今でもあの日のことをよく覚えている。
寒さの厳しい冬だった。
眩しいスポットライト。五万人を収容できるホールは一面紫色のペンライトに埋め尽くされ、夕暮れの海のようだった。すその長い純白の衣装をまとった瑛二が大きな花束を片手に最後の挨拶をする。
大和はそれを黙って見つめていた。
隣に立つシオンの白い髪が頼りなく揺れる。泣いているのだ。気が付いて肩を抱き寄せるとその姿が大型モニタに映され、客席に涙が伝播していった。
スタンドマイクを前にしていた瑛二がその様子に気付く。
しかし、彼は泣かない。
みんなありがとう、と笑顔で言った。
――七年間、本当に幸せでした。本当にありがとう。
瑛二が振り返ると、床についた衣装のすそが波打つ。スタンドからマイクを取り外し、綺羅から順にメンバーの名前を呼んだ。ナギ、ヴァン、シオン、大和。そして、兄さん。
一が鳳瑛一で、綺羅、ナギ……と続き、七が天草シオン。誰かが指定したわけではないが、そう並べられることが多かった。大きな理由はない。ただの加入順だ。だからシオンと自分の名前の順を入れ替えられて心臓が跳ねた。特別な意味はきっとない。名前を呼ばれ目が合ったのに、すぐに瑛二の視線は兄の方へと移された。
その時、瑛二がなにを言ったのかもう覚えていない。紫のライトを背にした彼がひどく美しくて、触れたいと思った。コンサート終盤、時刻は二十時。あと四時間もすれば好きなだけ触れられる。
ものを吸い込む機械音で目が覚めた。二週間前に引っ越してきた上階の住人だ。スマホで確認すると時刻は二十二時。こんな時間に掃除機なんてかけんじゃねぇよと思わず舌打ちした。小さな子どもが二人いるとかで、走り回る音が昼間に聴こえてくることもある。子どものすることは可愛げもあってまだいいのだが。
革張りのソファに寝転がったまま、そういえばうちはどうだろうと考えてみる。主に夜の深くなった時間のことを。角部屋ではないし、窓を開けてベランダに出れば隣のマンションに陽光を遮られる悪条件からか、下の階に住人が入ってきたことはない。もし新しい住人が来て、瑛二がそれを気にするなら引越しを検討すればいいだけのことだが、この掃除機の音を聴くに、騒音レベルでの迷惑行為になるかもしれないとふと思った。
スマホの画面を再び点灯させる。瑛二からの連絡はない。二年ほど前に大和の家に転がり込んできてから、瑛二が帰宅の連絡を寄越さないのは、職場からまっすぐ帰宅する日か兄と出かける日だけだ。明日は互いに休みだし、瑛二ももういい大人なので、遅くなるなら連絡しろと親みたいなことを言うつもりはない。
スマホをフローリングに乱雑に転がす。その行為から、自分が不機嫌になっているのだとわかった。
上半身を起こし、乱れた髪をかきむしる。背中に嫌な汗をかいていた。季節はすっかり冬なのに、あんな――瑛二がHE★VENSを卒業した日の夢を見てしまったからだろうか。
薄暗い部屋で、テレビを置いたラックに飾った写真の中の瑛二と目が合う。
メンバーカラーである紫色の花の刺繍が施された純白の衣装に身を包み、カメラに笑顔を向けている。ウェディングドレスみたい、とナギが呟いたのが印象に深く残っていた。タキシードではなく、ドレス。パンツスタイルだったが、その言葉は適切だった。その隣に、灰色の軍服風の衣装を纏った瑛一の姿がある。七人でも写真を撮ったのに、部屋に飾られているのは兄とのツーショット写真だ。瑛二のHE★VENS卒業公演の日の一枚。
まるで結婚式での記念撮影のようなそれを、大和と暮らす家に飾るとはいい度胸だ。瑛二の心情を知っている身としてはやめろとは言えないが、もう少し配慮できないものか。
すでに洗っておいた浴槽に湯を溜め始め、キッチンで水を飲んでからソファに戻る。肩まで浸かれるくらいにするには十五分と少しかかる。
瑛二がHE★VENSから卒業し、芸能界を引退したのは一昨年の冬だった。来月できっかり二年経つことになる。
卒業の二年前、瑛二が二十二の頃から始めたフラワーアレンジメントブランドのプロデュースが軌道に乗り、今後はそちらの業界に注力していきたいから、というのが公表された卒業理由だった。メンバーにも同じ理由が説明され、鳳瑛二は惜しまれながら芸能界を引退した。
減員を経験していないグループの方が稀だと言われるくらい、アイドルグループのメンバー増減は日常的に行われている。HE★VENSも当時は六人で活動を継続していく予定だったが、小さなきっかけがたまたま積み重なって、同じ年の春にグループでの活動は呆気なく幕を下ろした。
レイジング鳳による息子の突然の引退への当てつけだとかメンバーの不仲説だとか、ソロ活動に意欲を見出し過ぎたメンバーがいるだとか、週刊誌などは想像力をたくましくして書き立てたが、少なくとも大和には、解散にとりわけ大きな理由があるようには思えなかった。引退したメンバー以外は今でも同じ事務所に所属しているし、内外問わず、仕事で顔を合わせることもしょっちゅうだ。ヴァンなんか、事務所でばったり会うのも含めると一週間に一度は必ず顔を合わせている。
