五年後 山梨
小さな蝶が二つの羽根をこすりあわせて飛んでいく。黄色いパンジーの上をゆらめく同じ色の羽根。天を仰いだ花びらに虫たちがやってくると春の訪れを感じる。
水やり用のホースを巻き取り、こめかみを伝う汗を拭う。屋敷に戻る前に郵便受けを覗くと一枚の葉書が届いていた。一面に広がる菜の花畑を縫うように走るレトロな機関車の風景写真。表には律儀な兄の文字で短い手紙が綴られている。仕事で訪れた千葉県の菜の花畑を瑛二にも見せたいと感じたこと。小学三年生になったばかりの瑛二の勉学や健康を案じていること。それから、庭で育てている花たちの様子を聞かせてくれ、と。
兄が上京してから「俺も弾きたい」と母に頼んで自室に移してもらったピアノの椅子に腰掛け、何度も何度も手紙を読み返す。いつも手紙には兄についての話が書かれていない。兄さんは元気なのか、どんなレッスンをしているのか、学校は楽しいか、父さんと会ってどうだったか――。
兄はよく電話をかけてきて、手紙も月に四度は送ってくれる。けれど、父に最後に会ったのは瑛二がまだ物心付かない頃だった。テレビの中でたまに見かける父はもはや知らないおじさんで、同じように父は今の瑛二について何も知らない。
ピアノの蓋を持ち上げ、深紅のカバーをそっと外す。
兄から便りが届く度に考える。
俺もお兄ちゃんみたく東京に行って、アイドルになるのかな。
瑛二と同じ年の頃の兄の元には、毎週いろんな「先生」が訪れていた。でも瑛二にピアノを教えてくれるのは母だけだ。きっと父が、瑛二にレッスンはいらないと判断したのだ。それがどういう意味なのか幼い瑛二には理解できなかった。だからといって、母や、ましてや父に「なんで?」と訊けるほど、もう子どもではない。
――兄さんへ
どんな返事を書こうか。頭の中で考える。
――お花とってもきれいだね。俺も見たかったな。
鍵盤に指をすべらせる。兄が残した譜面の中でも一番慣れ親しんで、今では楽譜を見ずに弾けるようになった曲――父のラストナンバーを。
――俺は最近ピアノが得意です。三月のクラス合唱で、伴奏をしたんだよ。
それから。
新しいクラスで新しい友達ができたこと。担任の先生のこと。家庭科の授業で初めて料理をしたこと。庭の花がたくさん咲き始めたこと。笛吹の桃と桜が今年もきれいだったこと。ナスが食べられるようになったこと。去年より少し背が伸びたこと。
もし今すぐ会えたら全部話したいけれど、どれもわざわざ手紙に綴るほどでもないように感じられた。
本当は、兄に訊きたいことがある。
面と向かっては言えなくて、手紙になら書けそうだと思った。でも、手紙にするのはずるい気もした。
――どうしてお兄ちゃんは、お父さんのビデオを見なくなったの?
瑛二が幼稚園に入る前くらいまでは、兄と一緒にレイジング鳳の昔のライブ映像を見た記憶が薄ぼんやりと残っている。兄は瞳をきらきらさせて、俺もアイドルになる、と何度も繰り返した。兄は父の歌を必死に真似た。ピアノで音をたどりながら、瑛二に歌って聴かせてくれた。そんな光景をおぼろげながら覚えている。
けれどいつしか兄は父の話をしなくなった。あれだけ熱中していたライブ映像も、ちっとも見なくなった。
兄が上京してすぐ、瑛二はビデオテープを探し出し、古めかしいビデオデッキにセットして久しぶりに現役時代の父の姿を見た。レイジング鳳のラストライブ。父と兄の顔はよく似ているのだと、そのとき初めて気が付いた。
特に好きなのはアンコール。父がリリースした楽曲の中で最も多い売り上げ枚数を博した代表曲『LOVE IS DEAD』のパフォーマンスだった。訴えかけるような切ないストリングスで始まり、音がバンドに引き継がれるとカメラはぐっと引きになって会場全体を映し出す。煌々と照らされ熱気に包まれたステージ。観客が歓声とともにかざすペンライトの光の渦。そしてそれを見守るような星明かり。再現性の低いビデオテープで見る、いろんな光が溶け合いつくる濃淡が忘れられなかった。
まだ短い指で曲を弾きながら、思い出す。お父さんのようなアイドルになりたいと、でも、全く同じにはならないと言っていた兄の言葉。
若き日の父の姿は少し怖いけれどかっこよかった。獣じみた瞳をぎらつかせ、赤と白のバラの花びらが舞う道を王者のように進む。生きている証明だと言わんばかりに音を奏でる。バンドメンバーたちもレイジング鳳の勢いに呑まれていた。まるで戦場だ。競わせるようにぶつかり合った音と音が不思議な調和をもたらした。幼稚な瑛二のピアノとは比べ物にならない、本物の音楽。
ライブのラスト、父は濃紺のリボンが結われたマイクをステージの中央に置いて去った。ファーがあしらわれた豪奢なジャケットが翻り、観客の前から姿を消す直前、父は空を見上げるのだ。星々が燦然と輝く夜空を。カメラに大きく抜かれた灰色の瞳が最後に何を見たのかは誰も知らない。
父は――レイジング鳳はこのライブの翌日、表舞台から姿を消したらしい。
最後に歌ったのは『LOVE IS DEAD』――愛は死んだ。
瑛二にはその曲名に込められた意味がよくわからない。
――お兄ちゃんにはわかりますか?
訊いてみたくなった。でもきっと訊かない方がいいんだ。どうしてそう思うのか、上手に説明できないのだけれど。
大人になればわかるだろうか。
ふと怖くなる。そのとき俺は、お兄ちゃんの隣にいるのかな。
ピアノを弾く手を止めてバルコニーに出る。空にはまだお日さまが照っている。眩しさに目を細めながら庭を見下ろすと、色とりどりに開いた春の花たちがステージに向けられたライトのようだった。
あの日、父の「愛」は「死んだ」のだろうか?
幼い瑛二はまだ何も知らない。
