音の残響

 電車の扉が閉まるとき、寂しいような名残惜しいような、なんともいえない気持ちに襲われた。この土地で生まれ育った。次いつ帰るのか――果たしてそれは「帰る」と呼べるのか――わからない。心細さを覚えるのは当然だった。

 東京行きの特急電車は、週末にときどき乗車する普通列車とは全く違った。白く眩しい電灯に広々したシート、次の停車駅を告げる電光掲示板。中学を卒業したばかりの自分が一人で乗っているのはおかしいような気がして、瑛二は座席に浅く腰掛け窓の外を眺めていた。外は薄暗くてよく見えないけれど、山々が遠くなるのがわかる。
 乗ったよ、と兄にメールを送る。あらかじめ調べておいた到着時間も続けて送信した。先週買ってもらったスマートフォンの入力にはまだ慣れない。
 すぐに「了解」と短い返事が来た。心配だから電車に乗ったら連絡しろと言ったのは兄さんなのに素っ気ない。
 動画再生サイトを開いて検索のボタンをタップする。履歴にあるのは国内外を問わないバレエやミュージカルのタイトルだらけだ。母が亡くなる前までは父の曲もたまに聴いていたけれど、母を思い出してしまうから、ここ数ヶ月はどうしても再生する気になれなかった。今日はなんだか平常心で聴ける気がして、父が三枚目にリリースしたシングルのミュージックビデオを流す。

 幼い頃はよく、兄と一緒に父のライブ映像を見ていた。特に夢中だったのは兄の方で、いつも真似して歌い踊っていた。
 けれど物心ついた頃には、兄は父の楽曲や映像に触れなくなっていた。いろんなレッスンが増えて単純に忙しかったのと、父の音楽を遠ざけたかったのだろう。
 父は長男の兄のみをアイドルとして育てようとしていて、そのためにレッスンを課し、上京を命じた。少なくとも瑛二にはそういう風に見えていた。兄は音楽が好きで、アイドルが夢だったから、レッスンも上京も決して嫌々じゃなかった。父の言う通りに動くことがアイドルになる近道だった。でも兄は、いつしか瑛二の前で歌っても踊ってもくれなくなった。
 きっと兄にとって音楽は楽しいだけのものではなくなってしまった。それでも時々兄は山梨の実家に航空券やチケットを送ってくれて、瑛二をいろんな国に連れ出して、音楽や文化に触れさせてくれた。どんな場所でも、瑛二の隣で音楽に浸る兄の姿は生き生きとして見えた。だから兄は今も音楽を心から愛しているのだと、それだけはわかる。
 端末の小さな画面に映る若き日の父は、兄によく似ている。兄は久しぶりに会う度に「また大人びたな」と瑛二の成長に驚くけれど、本当はいつも瑛二の方がびっくりしている。また兄さんがお父さんに近付いてる、と。だけど言わない。兄さんは嫌がるかもしれないから。


 電車の心地よい揺れに身を任せているうちに眠っていて、はたと目を覚ました頃には電光掲示板に『次は新宿』の文字が躍っていた。横目で外の景色をうかがう。ひしめき合って建ち並ぶ背の高いビルやそこを行き交う人々に、思わず「都会だ……」と声が出た。今日からここで暮らすなんて、まだ夢の中の話みたいだ。
 眠っている間に兄からメールが届いていた。短いものが連続して三本。

『すまない。仕事で到着時刻に間に合いそうにない』
『喫茶店にでも入って待っていてくれ』
『誰かに声をかけられても決して応じないように』

 しっかり者な兄らしい。忙しいのに申し訳ない気持ちと、俺だってもう高校生なのに、と子ども扱いにうんざりする気持ちの両方が生まれた。
 終点の新宿駅のホームに降り、出口と書かれた案内に従って進む。改札から押し出される人々の圧に流されロータリーへ出た。
喫茶店より先に、タクシー乗り場の看板と目が合う。一人で東京の電車に乗るのは怖いけれど、タクシーなら。母と昔、何度か乗った覚えがある。地下鉄の乗り換えよりもタクシーの作法の方がよっぽど自信があった。
 先頭で待機している車の横に立つと、後部座席の扉が素早く開く。
 十九時を回っているのに街はまだまだ明るくて人も多い。中学の友人たちが見たら驚くだろうな、と思うと息が詰まるような寂しさがあった。街路樹に施されたイルミネーションの灯りは、目を閉じてみても痛いほど眩しい。