そうだ、と思い出してLINEを開いた。ヴァンからの連絡をすっかり無視していた。他愛ない話題なので返事はいつでも構わないのだが、昨日から既読のまま放置している。短い返信を送ると見計らったように充電が切れた。スマホを充電器に繋いで再び風呂場へ向かう。
まだ半分くらいしか湯は溜まっていなかったが、服を脱いで浴槽に身を沈めた。もともと大和は冬でもシャワー派だったが、体を冷やすからと瑛二に入浴を勧められ、習慣づけられてしまったのだ。
百八十センチをゆうに越えた体躯にとって、浴室はとにかく狭い。両脚をぐっと曲げ、あふれないぎりぎりのところで湯を止めた頃、部屋の鍵が開く音が聴こえる。瑛二が帰ってきた。
扉が閉まり、鍵がかけられる。ここまでの音は聴こえるけれどスリッパに履き替えた瑛二の歩く音まではわからない。洗面所の引き戸が音を立てて開き、手を洗いに来たのだろうと思っていたら浴室の扉も開けられた。
「ただいま」
「おう、のぞきか?」
「うん。俺も入っていい?」
「いいぜ」
二人で風呂に入るのは特別珍しいことではない。
かけ湯をして瑛二が浴槽に身を沈めると、水位が上がって湯があふれた。大和の両脚の間に挟まった細い身体を後ろから抱く格好にする。首筋にあたった頬はまだ冷たかった。
もっと広い風呂のついた部屋に引っ越そうかと提案することはできない。時に気まぐれな猫みたいな瑛二の行動を強要してしまうようで。行ってきますと朝瑛二が出て行って、もしそのまま帰って来なければそれで終わりになるような関係だった。部屋に瑛二の気配を感じるのは嬉しいが、残り香は一切置いて行かないでほしい。いつか来るかもしれない別れをなぜか常に想像してしまう。
「大和、明日どうしよっか。休み被るの久しぶりだね」
「どっか行きたいとことかあるか?」
「んー……、特にないかな」
あ、でも、と大和の膝をくすぐりながら続ける。
「冷蔵庫の中ほとんどなんにもないから、スーパーに行きたい。夜はお鍋にしようよ」
「おう、じゃあ買いもんな」
まるい頭を撫でる。瑛二は微笑んで、首を傾けると大和の首筋にキスをした。いつも瑛二からのくちづけが引き金になる。耳元で「するか?」と囁くと小さく頷く。
抱き合い、キスをしながら洗い場へ移動する。もう何回この行為を二人で繰り返しているかわからない。アイドルをやめてますます細くなった頼りない身体にくまなく触れる。密着すると、ほんのりアルコールの香りが漂った。
ここで事に及ぶのは初めてではないので、潤滑剤はあらかじめ用意してあった。ジェルを手に取り、ゆっくりと後ろを解してやる。壁に両手をつき背を向けた瑛二は顔だけ振り返り、二人は延々とキスを続ける。
腰を突き出させ、侵入を試みると交合はあっさりと果たされた。ゆるやかに抜き差ししながら膨らんだ瑛二の性器を扱く。砕けてしまいそうな腰をしっかり支え、奥を抉る。
「あ――、ぁあっ……」
一度目の放出はすぐだった。瑛二の身体が小刻みに震え、声にならない声みたいなものと共に白濁が吐き出される。達したのだとわかりながらも高め続ける。狭い浴室に響く嬌声に、耳までとろかされる。瑛二の声が好きだ。
「大和、またいっちゃう……っ」
欲しがってきゅうきゅうと吸い付いてくる瑛二の中は気持ちが良すぎて、大和も限界だった。
瑛二の二度目の射精のあと、引き抜いて床へと精を放つ。熱いシャワーを浴びながら抱き合って、何回もキスをして、すっかりくたくたになった瑛二の身体を拭いてからベッドに運んだ。下着とパジャマを着せてやり、分厚い掛け布団を鼻まで上げる。
脱衣所の棚の上に、瑛二が着て帰ったらしいスーツのジャケットとパンツが簡単に折り畳んで置いてあった。グレーの控えめなストライプ。それらを寝室に運んでハンガーに吊るすと瑛二が布団から顔を出し、ありがとうと微笑んだ。
瑛二の手持ちのスーツは全て瑛一からの贈り物だ。普段着じゃとても行けないような店に連れて行かれるので、瑛二は兄と食事に出る時はきちんと正装で出かけて行く。仕事帰りに会う時は、食事の前にスーツを見繕ってもらうらしい。
大衆居酒屋も焼肉屋も、牛丼屋だって二人とも本当は嫌いじゃないのに、業界人としての配慮というやつだろうか。人目につく場所で食事をすれば、瑛二までじろじろ見られ、勝手に写真を撮られることだってあるかもしれない。
すでに瑛二が小さな山を作っている布団に潜り込む。ぴたりとすり寄ってくる瑛二の身体は温かく、暖を取るために抱きしめた。
「おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
もともと大和が一人で使っていたベッドだから、キングサイズとはいえスペースにはそこまで余裕がない。でもそれが良かった。どちらの意思でもなくくっ付いて眠ることができるから。
