「あっ……かん、もう、限界、かも……」
正面の鏡の中でヴァンが唇を噛み、苦々しい顔をする。同じステップをもう何回繰り返しているだろう。ナギはなんとなく数えていたけれど、百を超えたあたりでカウントをやめてしまった。
「ヴァン、笑顔をキープしろ。ステップが乱れてきているぞ」
「鬼!」
「何より基礎が大切だからな」
中心で踊る瑛一は涼しい顔をして、言葉を発しても息を切らせていなかった。
瑛一、その左右に綺羅とナギ。瑛二、ヴァン、大和、シオンが二人ずつ両端に並ぶフォーメーションはバランスが取れていてとてもきれいだ。メンバー増員によって、ダンスレッスンは基礎練習の比重が大きくなった。七人で美しく見える陣形を崩さないように踊るため、初歩的なステップを全員で合わせる練習を繰り返す。最初に限界を訴えたのはヴァンだったけれど、動きを止めたのはシオンだった。
「シオン、大丈夫?」
隣の瑛二が動きを止めて声をかける。シオンはその場に膝をつき、しかし「もう一度」と気丈に返事をした。
「でも、シーちゃん……っ、膝が、わろとるでぇ……っ」
「おまえもな」
大和がヴァンの膝の裏を軽く蹴る。ぎゃっと短く叫び、ヴァンがその場に崩れた。
「少し休憩にしよう」
瑛一が手を鳴らす。ダンスのステップから流れるように歩き出し、電話をかけてくると言って部屋を出た。シオンは床に膝をついて荒い呼吸をし、ヴァンはその場に仰向けに寝っ転がる。
「二百……六回」
「綺羅、数えてたんだ」
「綺羅ちゃんもえーちゃんも……バケモンかいな……」
「おまえが軟弱なんだろ」
「そら自分らと比べたら、そうかもしれんけど」
胸を上下させるヴァンの横で、瑛二がシオンにペットボトルを差し出している。
「水飲んだ方がいいよ。シオン、一週間でこんなにできるようになるなんてすごいね」
「ああ。そんなにひょろひょろしてんのにな」
と、ひょろひょろとは無縁の大和はまだ元気が有り余っているらしく、綺羅と次のステップの確認をしている。
「しかし……天草がこの流れを止めてしまったのは事実」
「気にせんでええって。ワイもそろそろあかんって思ってたから」
シオンはペットボトルを受け取ると、ごくごくと一気に半分ほど飲み干した。食べ物にしろ飲み物にしろ、シオンがこんなに勢いよく何かを摂取する姿を見せるのは珍しい。
じっと見つめていると、視線に気付いたシオンは立膝のまま方向を変え、ナギを見上げた。ナギはメンバー内で一番背が低いから、誰かに見上げられるのは新鮮だ。シオンはおずおずと手を伸ばし、ナギの手を取りそっと頬ずりをした。
「なっ、なっ、なに!? どうしたのシオン」
「これぞ癒しの波動……。どうか触れさせていてはくれぬか」
「まぁ……いいけど……」
あれだけ動いたのに汗をかいていない頬とこめかみはすべすべしていて心地がいい。仲良しでかわいいなぁ、とヴァンに茶化されても嫌な気はしなかった。瑛二も温和な表情で二人の様子を眺めている。
シオンがここに来て約一週間。彼を七人目に選んだ瑛一の審美眼は間違っていなかったとナギは思う。
シオンの歌声をナギが初めて聴いたのは、数日前の歌唱レッスンだった。
鳥がさえずるような繊細な表現をするかと思えば、大胆で迫力のある歌い方もできる。音域が特に低音部に広く、同じく低音を支える綺羅やヴァンの声との相性も良い。何よりシオンの音楽には独自の世界観がある。彼の悩みや葛藤すら内包するような厚みが。ただかわいく、かっこよく歌うだけのアイドルとは一線を画す表現力。歌の世界から抜け出すと全くの別人になってしまうような憑依型で、そういう部分はちょっと瑛二と似ているかもしれない。自分の光に気付いていない無垢な白さ。
体力面に課題は残るものの、ダンスの技能も及第点と来ている。さすが瑛一、と思う反面、ナギが気になるのは、なぜか自分が特別シオンに懐かれていることだ。誰かに必要とされるのは嬉しいし、やめてほしいわけではないけれど。
「ナギは疲れておらぬのか」
すっと視線を上げて問われる。
「全然! これくらい余裕って感じ~」
「ナギは基礎ができてるからな」
「ああ。俺も……見習わなければ、ならない」
「基本をしっかりしないと何事も始まらないからね」
綺羅と大和に褒められ、えへへと胸を張る。シオンは慈しむようにナギの手を包みながら頷いた。
「天草もさらに基礎に磨きをかけよう」
「ナギちゃん、シーちゃんのお師匠さんやなぁ」
「えーっ、師匠ってなんかかわいくないからやだ」
「シオン、いいお手本がいて良かったね。ナギは努力家だから、俺も頑張らなくちゃって思うんだ」
微笑む瑛二にシオンが頷く。
