瞳の端に光る滴を、彼は急いで拭った。
「ナギ」
声をかけると、何でもない風に笑ってみせる。強がりはいつものことだ。ナギは綺羅が差し出したハンカチを素直に受け取る。ありがとうと礼を言うと大きな瞳に新しい涙が浮かんだ。どんな言葉をかけて良いか分からなかったから、綺羅は黙っていた。
広い通路の右端を二人で歩く。変装用の眼鏡を外し、ナギが布に涙を吸わせた。
キャリーケースを引いた人々とすれ違う。空港にはいろんな目的を持った人たちがいて、綺羅の四人の仲間たちもまた自分の未来のために飛び立った。
「シオンがね、昨日ナギの部屋に来たんだ。一緒に寝ようって」
ハンカチを畳みながらナギが言う。
「朝までずっと抱き枕みたいに抱き着かれてて、シオンは本当は、行きたくないのかなって思ったんだ。シオンをアイドルに誘ったのはナギと瑛一だから、シオンにとって、良くないことしちゃったかもって思って……」
「シオンは……ナギや瑛一ののせいだと、微塵も……思っていない」
「うん。そうだよね。それにこれは、ボクたち七人のためだもんね」
さっき見送ったばかりのシオンの顔を思い出す。別れる寸前までナギと二人でお喋りをして、ナギが無邪気に振舞って明るく笑うのを見て、シオンも穏やかに微笑んでいた。
「別れる前にね、寂しくなったらいつでも電話していいからねってシオンに言ったんだ。そしたらシオン、大丈夫って言ってた。ちゃんと笑ってた。なんかね、良かったなって思ったら、なんだかちょっと涙が出ちゃった。シオンはナギがいなくても大丈夫なんだって思ったら……ちょっとだけ、寂しかった。だめだよね」
ナギは前を向いて言葉を続ける。一番の友達を誰かに取られたくないみたいな、子ども特有の独占欲は綺羅にもなんとなく理解できた。変装用のバケットハットの上から頭を撫でてやると声を立てて笑う。
「綺羅はずっと優しいね」
「……自分では……分からない」
「あんまり甘やかしてくれないけど、綺羅は皆に平等だから、こういうとき嬉しいのかも」
差し出されたハンカチを黙って受け取った。優しいとか平等だとか、自分に対する他人の評価は有難いが自覚はない。綺羅は自分が正しいと思う行動を取っているだけだ。
国内線の看板に小松空港の文字を見つけると、ナギは「あっ」と指差し話題を変えた。
「うたプリアワードの前に、一回金沢に帰ろうかなって思ってるんだよね。たまには飛行機で帰ろっかなぁ」
確かナギはいつも新幹線で帰省しているはずだ。
「綺羅は、高知に帰るなら飛行機?」
「あぁ。電車だと……時間が……かかる」
「そうだよね」
ナギは年に二回ほど地元に帰っているが、綺羅は上京して以来一度も帰省してなかった。両親から直接連絡が入ったことはない。使用人伝いに時々ご機嫌伺いの連絡があるくらいだが、デビューしてメディア露出が増えてからはそれもほとんどなくなった。綺羅の活動がどの程度両親の目に触れているのかも不明だ。東京で暮らす姉からは、時々LINEで連絡がある。
「……俺も、帰らないと……いけない」
ナギに聴こえないくらいの音量で呟いた。
「次回のライブが来月十日、そしてうたプリアワードが十二月に控えている。うたプリアワードで披露する楽曲以外にも新曲リリースが迫っているからな。歌番組や取材でスケジュールはタイトだが、くれぐれも体調管理には気を配ってくれ。それから……」
翌週以降のスケジュール確認を行いながら瑛一が資料を広げる。ライブの進行表、出演するラジオ番組の台本、雑誌のアンケート……等々。
うたプリアワード受賞をかけたST☆RISHとの対決を控え、ぎっしり詰め込まれていたスケジュールはさらに過密になった。瑛一は誰よりもよく働き、空き時間にも気が付けばスタッフと打ち合わせをしていたり、普段より長文のブログを更新していたり、とにかく常に動き回っている。移動中もスタッフが同乗するロケバスでは気を抜かず、うたたねをするのは身内が乗っている車内くらいだ。バケモンだろ、と大和が言っていた言葉は決しておおげさじゃない。
しかし、忙しくなればなるほど瑛一は輝きを増して見えた。周囲の期待の大きさに比例するように、磨かれ、強い光を放つ。その輝きの隣にいるとなぜか自分は暗く小さな存在に感じられた。卑下ではなく、鮮烈な光の輪郭にぼやけて、自分がよく見えなくなる。
この期に及んでなぜネガティブになってしまうのか。
それはきっと、心の奥底に迷いがあるからだ。
今ならまだ辛うじて引き返せる。正式に七人になるまでは。うたプリアワードを受賞する瞬間までは。きっとこれがアイドルをやめる決心をする、最後のチャンスだ。やめたくない。でもいつかやめなければならない日が来るのではないか――ならばいっそ、今――。
「……綺羅?」
瑛一の声が明るい現実へ引き戻す。
「あ、ああ……すまない」
「どうした、ぼんやりして」
自分の方がよっぽど疲れているだろうに、労いを込めて見つめられると情けない気持ちになる。
「疲れているのではないか?」
「いや、少し……考え事をしていた」
当たり障りのない返事をする。視線を泳がせると、怪訝な顔をしたナギと目が合った。
夢を見た。
数年前、音楽を学びたいと初めて父に申し出た日の夢だった。
自分が生まれ育った家が旧家と呼ばれ、学校の同級生たちとは何かが違う、と気が付いたのは、小学校低学年の頃だった。特別なきっかけがあったわけではなく、同級生が喋るふつうの暮らしと、自分のふつうの暮らしは違うのだと悟っていった。
そんな綺羅の気付きを知ってか知らずか、その頃から父が『後継』という言葉を口にするようになった。あぁ俺はこの『旧家』を『継ぐ』のか。言葉の意味は正確に理解できなかったが、父を尊敬していたから、父のようになりたいと子どもながらに不透明な夢を描いた。
父親は厳格な人間ではあるが、生き方や行動を子どもの綺羅に押し付けはしなかった。息子の話に耳を傾け、綺羅の意思を尊重してくれた。ただ話の最後に父は言う。お前がそうすることで、家を継いだ後のためになるだろう、と。
幼い子どもの頃は良かった。趣味の陶芸も、姉に触発されて始めたピアノも、将来皇家を継ぐ自分の糧になれば良いと綺羅自身が本気で願っていたから。
夢の中で父は言った。
――アイドル活動が皇家のためになるのか。
それは父の言葉なのか、それとも自問なのか分からない。
珍しくうっすら汗をかいて目を覚ますと、ベッドサイドの時計は午前三時を指していた。部屋を出てピアノのあるリビングへ向かう。電気も点けず鍵盤に触れた。
手元を見なくても弾ける慣れた練習曲なのにミスタッチが多いのは、心の乱れのせいだろうか。家を出たあの日から考えるのを避けてきた。しかし夢にまで追って来られると向き合うしかなくなってしまう。由緒正しい家柄と、無言を貫く両親と、音楽を愛する自分自身と。どう折り合いをつければ良いのか、答えが出せない。だから向き合えない。それでは良くないと分かっているのに――。
