maize

 巨大なトランポリンに乗せられていた。ちょっと待ってこんなんやったことないんやけど――地上で手を振り見守る瑛一に助けを求めると、頑張れと応援されてしまう。頑張れって何を? 身体は宙に跳ね上がり、着地に失敗してがくりと膝をつく。それでも沈んだ反動でもう一度空中に投げ出され、今度は腹から着地した。痛くない。不思議だ――あ、これもしかして夢なんか? 自覚すると無敵になれた心地で、くるくる回ってみる。できた。やっぱり夢か。ならええわ。

「……ん、んん……?」

 夢の中で夢を自覚すると、そのすぐ後に目が覚める。現実と非現実の境にいたのだろう。目を開けると視界がなんだか黄色かった。窓から差し込む太陽光のせいではない。両目を擦り、ぐるりと部屋中を見渡す。四方向の壁を埋め尽くしていたのは、なぜ統一感を持たせたのか、全てバナナの写真が印字されたポスターだった。わー、おいしそう……じゃなくて。

「なんやこれ⁉」

 部屋を飛び出し階段を下る。ダイニングに向かうと、犯人であろうナギは平然とフレンチトーストを頬張りながら「おはよう」と言った。可愛い顔に騙されそうになるのをぐっと堪え、追及する。

「ワイの部屋にわけわからんバナナのポスター貼りまくったんナギちゃんやろ!」
「そうだけど?」
「そうだけど? やないねん!」
「前からヴァンの寝顔ってお猿さんみたいだなぁって思ってたんだよね~」
「しっつれいやな……」

 ナギの向かいに座ると、おはよう、と瑛二がコーヒーを差し出してくれる。今日の朝食当番は瑛二だ。

「ワイ今日トランポリン乗る夢見てんけど、あれナギちゃんがベッド乗っかってポスター貼ったりしてたせいやな?」
「ヴァンの夢はナギに関係ないもーん」
「楽しそうな夢だね」
「……えーじちゃんはいつもちょっとズレてんねんなあ」

 ブラックコーヒーに何も入れず口を付ける。うまい。

「ナギちゃん、ちょくちょくやるけど何なんこのプチ模様替えイタズラ! 地味に手込んでるのがまた腹立つんやけど! なんでワイばっかり?」
「ヴァンと大和以外はみんな鍵かけて寝てるもん」
「でもやまちゃんにはやったことないやろ」
「寝ぼけて何されるかわかんないし、怖いでしょ?」
「でしょ? って……。人は選ぶんかい。ていうか、この寮の部屋ってポスターとか貼ってええんか? しっかり画鋲で挿しとったけど」
「どうかな……。ナギ、事務所の人に確認してからやった方がいいよ」
「うん、そうする」
「注意するとこそこかい!」

 ごちそうさま、とナギが立ち上がる。

「はよせな学校遅刻するんちゃう?」
「今日土曜日だよ? 今日は夕方から仕事。瑛二、フレンチトーストおいしかったよ」
「良かった。ナギが喜んでくれるの、嬉しいな」
「ナギちゃん、暇ならポスター剝がすの手伝いや」
「暇じゃなーい」

 にっこり微笑み、颯爽とダイニングを出て行く。完璧なアイドルスマイルにやられているうちに逃げられてしまった。テーブルに突っ伏し、長く重いため息をつく。

「……あかん」
「どうしたの?」

 茶色の丸い皿に乗せたフレンチトーストを差し出して瑛二が首を傾げる。ヴァンははちみつを垂らしながらもう一度息を吐いた。

「もっとちゃんと怒らなあかんのに、顔見たらどうも怒る気失せてまう」
「ヴァンってナギに弱いよね」

 困ったように眉をハの字にして笑い「ヴァンだけじゃないか」と訂正する。そうだ、全員ナギに甘すぎる。ぴしゃりと物を言うのは綺羅くらいだ。瑛一はナギが好きなスイーツをしょっちゅう買い与えるし、大和はナギが一階のソファで眠ってしまうと起こさずに部屋に運ぶし。そしてヴァンはこの有様だ。

「年離れすぎてるからやろな、どうも強くいかれへん。こないだもいらんおやつ買ってあげて、綺羅ちゃんに怒られたところやのに。ついつい甘やかしてまうねんな」
「甘えてくるときのナギの攻撃には俺も適わないかも。今日だって、ナギのおねだりでフレンチトースト作っちゃった」
「あ、これナギちゃんリクエストなんや。めっちゃうまいなぁ」
「ありがとう」