瑛二とシオンは素直で勉強熱心だから、特に吸収が早い。瑛二だって、未経験で入ってきたのに歌は最初から抜群に上手かったし、ダンスを身に付けるのにもさほど時間はかからなかった。毎日練習を積み重ねた賜物だとナギは知っている。
同時に、でももともとのスペックが違うじゃん、と暗い気持ちも顔を覗かせてしまう。瑛二とシオンの秀でた歌の才能は、瑛一も認めるところだった。そんな二人が自分と同じだけ、もしくはそれ以上の努力を重ねたらどうなるんだろう――と焦燥感が生まれるのもまた事実だ。でもやることは決まっている。ナギがもっともっと努力すればいい。
「あれ、シオン寝ちゃってない?」
瑛二が慌てた様子で顔を覗き込む。
「もーっ、頑張ったらすぐ切れちゃうんだから」
「ナギの手にぎったまま器用に寝てんな」
「シーちゃん、まだレッスン続くでー。基礎頑張るって誓ったところやろ」
三方向からの声掛けにはっと意識を覚醒させる。
「そうだ。天草は基礎を極めるのだ……」
疲れ切った表情で目をとろんとさせながらナギを見上げる。師匠なんて可愛くない呼び名は嫌だけど、努力が認められ、自分もそうなりたいと言われると、やっぱりちょっぴり気分がいい。
その夜、両親にLINEを打ってからベッドに入った。
今週の出演予定。金沢で見られる番組とweb番組をピックアップして送る。返事を待たず目を閉じた。どんな返事が来るかはもうだいたいわかっている。
それから、ふと覚醒したのは明け方だった。
暗い部屋でスマホを点灯させるとLINEの通知が目に入る。両親はナギからの連絡を決して無視しない。体調には気を付けて――とナギの身体を案じる言葉が一行か二行。今日も同じだった。出演予定を送っているのだから「見るね」とか「楽しみ」とか感想とか、そういう類の返事がほしいけど、それは言わない。両親が自分の出ている番組を見てくれているのかすら怪しい。見てないと言われるのが怖いから、訊いたことはなかった。
ナギはこんなにかわいいのに、見ないなんてもったいないなぁ――と冗談を自分に言い聞かせ、強がってごまかす。暗い気持ちになりたくない。
カーテンを開けると日が昇っていた。暗闇が光に飲まれるのを見つめ、バルコニーに出た。鳥のさえずりが聴こえる。木々がざわざわと立てる音も。そしてそれに混じって歌声が聴こえた。
「……シオン?」
シオンの部屋はナギの部屋の真下だ。手すりを握って下向きに声をかけると、鳥が何羽も散り散りに羽ばたいていくのが見えた。
「ごめん、驚かせちゃった」
「否、天草は窓の開く音で気が付いていた」
「起きるの早いね」
「なぜか目が覚めてしまったのだ」
「シオン、二度寝する?」
返事はしばらくなかった。悩んでいるのだろうか。表情が見えないからわからない。
「そっち行ってもいい?」
訊き方を変えると、すぐに「もちろんだ」と返事があった。
スマホをベッドに放り部屋を出る。階段を降りる足取りは軽かった。どうしてだろう。シオンと朝陽が昇るのを一緒に見られることが、なんだか嬉しい。
部屋の鍵は開いていた。ドアノブをそっと下げる。一週間経ってもシオンの部屋には物が少ない。必要最低限あればいいのだと言っていた。瑛二からもらったという小さな鉢植えがウォールラックに置かれている。シオンの雰囲気にもこの部屋の無機質な感じにもよく合っていて、瑛二のセンスの良さが光る。バルコニーに続く窓は開いていた。
「窓開けっぱなしにしてると虫が入って来ちゃうよ」
「天草は気にせぬ」
窓を閉めて隣に並ぶと、シオンは目を伏せそう言った。おはよう、と改めて挨拶を交わし、二人で空を眺める。夜の色は生命力に満ちた太陽の色にどんどん飲み込まれていく。
「もしかして、シオンはいつもこんなに早く起きてるの?」
朝日を見つめる穏やかな瞳になんとなくそんな気がして問いかけた。シオンは空から視線をスライドさせ、ナギの顔をじっと見つめる。
「ここに来てからは、よく眠れるようになった」
「ここに来てからは?」
「天草は毎晩夢を見ていた」
シオンは目を細め口角を上げた。決して笑顔ではない。困ったような諦めの表情だった。すっと空に視線を戻し、歌うように語る。
「過去の夢だ。両親、我に宿ったと言われし力、天草が傷付けた者たち……。物語を辿るかのように夢に見るのだ」
「それで目が覚めちゃうの?」
「ああ。その夢の区切りの良い部分で、いつも早朝に目を覚ましていた。しかし瑛一やナギと出会ってから、少し変わった」
空は宵闇と朝陽の比率がちょうど半々くらいになった。あたりに集う鳥たちはシオンの邪魔をしないようにさえずりを自重しているように見えた。それほどに静かだった。風の吹く音が耳に響く。
「夢に皆が現れるようになった。これまで見ていたのは実際に起こった出来事であったが、HE★VENSの皆が何処かで顔を出すのだ。だから天草は、眠るときも目を覚ますときも恐れを抱かぬようになった」
