夢の息吹

 瑛一宛にナギから手紙が届いたのは、雪のちらつく一月だった。
 事務所宛のファンレターに紛れていた封筒の「帝ナギ」という可愛らしい丸文字を見ても、すぐにはあの日出会った可憐な少年とは結び付かなかった。

 ――こんにちは。十月二十四日にお台場のテレビ局の前で会った、帝ナギです。

 律儀な書き出しに、あの少年の名前か、と思い出す。
 色付いた秋の木々に映える美しい髪の色。代わり映えのしない毎日がつまらないと嘆きながら、大きな瞳が澄んでいたこと。彼と高みを目指し歩んでいければ素晴らしいだろうと希望を抱いた。しかしあの日ナギの返答は曖昧で、もう会うことはないだろうと諦めかけていた矢先だった。

 ――あれから、瑛一が出てる番組をいくつか見たよ。あんまり映ってなかったけど。テレビに出てる人って楽しそうでキラキラしてて、いいなぁって思ってたけど、瑛一に会っておしゃべりしてから、ナギたちが見てる画面の中に映るのって大変なんだろうなって思った。

 罫線いっぱいに書かれた文字の後ろに、小さな点がいくつも連なる。次に何を書こうか迷ったのだろう。黒いペンで書かれた文字は、一行の空白を作ってから続いた。

 ――ナギもやってみたいって思った。パパとママにも話したよ。二人とも、応援してくれるって。だからまずは金沢でそういう活動ができる場所を探すつもり。いつか瑛一と一緒にテレビとか出れたら楽しいよね。だから、

 便箋はもう一枚あった。けれど続きを読むより先に瑛一は立ち上がっていた。誰もいない一人の部屋で「だめだ」と口走り、己が冷静さを欠いていると知る。だからといって一度高まった熱はすぐに収まらなかった。便箋を握りしめた手が震える。テーブルに置いておいた封筒をひっくり返して差出人の住所を確認する。あの日、ナギの連絡先を聞いていなかった。手掛かりはこの住所と――出会ったとき、ナギが背負っていた小さなリュックサックから見えた修学旅行のしおりに書かれた小学校の名前だけ。それも特別気にしていたわけではないのでうろ覚えだ。
 手紙を鞄の外ポケットに突っ込み、コートを羽織って事務所を出た。通りでタクシーを捕まえ東京駅に到着すると何の躊躇いもなく切符を買って新幹線に乗り込む。手紙を読んだのが夜じゃなくて良かった。東京と金沢を結ぶ寝台列車が走っていたのはもうずいぶんと昔の話だ。

 北西に向かって進むにつれて窓の外が白く霞んでいく。景色が変わりゆく様を眺めていると、咄嗟の衝動でとんでもない行動に出てしまったと思い知らされるようだった。駅のホームで購入したホットコーヒーを飲みながら、そういえば手紙にはもう一枚続きがあったと思い出す。
 だから、の文字で途切れた二枚目をめくる。ナギからの言葉はこう続いた。

 ――瑛一と違うかたちで会えるときまで、もう手紙は書かないことにします。今、ボクはただの小学生だけど、でも瑛一はボクにとってのセンパイになるから。あの日、声をかけてくれてありがとうございました。うれしかったよ。

 文末に記された日付は二日前だった。角を揃えた丁寧な便箋の折り方からもナギの几帳面な気質が感じられる。
 最初で最後になるはずだった手紙。ナギは瑛一との再会をどんな風に思い描いているのだろうか。別のステージで、互いに立派なアイドルとして? そんな未来はとてもじゃないが想像できない。ナギが同じ舞台を目指すと言うのならば、その場所は瑛一の隣であってほしい。それは身勝手な望みだろうか。

 ナギが通う小学校の校門付近に到着した頃にはちょうど下校の時刻を迎えていた。
 冬の日の入りは早い。空はオレンジと紫の薄いグラデーションになっていて、まだ二割ほどの紫の比率が高くなるのも時間の問題だ。最悪帰りは明日になってもいい。ただ、下校のタイミングを逃すと自宅に押し掛ける羽目になるだろう。それは避けなければならない、大人として。
 校門を出てすぐ右と左へ道が二手に分かれているので、どちらも遠目に見える位置を陣取りあとはナギが出てくるのを待つだけだ。
 ここまで来て引き返すつもりはなかったが、逆にここまで来てしまったからこそ、不審者すれすれな行動をしてしまっていると自覚した。写真を撮っている風には絶対に見えないよう、待ち合わせをしているふりでスマホの画面に視線をやり、時々校門の方に目を向ける。蛍光色のベストを着用して校門の前に立つボランティアらしき大人には幸い怪しまれていないようだった。

