運命やから

 昔から、運命という言葉の響きには何かと弱い方だった。
 気持ちをがっと掴まれるというか、そんなときめきに似た衝動が好きで、それに従うことがままあった。
 それは所持品ひとつとっても言えることだ。例えば、出張用に使っている旅行鞄やだいぶ底がすり減ってしまった革靴も、買うつもりがなかったタイミングでぱっと閃くときめきがあって購入してしまったものたちだ。

「大きなお手荷物はコインロッカーをご利用ください」

 STAFFロゴが入ったTシャツの男性に言われるままロッカーに向かう。三百円で利用できる中サイズのロッカーに旅行鞄とコートを入れ、身軽になった状態で通路をうろうろ歩き回る。壁面に貼られたポスターに書かれたバンド名は知らないものばかりだ。あまりメジャーではないのか、それともこういうジャンルに関する自分の勉強不足か。まぁ、そんなのはどうでもいい。知らないものにたまたま触れたら素晴らしかった、なんてよくあることだ。
 シャツの胸ポケットに入れたチケットを確認する。整理番号が振られていて席番号はなかった。人の流れに乗ってロビーから客席に移動すると、なるほどオールスタンディングらしい。こういう形式のライブに来たのは初めてだ。チケットには「day1」とあったので、どうやら何日間か行われるライブらしい。女性客も多いから、邪魔にならないように後ろの端の方に身を潜めるようにしてヴァンは立った。
 チケットを譲ってくれたのは東京の得意先の担当者だった。「友人のバンドが出ててチケットもらったんですけど、行けそうになくて……」と困っている様子だったので引き取ったが、興味もあった。ライブハウスなんて何かきっかけがないと足を踏み入れられない、閉じられたイメージがあったから。だからこれも些細な運命だ。
 ライブは定刻通りに始まった。そう広くはないライブハウスを覆うほどの演奏の音圧と、それに負けない熱気のこもったファンの歓声。思わず「かっこええ!」と口にした言葉は、すぐ隣の観客にさえ聴こえない。
 二曲演奏して軽いMCが入り、もう一曲終えると四人組のバンドは袖に捌けていく。すると次はまた違うバンドがスタンバイを始めた。
 二組目はボーカルをセンターに、ギター、ベース、ドラム、そしてキーボードの五人組だった。

「あれっ」

 と漏れる声も、始まった演奏の音にかき消される。
 ギターの後ろに見え隠れしているキーボードの男。この距離でもわかる艶やかな黒髪。重めの前髪で顔がよく見えないが、見覚えがある。
 あぁ、そうだ。新神戸のストリートピアノの青年だ。上京したのか。駅で彼が弾いていた曲はクラシックの、もっとしっとりとした印象の曲だったから意外だった。
 間奏でギターとボーカルが近寄るとキーボードの男の姿がよく見える。音楽に詳しくなくても、するすると鍵盤の上を動き回る指のタッチを眺めていると、やはり実力者なのだとわかる。視線を彼からそらせない。時々覗き見える瞳は、まっすぐに鍵盤を見つめていた。あの日よりも少し、いや、かなり余裕がなさそうに見えた。だから余計に気になってしまうのだろう。


 終演後、コインロッカーから荷物を取り出し、裏手の関係者出入口へ向かった。ガードレールに寄りかかり出演者の出入りを観察する。長期戦になるかもしれない。あるいは、出番順が早い方だったから、すでに帰ってしまったかも。ヴァンは上着を羽織って、マフラーを鞄から取り出し巻き付けた。三月末の夜は冷え込んでいる。
 チケットを譲ってくれた担当者に礼と感想のメールをしたためているうちに、十五分以上が経っていた。その間にも楽器を担いだ出演者らしい人影がいくつか目の前を通った。どれも彼ではない。
 社用のスマホをポケットに落とす。今日はもうホテルに戻って寝るだけだが、そろそろ諦めて帰ろうか。そう考え始めた頃、通用口から真っ黒な外套を着込んだ黒髪の男が、もう一人、眼鏡の男と連れ立って姿を現した。――運命や。

「こんばんは」
「……あなたは……」
「久しぶり。ほら、新神戸のピアノんとこで会うた……九月くらいやったかな」
「ああ……。新幹線では、どうも」

 どうやら彼の記憶にも残っていたらしい。少し気が大きくなって肩を軽く叩くと、後ろに立った眼鏡の男が「綺羅の知り合いか?」と訊いた。名前、綺羅っていうんや。

「あっはい、そうでーす。友達友達!」
「違う……知り合い以下だ」
「以下て!」
「新幹線で少し……話をしただけ」
「それってつまりお友達やん?」

 ちょっと無理があるか。ツッコミ待ちしていると、彼は浅くため息をついて上着の襟を正した。半歩後ろで眼鏡の男はなぜかその様子を楽しそうに眺めている。

「…………えっ、無視?」
「どう……返すべきか……よく分かりません」
「そこはなんでやねーん! でええねん。……まぁそれは置いといて。今日の演奏、めっちゃ良かった。それだけ言いたくて待っててん。これはほんまの話」
「それは……ありがとう……ございます。今日も……出張ですか」
「うん。たまたま得意先の人にチケットもらって来てみたらおるんやもん、びっくりしたわ。ええっと、名前……綺羅ちゃん、でええんかな」
「……綺羅、ちゃん?」
「え、聞き間違えた?」
「いや……皇、綺羅だ」
「ほんなら綺羅ちゃんやな。あ、ワイは桐生院ヴァン。自己紹介してへんかったもんな。で、綺羅ちゃん、東京出てきてバンドやってるんや? 音楽関係進みたいって話、しとったもんなぁ。やりたいことやっとってすごいなぁ」
「今日の出演は……単なる……助っ人」
「助っ人? バンドにもそんな部活みたいなことあるんや」
「――俺の知り合いのバンドでな」

 すっと割り込んできたのは、眼鏡の男の声だけでなく彼が差し出した名刺だった。ビジネスマナーに照らしてそれを受け取る。傾けるとわずかに光沢を帯びる名刺用紙を見るに、普通の勤め人ではなさそうだ。

「鳳瑛一だ。レイジングエンターテインメント所属、綺羅と共に芸能活動を行っている」
「レイジング……って、あのレイジング鳳と関係あるとこ?」
「社長がそのレイジング鳳。俺はその息子だ」
「へえ、そうなんや。あ、ワイこういうもんです」

 遅れて会社の名刺を差し出す。

「ていうか、芸能人って名刺持ってるんや」
「俺は裏方的な動きをすることもあって、その都合でな」

 眼鏡の男――鳳瑛一は受け取った名刺にさらりと目を通すとすぐにケースに仕舞った。ぞんざいに扱っているというより、一度見ただけでその内容が全て頭に入ってしまったような、そんな所作だった。
 改めて、鳳瑛一と名乗った男をじっと見つめる。ぴかぴかしている――そんな稚拙な表現しかヴァンには浮かばなかった。なんだろう、絶対に一般人ではないだろうと他人に確信を抱かせるオーラ。単に背が高いとか顔が綺麗とか、それだけではなくて。圧倒的な風格を感じさせる凄味がある。コートも革靴も腕時計も、身に付けているものは全て上等だと一目でわかるが、それを一つの嫌味もなく、そして不相応な印象もなく自身に纏わせている。生まれながらにして完成されていたような力強い美しさ。
 目が合うと決まりが悪くなり、ヴァンは綺羅に視線を移した。