 どちらかというと朝食はご飯派だが、朝から手の込んだものが食べられるありがたみは派閥を余裕で超えてくる。

「でも兄さんには、摂取カロリーの計算が合わなくなるから今度からだめって言われちゃった」
「えーちゃんもめちゃくちゃナギちゃん餌付けしとるやろ。チョコレートとかアイスとか、ほぼナギちゃんのために買ってるやん」
「え、ヴァンも結構食べてるよね?」
「図星……」

 あははっとはぐらかすように笑う。瑛二は洗い物をしながら「今日の予定は?」と尋ねた。夕方から三人でレッスンの予定で、それまでヴァンはオフだった。

「んー、部屋に置く棚ほしいから買い物行ってこよかな。あれやったら一緒に行く?」
「俺、今日お昼からオーディションの予定なんだ。良かったらナギのこと誘ってあげてくれない?」
「さっき暇じゃない言うとったで」
「それは多分、ポスター剥がす手伝いがしたくなかったからじゃないかな……。台本読んだりアンケート答えたり、みたいな作業はあるかもしれないけど、夕方まで寮にいるって言ってたよ。最近忙しいから気分転換したいって話してたから」
「わかった、声かけてみるわ」

 ポスター剥がしたくなくて、というのが微妙に癪に障るが、ナギの忙しさを考えるとギリギリ許せた。平日は学校行って、放課後に仕事して、帰って宿題して、土日もほとんど仕事して。夜は外で仕事ができないから、一緒にダンスや歌の練習をする日が多い。そしてその度にナギの成長の早さに驚かされる。一週間ぶりに一緒に踊ると、ナギの動きのキレが上がったことがわかる。過密なスケジュールのどこで練習しているのか。懸命な小さな背中を見ていると、自分ももっと頑張らないとと思うのだ。

 ――だからって、ワイにばっかりイタズラしていいわけちゃうけどな。

 甘やかさない。もう決して甘やかさない。強く自分を律してナギの部屋に向かう。扉をノックしてお伺いをたてると、あっさり「行く」と返事があった。アプリでレンタカーを借り、事務所の最寄りの駐車場で乗車しもう一度事務所へ戻る。ナギに「裏口来て」と連絡を入れる。ナギは裏口に停まったレンタカーを見つけると一瞬目を見開いた。

「車で行くんだ」
「いろいろ便利やし。どっか行きたいとこある?」
「ない。どこでもいい」
「了解」

 じゃあやっぱり車を借りて正解だった。ナギに変装させて電車に乗るより、事務所の車に乗せて行ってもらうより、ヴァンが運転する車の方が道中もきっと楽しい。目的地は決まっているけど遠回りをしよう。カーナビに目的地を打ち込み、事務所の敷地を出て一つ目の信号に引っ掛かり停車するまで、ナギはずっとヴァンを見上げていた。視線が痛い。

「ん? 運転中のヴァンちゃんかっこいいって? ありがとう」
「なにそれ全然そんなこと思ってないし~?」

 軽口を叩くとナギのテンションも上昇する。売り言葉に買い言葉というか、ナギとはいつも小気味いいテンポで会話が進む。欲しいツッコミがズバッと入って気持ちがいい。

「そんな照れんでもええやん」
「照れてない、うるさい、瑛一や綺羅の方がかっこいいし」
「いやいや、大人の魅力ってやつ? まぁナギちゃんにはまだわからんかな」
「じゃあ一生わかんなくていいや」

 信号が青に変わる。視線を感じなくなり、左側を見やるとナギは窓の外を眺めていた。

「……でも、なんか、大人なんだなーって思ったかも」
「そらもう、ナギちゃんの倍くらい生きてるから」

 口に出すと変な感じがした。ナギは今月小学校を卒業する。ヴァンはというと、小中高、そして大学卒業を経て就職と退職を経験し、現在二十六歳だ。年齢差は一回りどころの話じゃない。こわっ、と呟いた声はナギに聴こえなかったらしい。よかった。

「ヴァンってどんな仕事してたの?」

 と、珍しい質問を受ける。ナギにこんな風に興味を示されたのは初めてかもしれない。ダントツで会話量は多いけれど、普段は中身のない応酬ばかりしているから。

「メーカーの営業」

 業種・職種を答える。これでナギにどれだけ伝わっただろう。特に突っ込んでこなかったので、それ以上説明はしなかった。企画書書いて、とか、客先に出向いて、とか、業務を細かく分けると「やっていた仕事」はいろいろとあるけれど。