瑛二と暮らすようになったのは二年前。けれど瑛二と身体を重ねたり、こうして一緒に眠るようになったのはもっと前からだ。その頃の瑛二は確か、もうぎりぎり十代ではなかった。いつだったのか覚えていないが、この果てしのない片想いはそのさらに前から始まっていた気がする。
「……起きてる?」
小声で問いかけられ、ん、と答えた。寝間着のスウェットを瑛二がぎゅっと握る。
何の気なしに頭を撫でる。
ひとりごとのように瑛二が言った。
「兄さん、結婚するんだって」
あれからどれくらい経っただろう。
一言ぽつんと呟いたあと、瑛二は大和にしがみついて動かなくなった。そしてしばらくすると眠ってしまっていた。それがいい。眠れば忘れてしまえるような話ではないだろうが。
瑛二は瑛一のことが好きなのだ。
過去形じゃない。大和と出会う前から今もずっと。
瑛一に恋人がいることは知っていた。交際はもう五年以上に及んでいることも。結婚を前提に真剣に交際しているのだと本人が話していたし、HE★VENS全員でそれを聞いたとき、瑛二はにこにこ笑っていた。本当はすぐにでも泣き出してしまいたい気持ちを隠して。
大和と同い年の瑛一は三十二歳。結婚するのに早い年齢ではない。実際、二十代後半の頃から、大和も母親から結婚の予定はないのかとしきりに訊かれるようになった。すぐ下の弟が結婚したからか、三十代に突入して諦められたのか、最近ではそれもなくなったけれど。うざったかったので有り難いような、親の期待に応えられず申し訳ないような。居心地の悪い気持ちが久しぶりに押し寄せる。
なんとなく九時頃に起きればいいかとセットしておいた目覚ましの設定を解除した。
こんな日がいつかやってくる。瑛二もわかっていたはずだった。かわいそうだという気持ちの中に、ほんの数滴だけ、瑛二には言えない感情が混ざる。このまま瑛一のことを想う気持ちがゆっくりと薄まればいい。自覚したらその願望は色濃くなりそうで、かえって恐ろしかった。瑛一に向かっていた好意が、方向を変えて大和に向くわけでもないのに。
瑛二は大和にどうしてほしかったのだろう。大和の返事を待たずに眠ってしまったあたり、きっと、ただ聞いてほしかった。それだけな気がする。
これからもずっとこのまま。瑛二は瑛一が好きで、大和は瑛二が好きで。気持ち以外で慰め合って。
瑛二を縛るものは与えてはいけない。
このまま、ずっと?
「むりだろ、そんなの……」
考えるよりまず行動が大和の信条だったはずなのに、瑛二が相手だと狂わされる。
瑛二が自分からすすんで大和と関係を持っている。この均衡を崩してはならない。
だから二人で暮らすためのもっといい家に引っ越しはしないし、大きいベッドは買わない。風呂が狭くても構わない。瑛二のための何かを大和は用意しない。大和は一人で、瑛二も一人。瑛二が望めば「ひとつ」になるだけで、「ふたり」ではないから。
ベッドサイドの明かりに手を伸ばし消灯する。瑛二のまるい頭を抱き直して目を閉じた。
翌朝、目を覚ますと瑛二は腕の中でまだよく眠っていた。ずいぶん長い間寝ていた気がするが、時刻はまだ六時過ぎだった。妙に目が冴えている。瑛二を起こさないようベッドから下り、冷えた足をスリッパに突っ込んだ。
キッチンで明日の仕事の台本を確認しながら冷蔵庫を開ける。牛乳をパックのまま飲むのはだめだと何度か瑛二に咎められていたが、まぁいいかと口をつける。全部飲み干してしまえばばれない。
二時間ほど、台本を読んだり適当にスマホをいじったりぼんやりして過ごした。物音を立てないように寝室を覗く。瑛二が起きてくる気配はない。
ベランダに出て息を吐く。白になってのぼっていくのをじっと見つめた。
今日も向かいのマンションに景観は全て阻まれなにも見えない。たまに住人が階段を上り下りするのが視界に入るくらいだ。
引っ越ししようか、とふと思った。
大和も芸能界をやめて、「全部忘れろ」と瑛二を連れて――そうできれば潔いが、実際は一人で引っ越しの予定を立てて瑛二の動向を伺うくらいしかできそうにない。
引っ越し先を事務所に相談してみるか、と思案するのを、内側から窓が開かれる音に遮られた。
「……瑛二、どうした? 顔青いぞ」
「え……ううん、おはよう大和」
軽いトレーニングでもしたように息を切らせて、顔色が悪い。悪い夢でも見たのかと昨日の今日で訊くのは酷だろう。頭を撫で、二人で室内に戻る。今日も瑛二がおれの部屋にいる、と再認識すると引っ越し欲はみるみるうちにしぼんでいった。
「目玉焼きかスクランブルエッグ、どっち食う?」
大和が作れる数少ない料理と冷蔵庫の中身とを掛け合わせた二択に、瑛二は笑って目玉焼きと答えた。
買い物には昼頃出かけた。
いつも利用するスーパーへの道中、寄りたいところがあると瑛二が言うので少し遠回りをする。
行先の見当はついていた。銀色の細い字で店名が書かれた正面入り口を通り過ぎ、裏手の通用口へ進む。ドーム型の建物なのでどこまで行くとちょうど裏にあたるのかよくわからない。ガラス張りの高い天井から自然光が差し込み、店内は花の香りがそれぞれぶつからない程度にあふれている。瑛二の現在の職場だ。