「ライブ、今日が一日目やったみたいやけど、綺羅ちゃん明日以降も出るん?」
「……あぁ」
「明日出る?」
「そう……ですが」
「ほんなら明日も見に来よっと」

 明日も夜は時間が空いている。綺羅は嫌がる素振りを隠さず顔をしかめたが、来るなとは言わなかった。もし来るなと言われたって行く。綺羅が演奏する姿を見てかっこいいと感じたのは本心だから。

「今日のバンドは助っ人で、普段は事務所で何やってるん? やっぱりピアノ?」
「アイドルだ」

 綺羅がはっきり答えた。

「でも……まだなっていない。これから……なる」
「……かっこええ!」
「馬鹿に……してますか」
「え、してへんしてへん。言い方悪かったならごめん。なんかいいなぁと思って……えっと、今の『いいなぁ』っていうんもバカにしてるんじゃなくて、ほんまに、心の底からいいと思ったってことやで。……伝わる?」
「……大丈夫。俺の方こそ……揚げ足を取るようなことを……言いました。すみません」
「いやいやそんな」

 礼儀正しく頭を下げられると困ってしまう。彼の言動の全てから真面目さがにじみ出ている。この折り目正しい振る舞いに反して楽器を演奏する姿はとても大胆だから、ヴァンは綺羅を興味深く感じてしまうのだ。

「何日……滞在しているんですか」

 綺羅の方から質問してくれるとは思わなかった。ヴァンは上機嫌で答える。

「今回の出張は明日まで。また来週も来るけど」
「多いですね」
「こっちにも得意先多いからなぁ。毎週毎週出張で、なんかもうどっちに住んどぉかわからんときあるわ」
「……どういった、仕事を……してるんですか」
「どういった……うーん、普通の営業職やで」
「普通……の」

 強調するように綺羅は繰り返した。まだ若い綺羅に「普通」と言ったところで、想像しにくいかもしれない。自分だって就職活動を始めるまで、この仕事がどんなものかよくわかってなかったし。

「なんて言うたら伝わりやすいかなぁ……」
「いえ」

 綺羅は無機質な低音で口を挟む。

「あなたが普通という……言葉を使うのが……似合わない……気がしただけ」
「……うわ」
「え?」
「いや、なんか今のズシッときたわ。刺さったっていうか」
「ズシッ……というと?」
「……いや、なんていうか……音楽に一生懸命な綺羅ちゃん見て、夢追いかけてるのかっこいいなって思ったのに、ワイは自分の仕事のこと、『普通』とか言ってもーたなって……ちょっと自己嫌悪」

 語尾を明るくして、冗談っぽく言ったつもりが逆効果だった。なんでこんなことを、会うのが二回目の年下の青年に喋ってしまったのか。大人のくせに痛々しい。綺羅は黄色い瞳を不思議そうに瞬かせて平坦に言った。

「そんなに……気にすることですか。言葉の綾のような……ものでは」
「――本心からそう思う気持ちがあるから、気になるのではないか?」

 鳳瑛一が一歩前に踏み出し眼鏡を光らせた。自信に満ちた表情。おそらく彼も年下なのに、妙な貫禄がある。その言葉は重く深い。
 そうかもしれない――とヴァンは思った。
 今の仕事に不満があるわけじゃないのは本当だ。時々無茶な働き方を強いられたりもするけど、別に苦じゃない。福利厚生もちゃんとしているし。子どものときになりたかったような、自由な大人になれた。
 でも、毎日わくわくしているか。挑戦しているか。今でも未来が楽しみか。
 答えはきっとノーだ。
 いつの間にか、子どもの頃のような夢を追う気持ちを忘れてしまった気がする。夢を抱えて上京し、叶えようと努力している綺羅の姿を見ると、安牌に収まってしまった自分の人生のなだらかさを思い知らされる。それはそれで悪くないはずなのに。会社員だって苦労や目標は色々あるし――と、言い訳のような言葉を連ねるほど、瑛一の指摘が的を射ているとわかる。
 瑛一は綺羅より前に出ると、「桐生院ヴァン」と名刺を読み上げるように呼んだ。
 あまりに整った顔面が近付くと言葉を失ってしまう。綺羅も相当男前だが、加えて瑛一は自ら発光しているように輝いて見えるのはなぜだろう。

「アイドルになる気はないか」

 とんでもなく美しい形の唇が、わけのわからない言葉を発した。

「……は?」
「転職しないか、と訊いている」
「いや、転職って」

 場にふさわしくない言葉に、とりあえず突っ込んだ。いや、論点はそこじゃない。なんなんや、この人。冗談か? だってこんな普通の男に声がかかるなんておかしい――あ、また普通って言ってもうた。綺羅が瑛一の肩を掴み、首を横に振る。いや否定すなよ失礼やな……と様々な感情が脳内で飛び交って混乱した。
 とりあえずこれだけは確認しないと、と口を開く。

「……冗談じゃなくて?」
「冗談で言うものか」

 瑛一はヴァンを見下ろすと、自信にあふれた笑顔を見せた。なんでやねん。謎が深まる。自分の周りに置くものはこだわりぬいて選んでいそうな男が、なぜこんな思い付きみたいなノリでヴァンに声をかけるのか。

「綺羅、そろそろ行こう」
「えっ」
「……失礼します」

 外套を翻した瑛一に続いて綺羅が軽く会釈をする。黒いコートに身を包んだ、アイドルよりも演奏家と呼ぶ方がしっくりくるような二人分の背中は、すぐに街並みに溶けて見えなくなってしまった。
 現実とも夢ともつかない感覚。左手に握りしめた名刺の感触だけがこの奇妙な出来事の証だった。

「……いや、なんでやねん…………」

 賑わう東京の街では、遅れて漏れ出た小さな声は誰にも届かない。

 ビジネスホテルへのチェックインを済ませ部屋に入ると、突然どうしようもない脱力感に襲われた。朝早く東京に来て、仕事して、ライブを見て感動の再会(?)を果たして。一日がかなりドラマチックで消耗してしまった。
 ぴっちりとシーツの張られたベッドに腰を下ろし、仰向けに寝転がる。疲れているはずなのにものすごく目が冴えていた。今晩眠れるかな、と心配になるほどに。
 スーツの内ポケットから名刺入れを取り出す。先頭に入れた鳳瑛一の名刺を高く掲げると、紙の光沢具合と、羽根のような繊維が織り込まれているのがわかった。普通の営業職をしていると、デザイン会社の社長が相手でもこんな名刺はなかなかお目にかからない。そうだ、自分は『普通の』サラリーマンでしかない。

 なんだか胸の奥の方がざわざわする。
 普通という言葉が似合わない。そう綺羅に言われたこと。
 真意のわからない、鳳瑛一からの誘い。
 きっとそのどちらもが、胸のざわつきの原因だった。そして、言葉にしたい、誰かに話を聞いてほしいと思った。胸の内に感情を秘めておくのができない性分なのだ。
 しかし誰かに連絡する気は起こらない。友達も恋人も会社の同僚も、このわけのわからない感情を伝える相手としてしっくりこなかった。大きく息を吐くと、なんだかもうどうでもいいような気になってくる。誰か、部屋を間違えて入ってきてくれないだろうか。そうすればその誰かさんにこのモヤモヤした感情をぶちまけるのに。
 天井に手を伸ばして凝り固まった身体をほぐす。指の間に挟んでいた名刺がすり抜け、ひらひら宙を舞う。紙が重いのか、落下速度は速かった。そしてその瞬間確かに視界に捉えた。名刺の裏に踊る数字。ハイフンの位置から察するに電話番号だ。