「…………なにやってんの?」

 低い位置から声がのぼってくる。振り返る。と、深い茶色のランドセルのベルトを両手で握ったナギが、訝しげな顔をしてこちらを見上げていた。

「大人が一人でこんなところで突っ立ってたら不審者にしか見えないよ? ていうか何してんの?」

 瑛一の胸に、言葉にできない確信が芽生えた。この出会いは偶然ではない。運命だ。曖昧に描いた未来がここから始まるのだと。

「ナギに会いに来た」
「ええ? そのためだけに? 仕事のついでとかじゃなくて?」
「ああ」
「え、怖いんだけど」

 堪えきれなかったのか、ナギはたちまち破顔して背を丸め笑い出す。

「ふつうわざわざ来る~?」
「仕方ないだろう。電話番号も知らないし、手紙の返事ではタイムラグが生じるからな」
「だからって来ないよ、おかしいでしょ」

 歩こっか、とナギが自然に手を取る。

「門のところにいるの、地域パトロールのおじさん。不審者が多くて物騒だから、学校が終わった時間にはいつも立っててくれるんだ」

 と、空いた方の手をその地域パトロールに向かって振る。心配ないと伝えるように。それに合わせて瑛一が会釈をすると、派手なベストを着た初老男性はにこやかに頭を下げた。

「親子に見えたのかな」
「兄弟だろう」
「だね。ナギのパパ、もうちょっとおじさんだもん」

 ナギは繋いだ手を解こうとしなかった。信号を渡って角を曲がるとまた同じベストを着た女性が立っていてその理由を悟った。
 背の低いナギに合わせて腰を折りながら「手紙を読んだぞ」と話しかけた。ナギはこくりと頷く。

「もったいないと思ってな」
「なにが?」
「ナギ、東京に来る気はないか?」
「……え?」

 ナギは立ち止まり、瑛一を見上げ大きな瞳を瞬かせる。けれどどこか、そう誘われるだろうと予感があったのではないかと伺える表情でもあった。瑛一がここに来てまで伝えたいことなど他にはない。

「ナギと同じ舞台に立ちたい。いつか共演者としてではなく、仲間として」
「なんで? どうしてそう思うの?」

 どちらともなく手と手を離す。

「瑛一がそう言ってくれるのがイヤとかじゃなくて……ナギは、初めて会った日も、たまたまテレビに出てる人と会って話しただけって感じだったし、手紙だって、あのとき瑛一と話してから色々考えて、ナギも瑛一みたいになりたいって決めたってことを、なんていうか……一方的に伝えたいだけで……。瑛一がナギにアレコレ言ってくれるのって結局なんで? って思うし……うーん……これってスカウトっぽく見せかけた詐欺? とか思わなくもないっていうか……でもそれならわざわざ金沢まで来ないもんね?」
「……何が言いたい?」
「えーっと……瑛一ってナギのどこがいいと思ったの?」
「瞳だな」
「瞳? 目ってこと?」
「あぁ、希望に満ちたその目がいい」
「……そんな理由で東京から金沢に来ちゃったの?」
「そんな理由とは何だ」
「怒んないでよ。もうワケわかんないんだけど」

 呆れたのかナギが小さく息を吐く。東京から金沢まで、突然会いに来たことは責められて然るべきかもしれない。不審がられても仕方がない。しかし、それ以外に否定される理由はないはずだ。会いたいから会いに来た。伝えたいから伝えた。共に活動したいから誘っている。瑛一にとってはそれだけで、懐疑的なナギの瞳になぜこんなにも信用されていないのかと疑問を抱くほどだった。
 背の高い瑛一を見上げているから、紫色が明るいオレンジを飲み込んでいく夕焼けの色をナギの瞳が映す。ライトを当てられていなくても無数に光を反射させたように燦然と輝くその色はこの世界の全てを虜にしてしまう。本気でそう思った。
 当然の如く美しいものを前に、その尊さをどう伝えるべきか、その術を瑛一は持っていないのかもしれない。そう思うほどにナギに彼自身の価値がなぜか伝わらない。