「えっ」

 タクシーは伝えた住所通り、レイジングエンターテインメント事務所の正面に停まった。ボストンバッグを抱えたまま降車すると、閉じられた背の高い門に迎えられる。一人で勝手に来たはいいけれど、閉まっているとは思っていなかった。

「お客さん、場所違った?」

 突っ立ったままの瑛二に運転手が親切に声をかける。

「あ、いえ、合ってます! ありがとうございました」
「はいはいー、こちらこそありがとうございました」

 後ろでタクシーのドアが閉まった。念のため門に手をかけて押したり引いたりしてみる。もちろんびくともしない。
 むやみに動き回るより、ここで兄を待つのが良さそうだ。事務所の前にいます、と短く要件を送ったあと、勝手なことしてごめんなさいと謝罪も加えて送信した。あぁそれから、電車じゃなくてタクシーを使ったとも言っておかないと。それなら少しは安心してくれるはずだ。この一連のメールを見た兄が大急ぎで来てくれるのを想像すると、申し訳なさがさらに上書きされる。
 繁華街とは違って事務所の周りは人気がなく妙に静かだった。門の向こうに小さく見える建物のまばらな灯りを眺めながら、鞄からマフラーを取り出した。もうすぐ四月なのに夜はしんと冷える。それは山梨でも東京でも同じだった。そんな些細な気付きにほっとしてしまう。

 兄からの返信がないのを確認してスマホをポケットに戻す。遠くの方から人の話し声が聴こえた。こちらへ向かってきている。まだメールの返事がないからきっと兄ではない。関係者だったら怪しまれるかも、と門に背を向けてうつむくと、声の主たちが角を曲がって姿を見せた。小学生くらいの子どもと、すらりとした長身の男性――でも兄じゃない。横目で覗き見た背格好だけでもそれは判断できる。

「あれーっ?」

 そのまま通り過ぎてほしいと願っていたのに、少年の方が瑛二の姿を認めるや否や駆け寄ってくる。目の前でぴたりと止まって「ここに何か用?」と訊いた。見た目どおり可愛らしい声色なのに、ちくりと刺す棘のような感じもある。でも仕方がない。こんなところで立ち往生している瑛二が怪しいのは誰から見ても明らかだ。

「えっと、俺、兄さん……じゃなくて、えっと、俺、鳳瑛二っていって、兄さんと……鳳瑛一と待ち合わせ……本当は駅でしてたんですけど……」
「わ~っ! うわさの瑛一の弟だ!」
「う、うわさの……?」
「瑛一がよく……話を、していた」
「そうそう。でもあんまり似てないかも~? ねっ綺羅ぁ?」

 少年は長身の男に目線を移す。夜の闇に消えてしまいそうな黒髪が印象的だった。

「あの、これ……」

 兄とのメールのやり取りを見せると、二人はうんうんと首を振り納得してくれた。

「確か、瑛一は……社長に、呼ばれている……」
「お父さんに?」
「ああ」
「とりあえず寮に入って待つ? ここ寒いでしょ。通用口あっちだから、一緒に行こ」

 少年は瑛二の手を引き「ボクの名前は帝ナギ」と教えてくれた。
 名前は兄から聞いたことがある。恐ろしく美しい少年だと兄が絶賛していたのがたぶん彼だ。華々しくて可愛いのに、周りを寄せ付けない雰囲気もある。こんな子が同じクラスにいたら、きっと緊張して瑛二は話しかけられない。高嶺の花って、彼のような存在に使う言葉なんだろう。

「で、こっちが綺羅。皇綺羅ね。無口だけど怒ってるわけじゃないよ」

 きら、と呼ばれた男が黙って頷く。怒っていないのは本当らしい。兄やナギと同じで彼もアイドルなのだろうか。歌ったり踊ったりしながらニコニコしている姿は想像できないけれど――あぁでも、お父さんだって、別にいつでも笑っているわけじゃなかったっけ。

「二人とも兄さんと同じ事務所なんですね」
「うん。あ、敬語はなしにしようよ。ナギって呼んで」

 はい、と返事をしかけて「うん」と言い換える。可愛くて物怖じしなくて、でも案外気さくで。ナギは少し兄に似ているけど友達には全くいないタイプだから、少し委縮してしまう。物静かな綺羅は、瑛二に視線を寄越して一度頷くだけだ。
 事務所の通用口は、正面入り口から五分ほど歩いたところにあった。綺羅がカードキーをかざして敷地内に入り、寮の談話室と書かれた部屋に通される。アンティーク調の椅子に浅く腰掛け、二人と向かい合うと改めて別次元の存在と対峙している気分になった。匂いや光は出ていないはずなのに、彼らから発せられるオーラにすくんでしまう。瑛二がローテーブルに視線を落としていると、口を開いたのはやはりナギだった。