「何歳だったっけ?」
「二十六歳」
「ちゃんとおじさんじゃん」
「おじさんちゃうわ!」

 秒で突っ込みながら、急所をめった刺しにされた気持ちだった。いや、わかってる。小学生が見たら二十六なんてどう考えたっておじさんだ。自分だって子どもの頃は会社で働いているのは全員おじさんだと思っていたし、大人ってもっとしっかりしていると思い込んでいた。両親って偉大やったな、と改めて感じる。
 高速道路に入る手前の交差点で停車し、「そうやんなぁ」と呟くとナギが視線を上げた。

「え、真剣に凹まないでよ」
「いや凹んでへんけど。年齢は変えられへんし。でもさすがにナギちゃんに言われたら考えてまうわ。このグループでナギちゃんと一緒にやっていくの大丈夫なんかな? とか」

 気にせんといて、と努めて明るく言う。この話題はこれで終わりにしたい。本気で考え込んでしまいそうだから。ナギちゃんが二十歳になったとき、自分はもう三十四歳で……と計算すると恐ろしい。ナギが人生の上り坂を一生懸命駆け上がるとき、ヴァンはもう落ちていくしかない「おじさん」なのかもしれない。
 ETCカードを携帯していなかったので、現金精算用の入り口をくぐった。変わり映えしない窓の外の景色に、思考が無駄なループに陥ってしまう。瑛一に誘われアイドルになると決めたときにわかっていたはずだ。子どもの頃からアイドルを志していた彼らと一緒に波に揉まれていくこと。明らかに子どもの顔をした、ナギや瑛二との年齢差も。
 ねえ、とナギが窓ガラスに向かって言う。

「大人になるのって怖かった?」
「え、うーん……そんな、はい今日からいきなり大人になります、ってわけじゃないし。気付いたら二十六になってた感じやもん」
「そういうものなの?」
「あー……でも、大学卒業したときとか、会社の入社式とか、自分が大人になったって感じるタイミングはちょいちょいあるな。怖いって感覚は今のとこない……というか、さっきナギちゃんとの歳の差再認識したときが一番怖かったかもしらん」
「相対的に怖いってこと?」
「ワイの場合は、やで」

 ふうんと頷く。車線変更してトラックを追い越し、元の車線に戻った。

「ワイは早く大人になりたいって思っとったし」
「どうして?」

 ありえない、と非難めいた声色だった。

「大人ってかっこいいって思っとったから。仕事とかネクタイとかスーツとか、なんかそういう細かい大人のアイテムってかっこよく見えるやん」

 その全てを脱ぎ捨て、ヴァンはアイドルの道を選んだわけだけど。それでいいと思えている今がなんだか誇らしい。

「小さい頃からやりたいことっていっぱいあって、子どもやと色々できひんって思ってたんもあるかな。大人ってなんやかんや自由やし」
「やりたいことって、例えば?」
「今考えたら、そこまですごいことじゃないねん。自由に旅行したいとか、好きな時間まで起きてたいとか、一人暮らしとか車の運転とか」

 しばらくして、ナギが助手席の窓を半分くらい開けた。冷え冷えとした冬の終わりの風が吹き込んできて気持ちがいい。

「ナギちゃんは、大人になるのが怖いんか?」

 びゅうびゅう吹く風の音に問いかけがかき消されたならそれでもいい。けれどナギは窓の外から視線を外し、ヴァンを見上げる。
 成長に恐れを感じているとして、それはそれで子どもらしくて可愛いと思う。今の自分への評価が変わってしまうのではないかと怖くなるのはおかしいことじゃない。大人びていて時々憎らしくて、大人の自分より賢いんじゃないかと思わせられるナギの子どもらしい一面が垣間見えた気がして、特別な感じがする。

「怖いっていうか…………ううん、変わっちゃうのは、怖い、かも」
「うん」
「ナギはずっとかわいいのがいいんだもん。みんなだってそう」

 はっとした。幼い今の楽しさや美しさが失われることを嫌がっているわけじゃなくて、もっとしっかりと根拠のある恐怖だと気付いたから。ナギはプロだ。プロのアイドルとして、周囲が求める自分でなくなる未来を恐れている。

「偉いなぁ、ナギちゃんは」

 前髪をかき上げる。ナギと、昼下がりの太陽光と、どちらもが眩しかった。

「まだアイドルなったばっかりやのに、自分のことめっちゃ客観的に見れとる」
「当たり前だよ」
「当たり前ちゃうよ」
「ナギにとっては当たり前なの。みんなに求めてもらえる帝ナギでありたいから」
「かっこええな」
「ナギはかわいい方がいい」
「いや、でもかっこええよ。同じ男として尊敬する」
「なにそれ」