赤い文字で「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたプレートを見ると悪いことをしているような気分になる。が、瑛二に続いて従業員用の作業部屋に入るとアルバイトの女子大生が「日向さんだー!」と気安く声をかけてくるので少しほっとした。名前も知らない一回りほど年下の少女に会釈をする。瑛二のところの従業員とくれば無碍にはできない。
「店長、おつかれさまでーす」
「お疲れ様です」
アレンジメントの作業をする者、店内の室温チェックをする者、休憩中の者、全員が手を止めて挨拶する。
おもしろいもんだな、と大和は思う。まじで瑛二ふつうに働いてんじゃねぇか、とタイムスリップしてきたような気持ちだ。何回ここに来たって落ち着かない。
「店長、今日出勤でしたっけ?」
「日向さん来てるから休みでしょ」
「休みだよ。でも来月のシフト出しておこうと思って」
「そんなの明日でいいのに」
「一日に出しておかないと俺が落ち着かないんだ」
十月のシフト表を剥がし、十二月分を画鋲で留める。今時珍しくこの店のシフト表はなぜか手書きだ。剥がした紙の二十日の欄に「店長誕生日!」と可愛らしい文字と花のイラストが描かれていて、瑛二の人望を嬉しく思う。
先月の誕生日で、瑛二は二十七になった。店長という肩書にはやや若く、店の社員は多くが年上だが、四年前にプロデュースを始めたこのフラワーショップがヒットしたのは瑛二のセンスあってこそだ。今や都内に五店舗を構える規模となり、芸能界を引退してからは宣言通りこちらの事業に専念している。
大人の顔をした瑛二を見るのは、大和にとって面映ゆくもあり、かつての仲間として誇らしくもあった。瑛二自身は仕入れやアレンジなどの裏方業をメインにしており、大和のライブにもこの店で発注した祝い花がいつもたくさん届く。
「店長、そういえば先週、銀座店に瑛一さん来ましたよ」
「兄さんが?」
「俺、先週はそっち出勤だったんですけど、もう入ってきた瞬間オーラがヤバくて。この店に瑛一さんが来てるレア感っていうんですかね。とにかく一般のお客さんが騒ぐもんだからお車で待ってもらいましたけど。鳳瑛一さんの花束包むとか緊張感がすごくて……マジで震えました」
「……そっか」
剥がした過去のシフト表を持つ手が小刻みに震えた。口と耳以外は各々の業務に戻った従業員たちには気付かれない。大和だけが横目で様子をうかがっていた。
「店長? どうかしました?」
「あ……ううん、何でもないよ」
「でも珍しいですね、お兄さんが店長指名で来ないのって」
「めちゃくちゃ忙しそうですもんねー、次の月9主演でしたっけ」
「主題歌も瑛一さんだったっけ、楽しみー」
「瑛二」
肩を叩くと瑛二ははっとして振り返る。
「用済んだならもう行こうぜ」
「そうだね。じゃあ、みんなお疲れ様です。明日は仕入れに行って開店までに戻ってくるね」
おつかれさまでーす、と再び飛び交う声にふたをするように扉を閉める。横目で様子をうかがうと、目を伏せてふぅと息をついた。視線に気付いたのか、顔を上げて微笑む。
「ねぇ、カレー鍋にかぼちゃ入れたらきっと美味しいよね」
「ん……あ、あぁ、うまそうだな」
「煮物にもしたいし、大きいかぼちゃ買って帰ろう」
はしゃぐ子どもみたいに一瞬大和の手のひらを握って、すぐに離す。穏やかに笑っている瑛二がなにを考えてそんなことをするのかわからなくて大和は笑えない。触れられたところが瑛二の感触を覚えていて、往来なのにもう一度手をつなぎたいと願ってしまう。
行きつけのスーパーでかぼちゃカレー鍋の材料と今後しばらくの食料をなんとなく揃えると荷物は結構な量になった。袋いっぱいに詰め込み、来た道を引き返す。
「チーズ買いすぎじゃね?」
「そうかな。カレー鍋にも合うし、かぼちゃにかけて焼いても美味しいよ」
「想像すると腹へってくんな」
「うん。帰ったらお茶にしようね」
提案通り、帰宅して冷蔵庫に食材を避難させると瑛二はすぐに準備を始めた。大和は切れかけた調味料の補充をしてからソファに腰を下ろす。
「さっき買ったパン、茶菓子がわりにしようぜ」
「だめ、それは明日の朝ご飯でしょ」
「十個くらい買っときゃよかったな……――ん?」
ローテーブルに置いた瑛二のスマホがちかちか点滅する。ひとのプライベートを覗き見る趣味はないが、画面に表示された「鳳瑛一」の文字が気になってじっと見つめた。どうやら公式ブロクの更新通知のようだ。大和のものもそうだが、新しい記事が公開されるとプッシュ通知がされるようになっている。瑛二が瑛一のブログの通知機能を設定していることは知っていた。
なんとなく気になって、自分のスマホでチェックすると内容は他愛のないものだった。
瑛二が引退してからも、瑛一のブログには時々瑛二の写真が掲載されたり、二人で食事に行った話が書かれることがある。瑛二の店で、瑛二に花を見立ててもらった日には必ずその写真が載せられるのがお決まりだった。
