?」
「……たこパ……とは」

 綺羅が首を傾げる。

「たこ焼きパーティの略だな。関西の文化だと聞いている」
「せっかくヴァンが来るから、じゃあやってみようって、兄さんの案なんだよ」
「関西……っちゅーか、大阪の文化の方が正しいけどな」
「なんだすぐ食えねぇのかよ」
「すぐ焼いたるから待っときって」
「さっすがヴァン、頼りになる~」
「調子ええなぁ……。うわ、なんかええたこ焼き器使ってんなぁ!」

 二十四穴のたこ焼き器に油をさっと敷き、生地を流していく。

「あ、ナギ、タコ入れてみたーい」
「うん、やってみ」
「ヴァン、俺も何か手伝うことあるかな」
「ええよ、あとは天かすとか入れてひっくり返してくだけやし。って、やまちゃん米食べんのはやない⁉ もうちょい待ちぃや」
「はらへってんだって」
「大和、茶碗二杯までに留めておくように。炭水化物の摂り過ぎは体型に表れるからな」
「おう。二杯な、二杯」

 すでに一杯目を平らげ、お代わりはたこ焼きが焼けてからにするようだった。ヴァンは竹串で器用に球体をくるくると回していく。はみ出した部分を穴に収めるとすぐ隣の丸を転がす。じっくりとその手腕を見つめていた兄とナギも見よう見まねで近くのたこ焼きをひっくり返す。器用やなぁ、とヴァンが目を見開き、自然に流していた前髪をかき上げた。

「もうマスターしてるやん」
「まぁナギは天才だし? もちろん瑛一もね」

 三人はたこ焼きに夢中で、大和は完成を今か今かと待ちわびている。綺羅はお茶をコップに注ぎながら黙って見ている。瑛二は五人の姿を、少し遠くから眺めている気持ちになった。学校の友達とは全然違う。まず、友達という表現はおかしい気がする。でも一緒に暮らすからといって、家族ほど親密じゃないし――『仲間』って、こういうときに使う言葉なのかもしれない。
 初めての『たこパ』はとても楽しかった。甘いのもほしいとナギが言えば、ヴァンがホットケーキミックスでベビーカステラみたいなものを焼いてくれた。大和は二杯目のご飯をすごく大切そうに噛みしめていて、綺羅はたぶんいつもよりよく喋っていた。四巡目に差し掛かると兄に電話がかかってきたり、お茶が足りずに綺羅が湯を沸かしに行ってくれたり、ナギはテレビの録画をするとかで、六人が揃っていないタイミングが多くなる。
 だから、しばらく兄とヴァンがいないことに瑛二はすぐに気付かなかった。
 リビングに通じる廊下に出ると二人の話し声が聴こえる。特に用事があったわけじゃなくて、聞き耳を立てるつもりもなかった。ダイニングに戻ろうと振り返ると、ヴァンの真剣な声が聴こえて思わず足が止まった。

「メンバー、あと一人探してるってほんまなん」

 聞いたらいけない話だ。でも足が動かない。口を手で覆って息を殺した。立ち聞きしていると知られたくない。

「……綺羅にでも聞いたのか」

 兄は否定しなかった。

「やっぱりほんまなんや。えーちゃんが言ってたアイドルグループって、六人組って話やったよな?」
「ああ、そうだ」
「……となると、ワイがお払い箱ってこと? 歳いってるから? 華ないから? 未経験やから?」

 演技がかったヴァンの訴えに、え、と思わず声が出そうになった。兄は「いや」と上ずった声で言った。

「違う、ヴァンのことではない」
「……じゃあ誰なん」

 今度は真面目な、棘を含んだ声色だった。

「今の口ぶりやと、誰の代わり探してるって、はっきり決めてんねやろ」

 なかなか答えない兄に、言いや、とヴァンが追い打ちをかける。
 俺だよと二人の前に出て行きたい衝動に駆られた。父の命令だから、兄は瑛二を渋々メンバーに入れてくれた。それくらい知っている。
 嫌だったらやめてもいいと兄は言ったけれど、嫌なことなんて一つもなかった。仲間がいて、音楽がある。歌はもちろん、着いていけないくらい激しいダンスレッスンも楽しかった。もっと頑張ろうと前向きになれた。
 でも同じくらい、本当は、瑛二が自分からやめたいと言うのを兄は待っているのではないかと疑心暗鬼してしまう。

「そうやってえーちゃんがはっきり言わんってことは……そういうことやんな」

 ヴァンの声が近付いてくる。ここから離れなきゃ。踵を返すと、微かなスリッパの音が廊下に反響した。

「えーじちゃん?」
「ごっ、ご、ごめんなさい! 盗み聞きするつもりじゃなくて、でも、なんか……心当たりのある話だったから、俺、動けなくなっちゃって……」
「……心当たり、あるんや」