「それや!」

 上半身を起こし、胸元でキャッチした名刺を裏返す。そこには表面にはなかった、鳳瑛一の携帯の電話番号が几帳面な文字で記されていた。


 電話はすぐに繋がった。
 ――なんか、会いたいなーと思って。
 ヴァンの言葉に、鳳瑛一はかすかに笑った。泊まっているホテルを聞き出すと、十分後に、とスマートな台詞を残して電話は切れた。


 宣言通り、十分後に瑛一は車で現れた。ヴァンは助手席に乗り込み革張りのシートに背中を預ける。

「運転するんや。意外」
「そうか? 運転は好きだぞ。最近タイヤを替えたから走らせたくてな、いい機会だ」
「他に好きなものは?」
「なぜそんなことを訊くんだ?」
「興味本位。あんたおもろいから、色々知りたなって」

 赤信号で停車し、「一番好きなものは」と瑛一は一呼吸置いてから言った。

「アイドルだ」

 迷いのない口ぶり。目の前の夜景をじっと見つめながら、左手で眼鏡のブリッジを押し上げる。

「仕事熱心なんや」
「……仕事、か」
「ちょっとニュアンス違った? 瑛一ちゃん……は長いからえーちゃんでいい? えーちゃんは、アイドルが仕事やろ?」
「まぁ……そうだな。お前――桐生院ヴァンのような勤め人に言われると、同じ言葉で表すべきか甚だ疑問だが」
「ヴァンでええよ。それか可愛くヴァンちゃんって呼んで」
「では、ヴァン」
「ちゃん付け嫌なんや」
「あまり使わない呼称だな」

 屈託なく笑ってみせる。クールな印象が少しほどけて柔和な雰囲気が垣間見えた。
 瑛一はどうして俺を呼び出したのかと訊かなかった。一体どこに向かって走っているのか、ヴァンも訊かなかった。わからないのがなぜかいいと思えた。見知らぬ道路を走り、初めて見るビル群を眺める。隣に座る男のことも何も知らない。

「自分の話、さしてもらってもええかな」

 瑛一は何も言わなかった。それが了承の合図だとすぐにわかった。

「今日、綺羅ちゃんに会うて、はっとしたっていうか……ざわざわしたっていうか……。綺羅ちゃん、ほんまに東京出てきて頑張ってるんやって知って、すごいなって思った。やりたいことのために頑張るのってかっこいいやん。そしたら、なんていうんやろ……ワイ、子どもの頃にこうなりたいって考えてた大人になれてないやんって思ってん」
「子どもの頃、ヴァンはどんな大人になりたかったんだ?」

 興味深そうに瑛一が訊いた。

「自由で、常に冒険しとるような大人やな。大人ってどこにでも自分で行けて、何でもできて自由やって思ってた。実際、毎日楽しゅうやっとるし、ある意味今のワイってめっちゃ自由やと思う……けど」

 何の違和感もなく『普通』なんて言葉を使ってしまった。
 考えてもわからなかった。『普通』って何なのか。
 人間ひとりひとりみんな違いがあって、誰かと全く同じ日常を送っている人は存在しないわけで。だからそれを均して『普通』とか『標準』とかにするのはおかしいと感じていた、はずだった。
 なのに夢を追う綺羅を前に、自分の仕事を『普通』だと言った。自分の日々に特別を感じられなかった。舞台に立つ綺羅に自然と負い目を感じたのかもしれない。サラリーマンなんてみんなそんなものかもしれないけど。でも。

「あー……嫌やな、嫌な大人やなって。一回きりの自分の人生の大部分のこと、へらへらして『普通』とか言ってもーた。っていうか、毎日ワイそう思って生きてるんやってわかってもうた。アンタの言う通り、あれは本心から出た言葉や」
「……尚更、ヴァンをアイドルに誘いたくなってしまうな」

 BGMのかかっていない車内に瑛一の声が甘く響く。ヴァンは横目で瑛一を見上げた。

「えーちゃんは何でアイドル目指してんの? 親父さんに憧れて?」

 詳しくはないが、レイジング鳳は一世を風靡したアイドルだから世代じゃなくてもさすがに存在は知っている。簡単に笑顔を振りまかない、クールで王様のようなアイドル。子どもの頃、歌番組によく出ているのを見た。一番のヒット曲『LOVE IS DEAD』は流行っていたから未だに職場の人とのカラオケでもよく耳にする。
 しばらくの沈黙のあと、瑛一は「そうだな」と小さく首を縦に振った。

「アイドルを目指したきっかけは父だ。父のステージを見て、俺もあんな風になりたいと夢見た」
「めちゃくちゃかっこええもんなぁ」

 と現役時代のレイジング鳳の姿を思い浮かべると、瑛一は父親によく似ているのだと気が付いた。伸ばした襟足や眼鏡ですぐにはわからなかったが、見る人が見れば一瞬でレイジング鳳の息子だとわかるだろう。

「父が舞台で見たような景色が見たい。そして……それ以上の高みへ……頂きへ到達する。それが今の俺の夢だ」
「なんや、えーちゃんってクールな感じやと思っとったけど、意外と熱いな」

 そこはレイジング鳳とは似ていない、と思い、はたと気付く。ヴァンはレイジング鳳のアイドルとしての姿しか知らない。彼にも熱く秘めた感情があったかもしれない。

「俺の話はいいだろう。そんなことより、わざわざ俺を誘ったからには口説かれる覚悟ができているのだろうな? ヴァン」
「アイドルになるって話?」
「もちろんだ」
「いやー……そんなん言われても、いまいち現実味が薄いっていうか……」

 同じ業界や職種で転職を検討するならまだしも、異世界の話に思えて全くピンと来ない。こんなに絵になる男に二人きりの車内で「口説く」などと言われて、ヴァンがもう少し若かったら緊張して固まってしまっていただろう。
 ウィンカーを出し「話は後ほど改めて」と瑛一は車を左折させた。どこかのビルの地下駐車場へと潜り込む。窓の外に視線をやると、看板に「レイジングエンターテインメント」と表記があった。
 車を降り、二人でエレベーターに乗り込む。カードキーをタッチし、指紋認証をクリアしてから瑛一が最上階のボタンを押した。気圧の差で耳に少しの違和感を覚えた頃にエレベーターの扉が開いた。
 そこは全面ガラス張りの展望フロアだった。窓際に立つ瑛一の隣に並ぶと東京タワーが見える。都会の街は煌々と明るい。足元の絨毯は上質で柔らかく、BGMはやけにムードを醸し出すジャズだ。別の意味で口説かれるシチュエーションやな、これ。

「幼い頃、父の――レイジング鳳の現役時代のライブ映像を何度も見た」

 突然口を開く瑛一の視線の先には街の灯りではなく、星の瞬きも見えない暗い空があった。

「初めて見たときは心が震えたな。あれほどの大衆に求められることの喜びと恐れを、幼心に俺は感じていたんだろう。父の何が彼らを突き動かしているのか。音楽か、美貌か、生き様か……。きっとそれは自由なんだ。拠り所に感じるも崇めるもただ愛おしく思うも時には妬ましくさえ感じるのも。……あの視線や歓声を俺も浴びて、ステージに立ってみたいと、子どもながらに夢見たものだ」