ふと、指がもつれる。どんなときも綺羅の人生はピアノと共にあった。嬉しいときも楽しいときも、悲しいときも迷うときも。
呼吸が荒くなる。これは良くない。分かっている。でも自覚したからといって改善されるわけもなく、鍵盤の上で指がこわばる。大きな音でナギを起こしてしまうかもしれない。分かっていて、止められなかった。止められない自分自身が恐ろしかった。
――このままでは。
終わりのない、光の見えない長いトンネルの中にいるようだった。手探りの代わりに鍵盤を打つ。でも光が現れない。カーテンを開ければ月明かりが見えるが、椅子に固定されてしまったように身体が動かない。
――このままでは、良くない。
意を決して鍵盤から手を離し、スマホを手に取った。通話履歴から名前を探し、電話をかける。
コール中に、時差を考慮していなかったと気が付いた。すぐに頭の中で計算する。大丈夫、向こうは昼間だ。
『もしもし?』
三コールしたあたりでヴァンが電話を取った。
『どうしたん? 何かあった? そっち深夜やろ』
「いや……」
勢いでかけたはいいが、言葉が出てこない。スマホを耳に押し当てる右手が小刻みに震え、それを左手でしっかり覆った。次の言葉を、ヴァンはゆっくりと待ってくれていた。
「……ピアノが……弾けない」
『え?』
ヴァンの声の向こう側に、瑛二たちの話す声がかすかに聴こえる。先帰っとって、とヴァンが声をかけると、三者三様に返事をして、その声は次第に離れていった。
『綺羅ちゃん、ワイそっち行くわ』
「え、いや……それは……いい」
『なんで。会った方がいいって。何があったか知らんけど、今綺羅ちゃんに会いたい』
どうしてこうも大胆で、考えをまっすぐ言葉にできるのか。ヴァンが羨ましくてたまらなかった。綺羅にはそれができない。
「俺は……俺は、ただ……」
心配してほしいわけではない。でも、単純に声が聴きたかったわけでもない。
自分にも理解できない複雑な感情は言葉にならない。「言葉にできない」と伝えるのも難しい。違う、違うと繰り返す綺羅を、ヴァンが「落ち着いて」と穏やかな声でなだめる。
『わかった、わかった綺羅ちゃん。話したいこと、順番に話せるか?』
落ち着いたヴァンの声に、自分が混乱しているのだと気付く。スマホを口元から離して咳払いする。深呼吸してみ、と言われて従った。
「俺の……実家の話を……したことがあっただろうか」
「実家? いや、ないと思うで」
ヴァンの答えに、丁寧に語り聞かせるように話した。
男の兄弟はおらず、綺羅が跡取りであること。音楽を学ぶと言って家を出たこと。当初の予定は音大進学で、しかし瑛一と出会いアイドルを志すようになったこと。両親には何がどこまで伝わっているのか、綺羅にも分かっていない部分がある。
事務所の契約書類には両親が判を付いたが、具体的に何をするか訊かれなかった。だから綺羅も話さなかった。
両親がどうして何も詮索してこないのか。その答えを綺羅は知っている。
今は人生経験として好きなことをやって、将来的に綺羅が跡を継ぐため戻ってくると考えているからだ。「信じている」のではなく、それが綺羅の生まれながらにして持った宿命だから。
子どもの頃から気持ちを言葉にするのが苦手だった。それは相手が両親でも同じで、気が付けば父の言い付けに、「はい」と利口な返事をしてばかりだった。
『――で、綺羅ちゃんは、今もご両親にはいつか家に戻ってくるって思われてるってこと?』
「おそらく……そうだ」
『でも綺羅ちゃんはそうするつもりないんやろ?』
すぐに答えられなかった。気持ちを優先させるなら答えは決まっている。でも、「したい」と「できる」は違う。時差を越えた電話の向こう側でヴァンが息を吐いた。
『やっぱり今すぐ会って話したいけど……でもそれはワイのエゴやな。綺羅ちゃんももう大人やから、綺羅ちゃんがどうしたいか、これからどうするんか、ゆっくりでいいから、ちゃんとご両親に話さなあかん』
きっぱりした大人の口調だった。ヴァンは他人を甘やかしがちだが、真面目な話には親身になってくれる男だ。だからヴァンと話したかった。話した分、ヴァンの言う通りに動いてみなければならないとも思った。届かないと分かっていて、黙って頷く。
『……もし綺羅ちゃんが考えて、おうちの人と話して、もし家を継ぐ方が大事って結論出したとしても……そらみんな残念がると思うけど、でも誰も綺羅ちゃんを責めたりせーへん。綺羅ちゃんの人生は、綺羅ちゃんのものやから』
音楽以外を選ぶ自分、を想像できなかった。でも綺羅にはその道が用意されている。皇家の人々が代々絶やさず築き整え続けてきた血筋という道が。
「……ヴァンは……どうして、会社をやめて……アイドルになったんだ」
『割と綺羅ちゃんのおかげやで』
明るい口調だが、冗談ではないと分かった。
『前の仕事も楽しかったし、ワイに合っとったと思うけど、綺羅ちゃんがピアノ弾く姿見て、綺羅ちゃんが夢を追う姿見て、えーちゃんに誘ってもろてアイドルに興味持って……もっと人生冒険したい。やりたいこと追求したいって思ったんや』
「冒険か。ヴァンらしい……理由だ」
『ありがとう……って、それ褒め言葉やんな?』
「もちろん……褒めている」
ヴァンがアイドルになると決めたとき、綺羅も同じ場所にいたがその理由は訊かなかった。まだヴァンについてよく知らなかったあの頃、あまり相性の良い相手ではないと感じていた。はっきりした物言いに軽い口調。会うのは二度目の綺羅を友達と呼ぶ馴れ馴れしさ。疎ましいのではなく、自分にないものだから、ヴァンの積極的な態度に触れる度にどう対応したら良いか困った。きっと、羨望もあっただろう。
『話してくれてありがとう。綺羅ちゃんのこと、よく知れてよかった』
こんな風に素直に言葉にできたらどれだけ良いだろう。
もし自分がヴァンだったら――なんて、考えても無意味だ。
しばらく間をおき、「ありがとう」と礼を口にした。
「……ヴァンが、同じグループにいて……良かった」
『綺羅ちゃん、もう平気か?』
通話料えらいことなりそう、と笑う。迷わず「ああ」と答えた。
『日本帰ったらめっちゃハグするからな』
その提案にきっぱりとノーを告げ、電話を切る。
「綺羅」
指先が再び鍵盤に触れるより先に、名前を呼ばれた。ピアノ越しに部屋の入り口に目をやると瑛一が立っていた。
「……今、帰りか」
「ああ。収録が押してしまってな」
「お疲れ様。明日も……早いのか」
「いや、明日は昼頃からだ。今日はゆっくり眠れそうだな」