ファンの中では、鳳瑛一には付き合っている恋人がいて、瑛二の店で購入する花は彼女への贈り物だという説が濃厚らしい。そしてその説は当たりだ。女って怖い。
瑛二の話によると、瑛一はいつも開店前の早朝か、開店後にアポイントを取って店にやってくる。瑛二が包んだ花束は恋人への贈り物で、瑛一はそれを持って彼女のところへと向かうらしい。だから、瑛一が弟のいないタイミングでふらりと店に訪れたことに大和も引っかかった。
「お待たせ。――あ、兄さんブログ更新してる。こんな時間に珍しい……休憩中なのかな」
瑛二が用意したのは、ベランダで育てているミントを浮かべたアイスティーと、いつだったか大和が事務所でもらってきたチョコレートのパイ。兄の世界に没入していく姿を見つめながら、とろっとこぼれてくるチョコレートを味わいもせず飲み込んだ。
「あ、じゃがいも買うの忘れちゃった」
かぼちゃを切る手を止めて、野菜室を覗いた瑛二が困惑した声をあげた。
「じゃあひとっぱしり行ってくっか。芋だけでいいのか?」
「待って。俺も行く」
「や、芋くらいおれも一人でえらべるっての」
「そういう意味じゃなくて……とにかく一緒に行く」
切りかけのかぼちゃを放置して、上着を羽織る大和についてくる。一人で走って行けばレジも合わせて往復十分とかからない買い物だというのに。
だがもちろん悪い気はしない。大和がじゃがいもを選んでいるのを瑛二はにこにこと見つめていて、それに少し居心地が悪くなったくらいで。
スーパーの二階にある電気屋の大型テレビに映った映像に二人して足を止めた。
しょっちゅう顔を合わせている男が役に入っているのを液晶の中に見るのは、何年経ってもなんだか慣れない。大きなモニタでのアップにも耐え得る整った顔。カラフルな観覧車の明かりをバックに、瑛一がまっすぐこちらを見つめる、
――言っただろう。お前と恋人にはなれない。
瑛二の店の店員が話していた月9のCMのようだ。確か、なかなか振り向かない超俺様な男(しかも若社長とかいう肩書付き)とその幼馴染のラブストーリー、だっただろうか。こんなきれいさっぱり振っといて、きっと三話くらいで突然デレ始めて途中でお付き合いスタートで若干の紆余曲折があってハッピーエンド。そんな安易なストーリーが想像できる。ほら、初回の予告のくせにもう抱きあってんじゃねぇかこいつら。
瑛一の新曲をBGMに繰り広げられる予告映像から、隣の瑛二へと視線をスライドさせる。きれいなすみれ色の瞳に瑛一の姿がはっきりと映るのではないかと思うほど、ぎらぎらした目で画面を見つめていた。特別な手入れの施されていない上下の長い睫毛は触れ合わない。微笑みさえしないけれどその姿に見惚れているのがわかった。
「……見んなよ」
思わず手首を掴むと、瑛二がはっとして大和を見上げる。
「ごめん」
「べつに……ごめんじゃねぇだろ」
「怒った?」
「怒ってねぇけど……」
「ごめんね。帰ろう」
手をするっと振りほどかれ、手のひらを握られる。一瞬で離れていくのに触れた部分が熱を持ったような気がした。
ごめんねともう一度瑛二が眉尻を下げる。
それってどういう意味なんだ。大和は俺が好きなのに俺は兄さんが好きでごめんね? そんなこともうとっくに知ってるし、今に始まったことじゃない。謝ってほしくない。瑛二が悪いわけじゃない。
どこにいても何をしていても、瑛二の世界には瑛一の存在があふれすぎている。例えば二十四時間三百六十五日ふたりでいっしょにいたとしても、触れられもしない兄さんに大和はきっと勝てないのだろう。わざわざそんなこと、口に出して確認しないけど。
人気のない路地に伸びる、長さの違うふたつの影を眺めながらふと思った。叶うはずのない片想いって痛々しすぎないか、瑛二。
「あのね」
まっすぐ前を見て瑛二が言った。
「先週兄さんが贈ったのは、赤いバラの花束」
「……なんで知ってんだ」
「昨日車に乗った時、花びらが落ちてたから。ずいぶんしおれて小さくなってたけどね。兄さんの口から結婚するって聞いたのはディナーの、メインの時だったんだけど……、車に乗ってる時からもしかしたらそうなのかなって思ったから、聞いた時のショックもあんまりなかったんだ」
それに、と大和を見上げて続ける。
「兄さん、デートの時はいつも花を持って行くんだけど、それは毎回俺が包むんだ。でも昨日見かけた花びらには心当たりがなくて……兄さんが、プロポーズすること俺に先に知られたくなかったのかなって思うとしっくりきた。実際俺のいないときに、俺がいない店舗で注文してたみたいだし」
それでね、とまた言葉を繋ごうとする。
けれど瑛二は押し黙ったまま、触れ合った肩を小さく震わせた。頬に触れる。泣いているわけではなかった。
マンションのオートロックを解除してエレベーターに乗り込んだ。なんて言葉をかけてやればいいかわからない。エレベーターは指定された階にきちんと止まり、扉が開いたからには降りなくてはならない。立ち止まっているわけにはいかない。