 瑛一が歩みを進めるのに従った。時間をかけて夜景を眺めながらフロアを一周する。展望フロアには他に誰もいない。点在しているソファの一つに瑛一が腰を下ろし、ヴァンはその隣に座った。

「どうだ? お前も、俺と共にアイドルを目指す気はないか?」

 俺と共に、という言葉に心がぐらつく。正直、アイドルそのものよりも鳳瑛一に興味を惹かれてしまっていた。しかしだからといって、すぐにイエスと返事はできない。

「気持ちはめちゃくちゃ嬉しいんやけど……なんでワイのこと誘ってくれるん? そらえーちゃんとか綺羅ちゃんがアイドル目指すんはわかるで。見た目もええし。でもワイは、そないやと思うけど」
「意外と自己評価が低いんだな」

 瑛一はさらりと笑った。それだけで何百の女の子が倒れてしまいそうな笑顔。
 ヴァンだって、自分のルックスが悪いとは決して思わない。我ながらそこそこイケメンだと自負している。でも、彼らは放つオーラが違う。それを自分も身に付けられるのか、甚だ疑問だ。
 瑛一はヴァンの心情を見透かしたように続けた。

「生まれながらにしてアイドル然とした人間は稀有だ。無論、努力してアイドルらしさを身に付けてもらうぞ」
「……えーちゃんは、その、生まれながらにしてアイドルのタイプやろ」
「そう思われるのは悪い気はしないが……残念だが、そんなことはない」
「え、ほんまに?」

 口角を上げ、瑛一は「ああ」と頷いた。覇者の如きオーラを身に纏わず、未熟な頃の瑛一なんて想像できない。
 瑛一はソファに深く腰掛け直すと、長い脚を組んだ。その様はやはり絵になる。

「俺たちは、六人組ユニットでのデビューを予定している。メンバーは俺と綺羅の他に、あと……二名が確定している」

 二名と口にする前にごく短い間があった。なんでやろ、と思ったけど、口は挟まない。

「一人はアイドルとしての資質に恵まれた可憐な少年」
「少年?」
「あぁ、現在十歳だ」
「じゅっ……⁉」

 一回り以上年下のメンバーの存在に動揺が隠せない。そういえば瑛一の年齢をまだ聞いていなかったが、彼からしてもかなり年下になるはずだ。あまり気にする必要はないのだろうか。ヴァンのリアクションを可笑しそうに見ていた瑛一に「ほんでもう一人は?」と促す。

「俺の弟だ」
「弟? レイジング鳳の息子が二人もおるってこと?」
「ああ。そうなるな」

 瑛一と似たタイプがもう一人、そして綺羅に、十歳の少年。どうしてもちぐはぐな感じがして脳内で上手くシミュレーションできなかった。そこに自分が入っていく姿はもっと想像できないが、面白そうではある。みんながみんな揃ってスーツを着ている職場の何百倍もユニークだ。
 自分の想像に笑っていると、瑛一は目を眇め「何が可笑しいんだ」と訊いた。

「いや、なんかそのグループ想像したらおもろいなと思って」
「面白い?」
「えーちゃんと綺羅ちゃんが並んどる時点で顔面偏差値高すぎやし、それに加えてもう一人レイジング鳳の息子がおるんやろ? すごいって。あとクセも強そう」
「弟は俺とは少し違うタイプだな。あの親父の血を引いているとは思えないほど、穏やかで優しい」
「ますますわからんようなってきた」

 脳内の鳳弟のイメージを、少し柔らかい感じに修正する。でもきっと彼も同じように美形だろう。十歳くんは不明だが、そこに自分も並び立つかもしれないと考えるとちょっと尻込みしてしまう。

「皆個性的なメンバーだが、グループとして活動するにあたり、まとまりも重視したい。そこでバランサーとしての役目を担える人物を求めていてな」
「……ああ、なるほど」

 そこで初めて合点がいった。顔がいいとか秘めたアイドル能力が高いとか言われるよりも納得できる。ヴァンのコミュニケーション能力や社会人経験は、瑛一の求める条件に合致している。そして、挑戦し続けたい、人生を冒険したいというヴァンの夢を叶える場所としてもぴったりだ。

「それだけではないぞ。お前の顔はさっぱりしていて人好きするし、声も深みがあって素晴らしい」
「そんなオマケみたいに言ってくれんでいいよ」
「卑屈になるな。俺は本当のことしか言わない」
「じゃあもっと褒めてみて」
「そうだな。ヴァンの陽の気は良い。周りを明るくする力がある。綺羅も生き生きと喋っていたな」
「お、もう一声」
「スタイルもなかなかいいな」
「なんかちょっとずつ適当になってへん? てかえーちゃんやっぱおもろいなー」

 ヴァンが相好を崩すと、瑛一は肩を入れてにじり寄り「俺についても聞かせてくれるか?」と首を傾げた。そういうのはヴァンの得意分野だ。ええで、と安請け合いする。

「まず顔が圧倒的にいいやろ? 普段のクールな感じもええけど、笑ったときに可愛くなるギャップとか、女の子はたまらんやろな。声も身体の奥にずーんて響く感じがしてきれいやし、あと背ぇ高くてスタイルいいし、何着ても似合う感じが羨ましい。髪形もビシッとキマっとぉし、眼鏡が似合うし、話したら結構熱くておもろいし……なんかいいな、この人と一緒に仕事してみたいって思わせる魅力がある」
「おぉ……その語彙力、観察力……素晴らしいな!」
「今ワイがえーちゃん褒めるターンなんやけど……。でもそうやろ、得意やねん。営業職長いからなぁ」
「ますますヴァンが欲しくなるな」

 目を細めて微笑む。美しい夜景をバックに「欲しい」だなんて綺麗な顔面で言われるとアイドルやりますと即答しそうになってしまう。
 この人未来でも見えてるんかな、と疑うほどの自信に一抹の不安を抱きながら、ヴァンの頭の中の天秤はぐらぐら揺れて止まらなかった。
 瑛一はすっと立ち上がり、振り返るとヴァンを呼び止めた。

「俺には未来が見えている、と言ったらどうする?」
「えっ」
「何だその顔は」

 どんな間抜け面だったんだろう。でも仕方がない。

「いや、アンタ未来でも見えてるんかなって考えてたところやったから」
「俺にはヴァンの思考を読む力はないぞ」
「うん。じゃあ未来は? ほんまに見えてるん?」

 ありえないのに、瑛一が首を縦に振ろうものなら信じてしまう気がした。そうであってほしいとさえ願った。

「本当に俺には未来が見えているのか、お前自身で確かめてほしい」

 まるで呼吸するみたく自然に瑛一は言った。めちゃくちゃ気障な台詞なのにこの男が口にするから様になる。でも若干オーバー過ぎて面白い気持ちが勝ってしまい、腹筋が痙攣し始めるのを止められなかった。こらえきれずに噴き出すと、瑛一は嫌な顔一つせず笑みを浮かべた。