瑛一は時計を見たあと、綺羅に頭を下げる。
「……申し訳ない。先ほどの電話の声が聴こえてしまっていた」
「いや。こんな時間に……電話をしていた……俺が悪い」
瑛一には何を聞かれても恥ずかしくないし気にならない。心の底から申し訳なさそうに眉尻を下げ、荷物を下ろすと、瑛一はカーテンを少し開けた。月明かりが筋になって差し込んでくる。
「……俺は、子どもの頃からアイドルになるために親父に育てられた。……もしかすると、アイドルになるためにこの世に生まれたのかもしれない」
月光を受け振り返る。眼鏡に反射した光のせいで、どんな表情をしているのか汲み取れなかった。
「そして、俺自身もアイドルになりたかった。当然今もそうだ」
レイジング鳳の息子として、同じ道を進む宿命。初めて瑛一に会ったとき、綺羅はその満ち足りた環境に羨望を抱いた。音楽の道を選べば、音楽に選ばれ生まれてきた瑛一のような存在と肩を並べ、時に競い合わなければならないと悟ったから。
「その証拠に、俺は人生で今が一番楽しい。アイドルとして活動している今が」
「……あぁ。見ていれば……分かる」
瑛一に降り注ぐ光はまるでスポットライトだ。どんな場所にいても彼が立てばそこがステージのセンターになる。そんな圧倒的な存在感に惹かれた。この背中について行けば間違いないと、心から信じさせてくれる。
「先ほどの綺羅の話を聞いて考えた。もし俺がアイドル以外の人生を選択すれば、親父と俺はどうなるのか」
縁を切るしかないだろうな、と真剣な面持ちで言った。確かに社長は瑛一がアイドル以外の道を行くことを許さないだろう。
「……綺羅、お前はどうするんだ」
ストレートな物言いは自分に自信がないとできない。真正面から射貫くように見つめられ、綺羅は姿勢を正す。
「俺は……音楽を選ぶ」
実家と縁を切ってでも――とは、とても言えなかった。
「音楽に、HE★VENSに……全てを捧げる。ここなら俺は……己を表現できる。自分が自分でいられる。それは……俺に音楽があるからだ」
鍵盤を覆う深紅の布を瑛一がゆっくりとめくる。弾いてくれという意味かと思ったが、隣に立った瑛一の指が鍵盤を押した。一音、室内に重く響く。
「子どもの頃、最初に教わったのが歌唱とピアノだった。長くは続けなかったが、ピアノを弾くのも好きだったな。――綺羅」
ちゃんと聞いている、と伝えるために頷いた。
「綺羅、俺には……HE★VENSには、綺羅が必要だ」
手入れの行き届いた白い両手が鍵盤をなぞる。綺羅もよく知っている練習曲だった。時折ミスタッチをするのが、完璧な瑛一らしくない。
「お前のその瞳。強い意思、多くを語らずとも分かる純真な心。全てが必要だ」
「瑛一は、俺を……買い被り過ぎている」
「そんなことはない。全て事実だ」
旋律は止まない。短調の寂しげな曲だった。
「俺はもし、お前が音楽を――HE★VENSをやめると言うならば、どんな手を使っても必ず連れ戻してみせる。俺には綺羅が必要で、綺羅にも音楽が必要だからだ」
もし綺羅が家を選んでも責めない、とヴァンは言っていた。二人の言葉は対照的で、しかしどちらも嬉しかった。綺羅のためを思って出た言葉だと分かるから。
自分は執着心が強いと瑛一が話していたのを思い出す。瑛二をメンバーとして迎えるか否かで悩んでいたときのことだった。その言葉はどうやら正しいようだ。
瑛一が弾く練習曲に音を重ねる。些細なミスタッチもカバーしてみせる。やがて瑛一はピアノを弾く手を止め、綺羅だけが鍵盤に触れた。どうせなら瑛一の好きな曲を。
瑛一の強さが、潔さが綺羅には眩しい。
せめてその光に照らされ輝けるように、強くなると誓った。
『一体どうなさるつもりなんですか?』
久しぶりに実家に電話をかけると、応対した使用人は早速小言をこぼした。非難めいた口調なのに、家を出たあの頃と変わらない態度に安堵する。父が幼い頃から家に仕えている彼女は最早親族のようで、綺羅を叱ったり忠告するのは昔から彼女の役目だった。
『こちらが田舎なのを良いことに気付けばデビューまでして……。旦那様はまだ、そのうち坊ちゃんが帰ってくると思っておられますよ。アイドルとやらはやめるんですか?』
本題をはっきりと向こうから切り出され、綺羅は「やめない」と即答した。
「そのことで……電話をした。父と話す……時間が欲しい」
『ええ、ええわかりました』
父の側近を呼び止める声が聴こえる。要件をてきぱきと伝えると、彼女は『アイドルを続けたいと?』と綺羅に訊いた。
「……あぁ、そうだ」
『もっと早くお話になれば良かったんです』
「その通りだ」
『その通りだ……ではありません。坊ちゃんにそんなに強い意思があるなら、どうしてもっと早くお話しなかったのですか』
「反対……するだろう」
子どものような理由を、子どものような口調で答えた。
『ええそうでしょうね。旦那様は反対します』
「しかし……言わないのは、もっと……良くない……」
『せめて世に出る前にお話するのが筋というもの――まぁ今さら言っても仕方がないですね。あぁ、旦那様のご予定ですけど……』
側近からの耳打ちを受け、彼女は父親の予定をつらつらと読み上げる。自身の予定と擦り合わせ、融通が利きそうで最も近い日程を押さえてもらった。
翌日の予定も念のため押さえておくと彼女は言い、綺羅は断ったが、まぁまぁと押し切られる。長い戦いになると思われているのだろうか。それは避けたい。
『坊ちゃんが高知に戻って来られるなんて何年ぶりですか。何か食べたいものは?』
後継問題とはほとんど無関係である彼女は声を弾ませる。楽しい帰省ではないのだが、彼女の作る豚汁が絶品だったのを思い出してついリクエストしてしまった。
『腕が鳴りますねえ。ここ数年はお嬢様も全く帰って来ないものですから』
姉は東京の大学に進学し、東京の一般企業に就職した。姉の進路について、両親との対立は一切無かったはずだ。どうして俺だけ、と考えても仕方がない疑問が頭をもたげる。子どもの頃から分かっていたはずだ。皇家の後継として期待を預けられたのは、男の綺羅だけ。それを知っていながら向き合わず、逃げ続けていたのは自分だ。
父親に夢を認められないのならば絶縁すると瑛一は言った。
それほどの覚悟が今、綺羅にあるだろうか。今でも綺羅は、音楽と添い遂げ生きていく夢を認めてほしいと思っている。それは甘えなのだろうか。
保安検査場を抜けてから姉に連絡を取った。
これから実家に帰ること。父と将来について話をすること。家を継がず、音楽の道を進みたいと思っていること。折り合いがつかなければ、もう二度と帰らないかもしれないこと――それは避けたいと、今はまだ思っているけど。
搭乗する直前に返信が来た。
わかった、頑張って――と、短く一言。
