愛の女神が俺に微笑んだことは一度もなかった。
光の海。「アンコール!」と叫び続ける天使たちを舞台袖から見渡す。間違いなくこれが絶頂だった。だから幕を下ろすのだ。タイミングを見誤ってはならない。
襟元にファーをあしらったジャケットに袖を通す。アンコールだからといって、ライブTシャツ一枚のようにラフな出で立ちで人前に立ったことはこれまでに一度もなかった。一歩ステージに足を踏み出せば、悲鳴じみた割れんばかりの歓声が波のように押し寄せる。
ラストライブのラストナンバーは当然『LOVE IS DEAD』を選んだ。千九百万枚を売り上げた俺の代表曲だ。未だかつてない快挙。この記録を塗り替える者はきっと現れない。
歌声と、熱狂した天使たちのコールが呼応して会場を揺らす。この上ない快楽だった。
丸く開かれているドームの天井をふと見上げると、夜空に星が散りばめられているのが肉眼でも確認できた。こんな都会の空にも。ペンライトが作る光の渦よりもずっと儚く頼りない。しかし星々の明かりの方が好きかもしれない。そんなことに今更気付くとは。
バンドメンバーが次々とステージから捌けていく。感謝も愛も、再会を誓う言葉もそぐわない。下ろしたマイクを再び唇に近付けると従順な天使たちは森の奥のようにしんと静まり返る。恐ろしいほどの静寂に身震いした。
「俺は命を燃やしたぞ」
音楽に。
そして、天使たちの愛に応えるために。
湧き立つ歓声に見送られステージを後にする。俺の歩く姿を追ったスポットライトがステージ脇ぎりぎりで細く絞られ、すぐに消えた。ドームには公演終了を告げるアナウンスが響いていた。ジャケットを脱ぎ捨てる。お疲れ様でしたと口々にかけられる労いの挨拶に会釈を返す。心臓の高鳴りと背に伝う汗の感触がどうしようもなく疎ましかった。
翌日、テレビのワイドショーも新聞の一面記事もレイジング鳳の突然の引退を大きく取り扱った。今朝事務所がメディアに向けて出したばかりの報告文書、引退理由の推測、全貌を説きますと訳知り顔で語る芸能コメンテーター、ファンへの街頭インタビュー。どれもつまらない。
俺は頂点を極めたのだ。誰も追い付けない売り上げ枚数。他の誰にもできないライブ。俺以外誰も歌えない楽曲。倒す敵もなく目標もなく、進化もない。このステージ上に留まる理由は一つもない。俺は完璧な存在であり続けたのだ。
しかしその半年後、シャイニング早乙女の『愛故に……』が話題をさらった。その歌声は、かつての俺を思わせるほど力強く、何より愛に満ちていた。そして驚くべきことに、売り上げ枚数二千万枚を突破し、『LOVE IS DEAD』の樹立した記録はあっけなく破られてしまった。
伝説となっていたはずの俺に一滴影が落ち、染みとなりみるみるうちに広がる音が聴こえた。『LOVE IS DEAD』は比較対象として取り上げられ、かつて頂点に君臨していたはずの俺の栄光は音を立てて崩れ落ちた。
『愛故に……』の売り上げ枚数に対抗して、一部の妄信的な俺のファンたちが再び『LOVE IS DEAD』を購買する運動を起こしたが、当然ながら二千万枚には及ばなかった。ひどく惨めだった。全てにおいて勝算が無いのだと思い知らされたようで。あの男こそが本物なのだと嗤われているようで。
まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付ける。
レイジング鳳の敗北宣言をカメラに収めたがったマスコミ共は、俺にその意思がないと分かると姿を見せなくなった。無様な泣き顔さえ見せない敗者には誰も関心を抱かない。
俺は確かに負けた。そして復讐を誓った。
たった半年の間に忘れかけていた、闘争心に似た使命感が燃え盛る。
俺が歌を歌うことはもう二度とない。だから勝敗は次に進むフィールドで決めるのだ。あの男が愛を振りかざすならば、俺は愛という重荷を全て捨てて戦おう。