「奇妙な男だな。何がそんなに面白い」
「いや、今のあかんやん。ワイ、今アンタに壺売り付けられたら買ってまうかも……あー、あかんめっちゃおもろ……えーちゃん、いつも誰にでもそんな感じなん?」
「どうだろうな。気に入ったものや手に入れたいものに執着する節はあるかもしれない」
「それって遠回しにワイのことめっちゃ気に入ったって言ってくれてる?」
「遠回しに言っているつもりはないが」
「そっか。ありがとう。照れてまうわ~」

 前向きに考える、と答えると、「そうか!」と瑛一は喜びを顔いっぱいに広げてみせた。同時に、ヴァンの心の中に渦巻いていた薄暗いモヤモヤも晴れたような心地がした。
 面白いものと運命とが同時に向こうからやって来た。
 そんなん最高に決まってるやん。笑わずにはいられない。


 帰りの車内で、瑛一に断りも入れずレイジング鳳の曲を流した。ハンドルを握った肩がイントロに反応する。ヴァンが歌い出すと、「歌えるのか」と瑛一は目を瞬かせた。

「そらめっちゃ流行ったし。歌番組毎週出とったもん」

 歌詞を覚えていたことには自分でもびっくりした。子どもの頃に聴いていた歌って、想像以上に身体に染み付いている。
 瑛一には悪いが、もうすっかり過去の人だと思っていた伝説のアイドルとこんな風に接点ができるとは思ってもみなかった。こんな大きい息子がいるなんて知らなかったし。
 レイジング鳳が立っていたような舞台に、もしかしたらヴァンも立つかもしれない。それはどう考えても面白すぎる人生で、想像しただけで気持ちが逸る。

「……いい声だな」

 えーちゃんも歌ってや、と誘うと断られてしまった。車は都会の明かりを抜ける。


「今日はほんまにありがとう」

 宿泊先のビジネスホテルの前で車を降り、上着の襟を正した。

「ライブ、明日も行くんだろう」
「うん。綺羅ちゃん見たいし」
「綺羅も喜ぶに違いない」
「喜んでる風には見えへんかったけどな。でもそこが可愛いとこや」
「ああ、そうだな」

 瑛一はふっと視線を落とし助手席側の窓を閉めようとする。「えーちゃん!」と呼び止めそれを制した。
 最後に訊きたいことがあったから。

「えーちゃんは今、子どもの頃になりたかった大人になれてる?」

 眼鏡の奥の瞳が驚きの色を浮かべ、見開かれたと思えばすぐに視線はハンドルを握った手元へ落とされる。
 当然だ、と快活な返事を想像して訊いたから、即答されなくてまず驚いた。
 鳳瑛一を覆うベールが、一枚、また一枚と重ねられていく気がする。遠くにいってしまうような――別に、たった一晩で近付けたわけでもないのに。

「……どうだろうな」

 音を立ててゆっくりと窓が閉まる。
 おやすみ、と四文字の響きが、上品でただ柔らかかった。

 運命的な夜があったからといって、翌日からの人生ががらりと変わるわけではなかった。
 自分自身がキラキラすることもなければ、逆にこれまでの仕事をつまらなく感じるわけもない。今の仕事にはやりがいがあるし、やめたいと思ったことは一度もなかった。
 それでもやっぱり、天秤が傾ぐのは止められない。

 得意先との商談を二件終え、すぐに関西へ帰ると言った上司と別れて入った喫茶店で、気付けば瑛一の名刺を取り出していた。店内の橙の灯りに光沢感の強い用紙が映える。
 連絡を取ろうとしたわけじゃない。今日のライブに行けば会えるだろうし。ただ何か手に持ったり動かしたりしていないと落ち着かなくて、なんとなく名刺を裏返したり紙を透かしてみているだけだ。
 それにしても、昨晩の瑛一の最後の態度は何だったんだろう。
 そして自分はこれからどうなりたいんだろう。

「……そうや」

 父の――レイジング鳳のライブ映像を子どもの頃に何度も見たと瑛一は言っていた。ヴァンは彼のライブを見たことがない。
 YouTubeで代表曲の『LOVE IS DEAD』と検索すると、いくつかのライブ映像がヒットした。一番上に表示された、おそらく引退直前に行った公演をタップする。サムネイルは歌唱中のレイジング鳳が引きで撮られたショットだった。マイクに結わえられた紺色のリボンと丈の長いジャケットが同じ方向に揃ってなびいている。

 イヤホンを両耳に挿してボリュームを上げる。熱狂したファンの割れんばかりの歓声がまず響いた。この会場あそこのドームか、と気付いたのは野球観戦が趣味だからだ。ライブだと何万人を収容できるのか知らないが、声量やペンライトの数を見るにものすごい動員数だったのだろう。ていうかこの時代からペンライトってあったんや、と余計な考えにとらわれていた意識を、レイジング鳳の登場が引き戻す。
 照明が彼とバンドメンバーを背後から照らして、その姿はすぐにはよく見えなかった。でも確かに圧倒的な存在感を放っている。
 ライブで歌われる『LOVE IS DEAD』は、まるでヴァンの知るそれではなかった。称賛や畏怖さえ込められているようなおびただしいほどの熱気に応える素振りは見せず、レイジング鳳は歌いながら目には見えない何かと戦っているように感じられた。それは予定調和ではなく、複雑に絡み合い空気をひりつかせる。
 ステージと客席全体を捉える遠目のカメラに映像が切り替わり、ファンが突き上げた拳や何かを求めて掲げられた手のひらがうっそうと茂る森みたく映し出された。これほどの数の群衆の注目を浴び、求められる瞬間の感情はどんな風だろうか。気持ち良いのか。満たされるのか。それとも怖いのか。
 レイジング鳳のアップの画に移り変わる。無数の照明を浴びた瞳はぎらつき、なだらかな額にもコートの襟元から覗く首筋にも汗が流れている。鳳瑛一はこの顔によく似ていた。そして昨晩言われた数々の言葉が蘇ってきては気持ちが揺らぐ。お前が必要だとあんなにはっきり求められたのは初めてだった。これまでの人生、仕事も恋愛も趣味も些細な選択肢でも、自分の心が求めるままに選んで行動してばかりだったから。一度きりの人生だ。それが最善で全てだと思い生きてきた。
 曲は終盤に差し掛かり、ファンたちはいっそう大きな声をあげた。コールか否かよく分からない。バラの花びらを舞わせた花道を堂々と歩きながら、レイジング鳳はアリーナ席のファンに、媚びるわけではない視線を振りまいた。そして、天井の空いたドームの真上に広がる星空を見つめた、気がした。
 熱狂の濃度が上がれば上がるほど演者の音圧も増した。ラストのサビの前、メインステージへ戻ったレイジング鳳はゆっくりと勿体付けるように客席を端から端まで見渡した。その視線に呼応して歓声が波のように広がっていく。
 その後カメラはレイジング鳳の表情をアップにして、彼以外の何も画角に映さなかった。すごいライブや、と凡庸な感想を抱く。同時に、これを生で観られなかったもどかしさを強く感じた。
 こんな小さな端末じゃ、当時の熱も感動も一瞬一瞬の儚さもわからない。今、自分の身体で感じたいと願ってもこのアイドルはもうステージにいないのだ。興味本位でいろんなアーティストのライブに行ったことがあるが、アイドルのライブは特殊なものに思えた。ステージに立つレイジング鳳は、彼の生き様を丸ごと削り取ったようでも、夢のように作られた偶像でもあった。そして、失われた彼の一部を埋めるように観客も自分の大切な何かを捧げているような生々しさがあった。