 視界が開けた、と思うと、青々とした海の向こうにビルが並ぶのが見えた。陽の光を受けきらきら輝く水面の向こうに、決して密集度の高くないビルが生えている。ヴァンは景色を一瞥して運転に集中する。ナギは窓の外に広がる景色に目を奪われていた。
 臨海部を抜けると、ナギは窓を閉めて正面に向き直る。

「ナギはさ、ヴァンの年齢だけ聞くとおじさんだって思うけど、別にヴァンのことほんとにおじさんだって思ってるわけじゃないし……それに、いろんなアイドルがいて、それが面白いって思うよ」
「え、なになに、フォローしてくれてる?」
「フォローっていうか……本心だけど。初めて会ったときより、ヴァンがずっと真剣なんだってわかったし」
「そらもう、人生は真剣勝負やから」
「あと、ナギが何しても怒らないし?」
「別に怒ってへんわけちゃうで」

 上目遣いで茶化されると、うーんまぁいいかと思ってしまうのも事実だけど。

「そらまあ、ナギちゃんはかわいい弟みたいなもんやから。ほんまはもっとびしっとせな、とも思うけど、まだ無理かもしれんわ。厳しいお父ちゃん役は綺羅ちゃんにお任せやな」
「あとヴァン、前髪、下ろすより上げてた方がいいんじゃない?」
「え? そう? 若く見える?」
「若いとかはよくわかんないけど、おでこ出てる方が、ヴァンの明るい印象が伝わりやすいと思う。逆に襟足もうちょっと伸ばしてさ」

 左手でざかざかかき上げ「こう?」と訊いてみる。

「そうそう、かっこいいじゃん」
「え、かっこいい? ほんまに?」

 何気ない言葉尻を捕らえると、ナギが心の底から面倒くさそうに眉をひそめた。

「いちいちそういう反応するのなんなの~? かっこいいとか、デビューしたら何万回も言われるんだから」
「まだデビューしてないから特別なんやんか」
「瑛一に言ってもらいなよ。もっと語彙力使ってうっとおしいくらい褒めてくれるから」
「うーん、それもええな。今度お願いしてみよ」

 褒めて褒めてと年下のリーダーに素直にお願いできるのは、単純に年を重ねてきたからだろう。重荷でしかないプライドはもう捨ててしまった。

「……声も顔も身長も、もうそんなに変わらないのが羨ましい」

 ヴァンはナギの成長が楽しみだけど、そういう話じゃないことはわかった。
 首都高を抜けてしばらく車を走らせ、広大な駐車場の一角に車を止める。

「ナギちゃん、今日はワイが奢ったる。なんでも好きなもの買い」
「え? いいの~? やったー!」

 あまりに無邪気に喜ぶものだから、ヴァンの顔も綻ぶ。なんか欲しいものあんの、と訊くと、ナギはシートベルトを外しながらうきうきと答えた。

「うん! ヴァンに選んでほしいんだよね~」
「そうなん? なになに?」
「次のヴァンの部屋模様替えサプライズアイテム! どんな柄にしよっかなー」
「え、あれまだ続くん?」
「バナナで終わりなわけないじゃん」
「いや、知らんけど。ていうかサプライズちゃうやん!」
「なにがいい? ドラゴンとか~?」
「そんな、小学生のナップサックちゃうんやから」

 言い合う間にマスクとつばの広い帽子、丸眼鏡を装着してナギは準備万端だ。うわあ、このまま車に置き去りにしてゆっくり買い物したい……。

「ヴァン、ドラゴンのナップサック作ったの? ドラゴン大好きじゃん」
「いや、小学生男子はナップサック作るときドラゴン選ぶもんやろ!」
「ナギ、一昨年作ったけど無地にしたよ?」
「はぁ? 大人か!」

 車を降り、また前髪をかき上げる。

「じゃあドラゴンプリントのカーテン買ってもらおっかな」
「そんなん買いません! てか多分売ってへんやろ!」
「じゃあやっぱりヴァンが決めなよ~。でも面白くないのは却下ね、面白いのにしてね」
「う……面白いってフリはずるいでナギちゃん……ッ」

 関西人のしょうもない誇りを突っつききゃっきゃと楽しそうに笑う。
 もうこの際ドラゴンでもいいかも。あぁ、帰ったら一人でバナナ剥がさなあかんのかいな。思い出してげんなりする。
 でも明日から目を覚ます度、今日はイタズラされてへんなと確認してしまうし、部屋の鍵をかけずに眠るだろう。これから始まる模様替えアイテム大喜利を考えると、おかしな話だが、ちょっとだけ楽しみでもあった。