空港に到着するとバスで高知駅に出て乗り継ぎ、最寄り駅で電車を下りる。綺羅の他に降車する客はいなかった。タクシーを呼ぶことも考えたが、徒歩でも二十分程度の距離である。歩いた方が早そうだ。便名は伝えていたが、使用人の迎えは断った。
人も車も少ない大通りを抜け、商店街を歩く。綺羅が子どもの頃に比べると、このあたりはずいぶん活気がなくなってしまった。昼間なのにシャッターを下ろしている商店が目に付く。今日は平日だが、関係ないだろう。
小学校の同級生には親が商店街で八百屋や喫茶店を経営している者もいたが、きっと彼らも都会に出たのだろう。店は閉まり寂れている。通っていた小学校の生徒数は今どのくらいなのだろうか。都会にはいつも人が溢れ返っているから、こうして地元に帰って初めて、過疎とか少子高齢化という言葉の意味を嫌でも感じてしまう。
商店街を抜けしばらく行くと、皇家の土地が広がる。分家も多く、綺羅は誰とも会いませんようにと祈りながら歩く速度を上げた。
「おや」
しかし願いも空しく、古い一軒家で庭の手入れをしていた男に声を掛けられた。
「ご無沙汰……しています」
「テレビ出ちょったき驚いたよぉ」
植木ばさみを右手にぶらぶらさせ、首から下げたタオルで額の汗を拭う。
「戻ってきたが? そらそうか、皇家の男子いうたら一人しかおらんのやき」
「……失礼します」
頭を下げて歩を進める。これ以上誰かにあれこれ詮索されては身が持たない。帽子とマスクである程度顔を隠してはいるが、このあたりでは誰もが綺羅を知り、父親と同じか上の世代となれば自分の息子同然に話しかけてくる。
懐かしい風景を眺める余裕もなく足早に通り過ぎ、裏口から実家の敷地内に着くと綺羅はほっと胸を撫で下ろした。舗装された小路を抜けて母屋へ向かう。
「あら、思ったより早い到着で」
玄関で靴を脱いでいると、物音に気付いた使用人に迎えられた。綺羅が子どもの頃から変わらない、ひっつめ髪に銀縁の眼鏡、深紅の口紅。必要以上に他人に厳しい印象を与える容姿が、いつも怒っているように見えて幼い頃は彼女が苦手だった。しかし久しぶりに顔を突き合わせると彼女の変わらない様子に安心すら覚えてしまう。
「私が迎えに行くと言ったら素直にそうさせてくださいな」
「……父さんに……叱られるか?」
「いいえ、旦那様は私をお叱りになどなりません。ただ私は、坊ちゃんに何かあったらと思うと気が気でないのです」
「心配してもらうような……年齢ではない」
「確かに、いつの間にこんな大人になられて」
ひょいと綺羅の荷物を持ち上げると、彼女は「旦那様は離れの方に」と左手で窓の外を示した。
「……離れ?」
「半年ほど前に新しく建てたんですよ」
廊下の広い窓の向こうには、見るからに新しい家屋があった。
「使用人たちも高齢化してきましたからね。ただ由緒正しき本邸をそう簡単にバリアフリー化するわけにはまいりません。ならば住居をお移しになろうと旦那様が。家具はほとんど移動させていませんけど、坊ちゃんのお部屋も離れの方にありますから、荷物はそちらに置いておきますね」
「……俺の部屋も……あるのか」
「言ったでしょう。旦那様は坊ちゃんが帰って来られると思っていますから」
それでは行ってらっしゃい、と見送られ、初めて行く離れへ赴いた。一階の最奥が父の部屋だという。母屋とは廊下で繋がっていた。
「……失礼します」
ノックをして父の部屋に足を踏み入れる。初めて入る部屋だが、懐かしいお香の匂いがした。内装は意外にも洋風な造りで、天井からは細身のシャンデリアが下がっている。
「お久しぶりです」
「あぁ。……背が伸びたか」
父は綺羅の来訪に、読んでいた資料から視線を上げて応えた。眼鏡を外して何度か瞬きする。
「……はい……少し」
それ以外の返答が見つからない。綺羅が口下手なのは両親もよく知っており、矯正を強いられず今に至る。父は再び眼鏡をかけ、手元の書類に視線を落とした。
「この間歌番組に出ていたのを見たぞ。お前はピアノも得意だったし音楽の成績が良かったのは知っていたが、踊りも意外とできるのだな」
「練習の……積み重ねで」
褒め言葉よりまず、アイドル活動を見られていたのが意外だった。父は束ねた紙の角を正しながら「それで」と促す。
「用事とは何だ」
背中に板を差し込まれたように背筋が伸びる。子どもの頃からそうだ。父には、この人の前ではしゃんとしていなければと思わせる風格がある。この人の前で嘘をついてはならないと感じさせる清廉さが。
「知っての通り……俺は今、東京で……アイドルとして活動しています。過去に音楽事務所で――レイジングエンターテインメントでレッスンを受けたいと話したとき……もっと明確に話していなくて……すみません。俺は……音楽と生きていきたい。…………皇家の当主ではなく、アイドルとして……生きていきたい」
父の顔色は変わらない。それがかえって恐ろしかった。綺羅が何を話すために帰って来たのか、全て見透かされているようだった。そしてその答えはすでに用意されていて、あとは父の言葉となって出てくるのをただ待つだけのようで、空白がもどかしい。
「俺は……この家を…………皇家を、継げません」
父が立ち上がると目が合った。顔色一つ変わらない。
やはり綺羅が何をしに帰って来たのかを悟っていたような面持ちだった。怯まないよう言葉を重ねる。無理に何か言わなければと急くときは、大体ろくなことにならない。それでも、綺羅は沈黙に耐えられなかった。
「許されないのならば……二度とこの家の敷居は跨がない。覚悟の上です」
頭を下げる。ますます深くなった沈黙を埋める言葉はこれ以上なかった。やがて父の嘆息する音が聴こえる。
「下らない」
父はもう一度椅子に腰掛け、手元に視線を下ろした。日常会話の延長のように、資料をめくりながら言葉を続ける。紙の擦れる音と声が不協和音を奏でた。
「そのような身勝手が許されると思っているのか」
「勝手だとは……分かっている……だが」
「分かっているのならばなぜ問うのだ。時間の無駄だろう」
ぴしゃりと言い放たれ、返す言葉もない。
「お前は皇家の長男だ。何を為すために生まれてきたのか分かっているだろう。音楽に生涯を捧ぐなど……冗談も休み休み言うことだ」
「しかし俺は」
「お前が進むべき道を違うな」
「父さ――」
「出て行きなさい」
石のように冷たく低い声に命じられると、それ以上何も言えなくなる。
子どもの頃から、父に叱られたことは一度もなかった。だからこそ、呆れを滲ませた声で凄まれると綺羅は幼い子どものようにうなだれ、黙って従うしかできない。何より、これ以上ここにいても埒が明かない。失礼しますと言い残し、部屋を出る。
