光に惹かれて

 東京に行きたいと切り出すと、両親は口をぽかんと開けたあと、顔を見合わせて、今度はナギがびっくりするくらい冷静に「東京で何をしたいの?」と問いかけた。

「アイドルになりたいんだ」

 瑛一に送ってもらった資料をガラステーブルに広げる。レイジングエンターテインメントの名を見て、「レイジング鳳の? それなら安心だ」と父はすでにナギを東京に送り出す体で言った。ナギは自分のやりたいことを両親に止められた経験がない。ナギに危険がないかを判断して、あとはお好きにどうぞといった風に任せられる。

「寮があるのね。じゃあ住むところを探す必要はない、と」
「入所テストがあるって書いてあるが、もう受けたのか?」
「ううん。人の紹介で入るから免除だって。デビューできるかどうかは別の話だけど」
「人っていうのは?」
「鳳瑛一。知ってるよね?」
「もちろん」
「でもどうしてそんな人が……」

 テーブルの上に、スマホで調べた瑛一のプロフィールと預かった名刺を並べる。

「瑛一、必要なら挨拶に来るって言ってたよ」
「東京の方でしょ? 悪いわよ」
「あぁでも、電話でいいから挨拶だけさせてくれ」
「うん。じゃあそう言っとくね」

 まるでテストの採点のように淡々と進んでいく。上京、丸。アイドル、丸。大きな事務所、丸。寮生活、丸。紹介してくれる人、丸。このテストはきっと百点満点だろう。ナギにとっては当たり前すぎる結果だ。

「あと必要なものは……転校の手続きか」
「転校先は瑛一が紹介してくれるって言ってた」
「親切だなぁ」
「レイジング鳳の息子さんだものね。その、瑛一さんと話してみてからになるけど……わかりました。あなたのやりたいようにやればいいわ。あぁ、電話はパパがしてね。緊張しちゃいそう」
「ああ。ナギが考えて決めたことなら大丈夫だ」

 紙の束を広げたテーブルの向こう、両親は朗らかに笑っている。ナギが出て行くのを喜んでいるわけではないと知っている。二人とも、いつもナギのやりたいことをこうして肯定するのだ。だから今日も笑っている。
 両親は決してナギの気持ちを訊かない。どうしてアイドルになりたいのとか、アイドルになって何がしたいのとか、そういうことは気にならないのだろう。もっと小さい子どもの頃はこうじゃなかった。

 ――絵がないご本がほしい。

 ねだったナギに、どうして? と優しく母は訊いた。

 ――全部覚えて、飽きちゃった。

 世界には絵がついていない文字だけの本があるのだと知って、それが読みたいと思った。長く読んでいられる分厚いのがいい。訴えると、母は困ったように目を泳がせた。
 未就学児のナギに何を読ませればいいのかわからなかったのだろう。母は父に相談したらしく、大らかな父は「こういうのでもいいのかなぁ」と読みかけのビジネス書を与えてくれた。いくつかの言葉の意味がわからなかったので父に問うと、その意味ではなく辞書の引き方を教えてくれた。その日から、ナギは父のビジネス書と辞書を並べて読んだ。辞書を引いてみても意味がわからない部分もあった。仕事から帰った父にその意味を教えてほしいとせがむと、父は易しい言葉で解説してくれた。今思えば、あの説明が百パーセント正しかったかどうかは怪しい。その頃から、ナギが欲しがれば、両親はどんな本も買ってくれた。
 小学校に上がると、同級生たちと自分の差を強く感じることが多くなった。

 ――ナギくん、なんでも知ってるね。
 ――ナギくんの本、漢字がいっぱいだ。
 ――どうして本を読むときに、となりに分厚い本を置いてるの?

 小学一年生にしてナギが小学校で習う全ての漢字が書けるのも、辞書を引きながら本を読むのも、帝くんと話してると大人と喋ってるみたいだと担任の教師が言うのも、ナギにとっては特別ではなかった。無理して大人ぶっているわけじゃない。でも、クラスメイトや教員たちはナギを天才少年として扱った。
 家族も同じだった。仲が悪くなったわけでも、誰かが誰かを嫌いになったわけでもない。ただ、ナギの質問に両親が答えられずおろおろすることが増えた。両親を困らせたくなくて、ナギは疑問をなんでも本やインターネットで解決するようになった。大人でも知らないことがあって、それを知りたいとすら思っていない大人は多いのだと、両親や教師たちの姿から学んだ。

 そんなとき、ナギはテレビの中の世界と出会った。
 特に取っかかりのない、普通のトーク番組だった。司会者が椅子に座った芸能人たちに話を振る。指名されたタレントは軽快に話を繰り広げて、笑いがどっとわく。時にはそれが驚きになったり、怖い話の場合は悲鳴だったりもした。テレビの中の人たちは、ナギの知る大人と違い、予測できない話をした。それが面白くて、読んでいた本を手放して前のめりになった。

 ――なんだ、ナギも見るか?

 父がテレビの音量を上げた。もともと、ナギの両親は揃ってテレビ好きだ。
 それから家にいるときはジャンルを問わずテレビを見るようになった。そんなナギに両親が見せてくれたのが、レイジング鳳のライブ映像だった。

 ――パパもママも、この人の……レイジング鳳の大ファンだったの。
 ――もういないの?
 ――やめちゃったんだ。ナギが生まれる前の話だよ。

 いつもより音量を大きくする。聴こえてくるのは大歓声だった。歌番組で見たことがある。ステージの下にいて、そのアーティストが好きなファンがあげる声。でもそれは、普段見るテレビ番組では聴けないような迫力とエネルギーに満ちていた。地鳴りみたいだ。
 広いステージに明かりが点き、中心に人が出てくると、ファンの声は激しい叫びに変わりナギは驚いた。こんな動物みたいな声を大人が出すと思っていなかった。何人集まっているのか、ファンたちが揃って上げた拳が樹木のように並ぶ。

 ――このライブ、ママと二人で観に行ったんだ。
 ――え、そうなの?

 パパとママもこんな風に大きな声で叫んだんだ。なんだか不思議だった。今の二人は、絶対に大きな声を出したりしない。
 中心に立った、ファーが大量にくっついた衣装を着ているのがレイジング鳳だろう。彼が片手を上げると歓声は嘘みたいに静まり返る。
 ドラムが拍子を打って演奏が始まった。マイクスタンドに左手を添え、レイジング鳳が歌い始める。レイジング鳳の音楽は、上手いとか下手とか、そういうものを超越していた。テレビを通して見ているとは思えない殺気。声の振動が伝わってきそうだ。この人が今はもう歌っていないなんて信じられない。歌番組では、ファンは基本的に曲を邪魔しないように静かにしているのに、レイジング鳳が歌っている最中、ファンは身体を揺らし歓声をあげている。でも演奏はそれに負けていない。むしろ、会場中が熱くなればなるほど、レイジング鳳の声も鋭く深く響くような感じがした。
 こんな経験は初めてだった。感想を伝えようと父と母を見上げる。二人の瞳にはもうナギの姿はなく、在りし日のレイジング鳳に釘付けだった。きっとテレビを介していることさえ忘れている。二人の目の前にはステージがあり、そこで音楽が奏でられているのだ。両親が何かにこんなに夢中になる姿を初めて見た。
 そしてナギは強烈な羨望を覚えた。
 ボクもこんな風に見つめられたい。
 声援の渦に飲み込まれたい。
 手を伸ばし求められたい。
 ボクを求める大衆に。そして、たった二人のパパとママに。