 ――アイドルになる気はないか。

 瑛一の言葉が脳裡をよぎる。レイジング鳳が見た景色を彼も見ようとしているのだろうか。父が感じた熱を、彼もまた感じようとしているのか。こんなライブは現実のものではない気がするのに、それを目指す男と確かに出会った。
 演奏が終わると動画はぶつりと途切れた。よく見る自動車保険の広告が流れ始める。ヴァンは舞台に立つ自分を想像した。ありえない夢みたいな話だ。しかし、瑛一のせいで現実味を帯び始めているから胸が高鳴った。なんだか今すぐ瑛一に会いたい。何を話したいか自分でもわからないが、レイジング鳳のライブ映像に、熱い衝撃が体内を循環する血液みたくほとばしる。
 衝動に任せて会計を済ませ店の外に出た。コートを小脇に抱えスマホの通話履歴をタップしたタイミングで着信があった。ディスプレイに表示されたのは、アドレス帳に保存し忘れていた瑛一の番号だった。――運命や。

「ワイもちょうどアンタに電話しよ思ってたところや」

 瑛一がどんな用件で電話をかけてきたかは二の次だった。運命的なタイミングの良さに感激して言葉を続けようとしたのを、電話の向こう側の瑛一がせき止める。

『ヴァン、今どこにいる?』
「え? ええっと……昨日のライブハウスの隣の駅くらいの喫茶店」
『そうか。今日のチケットは持っているのか?』
「いや、入るとき買おうと思ってるけど」
『やはりそうか。先ほど当日券が完売したと聞いて、お前のことを思い出した』
「うわ、そうなん? 油断しとった……」

 そういえば昨日も超満員だったから、今日のチケットが手に入らないと容易に想像できるはずだった。

『関係者チケットを余らせているのだが……開演前は少々立て込んでいてな。直接渡せそうにない。俺の弟が観に来る予定になっているから、弟から受け取ってくれるか』
「ええの?」
『綺羅も自分に注目してくれる人間が一人でも多い方が嬉しいだろう』

 電話の向こう側から、瑛一のものではない咳払いが聴こえる。どうやらすぐ近くに綺羅がいるらしい。

「わからんけど、ワイは綺羅ちゃんの演奏もう一回見たかったから嬉しいわ。ありがとう」
『では開場時刻に入り口前で。ヴァンの特徴は俺から弟に教えておく』
「ほんまにありがとう。で、えーちゃん――」

 話したい内容がまとまっていないのに、流れるように名前を呼んだ。このあとなんて言うんやっけ? 次の言葉がするりと出ず、妙な沈黙が生まれた。その間を埋めるように、『リハお願いしまーす』と声が聴こえる。その慌ただしさになぜかほっとした。

『ヴァン、悪いが話はまた後で』
「うん。忙しいときにごめんな」
『では』

 電話が切れる。
 いつもはもっと、何かに弾かれたように行動できるし、自分の気持ちをはっきり言葉にできるのに。どうにも往生際が悪いというか煮え切らないというか。気持ちに薄いグラデーションを作られているみたいに、答えを一つすぐに取り出せず、もどかしかった。
 あぁもう、と口にする必要のない言葉をわざわざ声に出して、それから瑛一の番号を電話帳に登録しておく。

 そういえば、「ヴァンの特徴」って具体的に何を伝えたんやろ。
 瑛一の言葉に引っ掛かりを覚えたのは、開場五分前にライブハウスに到着したときだった。弟に特徴を伝えるから待っていればいいと言われたはいいけど、自分に特徴らしい特徴があるとは思えない。サラリーマン風の男はぱらぱら見かけるし、身長がものすごく高いとか低いとか、人と違う髪形をしているわけでもないし。
 開場時刻を迎えると、整理番号順に次々と観客が吸い込まれていく。客層は広く、スーツ姿の男性客の姿もやはりまばらに見かけた。あちらから探してもらうより、むしろヴァンが瑛一に似た顔を探し出す方が早いかもしれない。あんな整った顔面なら気合いで何とかなるかも。そう考えた矢先、背後から「すみません」と声をかけられた。

「桐生院さん、ですか?」
「えっ、あ、はい。もしかして、えーちゃんの弟さん?」
「そうです。鳳瑛二っていいます」

 振り返ると立っていたのは、瑛一に比べるとかなり素朴な印象の少年だった。いくつ歳下なのだろうか、想像していたよりずっとあどけない顔立ちに面食らう。それから視線を斜め下にスライドさせると、髪色こそ違うものの、瑛一と同じ種類の華やかさを携えた少年がじっとヴァンに視線を注いでいる。

「三兄弟やったんや。てっきり弟さんて一人やと思っとったわ」
「あ、いえ、弟は俺だけで……こっちは帝ナギ。俺たち二人とも、兄さんや綺羅と同じ事務所に所属してるんです」

 なるほど、彼が十歳くんか。確かに瑛一が言う通り、可憐で整った目鼻立ち。

「ほら、ナギ、挨拶は?」

 軽く背中を叩いて促す姿はやっぱり兄弟みたいに見える。ナギと呼ばれたピンク色の髪の少年は、つんと唇を尖らせて値踏みをするようにヴァンを見上げる。きれいすぎる造りの顔に穴が開くほど見つめられるのはそれだけで恐ろしくもあった。

「……こんばんは」
「ん? うん、こんばんは」

 何を言われるのかとつい身構えてしまったのに、ナギはただ早口で挨拶しただけだった。初対面の大人に緊張していただけなのか。関係者入り口へと向かうナギの後を追っていると、瑛二が「ごめんなさい」と肩をすくめる。

「何が?」
「ナギ、ちょっとご機嫌斜めなだけなんで……」
「あ、そうなんや」
「昨日の夜、兄さんに桐生院さんから電話があったとき、兄さんとナギ、一緒にいたみたいで」

 瑛二が声を潜める。すでに会場入りした観客の話し声で騒がしい中でも、すっと耳に馴染んでくる声が不思議だった。
 ロッカーにコートと旅行鞄を預けようとすると、ナギは「先行ってるね」とそそくさと客席に向かった。

「もしかしてご機嫌斜めの原因ってワイ?」
「ナギ、兄さんが大好きだから……。昨日電話があって兄さんが飛び出して行って、ナギ、たぶん桐生院さんに兄さんを取られたって思ったんだと思います」
「……謝った方がええかな」
「どうだろ……」
「逆効果?」
「たぶん……」
「難しい年頃やなぁ」

 小学生の頃の自分がどんなだったかもう思い出せないヴァンは、どうするべきか見当も付かなかった。子どもは大人よりずっと難しい。
 結局とりあえずそっとしておこうと決め、二階の関係者席に一人でちょこんと座っていたナギの隣に腰を下ろす。瑛二が真ん中に座ってくれたらいいのに、なぜか気を遣われて二人に挟まれるかたちになった。あかん、明らかに気まずい。そう思っているのはヴァンだけかもしれないけど。

「そういえば、えーちゃ……お兄さんには、ワイのこと何て聞いてたん? 弟に特徴伝えとくって言うてたけど、正直なんも特徴なくてわかりづらかったやろ」

 開演まではまだ十分に時間があって、三人でずっと黙っているのも耐えられないのでヴァンから切り出した。瑛二は少し困ったように微笑んで「失礼かもしれないんですけど」と前置きする。やはりよく通るいい声。