失敗したわけではない。言葉が苦手な綺羅にしてはよく話せた。気持ちを正しく言葉にできた――それなのに全て否定されてしまった。それが問題なのだ。これ以上どうすればいいのだろう。
父の部屋の前でしばらく右往左往した後、迷子のようにうろうろと廊下を歩いていたところを例の使用人に捕まった。
「あら、お話はもう終わったんですか」
「……ああ」
「その様子では旦那様、聞く耳持たずだったのでしょう? やっぱり明日の予定も押さえておいて正解でしたね」
ふふんと鼻を鳴らす。彼女の予想通りだった。途端に居心地が悪くなる。
彼女は昔からこうだ。両親以上に口うるさく、その分綺羅の性格をよく理解して世話を焼いた。彼女がした方が良いと言ったことは大抵その通りだったし、子どもの頃に苦手だった野菜が食べられるようになったのも、逆上がりができるようになったのも彼女のおかげだ。彼女に唯一背いたのは、ピアノを弾くことを反対されたときだけだった。そして、逆らって良かったと今でも思う。
「少し出てくる」
宣言して離れを出て、皇の敷地を抜け出した。あたりはすっかり薄暗くなり、往来に人気はない。街灯は昔と変わらず少なく、一定の間隔を空けて並んだ民家の明かりがぼんやりと道を照らした。昔は誰かが住んでいた家も今は空き家になっているのか、いつまでも明かりが灯らないものもあった。
背後から小さな光が近付いてきて、綺羅を追い抜かす。自転車に乗った二人組だった。ヘルメットを被った中学生くらいの少年が、ばいばいと手を振り合って二手に分岐する。
傾斜の緩やかな坂を上り続け、ふと振り返る。点々とする微かな灯りを見下ろした。ここはこんなに小さな町だっただろうか。いや、それとも、自分が大人になったからそう感じるのか。
綺羅は坂の途中にある広場で足を止めた。遊具はないが、子どもの頃はここが気に入りの遊び場だった。一帯は高台になっているから海がよく見える。しかし夕陽はすでにほとんど飲み込まれ、海景色はよく見えなかった。新月が近く、月明かりもほとんどない。ざざ、と波の音が、視線の先に海が広がっていると教えてくれる。
――明日は、何を、どう話せばいい。
波の音を聴きながら、向き合いたくなかった、しかし必ず向き合わなければならない自問をぶつける。与えられた時間で、綺羅はこれ以上何をすべきだろう。
ただ自分の気持ちをぶつけるしか術を知らない。それ以上が思い付かなかった。
音楽は言葉以上に綺羅の気持ちを表す手段になる。だが、父に想いを伝える場面では、自分の言葉で表さなければならない。それが綺羅の一つの成長でもあると。
どれくらい波の音を聴き続けていただろうか。完全に日が暮れ、広場の灯りが綺羅の周りを照らす。
広場を出ると、前方から明るい光が近付いてくる。車や自転車の速度ではなく、人が歩いているのだと分かった。思わず目を細める。光源は懐中電灯のようだ。明かりは一瞬怪しむように綺羅を照らし、そしてすぐに足元へと向けられた。広場の薄ぼんやりした明かりに人影が近付くと、薄っすらとその姿が浮かび上がる。見知らぬ顔。それは綺羅より年上と思しき青年だった。
「すみません、眩しくなかったですか?」
男は自然に声をかけてきて、懐中電灯で綺羅を照らした非礼を詫びた。
「……いえ」
「あぁ、突然すみません。はじめまして。私、皇家で使用人としてお世話になっている、高橋といいます」
「そう……でしたか」
さっぱりとした短髪の青年――高橋は、名乗ると軽くお辞儀をする。新しく雇い入れた従業員の顔も名前も綺羅は知らない。二人の足元を照らす懐中電灯の強い明かりを凝視していると、彼は思い出したように続けた。
「この道の先に天文台があって、そこに向かう最中だったんです。私、兼業で、天文台で星空の案内をする仕事をしていて……良かったら、綺羅様も星、見て行かれませんか?」
「天文台?」
少なくとも綺羅が住んでいた頃には、そんなものはなかった。
「はい。一年ほど前に出来たばかりなので設備も新しくて、何よりこのあたりは人工の明かりが少ないですし、新月も近くてよく晴れてますから、今日はとても綺麗に見えると思いますよ」
高橋は饒舌に語ると、もう一度「どうですか?」と綺羅を誘った。断る理由もなかったので黙って頷く。それに、単純に興味が湧いたのだ。子どもの頃から星を見るのは好きだが、本格的な観察の経験はない。
「この先街灯がありませんから、足元に気を付けてください」
懐中電灯が綺羅の足元を照らす。慣れているのだろう、高橋は暗い道をすいすいと進んで行く。
丸く地面に映し出される光に導かれながら、綺羅は、いつの間にそんなものができたのかと考えていた。何も変わらないと思っていた小さな町は、ほんの少しだけ、でも確かに変わった。
三分ほど歩いて到着した先には広い駐車場があり、そこで高橋は一度懐中電灯を切った。あたりには街灯も建物もなく、波の音のみが聴こえる暗闇に包まれる。
「空を見てください。あたりには邪魔する光がないから、肉眼でも星がこんなにたくさん見えます」
高橋の言葉に空を見上げる。足元注意と言われていたせいか、ずっと下ばかり見ていた。
頭上には東京の空では決して見られない星空が広がっていた。満天という表現がぴったりだ。流れ星、と高橋が呟いた瞬間、綺羅の目にも星が流れるのがはっきりと見えた。
「あれが冬の大三角形と呼ばれる星たちですね。この季節だと、実は夏の大三角形もまだ見えるんですよ」
高橋は取り出したポインタで西の空に浮かぶ星を示し説明する。
「では、続いて天文台で星を見てみましょう」
見物客に促すような案内口調を、綺羅は特に気にしなかった。彼が皇家に仕えている人間だとしても、綺羅が雇っているわけではない。それはこの先もきっと変わらない。
天文台と呼ばれる施設は駐車場を抜けた先にあった。十人も入れば窮屈になりそうなドーム型の建物の入り口は、高橋が鍵を差し込むと自動でスライドして開く。どうぞ、と招かれ中に入ると、オレンジ色の照明が程よく明るい。中心には天体望遠鏡と、一台のノートパソコンが置かれていた。
「ではまず土星をお見せしますね」
高橋はパソコンを操作し、ドームの屋根を半分ほど開ける。開閉は全て自動だった。微調整を行う背中に問いかける。
「いつから……ここで?」
「半年ほど前です。この天文台のことはできた当時から知っていて、半年前に人手不足で管理が難しくなったと聞いて、是非ここで星の案内をしたいと名乗り出たんです。ただ正直この仕事だけでは食べていけなくて。そこで拾ってくださったのが旦那様でした」
「……父が」
「私が直々に旦那様にお願いしたわけではなくて、いろいろ縁あって、という感じですが」
父が年若い人間を雇うのは珍しい。今も皇家では、綺羅が幼い頃から在職の顔見知りばかりが働いていると思い込んでいた。