「変なの」

 微笑を浮かべ目を伏せる。まぶたと長い睫毛が瞳を覆い隠しても彼の輝きは失せない。

「ナギのこと、なんにも知らないのに」

 再び歩き出す。狭い歩道をナギの後ろに着いて進み、小さな児童公園に差し掛かった。ナギより二、三歳くらい年下の子どもたちが遊びまわる声が周りのマンションに反響してよく聴こえた。

「ナギ、すごい歌が下手かもしれないし、ダンスもできないかもしれないんだよ」
「そんなもの、努力で何とでもなる」
「瑛一が言うとそうかもって思っちゃうんだよね。不思議」
「……努力するつもりはあるんだろう、ナギ」
「もちろんだよ」

 低い位置でピンク色の髪がふわりと揺れる。
 瑛一はさ、と、今度はぐっと顔を上げてナギが言う。

「やっぱり変な人だよね」
「そうなのか?」
「うん。ナギ、パパもママも先生も、親戚のひとたちも知らない大人も、みんな、ナギにどうしてほしがってるかわかるもん。どんな子でいたら褒められるとか、空気を読むっていうの? そういうの、小さいときからなんとなくわかってた。だからずっといい子でいたよ。人ってなに考えてるのか、ボクみたいな子ども相手だと全部顔に出てるし、わかりやすくて単純。毎日ほんとにつまんないってずっと思ってた」
「ナギは頭が良いのだろうな」
「そうみたい。自分で言うのもおかしいかもしれないけど。でも瑛一と話してると、この人なにが言いたいんだろって思うし、ボクが想像できないことばっかりするから、変な人なんだろうなーって」

 ボク、と言葉を区切って息を吐く。

「瑛一と喋ってると、全然退屈じゃなくて楽しいかも」
「それは何よりだ」

 ナギの心が小さく開けたのが見えた気がした。その隙間に指を差し込みこじ開けたくなる。跪くような姿勢でナギの目の前に膝をつくと、「えっ!」と驚いて丸くなった瞳が愛おしかった。

「ほらやっぱり絶対変!」
「ナギ」
「……な、なに?」
「俺はナギの人生を退屈にさせない。もうつまらない気持ちにはさせない。約束する」

 厚手のコートから覗いた右手を取って強く握る。約束ならば何らかの証が必要だろう。しかし何も持っていないから、きつく握りしめて誓うつもりだった。
 ナギに信じてほしい。俺と共に来ればつまらない日々が少しは楽しくなると感じてほしい。その一心で。
 けれどナギは手をぎゅっと握られたまま、声をあげて笑い出した。

「……何だ」
「え、だって……そんな、こ、告白みたいなこと、言われると思わなくて……瑛一、すっごい真顔だし」
「真面目な話をしているのだが」
「そうなんだよね。わかってる、わかってるよ」

 困ったような笑顔も、今それが最適だと分かった上で作られているのかもしれない。目の前の少年にまた興味を強くそそられてしまい参った。どうしても口説き落として、首を縦に振らせたくなる。名前を呼ぶために口を開くと、それより先に彼が言った。

「瑛一にひとつウソついちゃった」
「嘘?」
「手紙にね、パパとママが応援してくれてるって書いたでしょ。あれウソなんだ。放任っていうの? ナギのうちはずっとそう。やりたいなら好きにしていいよって感じで、勉強もスポーツも習い事も、どれだけナギが頑張っても二人が応援してくれたり、褒めてくれることなんてないんだ。友達も先生も、ナギならできて当たり前って感じで……。……まぁ、ナギは本当になんでもできちゃうんだけどね」
「ナギの努力の賜物なのだろう。努力せず何でもできる人間などいないからな」

 うん、とナギが笑う。

「瑛一が一緒にやりたいって言ってくれてすごく嬉しかった。アイドルになりたいって思ったの、間違いじゃないってわかったよ」

 自分に言い聞かせるみたいに目を閉じる。

「信じるよ」

 次に目を開けたときには、丸く大きな瞳に爛々と自信の色が浮かんでいた。自分を信じて、まだそう長くない人生を着実に歩んできた証拠。穢れを知らない豊かさが愛おしく、とても眩しい。