「コートとか鞄とか靴とか、昨日とたぶん変わらないだろうからって、どんなものを身に着けてたか兄さんが教えてくれたんです」
「ああ、なるほど。でもどれも特徴ないデザインやから見つけにくかったんちゃう?」
「簡単だったよ」

 逆方向からナギが口を挟む。スマホの画面を提示され、覗き込むと上着や旅行鞄のブランドや型番が写真付きで表示されていた。

「瑛一がここまで特定して教えてくれてたから」
「うわ恥ずかしっ……全部当たってるし」
「兄さん、服とかに詳しいから……」
「詳しいとかいう次元ちゃうって」

 ていうかさー、とスマホを小さな鞄に入れながらナギが言う。この場におよそ似つかわしくないきちんとした座り方に育ちの良さが感じられた。反して喋り方はちょっと小憎らしい。

「瑛一に聞いたんだけど、キミも事務所入るの?」

 一回り以上年下の少年に「キミ」と呼ばれ一瞬たじろぎ、それから、結局気持ちを整理しきれていないからしばらく返答に詰まった。お茶を濁すように「えーちゃんは何て?」と質問で返す。

「スカウトした、って、それだけ」
「こういうことってよくあるん? えーちゃんのことは信用しとぉけど、ワイ昨日が初対面やってんけど」
「ナギも綺羅もだいたい同じ感じ。瑛一ってば、ナギのことは金沢まで追いかけてきてくれたんだから」
「へぇー……」

 気に入ったものには執着する節があると言っていた。でもアイドルの素質なんて、服や鞄みたいに一目見ただけで全てが見通せるわけでもないのに。瑛一の溢れんばかりの自信はどこから来るのだろう。

「で? キミはどうするか決めてるの?」
「……正直に言うと、ちょっと迷っとる」
「ふーん……」

 含みを持たせるように呟き、ナギは軽く足をぶらぶらさせ、すぐにしゃんと座り直す。
 子どもの無垢な瞳を欺く自信はなかった。結果として、正直な気持ちを吐露して正解だったのだろう。ナギはそれ以上突っ込んでこなかった。だから率直に、ヴァンも質問をぶつけてみる。

「二人は何でアイドルになろうと思ったん?」
「楽しいことがいっぱい知りたいから」

 即答したのは当然ナギだった。

「ナギ自身が今よりもっと可愛くなってキラキラするのも楽しいし、周りがいっぱい期待してくれるのも楽しいんだ。今はまだ人前に立ててないけど、みんなに求められてみんなを魅了するアイドルになる。それって絶対楽しいでしょ? 天職だと思うんだよね」

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳が輝く。きっとこの向上心が彼をさらに魅力的に見せているのだ。仕事だって、惰性でなく目標に向かって正しい努力をしている方が結果が出る。それと同じだ。

「キミはどうなの?」

 今度は瑛二に話題を振ろうとすると、ナギに顔を覗き込まれる。

「今は違う仕事してるんでしょ? どうして今の仕事しようって思ったの?」

 ナギは答えがあるのが当たり前みたいに問いかけてくる。ヴァンには耳が痛くなる質問だった。でもそうだ、ヴァンだって子どもの頃は、大人がしている仕事はやりたくてやっているものだと信じて疑わなかったのだから。

「……なんでやろな」

 言葉を濁すしかできないのが嫌だ。
 本当はちゃんと理由がある。営業職はやりたい仕事だった。扱っている商材も自分に合っているし、職場環境も福利厚生も待遇もそこそこ良くて言うことなしだった。仕事にはやりがいがある。それに、自分に合っている。でもその魅力や適性を子どもにわかりやすい言葉にして表現するのは、大人のヴァンにだって難しかった。

「わかんないの? 大人なのに?」
「大人にもわからんことがあんねん」
「ナギはそんな大人になりたくないな」
「……そうやね」
「ほら、大人はすぐそんな風にはぐらかす」

 もう大人だから、物事がスムーズに運ぶための些細な嘘もつけるし賢い選択をする。それでも真っ直ぐ生きている自負があった――少なくとも周りの『大人』たちよりは。
 まだ大人とは言い難い彼らを目の前にすると後ろめたい気持ちになるのはなぜだろう。他の誰でもない、少年時代の自分をはぐらかしているようで嫌だった。

「あのっ」

 瑛二が軽く身を乗り出した。話題を変えないと、と意図が丸見えで可笑しい。会話をするすると自分のペースに持っていく兄とは似ても似つかないぎこちなさだ。

「綺羅とは、地元のお友達とかですか?」
「地元の……ではないけど、うーん……ファン? お友達兼ファン?」
「なにそれ、やっぱ怪しいな~」
「それが怪しないねんな~」
「ナギ、失礼だよ。兄さんとも知り合いなんだし……」
「あーあ、瑛一はもっと見る目あると思ってたのになぁ~」

 値踏みするような視線がのぼってくる。
 こわいなぁ、と茶化すしかないのは、相手が子どもだから。それもあるけど、自分でもそう思う気持ちがあるから。
 暗転する会場に、ナギが「始まる」と呟いた。

 今日は綺羅が助っ人に入っているバンドがトップバッターだった。二階席だと、ステージの後方でキーボードを弾く姿が昨日よりもよく見える。音楽には詳しくなくても、助っ人だと知った今でもそうとは思えないほど調和して聴こえた。思えば初めて会ったときは、もっと表情が乏しかった気がする。その姿が綺羅のミステリアスさを助長していて、興味を惹かれてしまったのだけど。
 今、ステージの上で綺羅は楽しんでいる。わざわざ確認しなくたってわかる。
 言葉は苦手だと言っていた。だからそれ以外の方法で自分を表現できる今が、綺羅には満ち足りているのだろう。
 隣のナギにふと視線をやると、大きな瞳がキラキラと輝いて眩しい。ヴァンがよそ見しているのに気付かないくらい、ステージに、音楽に釘付けだった。
 どんな「大人」になりたかったっけ。
 未来にどんな夢を描いていたっけ。
 ナギくらいの年の頃の自分は。綺羅くらいの頃の自分は?
 あの頃の自分に、そして将来の自分に、一度きりの人生でやりたいことをしていると、胸を張れるだろうか。
 どこか迷った感じのした、新幹線で話したときの綺羅はもういないのに、自分はずっと同じところにいる。「社会」に溶け込んでしまっている。そんな気がする。
 キーボードのソロパートのあとで綺羅と目が合った。見ていたか、と確認のように。
 全部見ていた。
 まだ何も知らないけど、皇綺羅という人間の全てを、ずっと知っていた心地さえした。その熱は伝播して、体の臓器よりさらに深いところにあるところが熱くて仕方なかった。
 気付くと両手できつく拳を握っていて、手のひらに押し込んだ指のかたちがくっきりと残っていた。


 終演後、ナギに促され席を立った。すっかり脱力してしまっていた。ステージに次々と出てくる誰もが音楽を通して夢を追っていると思うと目が離せなかった。お前はこの先どう生きていきたいのかと問いかけられているようで。
 預けていた荷物を受け取ったあと、二人の後ろについて向かったのは綺羅の楽屋だった。鏡と机、丸椅子が二脚だけの手狭な個室は四人で入ると窮屈だ。お疲れ様、と二人が口々に挨拶するのに倣って「お疲れ」と声をかけた。