「瑛一から聞いてるよ。キミ――瑛二、社長に呼ばれて上京したんだよね」
「うん、そうだよ」

 一緒に住んでいた母親が昨年末に亡くなって――というのは、わざわざ話さなかった。兄さんが話していないなら俺が話すべきじゃないと思ったからだ。

「瑛二自身はどう思ってるの? アイドルになりたいの? なりたくないの?」
「え……」

 突然核心に迫られて言葉に詰まった。

「……なりたいよ」

 すぐに言葉を返したのは、半ば、そう答えないとナギの機嫌を損ねてしまう気がしたからだった。強気でまっすぐで純真で、だから少し怖い。そして自分の心の弱さに気付いてしまうと自己嫌悪に飲まれてしまいそうだった。嘘なんかついちゃいけない。でも「なりたくない」も嘘だ。「そっかぁ」とナギが温度感の掴めない相槌を打って、スマホに目を落とした。
 これで良かったのか。でも、こう言うしかなかったし。だけど本心は違うくせに。心の中の天使と悪魔が弱い部分をちくちくと刺してくる。
 沈黙を破ったのは、スマホの振動の鈍い音だった。画面を確認した綺羅が「すまない」と一言添えてから電話に出る。

「瑛一」

 と、瑛二に聴こえるようはっきりと口にする。電話の相手は兄らしい。続けて、言葉は細切れながら瑛二と一緒に談話室にいると伝えてくれた。

「ねえ、瑛一ってこういうとき怒るの?」
「え?」

 綺羅と通話中の瑛一には聴こえないくらいの声で、ナギが囁いた。

「だって瑛一、なんか焦ってるみたい」
「たぶん、駅で喫茶店にでも入って待ってろって言われたのに、俺が勝手にここまで来たから」
「えー、でも電車で一本じゃん?」
「それ、知らなかったからタクシーで来たんだ」
「じゃあなおさら、何にも心配することなんてないのに」
「兄さん、責任感が強いから」
「うーん……っていうか過保護? 瑛二、来月から高校生なんでしょ?」
「うん」
「過保護すぎー」
「……過保護」

 反芻する。もう子どもじゃないのに、と兄に抱いていた反発心に近い気持ちの理由が少しわかった気がした。
 綺羅は電話を切ると「すぐに帰ってくる」と言った。
 それからは誰も口を利かなかったが、気まずい空気ではなかった。ナギに向けられた質問を、瑛二は何度も頭の中で繰り返す。アイドルになりたいとかなりたくないとか、考えもしなかった。母が亡くなってから父と兄に上京するように言われて、あぁ俺もアイドルになるんだと、決定事項みたいに納得してしまった。

「――瑛二!」

 綺羅の言う通り、兄は十分もしないうちに談話室に姿を現した。コートも脱がずマフラーも巻いたまま、瑛二の隣に腰を下ろす。

「ごめんなさい、兄さん」
「何もないならそれで良い。心配をかけるな」
「うん……ごめんね」
「瑛一がそんなに過保護だなんて、ナギ全然知らなかった~」
「弟の心配をするのは兄として当然だろう」
「し過ぎなんだって。さっき、何で綺羅に電話してきたの?」
「事務所まで来ていると瑛二から連絡があったからな。綺羅に頼んで迎えに行ってもらおうと」
「そんなの、瑛二に通用口あるよって教えたら良かったのに。通用口なら二十四時間守衛さんいるんだし」
「守衛に正しく説明できず放り出されたらどうする?」
「うわっ過保護~って思う」
「……そんな話はもう良いだろう。綺羅とナギのおかげで瑛二は無事だったわけだ。礼を言おう。……で、二人に少々話があるのだが」

 兄は瑛二に「悪いな」と断りを入れてから、取り出したタブレット端末をテーブルの上に置いた。席を外せと言われなかったから、端末を覗き込む綺羅とナギとは逆の動きで椅子に少し深く座り直した。瑛二に見られたくないものや聞かれてはいけない話があるかもしれない。遠目にぼんやりと見えるのは、ニュースサイトのようだった。

