散りかけの桜が、サイズの少し大きい制服の襟元から入り込んでくる。髪に花びらがくっ付いていると教えると、兄は楽しそうに微笑んだ。踵を上げ、それを取ってあげる。百八十センチを超えた兄とはこんな他愛のないやり取りも一苦労だ。
「ありがとう兄さん、入学式来てくれて」
「俺の方こそ、瑛二の晴れ姿を見られて良かった。卒業式も是非出席したいものだ」
「気が早いよ」
「三年なんてあっという間だ」
「……うん、そうかも」
式の途中にかかってきた電話をかけ直すからと、兄とは事務所の入り口で別れた。忙しいはずなのにわざわざ時間を作って来てくれた。それが何より嬉しい。瑛二にとって兄は今も昔も、誰よりも自慢できる存在だ。
学校で受け取った資料を提出する必要があり、瑛二は事務室に向かった。事務所の一階の大きなガラス窓からは庭が一望できる。ベンチにも座らずスマホを耳に押し当てている兄の姿が遠くの方に見えた。
東京に出てきて約一ヶ月、父と兄の真意はわからないものの、言われるがまま瑛二はレイジングエンターテインメントの準所属となった。「準」とそうでない所属の差は判然としないが、事務所の公式サイトを見たところ、ざっと八十人近くは瑛二と同じ準所属の新人がいるらしい。兄はもちろん、綺羅やナギとも扱いが違う。
結局、兄が所属するアイドルグループのメンバーになるとも決まっていない。ヴァンが加入する準備は進んでいるそうだが、瑛二にはそんな話、一切なかった。ナギによると兄が渋っているらしい。でも真偽は定かではない。
改めてはっきりさせるべきだろうか。だって東京に来るように言ったのは兄さんで、アイドルになれと命じたのは父さんだ。しかし何をどう問うべきか、よくわからない。
電話をする兄の姿から視線を正面に戻す。
他には誰もいない広い廊下の最奥の曲がり角から一つの影が現れて、一瞬、時が止まったかと思った。
どうして今、こんなところにいるんだろう。
見間違えるはずがない。
まっすぐこちらに向かって歩いてくるのは、レイジング鳳だった。
実の父親相手に足がすくんで動けない。父は瑛二など見えていないように真横を通り過ぎたあと、足を止めた。
「母さんに似てきたな」
「……えっ」
まるで呪いを解かれたみたいに振り返ってしまったのは、ちっとも予想していなかった言葉をかけられたからだ。
見上げる背中は『レイジング鳳』のそれだった。父親としての姿なんて知らない。瑛二の記憶の中にある父親の姿はぼんやりしている。知っているのは、たまにテレビで見かける社長としての姿か、古いビデオテープで見た若い日の、アイドルとしてのレイジング鳳ばかりだった。
父の父親らしいところは一つも見たことがない。あの日――母さんが亡くなった日だってそうだ。
「覚悟はできたか」
背中が問うた。
「お前もアイドルになる覚悟が」
知らない煙草の匂いがした。父親を香りで認識するのは初めてだ。
「……まだ、わからない」
握りこぶしを作り、思い切って答えた。ある、と嘘をついて見抜かれる方が怖かった。
父は裾の長いジャケットを翻し振り返る。兄の背丈をも超える長身に凄まれると恐ろしくて、後ずさり、背中が窓ガラスに触れた。レンズ越しではあるけれど、目が合ったのは生まれて初めてだった。怯んだらだめだ。俺たちは親子なんだから――自分に言い聞かせる。父さんに訊いてみればいいんだ。俺はこれから、どうすればいいのか。
父は吐き捨てるように笑ったかと思えば、意外にも「分からんか」と含みのある低い声で瑛二の返答を受け入れた。
「あの、俺……」
「瑛一の言うことをよく聞いて努力することだ」
頭でも撫でられるんじゃないかと錯覚するほど優しい声で言われて驚いた。
会話らしい会話も初めてなのに、抱いていた父の印象から少しずれた言動に違和感があった。そして、これまで知らなかったいろんなことを訊いてみたくなった。
どうして兄さんにだけいろんな習い事をさせてたの。どうして家族なのにずっと帰って来てくれなかったの。どうして母さんと一緒にいなかったの。俺は本当に、アイドルになるべきなの?
「――瑛二!」
天井の高い静かな廊下に、その声はよく響いた。
父の後ろに兄の姿が見える。ものすごい剣幕で、足早にこちらへ向かってくる。こんなに余裕のない兄の声は初めて聴いた。
父は瑛二から視線を逸らすと、兄が向かってくる方へ歩き出す。
すれ違っても、二人は言葉を交わさなかった。
「どうしたの?」
「どうもこうも……」
珍しく兄が言葉を詰まらせる。
「兄さん、怖い顔してる」
「すまない」
息を切らせた兄に両肩を掴まれた。真正面から見上げる顔が、一瞬父の表情と重なる。なんだか恐ろしくて、思わず頭を振った。兄さんと父さんは違う。
「……親父は瑛二を、俺と同じグループに入れようとしている」
どうしてそんな、苦しそうな表情で言うんだろう。
「良くないことなの?」
「良い悪いの話じゃない」
「じゃあどうして……」
「親父の決定は絶対だ。拒否権などない。……だが」
肩に触れた指に力が込められる。
「嫌になったらいつ辞めてもいい。お前が困らないようにする。俺はお前のためならば、何だってしてやる」
「……兄さん」
「苦しい思いまでして頑張る必要はない。親父も……俺のことも、嫌だと思えば従わなくていい。誰もお前を責めない。俺が責めさせない」
「兄さん、俺……」
嫌なんかじゃないよ。
言いかけて、でも声に出さなかった。兄がしているのは「今」だけの話ではないと悟ったから。
――瑛一の言うことをよく聞いて努力することだ。
父の言葉が蘇る。
俺は何を望まれている?
わからないけれど、きっと兄は瑛二のために言ってくれているから。
だから笑って、うんと返事をした。
大丈夫。
父さんに、兄さんに、自分自身にも言い聞かせるように。