「瑛一のこと、信じる。瑛一が言ったことも信じる。ナギの人生、もう退屈じゃなくなるって信じる。それに……瑛一がそう言ってくれたことに、ちゃんと応えるよ」

 改めてナギが握手を求める。一回り以上小さな手を包むと「よろしくお願いします」と頭を下げてみせた。こちらこそよろしく、と礼をする。空にはもう夜が訪れ、淡い紫一色に染まっていた。

 両親が放任とはいえナギは未成年なので、両親にちゃんと説明をし、上京はその返答待ちとなった。
 スマホから事務所のパンフレットと入寮案内のデータを送り、東京行きの新幹線をホームで待つ。最後まで「ほんとにこのためだけに来たんだ……」と呆れかえるナギの表情は心なしか嬉しそうだった。

 ナギに諸々の情報提供を済ませ、明日のスケジュールを確認。そしてシャイニング事務所と早乙女学園の公式サイトをチェックする。今年の卒業オーディション日程が発表されていた。オーディション自体の一般公開はないが、毎年このオーディションに合格した数名のアイドル候補生と作曲家候補生がシャイニング事務所の準所属となるらしい。
 以前父から名前を聞いた七海春歌という生徒は、どうやらパートナーのアイドルを決めかねていると、早乙女学園生が密かに集うとある掲示板に書かれていた。彼女にパートナーの申し込みをした六人の生徒――一十木音也、聖川真斗、四ノ宮那月、一ノ瀬トキヤ、神宮寺レン、来栖翔。彼らの名前も、書き込みを遡っているうちに判明した。
 一人の作曲家が一人のアイドルと組むのがルールだから、この六人のうち五人はパートナーを見つけられず卒業オーディションを受けられないだろう……というのが、スレッド内の見解だ。
 瑛一は、その六人、そして七海春歌の名前を、忘れぬよう頭に叩き込む。父が提唱した一つの可能性はまだ消えていない。

 電光掲示板の文字が点滅して、新幹線到着のアナウンスが流れる。と、見計らったようにスマホのディスプレイに「着信」と文字が躍った。その主は――皇綺羅。

「鳳さん。突然すまない。実は――」

 車輛がなめらかにホームに滑り込む。
 綺羅の閑やかな低音はその音にかき消されてしまう。

「悪い、もう一度――……」

 ゆるやかに停車した新幹線の乗降口が開く。
 アイドルを目指す、と、彼ははっきりと言った。
 その一言で、目の前で乗降口が静かに閉まることさえ気にならなくなった。

          *

 駅まで送りましょうか、と使用人の申し出を断ると心なしか悲しげな表情になったような気がして動揺してしまった。ただ考え事をしたかっただけなのに。
 綺羅は普段あまり使わないイヤホンを耳に突っ込み、スーツケースを引いて駅へ向かう。流れる曲は『LOVE IS DEAD』だ。
 信号待ちをしていると、通りに面した分家の屋敷の二階からこちらを見下ろす女と目が合った。狭い田舎町だ。綺羅の上京はすぐに知れ渡るだろう。
 両親には、少し嘘をついた。
 鳳瑛一に出会い、レイジングエンターテインメントの見学に行ったことは包み隠さず話した。音大進学を考えていたが、芸能事務所に所属して音楽を学びたい――と説明すると、両親は表情一つ変えず頷いた。
 音楽や芸能を学び、その後は家業を継ぐ。そのための勉強も欠かさない。
 両親と目を合わせ、頭を下げた。畳に額を付けると懐かしい香りがした。
 一時間に一本の電車がホームに入ってくる。振り返ると、駅舎に植わった何本もの銀杏の樹の枝がさざめいた。すっかり葉を落とした冬の装いで、細い手を振るように。
 俺は、ここに帰るつもりがあるのだろうか?
 今は、一応、ある。
 音楽を将来の目標に据える可能性はないと言い切れるのか。
 それはまだ分からない。
 自問自答を飲み込んで、空いた電車に乗り込んだ。窓の外の景色が駆ける速度で変わっていく。
 今生の別れにするつもりなどなくても、次に戻るときには後ろめたさを抱いているかもしれない。だから、見慣れた町の様子を早く忘れてしまいたい。
 焦燥に目を伏せる。空は青々としている。冬のよく晴れた午後だった。