「シャイニング事務所から六人組アイドルグループがデビュー?」
「先ほど公になったばかりだ。正式に親父の耳に入ったのは今朝らしくてな、それで呼ばれていた」
「シャイニング事務所って、これまでソロアイドルしかいなかったよね?」
「あぁ、そうだ」
「……あ、瑛二、シャイニング事務所っていうのはここと同じような芸能事務所ね」

 ナギがすっと説明してくれたので「うん」と背を正して頷く。事務所名――というよりも「シャイニング」という単語に聞き覚えがあった。

「瑛一は、前から言っていた……。シャイニング事務所から……男性グループアイドルが、デビューすることになるだろうと」
「うんうん、大当たりだね」
「親父の予想が当たっただけのことだ。……シャイニング事務所所属のアイドルは社長が自らスカウトした者、もしくは早乙女学園の卒業者のみで構成されている。今回新しくできたグループは後者。全員が早乙女学園の卒業生だ」

 兄は二人に向けていたタブレットを瑛二の方に半回転させ丁寧に教えてくれた。綺羅とナギはすでに知っている話らしい。

「早乙女学園は、アイドルの他に作曲家を育成する場でもある。学園生活を通じ、アイドルと作曲家は一対一でパートナー関係を結び、仮所属をかけたオーディションに挑むのが通例。つまりアイドルが複数で組むことは考えられないはずだ」

 ニュースサイトを閉じ、兄は一通のメールを開く。ナギが「作曲家も六人いるわけじゃないんでしょ?」と口を挟んだ。

「あぁ、作曲家は一人だ」
「詳しいね」
「それも親父から聞いた話だ。……シャイニング事務所は特にソロ指向の強い事務所だから話題性は大きいだろうな」

 兄はメールの添付ファイルを開く。制服姿の六人の顔写真が添付されていた。綺羅が身を乗り出し、群青色の髪の男子生徒を示す。

「……聖川、真斗」
「知り合いか?」
「聖川財閥の……嫡男だ。面識はないが……同じ催しに……参加したことが……ある」
「なるほど」
「音楽をやるとは……聞いたことが……なかった」

 全員の視線が聖川の写真に集中する中、ナギが「あれっ」と声をあげた。

「これHAYATOじゃない?」
「ああそうだ。本名は一ノ瀬トキヤ。今の事務所を辞め、シャイニング事務所所属となるようだな」
「知らなかったな。……女の子もいるの?」

 唯一顔写真のない、「七海春歌」という名前をナギが指差した。

「いや、彼女は作曲家だ。六人のアイドルが揃ってこの七海春歌をパートナーとしたいと指名したが、彼女は一人に選びきれなかったそうだ。ある意味、この女がグループデビューの立役者といっても過言ではないだろうな」
「へえ~……ナギ、その子に一番興味わいちゃったなぁ」

 ナギは七海春歌の名前の上を指先でとんとんと叩く。兄は満足そうに「さすがナギ」と笑ってみせた。

「俺も同意見だ。早乙女学園で、一人の作曲家候補生が複数のアイドルの作曲を行うなどまず有り得ないことだからな。シャイニング事務所側がこの女を手放すわけにはいかぬほどの能力があるのかもしれない」

 タブレットを伏せ、「さて」と兄は長い脚を組み替えた。隣に座る瑛二を一瞥し、綺羅とナギへと向き直る。

「ここからが本題だ」

 兄がこれから何を語るのか、綺羅とナギはすでにわかっているように見えた。

「俺たちも六人グループを組んでデビューする。俺の意思であり、そして親父の……社長の命令だ」
「すっごぉい、瑛一の読み通り」

 ナギが身を乗り出すと大きな瞳が一段と輝いた。ナギは「瑛一は前からこうなるんじゃないかって言ってたんだよ」と教えてくれる。その親切に瑛二は頷くしかできなかった。

「まずメンバー選出は俺がする。……素質がないと親父が判断すれば外すことになるだろうがな。レイジングエンターテインメントも、シャイニング事務所ほどではないがソロ指向の強い事務所だ。あの親父でも、まだメンバー候補は一人も挙げてきていない。綺羅とナギならばまず問題ないだろう」
「当然でしょ~? ねっ綺羅?」
「……ああ。つまり……あと……三名」
「そうだな」

 瑛二はテーブルへ落としていた視線を斜め上へと向けた。兄が自分を見ているわけがないとわかっているのに。

「メンバーはなるべく俺がこの目で見て選びたい。早急に選定に動く。二人はこれまで通りレッスンに励んでくれ」
「四人目は瑛二でしょ?」

 と、ナギがいきなり爆弾を放り込む。膝に肘をついて、頬を左の手のひらで包みながら瑛一を見上げた。
 瑛二は黙って視線をそらすしかできなかった。

「……ナギ。具体的な話はまた追って」
「なんで~? 本人いるんだし、手っ取り早いじゃん。瑛一だってそうしたいって思ってるんでしょ?」
「……話は以上だ。ナギ、瑛二を部屋に案内してくれ」