 二人の前に出ると視線がぐさぐさ刺さって痛い。ヴァンはそれ以上追及せず「二人で話す?」と瑛二に訊いた。

「俺はそうしたい。……いいかな、兄さん」

 視線を兄に投げる。返事はなかった。ヴァンがうんうん頷いて、頭を撫でてくれる。

「ごめんな、誰かが聞いとると思わんかった」
「ううん。俺……ちゃんと兄さんと話さなきゃって思ってたから」
「ワイは、えーじちゃんがいいと思っとるから」

 と、耳元に言い残してヴァンはダイニングに戻った。一瞬聴こえたナギと大和の口論めいた話し声が恋しくてたまらなかった。楽しくて明るくて音楽のある、瑛二の居場所。
 向き直ると、兄は決まりが悪そうに目を眇めた。広い窓から差した月明かりが一筋髪に流れて、天の川みたいだ。

「俺、兄さんたちと一緒にやっちゃだめなの?」
「そういうことではない」

 兄は即座に否定した。しかし、続く言葉はやっぱりこうだ。

「お前がグループに入ることは親父が決めた。簡単に覆すことはできない」
「……でも兄さんは、入ってほしくないんだよね?」
「そういう……極端にどうしたいという話ではないんだ、瑛二」
「じゃあ、どうして新しいメンバーを探してるの?」

 それはやはり極端な話で、瑛二が要らないからじゃないのか。このグループは絶対に六人組だと聞いている。シャイニング事務所からデビューしたアイドルグループと人数を合わせるためだ。
 兄は口を噤んだ。それを卑怯だとは思わなかった。兄の考えはわからないけれど、葛藤があるのはわかる。弟の瑛二に言いづらい事情が何かあることもわかっている。わかっているのに、理性が言葉をとどめてくれなかった。

「兄さんは……アイドルやっててつらいの? だから俺にはならなくていいって言うの? 俺、兄さんが何考えてるかわからないよ」

 言い切ってからはっと我に返ったけれど、訂正する気はない。訊きたいことはたくさんあって、ただの一部に過ぎなかった。兄は静かに目を伏せ、瑛二、と呼んだ。いつもと何も変わらない声だった。

「親父の――社長の目的は、俺たちを使ってシャイニング早乙女に勝利することだ。そのために俺は子どもの頃から様々な教育を施され育てられた。お前も見てきただろう。親父がシャイニング早乙女を強く憎んでいることは、お前も知っているな」

 レイジング鳳とシャイニング早乙女の因縁について、瑛二もある程度知っている。
 約二十年前、父はトップアイドルとして君臨していた。
 代表曲の『LOVE IS DEAD』は売上枚数千九百万枚の大ヒットを記録し、瑛二が生まれるより前に父は引退した。しかしその後、シャイニング早乙女のデビュー曲『愛故に……』に売上枚数で敗れ、父は彼に強い敵対心を抱いている――らしい。そして今、それぞれの事務所の所属アイドルにまた同じ戦いを繰り返させようとしている。まだ誰も知らない水面下で。

「瑛二には、アイドルに縛られてほしくない。自由に生きてほしいんだ」
「俺、縛られてるなんて思ったことない」
「お前は俺がいなければ、アイドルになるなどと思わなかっただろう」
「それは……そうだけど、でも実際俺には兄さんがいるし、それに、兄さんだって父さんがいなかったら……同じでしょ?」

 もしもの話をしたって仕方がない。兄さんはともかく、父さんがいなければ、こんな自分として生まれてすらいない。

「俺、なんにもわかってないかもしれない。でも、兄さんがアイドルを好きで、昔は父さんみたいになりたいって言ってて……グループのみんなのことを嬉しそうに話すのも、父さんのことを話すと、ちょっと悲しい顔になるのも知ってる。知ってるよ、兄さん」

 もし父さんがいなければ。意味のない、もしもの話だ。でも問わずにはいられなかった。

「父さんのこと抜きにして、一つだけ答えてほしい。兄さんは、俺と一緒にアイドルやりたくないって思ってる?」
「そんなこと思うわけがないだろう」

 即答されて嬉しかった。思わず緩んだ頬に兄が指先で触れる。硬く、でもすぐに崩れてしまいそうだった兄の表情が、ふっと柔らかくなる。笑い方が母さんに似てる、と気付くと涙腺の調節ができなくなる。慌てて頭を打ち振ることで泣かずに済んだ。

