朝焼けの燃えるような色が湖畔に映り込んでいる。鳥が水面に着地すると波紋が広がった。予定より早く目が覚め、ジョギングのために外に出た瑛一は、岸辺に人影を見つけ立ち止まる。細く白い。それがシオンだとすぐ気が付いた。
「瑛一」
後ろに目でもついているように、声をかける前にシオンが振り返る。暑い日だったが、互いに長袖を着ていた。瑛一は日除けのために。シオンはもともと薄着を好まない。
「何を見ていたんだ」
「水鳥だ」
シオンが指し示す方角には二羽の鳥が寄り添い合って水面を悠々と泳いでいた。大きさからして親子のようだ。
「自然や鳥はどれ程眺めていようと飽きぬ」
新鮮な空気を愛でるように、シオンはすう、と息を吸い込んだ。
「HE★VENSの皆と四季の変化を感じられることを、天草は心より嬉しく思っている」
夏の始まりに出会ったシオンと、HE★VENSの七人で、これから秋、冬、春、そしてまた次の夏を共にする。それは期待に満ちた展望だった。外の世界を恐れていたシオンが打ち解けている様子にほっとする。
「ここでの暮らしにはもう慣れたか」
「ああ。皆我を温かく迎え入れてくれ親切に接してくれる。少しずつではあるが、此処での暮らしに身体が馴染むような感覚がある」
「ならば良かった」
瑛一、と改まって名前を呼ばれる。シオンは薄手のカーディガンのポケットから袋のようなものを取り出して瑛一に差し出した。
「先日、瑛二との仕事で初めて給金を受け取った。ナギに助言をもらい選んだのだ」
受け取ると、それは黄金色のキャンディだった。どうやらのど飴らしい。初めての給料で物を贈られるとは、親にでもなった気分で面映ゆい。人にプレゼントを贈ることに慣れていないシオンは、難しそうに言葉を続けた。
「長崎で、喉を悪くしていた我にナギが飴をくれたのだ。それは瑛一から貰ったものだと言っていた。あの日から天草は、瑛一に礼をしたいと考えていた」
「それでのど飴なのか」
合点がいった。律儀で実にシオンらしい。義務感ではなく、シオンがそうしたいから贈ってくれたのだと理解したので、有難く受け取っておく。
「天草はあの日、とても嬉しかった。瑛一とナギの無償の温かさを感じた。この場所に来て出会いし者は皆、同じ温もりを我に与えてくれる」
シオンは胸に手を当て瑛一を見つめた。
「言葉では言い表せぬほど、感謝している」
シオンを七人目にと誘いに行ったあの日、ナギはともかく、瑛一は特別親切をした意識はない。シオンが持つ音楽の世界に惹かれ、共に活動したい一心だった。彼が暮らす施設を数年後に出なければならない事情さえ、誘う口実になると思った。瑛一は、自分が気に入ったものに執着し過ぎる性分だと自覚していた。シオンの才能に惹かれ、その衝動を抑えきれずに誘いに向かったが、同時に慎重さも忘れまいとしていた。だからあの日、興味を示したナギを同行させたのだ。
「瑛一は天草の孤独の暗闇に差し込んだ一筋の光だ。この安寧が続くのであれば、天草はできることを何でもしよう」
「――ならば、歌ってくれ、シオン」
「そんなことで良いのか」
一瞬目を丸くし、すぐに微笑む。ここに来て見せるようになった穏やかな笑顔。黙っていれば冷たいようにも見える美貌が、笑うと少しほどけて親しみやすさを覗かせる。シオンは息を吸い込み、語るように歌い出す。
シオンは音楽の神に愛されている。歌を聴けば分かる。穢れを知らず純真無垢、神々しさを纏う歌声。歌うとき、シオンは人間以外の別の生き物のようにも見える。全ての器官が歌うためにあり、放つ音色は天に捧ぐように感じられる。まるで祈りだ。
朝陽に照らされ、シオンの白い輪郭がぼんやりと浮かび上がる。初めて会ったとき、彼はステンドグラスの色彩豊かな光の下にいた。今目の前で歌うシオンは、あの日よりさらに美しく、そして肉体を有して生まれた人間らしく輝いている。
「イイ……!」
うっとりと溜息がこぼれた。
「瑛一が望むのであれば、天草は幾らでも歌おう」
「ああ。しかし、これからお前の歌を望むのは俺だけではない。天使たちだ」
「……我らと音楽の喜びを共にする者」
シオンの右手を取る。白く、傷一つない艶やかな手。この手に触れられて何らかの力を感じ取った者がいるというのも頷けるほどだった。
「お前は決して、誰のことも不幸にしない。その声は幸福を与えるためにある」
シオンは湖畔を見つめ、その言葉に目を閉じる。
そっと手を離す。
山も空も鳥も、シオンの愛する自然の全てが彼の音楽を肯定しているように感じられた。