 兄はポケットから取り出した鍵をナギに手渡し指示した。

「も~、すぐはぐらかすんだから」

 文句を垂れつつ、ナギは何も気にしていないような口調だった。あとは頼んだぞ、と念を押されると満足そうに頷き瑛二の手を引く。
 談話室を出ると、ナギは唇を尖らせて瑛二を見上げた。

「だめじゃん瑛二、入りたいなら入りたいって言わなきゃ!」
「えっ、ええ……、ごめん……」
「ごめんじゃなくて~! 瑛二が入りたいってちゃんと言ったら、瑛一だってそうしようって言うのに」
「そうかなぁ……?」

 一段一段の幅が狭い、カーペットが敷かれた階段を上る。ナギとは手を繋いだままで、なぜかそれがとても安心できた。踊り場の大きな窓から月明かりが注ぐ。山梨の空みたく簡単に星は見えない。

「そうに決まってるよ!」
「俺、兄さんが入れって言うなら嫌だなんて言わないよ」

 それとも、こういう受け身な姿勢が良くないのだろうか。でも父さんと兄さんに言われたから上京したのに、じゃあ同じグループに入れてくださいなんて、なんだか言いにくい。

「瑛一はさ、たぶん瑛二に傷付いてほしくないんだよ。だからアイドルになること、強制したくないんじゃないかな」

 広い廊下をしばらく進み、突き当たりの一つ手前の部屋の前で足を止める。

「傷付くって……どうして?」
「うーん……いろいろ?」

 ナギから受け取った部屋の鍵を手のひらに握りしめ、いろいろ、という言葉の意味を考える。
 ビデオで見たアイドル時代の父は、舞台の上で誰よりも輝いていた。その裏に苦労や努力があったのは瑛二にもわかる。兄さんだってきっとそうだ。だからせめて傷付いたりしないでほしい。頑張ったらその分報われてほしい。だって兄さんは、子どもの頃からあんなにたくさん努力していたんだから。
 事務所に大浴場があるからあとで一緒に行こう、とナギが話題を変えた。頷いて返事をして、与えられた部屋に入る。
 兄さんは傷付いてるの? 心の内で問う。
 一緒に暮らしていた頃も、上京して電話をくれるときも、いつだって兄は笑っていた。母が亡くなったときでさえ、自分が悲しいのを我慢して瑛二の心配をしてくれた。無理をしていたのかもしれない。兄は自分の話はほとんどしなくて、いつも瑛二を優先してくれた。二人で旅行に出かけたときも、瑛二には辛い顔ひとつ見せなかった。
 さっきまで隣に座っていたはずの兄の表情が思い出せない。今はこんなに近くにいるのに、心が急に遠く離れてしまったような気がした。

 大浴場は瑛二とナギの貸し切り状態だった。各寮に風呂があるので普段から利用者が少ないらしい。一通り洗い終えて湯船に浸かっていると、後ろ髪をちょこんとまとめたナギが遅れて隣に腰を下ろす。

「なんていうか、瑛二はちゃんと常識人っぽいよね」

 熱気のこもった室内で、ナギの高い声はよく響く。言葉の意味が掴めず、「常識人って?」と聞き返した。

「瑛一ってだいぶ変わってるじゃん? あぁ見えて綺羅もそうなんだよね。ちょっとズレてるっていうか、天然っていうか」
「兄さん、変わってるかな?」
「うん。ナギがアイドルになりたいって決めてここに来たのも、瑛一が変な人だからだもん。突然金沢まで来ちゃうんだよ?」
「あ、その話聞いたよ。すぐに行動しちゃうところが兄さんらしいよね」
「確かに。そうかもね」

 心底可笑しそうにナギが笑う。くすぐったいような愛らしい笑顔を見ていると、兄がたまらず金沢まで追いかけてしまう理由がわかる気がした。

「瑛一って小さい頃はどんな感じだったの?」
「兄さんは……とにかくずっと優しかったな。俺のこと、ずっとにこにこして見てくれてた。成績も良くて、運動もできるし、歌もピアノもダンスも、教えてもらったらすぐにできるようになるんだ」
「ピアノやダンスって、社長に言われてやってたレッスン?」
「うん。子どもの頃から、先生が家に来て教えてくれてたんだ。どの先生も厳しそうだったけど、みんな兄さんのこと褒めてたよ」