「親父が俺に強いた教育は、子どもの頃の俺にとっては辛くもあり、だがその反面嬉しくもあった。俺はアイドルが好きで、レイジング鳳に憧れた。レイジング鳳のようなアイドルになりたいと思っていた。そのための教育だと思えば耐えられた」
「うん、小さい頃はずっと、父さんみたいになりたいって言ってたよね」
「現状俺は――俺たちは、親父の道具でしかない。シャイニング早乙女よりレイジング鳳が上なのだと示すための道具だ」

 道具という言葉の冷たい響きが胸に迫る。人が人を道具のように扱うなんて、あってはならない。でも父に対してこみ上げるのは、怒りや呆れよりも「どうして」と信じたくない気持ちが先だった。

「親父が俺にしてきたことを、俺が瑛二にしてしまうのではないかと考えることがある」
「――え?」
「瑛二の才能に一つ気付く度、俺はお前をアイドルにしたいと願ってしまう。歌やダンスを教え込めば、お前は必ずさらに上手くなる。……しかしそれは親父が俺にしてきたことだ。アイドルになるための教育を施し、もし俺がアイドルになりたくないと拒んでも、決して逃げることはできない」
「俺、そんな風に感じたことなんかないよ」
「もし瑛二が『今』アイドルになりたくないならば仕方ないと思っている。だが将来、瑛二が拒んだならば分からない。許せないかもしれない。瑛二と共にアイドルでありたいがために、俺は瑛二を道具のように扱ってしまうかもしれない――あってはならないことだ」
「そんな……」

 自分を強く持っていない俺は、道具だっていい――とは、歪んでいる気がして言えなかった。でも本当だ。兄のためになれるなら、それだけで瑛二は嬉しい。子どもの頃から目標を持って頑張る兄を近くで見ていた。将来の夢の一つも描けない瑛二にとって、今でも兄は眩しい光だ。だから俺に気を遣わなくていい。アイドルになれと言ってくれたらいい。でも、兄自身がそれを望んでいない。
 しばらくの沈黙のあと、兄が目を細めて言った。

「これまで、二人で色々な場所に行ったな」
「そうだね。ミュージカルに、お芝居に、ジャズのコンサート。兄さんがいろんなところに連れて行ってくれた」
「あの頃……お前が様々な文化に触れて、願わくばアイドル以外の何かに憧れてくれないかと思ったものだ。美術品でも、食文化でも乗り物でも何でも良かった」
「……ごめん」
「責めているわけではない。お前の音楽の才能に触れる度、共にステージに立つことが頭をよぎった。俺はそれをずっと打ち消してきた。お前には、親父や俺に関係なく、本当にやりたいことを目指してほしいからだ」

 ごめん、ともう一度言いかけた言葉を打ち消して俯いた。本当にやりたいことは、まだない。しいて言うならみんなと一緒にいたい。つまり結局、アイドルになりたい。でも兄の言う通り、将来他の夢を抱かないとは限らない。そのとき瑛二を自由にしたいからと兄は心を痛めてくれている。
 もやもやと絡み合っていた糸がほどける。どうして兄さんは俺がアイドルになることをあまり良く思っていないのか。それは、夢も目標もない自分が原因だった。本気でアイドルになりたいと今すぐ宣言できたら良かったのに。

「兄さん、俺……将来の夢とかやりたいこととか、まだよくわからない。東京にだって、母さんが亡くなって、俺一人じゃ暮らしていけないから上京して、自分で何も決めてなくて……。でも今、グループの皆と一緒にいるのは楽しい。歌うのも踊るのも楽しい。俺なりに、一生懸命やってるよ。これが仕事になるって感覚はまだよくわからないけど……でも俺は、俺自身がやりたいと思ってるから、今ここにいるよ。もし今兄さんがアイドルやめても、だからって俺はやめない。……今は、だけど」

 未来の約束まではできないけれど。
 小学生の頃、将来の夢について作文を書いたことを思い出す。授業参観で発表するための宿題だった。母は来られなかったから、家に帰って音読した。
 そのとき書いた将来の夢は、花屋さん。花を育てるのが好きで、香りも見た目もかわいくて好きだったから。安直な理由だ。自分がアイドルになるとは考えもしなかった。アイドルになるには、兄みたいに子どもの頃からたくさんのレッスンを受けなければならないと思っていた。アイドルは兄さんの夢。自分のものじゃない。
 だけど今、もし兄がアイドルをやめると言い出しても瑛二はやめない。遠い未来はわからないけれど、少なくとも今はそう感じている。

「瑛二はまだ高校生だからな」

 月明かりが兄の頬を青白く照らす。同じ高校生の頃の兄と比較すると、自分は何も持っていなくて情けない。でもそれが今の瑛二だから。受け入れて、これからどう生きるかを考えるしかない。

