琴線

 世の中には割と楽しいことがあふれている。
 気の持ちようだと言われればそれまでだが、ならば余計にそう考えて生きていく方が面白い。季節は夏から秋に移ろい風が心地いいとか、得意先に嫌味を言われたけど別に失注したわけじゃないとか、時間を調べず特急に乗れたとか、体調がちょっといいとか、朝飯が旨かったとか。それから、どこからかピアノの美しい音色が聴こえてくること、とか。

「プロでも来とんかな」

 興味を惹かれ、ヴァンは思わず声にした。
 市の方針で、ストリートピアノと呼ばれる「誰でも自由に弾いてください」式のピアノが至る所に出現し始めているのは知っていた。廃校になった学校などから運び出したピアノを、街の賑わいの一端とするため設置してあるのだ。そういえば新神戸駅の改札近くにもあると聞いたことがあった。音色を辿ると予想通り、改札付近に置かれたピアノの周りに小さな人だかりができている。
 音の主は、意外にも年若い青年だった。
 ただの黒ではない、漆黒と呼ぶのがしっくりくる艶やかな短髪。座っていてもわかる恵まれた体格。何よりその静閑な佇まいからは想像できない力強い音に圧倒される。「めっちゃイケメンやん」とささやき合う女子高生の会話にうんうん頷いた。わかる、ピアノもすごいけどめっちゃイケメンや。イケメンすぎるピアニスト、とかマスコミに持ち上げられてそうな感じ。それでいて、容姿ではなく音楽だけを評価されたいなんて言い出す偏屈なタイプにも見える――いや、今初めて見たばかりの相手に抱くには失礼な感想か。
 音楽に特に造詣が深いわけではないヴァンにとって、ピアノ演奏はどこが山場でどこで終わるのか掴めなかった。青年はただ淡々とピアノを弾き続け、ギャラリーが増えようと減ろうと気にする様子はない。人の行き来が多い場所だ。改札から出てきて音につられ寄ってくる人もいれば、途中で去っていく人もいる。
 このへんがクライマックスか、とわかったのは、前髪に隠れがちだった青年の瞳が大きく見開いたからだった。

「……えらい迫力」

 音楽の「見せ場」というのは、逆転満塁サヨナラホームランみたいに大盛り上がりするばかりに限らないのだろう。動だけじゃない、静の圧みたいなものが彼の音楽にはある気がした。
 演奏が終わるとギャラリーのほとんどはすぐ散り散りになり、何人かは青年に一声かけて立ち去る。彼はそれに軽い会釈を返した。年の割に変に浮足立っていないところがますますいい。

「お兄さん、めっちゃピアノ上手いなぁ。プロの人?」

 声をかけるのに、特別な理由なんてなかった。
 立ち上がった青年と正面から向き合うと、遠くで見ていたときよりも顔立ちの良さがさらに際立って驚いた。すっと通った鼻筋、輪郭のシャープさや黄みがかった瞳の色は、時に人を委縮させてしまうのではないかと懸念するほど怜悧な印象を植え付ける。青年は横に置いていたキャリーケースを引き、短く「いえ」と否定した。

「そうなんや。プロかと思ったわ。今からどっか行くん? それとも帰ってきたとこ?」
「……東京へ」
「あー、そうやんなぁ、お兄さん関西人っぽくないもんな。シュッとしてて」
「高知から……来ました」
「東京でもないんや。高知か、ええとこやなぁ。ワイも今から東京向かうとこやねん」
「そう……ですか」
「いい演奏ありがとう。ほな、気ぃ付けて」
「……はい」

 軽く手を振ると会釈が返ってきた。
 やっぱり世の中には楽しいことがあふれている。改札を通り抜け、駅弁とチップスターを売店で購入したら金額がきっかり千円で、心の中で小さくガッツポーズする。自分で購入したのに、新幹線の座席が七列目だったのも嬉しかった。ラッキーセブンや。

「……あれ?」

 七列目の三人掛けの座席にたどり着くと、通路側に座っているのは先ほどのピアノの青年だった。

「同じ新幹線やったんや。しかも隣の隣の席。すごい偶然やな」
「そう……ですね」

 伏し目がちに頷く。あまり話しかけるなという意味か。東京に到着するまで約三時間、静かに過ごしたい気持ちはヴァンにもわかる。それに自分たちはさっき短い会話を交わしただけの見知らぬ間柄なのだ。いろいろ話してみたい気持ちは山々だがぐっと堪えておく。ここが飲み屋ならともかく。
 横目で見ると、青年は分厚い文庫本を取り出していた。上等な皮のカバーの本からも、すっと伸びた背筋からも、彼の育ちの良さが窺える。
ヴァンは弁当を平らげ、午後から行われる会議の資料に目を通した。会社で印刷してホチキス留めもせず持ってきたばらばらの用紙が、ちょっと恥ずかしかった。
 名古屋あたりでうとうとし始め、気が付いたら新横浜の停車アナウンスが流れていた。
 横を見ると、青年は相変わらず正しい姿勢のまま本と向き合っていた。ふと彼がヴァンの方へ視線を向ける。