部屋の鍵を開けて作りかけの夕飯の香りに包まれると胸がざわついた。この感情の名前は知らない。ただ、心の奥がずきずきする。
キッチンで手を洗い、ピーラーを手に取ったところで「瑛二」と呼びかける。何を話したいかなんて決まっていない。
黙って見つめ合う。瑛二がぱちぱちとまばたきをする。平気そうな顔するの、やめろよ。言いたいのに言えない。
「めずらしいね」
「……ん?」
「大和が、なにを言うか迷ってるの」
「迷うだろ」
「大和が思ってること、なんでも教えてほしい」
「もうあきらめろよ」
するっと言葉になって、しまった、と思った。
瑛二は一瞬だけ泣きそうな顔をして、すぐに微笑む。
「諦めてるよ、ずっと」
頭ひとつ分は背が低いから、くっと顎を上げて見上げるかたちになる。瑛一がいつも見ている瑛二もこの角度だろう。そんな些細なことでさえ大和は気になって仕方ない。大和を通して兄を見ていたり、大和に瑛一を重ねられていたりするのだろうか。被害妄想もいいところなのに、考えるだけでどうしようもなくむかむかするのだ。
「でも好きなんだ」
好き、という言葉でふいと視線を外された。
「ごめんなさい、大和」
「あやまんなって」
「大和が俺のこと考えて言ってくれてるの、ちゃんと知ってるよ」
「ちげぇよ」
「違わないよ」
「ちがう。おれは、おまえが瑛一をあきらめればいいって思ってんだからな。そしたらおまえがおれを……おれを好きになるかもしんねぇって……」
「俺だって、兄さんが恋人と別れたらって、考えたことあるよ。……でも兄さんは、彼女がいなかったとしても俺を好きにはならないから」
「瑛二だって同じだろ」
「……俺は、大和が好きだよ」
瑛一の次の、次の、次の、そのまた次、くらいか? 気になるけど聞きたくない。結局瑛二の永遠の一番は「兄さん」なのを知っている。
瑛一を好きだと言った唇で、大和が好きだと唄う。もういやだ。そう思っているのに、兄への何分の一かもわからない瑛二の気持ちが嬉しいと思ってしまう。一番じゃなくても、いっしょに暮らしているのも、手を繋ぐのも抱き合うのも、キスをするのもおれだけだと思うと意味のない優越感に浸されてしまう。
額にくちづける。そのまま歯を立てる。大和が着ている厚手のパーカーのすそを握りしめる、瑛二の両手が愛おしい。
抱き上げると拒まれなかった。リビングにのソファに腰を下ろす。瑛二とこうして触れ合えるのも、おれだけ。
「さそってんだよな?」
唇を合わせる前に問いかけた。小さく頷いた瞬間にキスをする。合意を待っていた。
まだ少し濡れた指先をくちに含む。舌で愛撫しながら服を脱がせる。瑛二自身と、大和のひろい手のひらしか知らない瑛二の性器は軽く扱くとすぐにぷくりと透明の蜜をつくって蜜を垂らしていく。興奮しているのだ。どんなに心が傷付いたって、身体は正直に喜んだ。
「あ、ぁ……大和、もう……」
「はやくねぇか? 昨日もやっただろ」
「足り、なかった……から……」
「そうかよ」
「あ! ぁあ……っ!」
華奢な体がぶるりと震える。手のひらに精を受け止め、くちづけを交わす。恥ずかしいはずのこんな姿を見せるのも大和にだけで、だから、もっとほしくなった。嬉しいのと同時に不安だった。もし瑛一が瑛二の気持ちを受け入れれば、瑛二はこれよりもっと深いところまで瑛一にさらけ出すんじゃないかと思うとひどく苦しくなって、喉の奥がつらい。
身に着けていたものをずらして性器を取り出し、瑛二の名前を呼ぶ。してほしい合図。瑛二は首を縦にまっすぐ振ってソファから下りた。肩幅くらいに開いた大和の両脚の間におさまって、迷いなく先端を淡い色の唇に咥えた。
よくできんな、と、やらせたくせに大和は思う。おれはぜってぇむり。どれだけ好きでも、そういう問題ではない。相手がどうこうじゃなくて、誰であってもできない。逆に瑛二は、一定のラインさえ越えていれば誰にでもできるんだろうか。……などと冷静に考えながらかたちのいい頭を撫でる。
こうされるのはもちろん好きだ。ぬるい粘膜に音をたてて吸われながら、大和の分身は硬度を増していく。動きは大和が瑛二を突き上げるときのそれに似ていて、特別広いわけでもない咥内にセックスを模したストロークで受け入れられたり吐き出されたりするのが、妙に興奮する。じっと見つめていると上目遣いの瞳と視線が絡んだ。
「えーじ……出していいか?」
「ん……」
こくりと頷く。そして、奥まで深く咥えて、やわらかく、しかしはっきりと歯を立てられた。
「……っく」
はぐらかされてるな、と思う。
おれがはぐらかしている、とも思う。
都合の悪いこと、苦い感情、さみしいと思う気持ち、全て身体を重ねて塗り替えてきた。けれど、真っ黒なインクの染みに透明の絵の具をいくら重ねたって消えてはくれない。わかっているのに快楽の波に身体も心も委ねて逃げる。いつか捕まってしまうのか、どこかでぽきりと折れてしまうのか、終わりは二人にはわからないけれど。