高橋は望遠鏡を覗き込み、うんうん頷くと、どうぞと綺羅に促した。
小さな穴を覗く。環の付いた惑星がくっきりと浮かんでいた。
「リングまでしっかり見えるでしょう。家庭用の望遠鏡などでは、高級なものでもここまでよく見えません。土星は大きな惑星で、見えやすいんですけどね。太陽系では二番目に大きくて……一番は、何かわかりますか?」
「……木星」
「正解です……って、すみません。つい普段の案内の癖で」
「いえ……良ければ、続けてください」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて……今日はこうしてちゃんと見える土星の環ですが、位置関係によって数年に一度、見えにくくなるタイミングが存在して――」
水を得た魚のように、軽妙に説明を続ける。この男は自分の仕事を愛しているのだろう。何かに夢中になる人の姿は、見ていて気持ちがいいものだ。
次はアンドロメダ銀河を見せると言って、高橋はまたパソコンを操作する。ドームの屋根がゆっくりと回転し、望遠鏡の角度も自動で調整される。その様子を確認しながら、高橋は「あの……」と遠慮がちに口を開いた。
「帰って来られているということは……綺羅様は、アイドルをやめるんですか?」
綺羅がすぐに答えずいると、しばらく沈黙が流れた。
「……すみません、踏み込んだことを訊いてしまって」
「いえ……アイドルは……やめません。俺は……この家を継がない」
高橋の、黒い両目を見つめて断言する。望遠鏡の動きが止まった。高橋は望遠鏡の太い筒を手のひらで撫で、そうですよねと微笑んだ。
「私も、ここに移住する前に、周囲に止められました。Uターンってわけでもないのに、わざわざそんな田舎に行ってどうするんだよって」
開いたドームの天井から空を見上げる。明るい部屋にいるからか、さっきのようにくっきりと星は見えない。
「ここに来て後悔はないし、毎日楽しく働いています。でも、周りが止める理由は今でもわかります」
高橋は静かに続ける。
「どこへ行くにも車がいるし、電車は一時間に一本も来ないって聞いたときは驚きました。若い人も、正直想像していたよりずっと少ない。……だけど二十四時間営業のお店がほとんどなくて、高いビルがないおかげで、大好きな星がたくさん見えます。バスツアーのお客さんなんかで、夏場はこのドーム内が毎日ぱんぱんになるくらいの観光客の方が訪れます。何より、皇家の皆さんや、近所の方々は余所者の私にも、親切にして下さいます」
「俺は……この土地が嫌になって、出て行く……わけではない」
「はい。皆さんに聞いて、綺羅様のご活躍を私も拝見しています」
望遠鏡の調整とドームの天井の開閉が完了すると、あたりは怖いほど静かだった。屋根は一部開いているが、分厚い壁に守られている屋内へは海の音が聴こえてこない。
自分が生まれた土地の、自分が暮らしているときにはなかった建物の中で、綺羅は今、自分がどこに立っているのかが曖昧になる。
商店街のシャッターを下ろした八百屋や喫茶店の子どもたちは、大人になって、こんなところでは働けないと出て行ったのかもしれない。もしくは都会に夢を見て。一方で、この田舎町で働きたいと志を持った高橋のような男もいる。どちらが正しいとか間違っているとか、そんなことは誰にも決められない。
「俺は――」
「見てください」
同時に発した言葉がぶつかり、高橋は肩をすくめ「すみません」と順を譲った。しかし綺羅は望遠鏡を覗き込むことで口を閉ざした。
銀河というからには、写真で見る天の川のようにぎっしり詰まった宝石のような星々を想像していた。しかし切り取られた視界には、ぼやっとした微かな光が広がるのみだった。
「想像した感じと違いましたか?」
「……あぁ」
「ちなみに、写真で撮るとこんな感じです。写真ってすごいですよね」
と、高橋は『写真で撮ったアンドロメダ銀河』と書かれたプレートを掲げる。説明の際に使っているのだろう。中心の白い星の周りに淡い光が渦のように広がり、煌々と輝いている。高橋は再び天体案内人の口調になって解説を続けた。
「こんな風にぼんやりとしか見えないアンドロメダ銀河は、二百五十万光年先にある天体です。光が一年かけて進む距離が一光年ですから、その二百五十万倍というわけです。二百五十万年も前の光を、今こうして地球から見ていると思うとロマンを感じますよね」
「……好きなんだな、天体が」
薄ぼんやりした銀河を眺めながら言うと、「はい」と高橋が即答する。
「俺は……音楽が好きだ」
小さな穴を覗き込んだまま呟く。
「あなたが天体を好きで、ここで暮らすように……俺は音楽が好きで、でもここでは――皇家の後継ぎとしては、その夢が叶えられないから……家を出る」
「同じですね。……私には両親がいないので、綺羅様のような確執はありませんが……」
「……同じだ」
望遠鏡から顔を離し、綺羅は頷いた。
生涯かけて全うしたい、愛するものがある。綺羅にとってそれは、自己表現が苦手な子どもの頃の自分を救い支えてくれた音楽だ。
この小さな町を出るのは、決してここが何も変わらない昔ながらの土地だからではない。変わってしまったからでもない。綺羅の夢を叶えるのはこの場所ではなく、皇家当主を背負っていては不可能だと分かったから。
実家の離れに戻り夕食と風呂を済ませる。夕食の献立には、綺羅のリクエストした豚汁が並んでいた。子どもの頃から変わらない味。芸能事務所に入ると突然家を飛び出した後継ぎ息子の割には甘やかされているなと今さら痛感し苦笑した。
髪を乾かし居間で水を飲んでいると、「坊ちゃん」と声を掛けられた。この家で未だにその呼び方をするのはただ一人だ。
「もう……寝ているかと……思った」
「お部屋にご案内するのを忘れていたのを思い出しまして」
「……あぁ……そういえば」
使用人について廊下を歩く。大きなガラス窓に面した廊下は床暖房が効いていたが、それでもすきま風のせいか少し冷えた。高橋という男に会った話をすると、彼女は「あぁ」と少し声を弾ませた。
「天文台へは行かれました?」
「ああ」
「私も一度見せていただきました。もともと全然興味はなかったけれど、なかなか面白いものですね」
その口調から、彼女のようなベテランの使用人たちからも彼が好意的に受け入れられているのだと分かった。
「若い人も、増えているのか」
「昔に比べれば多少、という感じですね。年寄りがだんだん辞めざるを得なくなって、最近新しく来てもらうのはお若い方が多いです。最近の若い人はパソコンでの事務処理に大体強いから、いろいろ頼りになりますね。皆さん大変働き物ですよ」
一呼吸置き、歩きながら彼女は言った。