「見てたで、綺羅ちゃん」

 背もたれのない椅子に腰掛け背筋を伸ばした綺羅は静かに頷く。無駄な荷物は何もなく、長机にはペットボトルとスマホが伏せて置かれているだけだった。かっこよかった、と言うと、ナギと瑛二が大きく頷いた。

「昨日はなんかこう、ピアノ上手くてかっこええ! って思ってたけど、今日はまた違ったっていうか……やりたいことのために頑張ってんの、めっちゃかっこいいと思った」
「当たり前でしょ~?」
「それナギちゃんが言うんか?」
「綺羅も絶対そう思ってるから代わりに言ってるの。ね~?」

 首を傾げて同意を求める。意外にも綺羅は「ああ」と肯定した。

「綺羅ちゃん、感情が音楽になるみたいなこと前言ってたやん。初めて会ったとき」

 ほんの一瞬間が合って、その記憶を引きずり出してきたのか、綺羅はしっかりと首を縦に振る。

「今日のステージ見てたら、あの日の会話思い出したわ。今綺羅ちゃんはいい意味で必死なんやって伝わってきて、あ、音楽から感情伝わってきた、って思ってん」
「……ありがとう……ございます」
「何でありがとう?」
「褒め言葉、だと受け取った……から」
「それは――うん、そうやな」

 そろそろ撤収してくださーい、と部屋の外からスタッフの声が響く。

「後片付けと……挨拶を、済ませてから……出る」
「うん。じゃあ俺とナギは先に帰るね。そういえば兄さんは?」
「電話をすると……出て行った」

 綺羅は立ち上がり、椅子を部屋の端に寄せた。お疲れ、と声を掛け合いながら控室を後にする。
 裏口から外に出ると、通話中の瑛一と目が合った。瑛一は早々に会話を切り上げ、通りを走るタクシーを捕まえると瑛二とナギを手招く。

「寄り道せずまっすぐ帰るように」
「わかってるよ~、ほんと過保護なんだから」

 乗りもしない瑛一が運転手に行き先を伝え、タクシーはなめらかに夜の街へと吸い込まれる。過保護っていうのは間違ってないかも。思わずにやけてしまったのを隠さずにいると、振り返った瑛一に「ヴァン」と咎めるように名前を呼ばれる。

「関係者用のパスを付けっぱなしだぞ」
「え? あ、ほんまや忘れてた」

 みぞおちのあたりでずっとゆらゆらしているネックストラップに今さら気が付いた。ていうか二人はいつの間に返してん。声くらいかけてくれても良かったのに。

「俺から返しておこう」
「ありがとう。助かるわ」

 ストラップの部分をパスに巻き付け手渡す。今まで忘れていたのに、なんだか突然身が軽くなった気がした。ゆっくりと現実に戻されていくようで切ない。綺羅の演奏や音楽に膨らまされた高揚感はまだ身体中に残っているのに、ずっと留まっていられないのが寂しかった。子どもの頃の、門限が迫った夕方みたいだ。

「関西へはいつ帰るんだ」
「明日の始発かな。今日の最終にはもう間に合わへん」

 腕時計に視線を落とすと、秒針の動きがいつもより速く感じられた。
 瑛一は、そうか、と低く呟いただけで他には何も言わなかった。伏し目になると眼鏡の奥の睫毛の長さが際立って、元々交わるはずのなかった世界の人間なんだと思い知らされる。こんなにも美しくて、でもそれだけじゃない。とびきり面白い。
 互いに次の言葉を探り合う空気ではなく、瑛一より先に口を開いた。

「アイドルになるって話、真剣に返事してええんかな」
「ああ。俺はいついかなる時も真剣だ」
「それがほんまなら疲れそうやな」

 眉尻を下げて笑った。瑛一は常に真剣で全力。それは間違いじゃない。だからこそ同じ景色が見てみたいと思った。

「えーちゃんたちと、一緒にやらせてほしい」

 くせでつい頭を下げそうになって、あぁ違うなと思い至る。まっすぐ瞳を見つめると、レンズの向こうの瞳の中に自分が映っているのが見えてもおかしくない気がした。

「正直――ワイは、アイドルじゃないとあかんわけじゃない。それがえーちゃんたちと違うとこやと思う。でも、なんかめっちゃワクワクした。綺羅ちゃんがキーボード弾いとぉとこ見て、夢追いかけとる人たちがいっぱいおって、昨日、アンタに声かけてもらって」

 ステージから確かにヴァンを見上げていた、綺羅の姿を思い出す。
 訴えかけるような強い瞳だった。音楽と同じくらい、その視線が脳裏に深く焼き付いた。その姿に、動画で見たレイジング鳳のライブが重なった。あの熱狂を自分も味わってみたいと焦がれているなんて、さすがに子どもの夢みたいだろうか。

「子どもの頃のワイが見て、こうなりたいと思える大人になりたい。だからやりたいと思った気持ちに嘘はつかへん」

 視線をずっと合わせたまま、瑛一はしばらく何も言わなかった。目をそらせば解けてしまう気がする。魔法に似た何かが。

「……イイ!」
「何⁉」

 高らかに叫ぶとその次には笑い出す。こういうわけのわからない部分を面白いと感じてしまうのは、多分自分の笑いの許容範囲が広いからではなく、瑛一の得体のしれない魅力のおかげなのだろう。

「歓迎するぞ、桐生院ヴァン!」

 握手を求められ、それに応じる。あ、なんかドラフトみたい。
 右手を固く握り合う最中、綺羅が出てくるのが見えた。相変わらず夜に溶けてしまいそうな黒のコート。事情を察したのか、歩きながら綺羅は眉をひそめた――ように見えた。
 綺羅、と瑛一が名前を呼んで次の言葉を繋ぐ前に、黒い手袋を外してすっと手を差し出す。傷一つなく、爪が短く切り揃えられた白い手。

「よろしく……お願いします」
「こちらこそ、綺羅ちゃん」

 迷いなく握手を交わすと、思いの外強い力で握られた。それからすぐに、綺羅のタイミングですっと力が抜けてほどけていく。手袋をはめ直し、指先もまた黒に包まれる。

「あなたと音楽を共にやるとは……思いませんでした」
「人生何が起こるかわからんから楽しいな。あと、敬語いらんし気軽にヴァンちゃんって呼んで」
「ちゃん付けは……遠慮しておく」

 ヴァン、と綺羅が呼ぶ。返事をするとまた呼ばれる。口に馴染ませるように何度も。
 もしあの日、新神戸で綺羅に声をかけなかったら。新幹線であの席のチケットを取っていなかったら。昨日、ライブに行かなかったら。瑛一に電話をかけなかったら。
 どれか一つでも欠けていたら、今はなかった。人生はそんなものの積み重ねだ。だから面白いし、一度きりの人生、自分の心に従いたい。知らないものをたくさん知りたい。広い世界にいつも夢見ていたい。

「運命やな、綺羅ちゃん」
「運命では……ない」

 綺羅はぴしゃりと言い放った。
 何を考えているかよくわからない。言葉が少ないから。それも多少はあるけれど、きっと、まだ互いに何かを伝え合おうとしていないから。
 でもこれからわかり合えばいい。方法はたくさんある。綺羅が得意な音楽とか、ヴァンが得意な言葉とか。