出したものを瑛二は素直に飲み込み、受け止めきれなくて口元にこぼれた残滓を指で拭う。
瑛二はこんなことができるくらいには大和が好きで、でもそれが一体どのくらいなのか、どんな物差しで測ったって知ることはできない。
するりと絡みついてきた身体を抱きしめる。夢中でキスしながら後孔を解した。ここに入りたい。瑛二のことが好きだから。全部ほしい。身体も心もひとつ残らず大和のものにしたいのに。
「えーじ……もう、いいか?」
「ん、いいよ……」
労わるように腰を撫でながら、指でくちを拡げて飲み込ませる。唇を求められてすぐ応える。気持ちが良くて溶けてしまいそうだ。心を全て置いて、ひとつになった身体のことだけを考えていたい。
「ん――……あ、あ、ぁ……」
上半身を反らして喘ぐ。ぱくぱくと動かしてまるで輪郭のなくなった唇がかわいい。
「ぁあ、あ、あぅ……っ」
瑛二のキスもセックスも、初めては――今のところ初めから最後まで――大和がもらった。他の誰ともしていない、身体だけは正真正銘、大和だけのものなのにむなしい。この行為に心が伴っていてほしい。天秤にかけたら瑛一のほうに振り切ってしまう。わかっていて、やめられない。
「あ、ぁ、ぁあっ」
「……いてぇよ、えーじ」
「え……ぁ、あ!」
ずるりと引き抜き、瑛二を抱きかかえてカーペットの上に座る。力任せにならないよう加減して肩を押さえると、両手を床について四つん這いになる。抱き潰してしまいたい。背後から性器を突き立てて奥まで挿入すると刺激に従って瑛二は呆気なく射精した。
「ん……やぁああああっ」
「ほしい、瑛二」
「あ、ぁ、あっ……あっ! ん、ぁあんっ」
「なぁ、えーじ……」
振り返って覗かせた唇を塞ぐ。
ほしい。身体以外のものも全部。大和の律動に合わせて瑛二もいやらしく腰を振る。もう、身体はこんなにも大和のものなのに。
「あっ、あ、ひぁ、ぁああっ!」
肘から下で身体を支えていたのが、奥をゆるやかに突かれた衝撃で胸をべたりとカーペットに押し付ける。腰だけが高々と持ち上がって交合を歓んでいるみたいに思えた。うなじに噛み付きながら律動のテンポを速めていく。灰色のニットから覗く、白い肌に散らされた赤い花びらがきれいだ。獣の子どもみたいに啼く瑛二の声は押し付けられた両腕に吸い込まれてよく聴こえない。
発情を瑛二にぶちまけると細い身体は脱力して重力に逆らえずうなだれる。意識をなくしたようだった。
ゆるゆると性器を引き抜いて髪を撫でながら抱き起こす。引き寄せなくても勝手に身体が大和の方に倒れてきて、受け止めるとなぜかじんわり涙が浮かんできた。
細い身体をソファに転がして左の手首をつかまえる。
花に触れて、水に触れて、傷付いた瑛二の手。あれこれとがさつに生きている大和の手のひらよりずっと野生に近くなったのはいつからだっただろう。
薬指の先を唇で食む。皮膚を舌でなぞり、そのまま奥まで含んでいく。
付け根にそっと噛み付いた。
歯形がくっきりそこに残る。
瑛二と大和。いびつな二人の「なにか」の証みたいで、いつまでも消えずに残れと願わずにいられない。
思い返すと、どうして瑛二のことが好きなのかわからなくなることが時々ある。
多分こうじゃないなと思いながら、適当な大きさに切ったかぼちゃにスライスチーズを乗せた。オーブンで焼けばきっと美味しく食べられるものになるだろう。
鍋の具材を全部切ったあと、ラックの上の写真立てを倒した。瑛一を――というよりは、瑛一の隣で幸せそうに笑う瑛二の顔を見ていたくなかった。
幼い頃から瑛一の後ろを兄さん兄さんとついてまわっていたんだろう。二人は仲の良い兄弟で、大和にはそれが理解できない。兄にべたべた甘えたことなどなければ弟たちにそうされたこともない。それは兄弟たちが男くさいのが理由ではなくて、きっと瑛二が実の弟だったとしても同じだっただろう。かわいく甘えてこられたって血の繋がった弟であることには変わらない。大和だって、瑛二が同じ母親から生まれた子どもならばこんな劣情を抱くことはなかったし、こうして繊細に扱ってやることだってなかった。言葉で片付けられる理由よりももっと濃い、血の繋がりというものがあるから。
だからといって、瑛二がおかしいとは思わない。
瑛二が瑛一のことを好きなのだと知って、瑛二のことがもっと知りたくなった。
そしてかすかに、赤の他人である大和と付き合ってみればその考えは変わって解けていくのではないかと、妙な期待をしてしまったことは確かだ。
鍋を煮込み始める。具を入れ過ぎてしまった気がするがもうどうすることもできない。三日は同じメニューが続きそうだ。
冷蔵庫に背をつけてふぅと息を吐くと、上階からばたばた走り回る足音が聴こえた。子どもは元気が一番だからうるさいって怒っちゃだめ――そう言っていたのは瑛二で、瑛二の言うことだから、まぁそうかもしれないと言うことを聞いてきた。けれど今、騒音とも呼べない程度の音が耳に障る。