「若い方に来ていただくことを、旦那様、最初は少し渋ってね」
「……そうなのか」
「ええ。どの代で皇家が途絶えてしまうかわからないからと」
深い意味を持たせないあっさりとした口調で言った。綺羅は足を止める。窓の向こうに広がる暗闇を見た。空に明るい星が瞬くのが、ここからでも見える。彼女はしばらく先を行き、綺羅がついてきていないと気付くと、振り返り眼鏡の奥の瞳を細くする。
「……確かに、皇家は由緒ある旧家です。でも、都会と違ってこの土地の人々は減っていくばかり」
星が流れる。足元に感じる熱と、漏れ入る外気が身体の中で溶け合う。彼女の言葉と、父の有無を言わせぬ態度と、綺羅の音楽への情熱とが、身体のずっと奥の方で混ざる。
「坊ちゃんには強く言っておられるけれど、若い人がどんどんいなくなるこの地に息子を縛り付けることを、旦那様は全面的に良しとしておられるわけではありません」
「……しかし……父さんは…………」
「旦那様も悩んでおられるんですよ」
目を伏せ、彼女がくるりと振り返る。それに従って綺羅もついて歩いた。
そうだ。久しぶりにこの土地に戻って来た綺羅がすぐに感じ取った侘しさを、父が感じていないわけがない。頭ごなしに家を継げと命じられているとばかり思っていたが、当然父も人間で、葛藤があるのだ。
綺羅に宛がわれていたのは広い洋室だった。物が少ない部屋の奥には、もともと姉が買ってもらったグランドピアノが鎮座している。
「防音設備は整っていますけど、夜に弾くのは控えてくださいね」
「……捨ててしまったのかと」
最初の所有者だった姉は数年でピアノに飽きてしまったし、その後綺羅が使っていたとはいえ、もう残しておく理由はないはずだ。
「旦那様も口では捨てる捨てるとおっしゃっていましたよ。それなのに気付いたらこのお部屋にあったんです。不思議ですね」
私は要らないと進言したんですが、と平然と口にして微笑む。それから彼女はおやすみなさいと深く礼をして出て行った。
埃の一つも被っていないピアノをそっと撫でる。側面には、綺羅が子どもの頃に誤って付けてしまった傷があった。
――俺は音楽が好きだ。
呪文のように、心の中で唱える。
――他には何も要らない。
繰り返す。
音楽を好きな自分を肯定されたい。そんな甘えた気持ちが見えなくなるまで塗り潰す。
目蓋が熱くなり、涙を堪えた。
これが覚悟だ。音楽以外の全てを投げ打って生きていく、強い覚悟だ。
――誰が何と言おうと、音楽が俺の全てだ。
翌朝、散歩を兼ねて海に出た。
昨夜はよく眠れなかった。子どもの頃の思い出が逆流してくる感覚があり、しかし浅い眠りだったにも関わらず夢は見なかった。覚えていないだけかもしれない。
革靴に砂がつくのも厭わず砂浜を歩く。釣り人が綺羅に気付いてあっという顔をしたけれど、互いにすぐ目をそらした。
波が寄せ、引いていく。その音をただ聴いていた。海の向こうには何もない。朝陽にきらめく水平線が延びるのみだ。振り返ると、見慣れた小さな町に人々の生活がある。それを守る父の仕事はとても立派だ。
綺羅の音楽には何の力もないかもしれない。綺羅を救った音楽を、綺羅は生み出すことができないかもしれない。ただの娯楽と嗤われるかもしれない。今はまだ、それでも良い。
「失礼します」
父の部屋は今日もお香の匂いが充満していた。
椅子に掛けた父の目の前で正座し、手を付いた。そのまま背を曲げ頭を下げる。
「俺は――アイドルとして生きていく。音楽の道を行く。……お願いです。家を出ることを……認めてください」
沈黙はたったの一秒にも、永遠のようにも感じられた。父がいいと言うまで、もしくは好きにしなさいと、それならば家から出て行けと言うまで、ずっとこうしているつもりだ。
「顔を上げろ」
「いいえ」
「……顔を上げなさい、綺羅」
父の声音が変わった。
「そのままでは話ができないだろう。顔を上げなさい」
綺羅の言い分を全て跳ねのけた頑なさが少々薄らいだのが分かる。恐る恐る顔を上げると、父はわずかに眉根を寄せた。
「皇家当主の座を蹴ってまで、音楽の道を進みたいのか」
「はい」
「お前はまだ若いが……お前が捨てるものは重い。一時の気の迷いではもう取り返しが付かんぞ」
「……はい。分かっています」
父は目を伏せ、長く息を吐いた。
新しい、この離れには何の思い入れもない。
しかし満ちる香りが、少し老けた父の顔が、遠くに聴こえる潮騒が、綺羅に思い出させる。いつか父の仕事を継ぐと子どもながらに抱いた最初の夢。小学校の卒業文集に綴った将来の夢。姉が買ってもらったピアノを初めて弾いた日の感触。波の音とピアノの音が混ざった、心地良いハーモニー。あのピアノの音ってお姉さんじゃなくて綺羅くんなの、とご近所さんに驚き褒められたときの、苦々しい両親の顔。高校一年生の進路希望調査で、初めて迷ったあの日。ただ猶予を稼ぐために、音大に進もうと思案していたあの日。生まれながらにアイドルを課せられた瑛一に出会った、あの日。
音楽と生きること。
すなわち、皇家の後継ぎとして生きていけないこと。
「俺は……音楽を続けていけるのであれば、これまでの……この先の人生の……何を手放してもいい」
綺羅を想ってくれた、ピアノを部屋に運び入れてくれた父の優しさを踏みにじることになっても構わない。
もう一度深々と頭を下げる。
どうか。どうか。祈るような時間が過ぎた後、父はまた「顔を上げなさい」と言った。口元の皺を深くし、幼い子どもを見るように目を細める。
「……いつの間に大人になったな。変わらないのは、その話し方のみだ」
「父さんが……変えなくても良いと……言ったから」
「ああそうだ。物事を考えてから言葉にするのは何より大切だからな」
父は軽く目を眇めると「立ちなさい」と頷いた。
椅子に腰を下ろしたまま綺羅を見上げる。黄みがかった父の瞳が澄んでいるように見えるのは、生まれて初めて正面から向き合った証かもしれない。
「綺羅、お前は自分の道を行きなさい」
「……はい…………!」
振り絞るような声になった。
「お前も忙しいのだろう。空港まで送ろう」
「しかし……」
「いいから、少し付き合いなさい」
父は有無を言わさず立ち上がり、玄関へ向かった。すっと近付いてきた側近の一人に「少し出てくる」と言って車の鍵を取る。
「坊ちゃん」
背後から声を掛けられ振り返った。
「お荷物は全て玄関に」
「……準備がいいな」
「こうなると思っておりましたので」
三人で玄関に向かうと、彼女は「運転手を呼んでまいりますか」と父に訊いた。だがあっさり断られてしまう。彼女もそれを分かった上で、形式上問うただけのようだった。
今朝砂まみれにしてしまった革靴はぴかぴかに磨かれていた。礼を言うと、彼女はいいえと素知らぬふりをする。