「卒業まで待つ」

 目を見開く瑛二に、兄は「そのとき、お前の夢を教えてくれ」と続けた。

「アイドルがやりたいならば続ける。もし他にやりたいことができたならば……俺は止めない。どれだけ瑛二のことが惜しくとも、新しい夢を応援する。いいな?」
「……うん」

 本当にいいな、と再び強く念を押される。家族に大切にされていると実感できるのは、こんなにも幸福だった。母が亡くなって、しばらく忘れてしまっていたぬくもり。だから瑛二も、当たり前みたいに兄を大切に想いたい。それがなにかはわからないけど、背負っているものを分けてほしい。力になりたい。
 大きな手のひらを両手でぎゅっと握りしめると、「大人になったな」と兄が呟いた。慈しむような深い声音を、この先きっと忘れないだろう。

          *

 綺羅は広い窓に面した廊下の長椅子に座り、月を見上げていた。瑛一が企画した『たこパ』が終わり、おやすみと挨拶を交わして一人になっても、なぜかなかなか寝付けなかった。にぎやかな空気がまだ肌に張り付いている感じがする。
 それに、終わり頃から瑛一と瑛二の姿が見えなくなったことが気になっていた。
 ヴァンは「野暮用や」と訳知り顔で言っていたが、果たしてそれは二人にとって――グループにとってプラスになる用事だったのだろうか。
 一ヶ月ほど前、ヴァンと電話したときに「瑛一がまだメンバーを探しているようだ」と話してしまった手前、罪悪感が働いた。どうしてあんなことを喋ってしまったのか。聞き上手なヴァンのせいではなく、瑛二と同じグループで活動することに期待と紙一重の恐怖を抱く瑛一に、自分が何もしてやれない鬱憤を晴らしたかったのだ。その結果、瑛一に対して直接動いたのはヴァンだった。

「……綺羅?」

 気配は感じなかった。声の方に振り向くと瑛一が立っていて、綺羅の隣に腰を下ろす。

「どうした? 眠れないのか?」
「ああ……。瑛一も、同じか」
「目が冴えてしまってな」

 瑛一は眼鏡を外すと眉間を指で押さえた。セットされていない無造作な前髪が整った顔に影を作る。
 弟のことになると、瑛一はいつも心を乱す。綺羅には瑛一の気持ちを推し量れない。そうするつもりもない。でも何かしら心境の変化があったのだと察した。雲のない空に浮かぶ半月をぼんやりした視界に捉えながら、今、瑛一は何を思うのか。

「月は、綺羅の瞳によく似ているな」
「……初めて……言われた」
「そうか? 初めて会ったときから思っていた」

 黄色くて丸い。でも今日の月は半分欠けている。瑛一と初めて会ったあの夜はどうだっただろうか。
 瑛一の視線は、黙って月を見上げる綺羅にずっと注がれていた。不思議と居心地の悪さは感じなかった。
 瑛二と何を話したのか、訊きたいのに訊けない。瑛一が話したいなら話せばいい。小さな音がして、瑛一が眼鏡を掛け直したと分かった。

「綺羅には心配ばかりかけているな」

 月から視線を下ろすと目と目が合う。

「六人目はもう探さない」
「……瑛一の悩みの種は……消えたのか」

 問うと、苦々しく微笑んだ。そして目を伏せる。眼鏡の奥で長い睫毛が影を落とす。

「気に入ったものには執着してしまう性分でな」

 そんな台詞を前にも聞いたような気がする。

「じきに手放せなくなる。俺のそばから離れると言っても、許せなくなる。……瑛二が何か新しい夢を見つけたとき、俺は本当に、それを応援してやれるのか」
「……瑛二は……何と?」
「アイドルをやりたいと」

 では何も問題ないだろう――と思うが瑛一の悄悄した様子を見るに、一筋縄ではいかないものなのだろう。瑛一は「今は」と付け足すと、短く嘆息した。

「将来を勝手に想像して気落ちするなど、あってはならないことだな。俺は……瑛二に、アイドルを強いたりしない。あいつの人生を決めるのは、俺でも親父でもない」

 自分に言い聞かせるように強く言った。瑛一は月を見上げる。
 言葉が出てこなくてもどかしい。瑛一に何と言えば良いのか探しても、干からびた地面を叩くように何も返って来なかった。こんなとき、ヴァンなら――と考えて、すぐ打ち消した。俺はヴァンじゃない。ヴァンは俺じゃない。
 月明かりを反射したレンズの奥の瞳がどんな輝きを宿しているか、想像もできない。
 ただ暗い色でなければいい。心からそう願う。