いらいらしてしまって、ぎゅっと目をつむっていたから瑛二が近付いてきたことに気付かなかった。
「大和?」
「う、っわ、びびった……」
「ごめんね、支度やってもらっちゃって」
煮えてきた鍋のふたをずらして瑛二が申し訳なさそうな顔になる。そして大和を見上げて、よかったと呟いた。
「ちゃんといた」
「……なにが」
「大和が」
「あたりまえだろ?」
ここ、おれの家だし。
肩を小さくすくめて見せたあとで食器の準備を始める瑛二と鍋とを交互に見やった。二人で抱き合ったばかりのリビングに、当たり前みたいな顔をしてお椀やコップが並ぶ。缶ビールを二本並べて、鍋は大和が移動させた。伏せられた写真立てを瑛二が起こす。きっと大和がどんな想いでそれを倒したのか知っていて。
鍋のふたを開けると白い蒸気が立ち上る。鼻孔をくすぐる香りに「おいしそう」と瑛二が笑った。
「ねぇ、音楽かけてもいい?」
大和の椀にごろごろと野菜をよそいながら首をかしげる。あぁと返事をすると、自分の分を取り分ける前に瑛二はスマホを手に取った。
抱き合うと、いつも話が最後までできずに途切れてしまう。
それをわかっていて理性的になれないのは大和も同じで、瑛二が誘ってくるのが悪いと言うつもりはない。でもそれでいいのだろうか。一生? この先ずっと? それはきっとありえない。
ひとたび意味を持って瑛二に触れてしまえば冷静になることはできなくなる。好きだと思うし、かわいいと思う。哀れで健気だとさえ感じて、真面目に向き合う気持ちは削り落とされる。
瑛二がスマホをローテーブルに置いた。
「……おれの曲かよ」
「うん」
「なんかおちつかねぇ」
「俺、この曲好きなんだ」
「……サンキュ」
それは瑛二が引退したあと、大和がリリースした曲だった。
短かった六人体制のHE★VENSで唯一出した、ソロ曲を集めたミニアルバム。結局六人で歌唱する楽曲を出すことはなかったし、ライブも解散の時に華々しく行ったツアーだけになってしまった。映像化されているけれど、そこに瑛二がいないことが大和の心を軋ませて、一度も見たことがない。
微妙に固いじゃがいもにとろけたチーズを絡ませていると、ほこほこ昇っていく湯気の向こうで瑛二がじっとこちらを見つめていた。
「くわねぇのか」
「大和」
木製のスプーンを置いて、四角いテーブルの大和の隣の辺まで瑛二が近付いてくる。神妙な表情で太ももに手を添えられ、いろんな意味で心臓が跳ねた。スマホから聴こえる自分の声はやけに明るい歌詞を歌っている。
「……これからも、こんな俺でも、そばにいてくれる?」
ああ、とすぐ返事をしなければ、瑛二はすぐにでも出て行ってしまいそうだった。
でも返事ができない。大和の気持ちに近しい答えはノーだ。好きだけど、もういやだ。兄のことをずるずる引っ張って傷付いて、好きな時に大和にくっついて。それってひきょうじゃねぇのか――と思うともう終わりになる気がした。でも終わりはいやだ。このまま一生続けるのより、いやだ。
甘えるなと思う。
でも同じ分だけ、おれに甘えてほしいとも思う。
押し黙っていると、瑛二が大和をじっと見上げて口を開く。
「俺……兄さんが結婚するの、辛いけど……でも大和が俺のそばにいてくれないことの方がずっと怖いんだ」
怖い、と瑛二は確かにそう言った。
「昨日ここに来たときも、大和がリビングとか寝室にいなくて……ちょっと考えればお風呂だってすぐわかるのに焦ったし、今日の朝も……さっき買い物行ったときだって、一人で行ってもう帰って来なかったらどうしようって思って……」
「や、ここおれの家だからな」
「わかってるけど、でも怖かったんだ……。どうしてかわからないけど」
「おれには……瑛二のほうがふらっとどっか行って、そのままもどってこねぇような気がするけどな」
視線をさまよわせてなんとなく天井を仰ぐと、手のひらをぎゅっとつかまれる。大和より一回り小さな手はそのまま離れない。
「大和」
と名前を呼ぶ声が好きだ。
気持ちは他のどこかにあるのにそばにいてほしいなんて虫がよすぎる。でも今、たとえさみしさを埋めるだけだとしても、この繋がりを絶ったとして、互いになにが残るというのだろう。
「みっともないこと言ってるの、わかってるけど……そばにいてほしい。俺のこと、好きでいてほしい。たくさん、求めてほしい……」
「おまえ、すげぇわがままだな」
それでも嫌いになれない。咎める声色を作ることもできずわざとため息をついたあとで喉の奥を震わせて笑った。大和の手のひらを握っている左手の薬指にくっきりと残っている痕を撫でて「わかった」と応えた。
今こうして触れ合っている瑛二はすっかり大人なのに、もう六年も前の記憶がよみがえる。桜の日。涙をこぼしていた瑛二。つきあおうぜと交わしたほんの軽いくちづけ。
「どこにもいかねぇよ」
それは「行けない」の間違いかもしれない。
薬指の付け根に短い爪をぐっと食い込ませた。くぐもった声で瑛二が「ありがとう」と礼をするのが、端末から発せられた大和の歌声にかき消されて聴こえない。