「じゃあ今日も、怖くて起きたわけじゃない?」
念押しのように訊くと「ああ」とシオンは微笑んだ。その肩に一羽の小鳥がとまる。
シオンにとって夜もやがて来る朝も恐ろしいものではないと知って安心した。ナギは自分と比較せずにいられなかった。ふと、自分が両親を夢に見たことがないと気が付く。シオンの夢には仲間が現れるようになったというのに、自分の夢には両親すら登場しない。その違いに苦い気持ちになった。
「シオン、ここに来て楽しい?」
紫色の瞳が鮮やかに輝いた。とても、と頷き空を見上げる。
シオンが明るい表情を見せるとナギも嬉しくなる。隣で同じ時間を過ごし、互いにそれを楽しいと感じられることが幸せだ。シオンをここに連れてきたのは瑛一と自分だと自覚がある。だから少しでも多く笑っていてほしい。HE★VENSの一員になる選択を、間違っていなかったと思ってほしい。
「ナギの話もしてもいい?」
「もちろんだ」
シオンはぶんぶんと首を縦に振った。感情が顔に表れにくいシオンが時折見せる、こういうストレートな行動が好きだ。しかもそれはまだ瑛一とナギにしか見せられないものだから、優越感を感じてしまう。HE★VENS全員が早く打ち解ければいいと思うのもナギの本心で、でも自分だけ特別がいいと願ってしまうのもまた本心だった。
何でも話したいし何でもしてあげたい気持ちが自然に湧いてくるのは、やはりシオンに人を惹きつける不思議な魅力があるからだろうか。自分だけがもっとシオンを知りたいと感じてしまう。そして、自分をもっと知ってほしいとも。
「別に、大した話じゃないんだけど……」
と、思わず前置きを挟んだ。シリアスにならないようにあえて言葉を軽くする。
「ナギってなんでもできちゃって天才でしょ? でも……ううん、だから、かな、パパとママはそんなナギが不思議で仕方ないみたい。教えられてないことができたり、学校のテストはもちろんいつも満点だったり、そんな些細なことなんだけど」
だからナギの周りの世界はつまらなかった。先が予想できる予定調和。簡単に動かせないし読み取れないのは人の心だ。ファンの心を動かすアイドルの仕事は難しくてとても楽しい。
「いつの間にか、パパとママにちょっと怖いって思われちゃったみたい。ボクも、学校とか家族とか、身の回りの世界が全部つまんないって思ってて、気づいたらパパとママとボクの間に溝ができてた。今もボクのステージ、全然観に来てくれないんだよ。ナギは……二人が見ていてくれたら、それだけでいいのに」
何でもすぐ習得できるんだから、両親の動揺や感情の機微も察知できれば良かった。でも幼い頃のナギは両親が自分を恐れるとは知らず、知識を吸収し、人生がつまらないとため息をつきながら暮らしていた。じわっと涙がこみ上げてきたのを堪える。
シオンの手がぽんぽんと頭を撫でる。肩の小鳥が愛らしい声で鳴いた。
「ナギはかわいい」
肩を抱き寄せられ、シオンの胸元に額を埋めた。目を閉じていても朝陽が眩しいのがわかる。その昔、不思議な力が宿っていると言われた手のひらで背中を撫でてくれる。怪我や病を治す力がなくても、ナギにとっては十分力が感じられる手付きだった。
「ナギは努力している。だから何においても完璧なのだ」
しばらくじっとしていると、背中に触れるシオンの手の震えに気付く。きっとこんな親密な触れ合いには慣れていないんだろう。ナギを励ますために抱きしめてくれているのだと思うと、シオンの愛情の深さが素直に胸を打った。
「ナギは天才かもしれぬが、才能だけではない。頑張っている。天草にはそれが分かる。天草はいつもナギを見ている。ナギは、とてもかわいい」
「……ありがと、シオン」
顔を上げる。シオンの慈しむような表情が神様みたいだ。
朝陽がきれいだね、と互いに腕をほどき空を見る。シオンはじっとナギの横顔を見つめていた。それにすぐ気付いたけれど、何も言わない。このままずっと見ていてほしい。シオンが今、何を考えているのかナギにはわからない。だからこそ、なんらかの感情を孕んだ視線を送っていてほしい。
両親へのLINEの返信を考えながら目を閉じる。二人を照らす朝陽が痛い。努力をひけらかすのは好きじゃないけど、レッスン頑張ってるよと送ってみるのもいいかもしれない。それに対する両親からの返信はきっと芳しくないだろう。でもいいんだ。そばにいてくれる仲間がいる。背中に優しく触れてくれる手がある。
シオンを黙って見上げると目が合い、紫の瞳を細めて泣き出しそうな顔で笑った。
ナギを見てくれるひとがいる。それはとてもあたたかく、かけがえのないことだった。