 あの頃の兄は、もうレイジング鳳のライブ映像は見なくなってしまっていたけれど、レッスンは楽しそうだった。少なくとも瑛二にはそう見えていた。いくら家族とはいえ、本心はわからない。

「やっぱり、瑛一にはアイドルの素質があるんだ」
「素質……うん、そうだね。そうなんだと思う」
「ナギね、瑛一がアイドル大好きなのわかるし、本当にアイドルっていう存在に誇りを持ってるんだろうなって思うんだけど、時々ね、そうならなきゃいけない、みたいな……義務感っていうのかな。命懸けてるっていうか。そういう風に思うときがあるんだ」

 ナギが高い天井に視線を向けるのに合わせて瑛二も真上を仰ぎ見る。一面乳白色に塗りつぶされたドーム型の天井は、どこが継ぎ目なのかよくわからなかった。

「兄さん、俺といるときは、全然そんな感じじゃなかった」
「うん。瑛二といる時の瑛一、いつもよりちゃんとしててお兄さんって感じだった」
「……でも、確かに……本当に小さい頃は兄さん、お父さんのライブ映像何回も見てたし、俺もアイドルになるんだって言っていっぱい歌ってくれたんだ。でも気付いたらお父さんのビデオ見ることもなくなって……俺の前だと兄さんはいつも明るくて優しかったけど、一人のときはたぶん違った。……さっき、ナギも言ってたよね。アイドルグループを組むことになったのは兄さんの言った通りだって。兄さん、俺にもそんな話してた。でも俺に話すときの兄さんはもっと楽しそうで、お父さんが言うからとかそういうのじゃなくて、シャイニング事務所の話だってもちろん出てこなくて……兄さんが心からやりたいと願ってることをただやってるんだって思ってたけど……俺は何も知らなかったんだね」

 どうして、と、声になりそうなのを抑えた。
 どうして兄さんは、自分の話はあんまりしてくれないんだろう。
 どうして心配させてくれないんだろう。
 どうして俺は何も気付けないんだろう。
 似てないね、とナギが言った。

「瑛一と瑛二。それとも瑛一はまだナギには素顔を見せてくれてないだけなのかな? 瑛一の困った表情とか悩んでるところとか、考え込んでるのとか、ナギだって全然見たことないもん。いつも自信満々でさ」
「……俺もそう思うよ」
「だからナギは知りたいんだ。瑛一の全部。瑛二は違う?」
「俺は、ちょっと怖いよ。……でも、うん。俺もナギと同じ気持ち」
「それならさ」

 ぱしゃりとナギの両手が湯の表面を弾く。飛び跳ねた水滴に「わっ」と声をあげるとナギが楽しそうに笑った。

「瑛二、ずっと顔怖いよ~? 瑛二も同じなら簡単じゃん。ナギたちと一緒にやろうよ。仲間になろう。なにかやらなきゃなんにも始まらないし。ねっ?」
「……うん、そうだね。ナギの言う通りだ」
「じゃあ明日レッスンにおいでよ。瑛二の部屋まで迎えに行ってあげる。こんなの特別なんだからね?」
「特別? 嬉しいな」

 上目遣いでナギが微笑む。その表情を見ているとなんとなくほっとして、あぁ良かったと心から思えた。きっとこれがアイドルの力なんだ。表現しがたい確信があった。

「ナギって優しいね」

 大浴場を出ようとする小さな背中に向けて呟く。当たり前でしょ、とわざとらしくふんぞり返ってみせるのが愛おしかった。

          *

「俺には、よく……分からない」

 ナギと瑛二が出て行った談話室で、先に口を開いたのは綺羅だった。足元に落としていた視線を綺羅が上げると目が合う。月光を思わせる瞳は今、瑛一を訝しむように見つめている。

「何の話だ?」
「弟を……入れないのならば……なぜ……弟の前であんな話をした?」
「瑛二を信用しているからだ。瑛二に聞かせて問題ないと。それに、瑛二をグループに参加させないとは言っていない」
「参加させるとも……言わなかった」
「珍しいな。綺羅が食ってかかってくるのは」
「食ってかかっているつもりは……ない」

 瑛一は前髪をかき上げ天を仰ぐ。自分の中に僅かないらだちが生まれ始めていることには気付いていた。それを綺羅に気取られるわけにはいかない。しかし綺羅は、神経を柔く逆撫でするように落ち着いた声色で「瑛一」と短く名を呼んだ。