「わたくしは、いつか坊ちゃんを旦那様とお呼びする日が来ると思っていました」
皺の寄った両の瞳にじわりと涙が溜まる。綺羅はそれを見ないようにした。
「……すまない」
「謝罪の言葉は、本当に申し訳ないと思っているときにだけおっしゃってくださいな」
本当だ――とは、言葉にしない。
皇家の後継ぎにはならない。その決意は揺らがないが、周囲の期待に添えないことは、心から申し訳ないと思っている。
自分がもし二人いれば、皇の家のために生きる自分と、音楽に生きる自分の二つに分かれただろうか。
もしかしたら、どちらも音楽を選ぶかもしれない。
だから黙って頷いた。
「綺羅様、行ってらっしゃいませ」
助手席に乗り込む綺羅を、彼女は恭しい礼で見送った。サイドミラーの中にその姿を見て、それから、窓を開け振り返る。この場面にどんな言葉が相応しいのか分からなかった。小さな彼女の姿を、見えなくなるまで、ただじっと見つめる。その間、彼女が頭を上げることはなかった。
父はしばらく何も話さなかった。
二人きりになって何を話せばいいか迷うのは綺羅も同じだ。幼少期を振り返ってみても、父と二人で出かける機会はほとんどなかった。
あぁ、そうだ。
思い出すのは、父に初めて連れられて行った社交場だった。
飛行機に乗ったのもあの日が初めてだった。大都会のとにかく広い会場にめかしこんだ大人が何人も、そして自分のように親に連れて来られた子どもも何人かいたのを覚えている。
子どもたちは最初のうちは親の会話に付き合わされていたが、時間が経つと子どもだけで集う輪がいくつかできた。綺羅はそのうちのどこにも入れなかった。今以上に人との会話が苦手だった。混ぜてと声を掛けることはできても、そのあとうまく話せず困ってしまう。
聖川真斗を初めて見たのもあの日だった。綺羅と同じように子どもたちの輪に加わらず一人でいた彼も、しばらくすると明るい茶髪を少し伸ばした子どもに手を引かれどこかに消えた。あれはきっと神宮寺レンだった。
――お前も混ざってくるか。
――僕は……ここにいます。
上等な着物姿の父を見上げ、綺羅は返事をした。
――ご子息は大人びておられますな。
――この年でもうこんなに落ち着いて。お父様に似ておいでだ。
――すでにこの風格。将来有望ですな。
同年代の子どもたちとの交流に積極的でない綺羅の姿は、少なくとも大人には悪く映らないのだろう。父親の隣でしゃんと背筋を伸ばし立っている綺羅を、周囲は褒めそやした。父は謙遜も必要以上の誇示もせず、にこやかに礼を言う。見よう見まねで綺羅もありがとうございますと頭を下げた。
その帰り、父と手を繋いで歩いた。
――僕は、もっと……すらすら話せるように……なった方が……いいのでしょうか。
――どうしてそう思うんだ?
――今日会った人たちは……みんな早口で……僕も将来、父さんのようになるなら……早く喋れるようになった方が……いいと、思ったから……。
――綺羅、大切なのはどういう伝え方をするかではなく、何を伝えるかだ。
――何を……伝えるか……。
父は静かに頷いた。
――人はつい要らぬことをぺらぺらと話してしまう。でもお前はよく考えて言葉を発する。それはお前の長所だ。直す必要はない。大切にしなさい。
あの日綺羅は、その言葉にはいと返事をしただろうか。思い出せない。でも、今でも綺羅の話し方は変わらない。よく考えて感情や考えを口に出す。今も、それを良いと言ってくれる仲間と共に在る。父の言葉は間違っていなかった。
「父さん」
横目で表情を覗き見た。何だ、と返事をする口角がほんの少し上がる。
「俺たち、HE★VENSは……うたプリアワードという、国内でも有数の新人賞に……ノミネートされています。受賞が決まるライブは、高知でも……遅れて放送があるから……見てほしい」
祈るように、少しずつ言葉にする。
大切なのはどういう伝え方をするかではなく、何を伝えるかだ。綺羅は感情を表す手段として、音楽を選んだ。しかし言葉でも分かり合いたい。
「……あぁ、もちろん」
父はそれだけ言って頷いた。
車は海の見える沿岸部を走っている。青く広い。変わらないのは海だけかもしれない。いや、この海さえ日々変化している。人々が気付かないだけで。頭上に広がる星々が、何万光年も昔から時間をかけて届いていると、人々が気付かないように。
未来の自分が、今の自分に――この美しい故郷に誇れる姿であるよう、綺羅は目を伏せて願った。
搭乗前に瑛一とマネージャーに連絡した。夕方から稼働できると伝えたが、今日は丸一日休めとマネージャーから返信が届く。
それから、姉にLINEを送った。家は継がず、音楽の道を行くと。
姉からはすぐに返事が来た。『良かったね、お疲れ』と労いの言葉。それから、遅れてもう一通、『私ももう一度お父さんと話してみようかな』と。
離陸すると高知の町並みはどんどん小さくなり、海が見えたと思うとそのまま雲を突き抜けた。目を閉じる。高知から東京へは一時間半程度で到着する。
空港を出ると着信があった。ナギからだ。
『今どこ?』
ナギの声の後ろで、飛行機の離発着を告げるアナウンスが聴こえる。
「ナギ、今……空港か?」
『そうだよ。瑛一に時間聞いて迎えに来たの。あ、いた』
振り返ると、バケットハットとサングラスで変装したナギが手を振っている。
その姿に、あぁ帰って来たと感じる。もうすっかり東京が、仲間と音楽に囲まれたこの土地が、綺羅の居場所になっている。
電話を切ってナギが待つ方へ進んだ。自分の力で歩いていないみたいだった。引き寄せられる磁石のように足が勝手に向かう。駆け寄った綺羅を迎えたナギは、可愛らしく首を傾け「おかえり」と笑った。
「……ただいま」
「も~っ、せっかく迎えに来てあげたんだから、もっと喜んでよね」
「伝わりにくいかもしれないが……喜んでいる……とても」
「そうかなあ?」
悪い目をして綺羅を見上げる。黙って頷き肯定した。
「綺羅、ナギには全然連絡くれないんだもん。ちょっと寂しかったんですけど~?」
「すまなかった」
ナギは唇を尖らせた。リーダーとマネージャー宛に連絡を取っただけで、ナギを省く意図はなかった。そんなことくらい、聡いナギはとっくに分かっているだろう。
ロビーを歩きながら、そういえばと思い出したように、少しうんざりしてナギが言った。
「なんかヴァンから、ワイの代わりに綺羅ちゃん抱きしめてきてな! って言われてるけど……どうする?」
「……遠慮しておく」
「だよね~」
帽子の上からナギの頭を軽く撫でる。
本当は抱きしめられてもいいくらいだった。同じ目標に向かう仲間が近くにいて嬉しい。掴みかけた夢の端を決して離さない。そして必ず手に入れる。
見上げた東京の空は、故郷の空と同じくらい青かった。