「なぜ……そこまで……頑なになる必要がある?」
「頑なになど……」
「なっているだろう」
「そう見えたのであればすまなかった」
「謝るのは……違う」

 しゃんと揃えた綺羅の両の拳が小刻みに震える。沈黙の間綺羅が何を考えているのか瑛一には分からなかった。自責を孕んだため息を落とし、口を開く。

「これほど、想いや、考えを、言葉にできないことが……もどかしいと……思ったことは……ない」
「綺羅」
「はぐらかすのは……やめてほしい。はぐらかされると、俺は……瑛一の本心を……知ることはできない」
「……そうだな」
「弟を……瑛二を、瑛一は結局……どうしたいと思っているんだ」

 言葉巧みに綺羅の問いをかわしてやり過ごすのは容易だった。しかしそれは誰のためにもならない。
 心の中に少し高く上がった感情の波を鎮めるために綺羅と目を合わせる。

「瑛二には、俺のようになってほしくない」

 綺羅は黙って首を縦に振った。それ以上口を挟まない。

「俺は、親父の――社長の道具としてしか見られていない。……今はまだ、という話だが。何であれ、瑛二にはそうあってほしくないんだ。好きなことをしていればいい。もっと他にやりたいことをして、笑っていてほしかった」
「……過去形……なのか」
「親父が命じた。瑛二を上京させること……アイドルになること。俺は自分自身もアイドルになりたかったから良かった。しかし瑛二は……」

 なりたいともなりたくないとも、瑛二の口から聞いた覚えがない。瑛二を見ていると、考えたことすらない、というのが正しいような気がする。ならばもっとたくさん選択肢を与えてやりたい。
 綺羅はどうしても納得できないと言いたそうに目を眇めた。

「それだけか」
「なぜそんなことを訊くんだ」
「瑛一の本心では……ないような……気がした」

 綺羅は言葉を探すための間を置くように目を伏せ、すぐにまた開いた。

「弟のことを話す、瑛一は……初めて言葉を交わした……あの夜の瑛一とは……まるで、別人だった」
「……そうだろうか。自覚は、あまりないのだが」
「いつもの自信が……なかった」
「自信、か」

 思い当たるものはあった。
 瑛一にとって、自分自身はともかく、父親の姿はいつも自信に満ちて見えていた。子どもの頃からそうだ。ライブ映像で見たアイドル時代の姿も、時折東京で顔を合わせる社長としての姿も。父は常に自信に溢れている。
 父と俺は違う。そう頑なに思ってきた。思わないとやっていられない。
 それなのに今、瑛二を前にした自分の姿が、頭の中で父親の姿とぴたりと一致してしまった。

「怖い」

 と口にすると、綺羅は首を傾げて下から覗き込むように瑛一の様子を伺う。逃げるように目を反らした。

「――のかもしれない」
「瑛一にも……怖いものがあるのか」
「当たり前だろう」
「……何が」

 綺羅は微笑む素振りをして、すぐに話の確信に切り込んできた。
 ここまで話してしまった以上、やはり何でもないと数秒前までの言動を否定することはもうできない。

「俺は親父の道具じゃない。瑛二も当然そうだ。同じように、瑛二は俺の道具でもない。当たり前だ。そんな風に考えたことすらなかった。……だがそう思っていられるのは今だけかもしれない。俺が瑛二に、アイドルという枷を与えてしまうかもしれない」
「俺は……そうは思わない。それに……彼自身が……瑛一のように、アイドルになりたいと願っているならば……問題、ないはず」
「前向きに志しているうちはそうかもしれないな。しかしその道中で瑛二が他の夢を抱いたとして、俺はそれを祝福してやれないだろう。受け入れることもできないだろうな。無理に引き留めるかもしれない」
「それは……俺やナギと……一体どう違う? 俺が今、投げ出したとして……瑛一はそれで良いと言うのか? 引き留めることは……ないのか」
「……俺は、綺羅やナギ、当然瑛二の気持ちも、一番に尊重したい。尊重、するつもりでいる。だが……」

 綺羅も瑛二も同じだと言い切れないのは、血の繋がりがあるからだろうか。レイジング鳳と瑛一には同じ血が流れていて、瑛一と瑛二にもまた、同じ血が流れている。他の何にも上書きされない血縁という濃い関係性は、愛おしさも厳しさも増幅させ得るものかもしれない。
 瑛二は純粋だから。何も知らずに育ってほしい。瑛二だけは誰にも利用されてほしくないのだ。父にも――唯一の兄にも。そのためなら何だってする。

「弟の……適正は」

 沈黙に痺れを切らせたのか、綺羅が話を変えて問う。
 浮かぶのは瑛二の歌声だった。子どもの頃、山梨の屋敷で一緒に歌ったときの。ピアノが弾けるようになったと、電話口でまだ拙い弾き語りを聴かせてくれたときの。合唱コンクールで歌う曲なんだ、と話してくれたときの。それから、ウィーンやロンドンで一緒に観たミュージカルの再現をするときの。

「未熟だ、とても」
「……向いていないと?」
「いや、むしろその逆だ」

 思い出していた。二人で劇場を出たあと、食事をしながら瑛二が目をきらきら輝かせてミュージカルの感想を話していたのを。幼い瑛二にはストーリーの伏線の妙や登場人物たちの心情は理解できなくて、あれこれと話したがるのは音楽のことばかりだった。楽器の名前も音楽記号も知らない瑛二。でも瑛二の感覚は、プロの音楽家が訓練しても身に付かないレベルにまで研ぎ澄まされていると思わされる瞬間がままあった。
 ホテルに戻ると劇場で聴いた曲を歌い始める。意味を理解していないだろう英語の歌詞。幼い頃から瑛二の耳が良いのは知っていた。台詞も物語の筋書きもあまり覚えていないのに、歌は昔から知っていたみたいにすぐ歌える。模倣して踏むステップは決して軽やかではないが、あぁでも確かに、主役の役者はこんな風に踊っていたかもしれない。まだ真似事に過ぎない弟の歌とダンスを「上手だな」と褒めると、嬉しそうにしていたっけ。
 この才能の開花を、瑛一が誰よりも楽しみにしている。同時に、恐れてもいる。純粋に喜ぶだけでなく、その力を自分が利用してしまう気がして。

「綺羅の言う通りだな」
「……何の……話だ?」
「さっきの話を瑛二に聞かせないようにすることもできた。六人集まるまで黙っておくこともできた。しかし俺はそうはしなかった。……俺は……」

 俺は。
 実の弟を守るより大切なことなんてあるわけがないのに。
 瑛一、と綺羅が呼びかけるのを「すまない」と制した。

「頭を冷やしたい。……一人にしてくれ、綺羅」
「……分かった」

 綺羅が部屋を出ていくのを黙って見送った。
 瑛二にはとてつもない音楽の才能が眠っている。瑛一がいくら努力を重ねたところで到底得られない、秘められた能力。それはまだ原石で、磨いても削ってもやれる可能性のかたまりだった。
 そんなものなければ良かったのにと否定できない。それが何よりやるせなかった。

 翌朝、部屋を出ると廊下の長椅子に綺羅が座っていた。瑛一の姿を目にとめると、読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じる。

「おはよう。どうした?」
「ナギが……瑛二の部屋の前で、待っていた。二人で……レッスン室に行くのだと。それに俺も……倣ってみた」
「それで待っていたのか? では、俺たちも共に行くとしよう」

 余計な心配をかけてしまっただろうか。綺羅のぎこちない気遣いが身に染みる。
 瑛二をどうするべきか、結論はまだ出せていない。瑛一が一人で決めるべきかどうかも分からない。瑛一が考え込んでいるうちにナギは瑛二に声をかけ、レッスンに参加させるつもりらしい。
 綺羅は何も言わなかった。大きな窓から差した朝陽が端正な横顔を照らして、ただそれが美しかった。
 レッスン室の扉を開けると二人の声が聴こえる。その調和が心地良いことに、できれば気付きたくなかった。いつの間に楽譜を見ただけで歌えるようになったのか。
 瑛一と綺羅に気付くと、瑛二は歌うのをやめて「おはよう」と会釈した。ここにいてもいいのか、問うような視線。そんな顔をさせたいわけではない。瑛二の丸い頭にそっと手のひらを添えて、おはようと返した。上手く笑えていただろうか。
 使用する楽曲をパソコンで選びながら、鏡越しに瑛二たちの姿を見た。
 瑛二はナギの背の高さに腰を折り、一つの楽譜を共有して歌っている。そして笑っている。音楽に対する純粋な愛が見えるような気がした。
 選曲したプレイリストをスマホに転送し、パソコンの電源を落とした。暗転した画面に映るのは、まだ迷いを色濃く浮かべた己の瞳だった。