「落ちました……これ」

 彼が差し出したのは、名古屋まで手に持っていたはずの資料だった。丁寧に端の方がクリップで留められている。

「うわ、いつの間に。ありがとう」
「いえ」
「どこで降りるん? 東京? 品川?」
「東京駅です」
「そっか」

 資料をクリアファイルに入れ、鞄に戻す。一つ空席を挟んで隣の青年も、まだ読み終えていない文庫本を鞄に片付けた。会話に応じてくれるのか。それとももうすぐ目的地に到着すると勘違いしているのか。

「お兄さん、音大生とか?」
「……進学を……考えてはいます」
「あ、じゃあ高校生なんや」

 つい「わっか!」と言いかけて、やめた。本心だが、年齢にいちいちリアクションされるわずらわしさをヴァンもよく知っている。

「音大向いてそうやん。ピアノめっちゃ上手かったし」
「…………そう……ですか」
「うんうん、ほんまに。あーでも、ワイ音楽とか詳しないから、素人の感想やけど」
「コンクール以外で……人に……聴かせたことが……なかったので」
「えっそうなん? あんなに弾けんのに」

 もったいない。あのときのギャラリーの多くは心を揺さぶられていたはずだし、彼自身も気持ち良さそうに演奏していたのに。
 少し身を乗り出せば、まっすぐ顔を見つめられる。初めてこんなにしっかり目が合ったかもしれない。高校生だと意識すると、確かに年相応の初々しさもあった。それにしても、恐ろしく整った顔立ち。十代なのに落ち着いていて、多くを語らない寡黙さもあって。学校ではさぞモテるだろう。
 青年は口を閉ざしていた。「なぁ」と視線を逸らしながら言うと、彼がシャツの襟を正す。

「何であそこでピアノ弾いてたん?」

 車内の細い電光掲示板にニューステロップが流れていく。内容はどうでもよかった。ただ他の何かを見ていたかった。
 気になるのはただ一つ。どうして今まで誰にも聴かせてこなかったピアノを、あんな目立つところで披露する気になったのか。

「言葉は……苦手」

 自嘲めいた微かな笑みを織り交ぜて呟く。

「想いや、感情はある。それを……言葉にするのは、苦手。感情が溢れて……音楽になる。だから、ピアノを弾いた理由は特に……ありません」

 青年は浅く息を吐いた。
 つらつら流れるオレンジ色のテロップは各地の天気予報を示している。晴れ、曇り、晴れ、晴れ、晴れ。それと見慣れた地名の応酬だったが、全く頭に入ってこない。ただ彼の言葉を反芻していた。
 面白い。そして強烈な羨望を感じた。自分の感情を何らかの方法で表現したいなんて、ヴァンは考えたこともなかった。いや、口は達者な方だから、この無口な青年からすれば言葉で十分表現できているように見えるかもしれない。それでも。自分にはあるだろうか。子どもの頃に親から教わった以外で、誰かに何かを伝える手段が。
 やりたいことには色々手を出してきた自負がある。
 それなりに勉強して、食べて飲んで、行きたいところに行って、会いたい人に会って、言いたいことを言って、生きてきた。一見、充実した人生を送っているようにも見える。しかし、心の奥底では何かが足りない感覚があった。自分の人生の大部分だと呼べるものに出会えていない。その空虚感は、年を重ねるごとに大きくなっていくようだった。
 仕事は楽しくてやりがいもあるが、同時に単なる習慣でしかないような気もする。毎朝決まった時間に目が覚め、足は勝手に職場に向かう。組み込まれた機械的なルーティン。
 そうなんやと曖昧に返事をして、窓の外に目をやる。窓ガラスにぼんやり映る青年は、こちらの様子をうかがっているようだった。ガラス越しに目が合ったような気がした。
 品川に近付くと、馴染みの深いメロディとアナウンスが流れる。一足先に降車するヴァンのために、青年はわざわざ立ち上がり道を空けてくれた。

「またどっかでお兄さんのピアノが聴けたらええな」

 音響のよいコンサートホールよりも、今日のように拓けた場所で。足が勝手に向かってしまうような鮮烈さを、また味わいたいと願った。

「応援しとるで」
「あの」
「ん?」
「……ありがとう……ございました」
「え? いや、こちらこそありがとう。楽しかったわ」

 軽く肩を叩く。降車口の先頭を陣取り、早く立ちすぎたなと苦笑した。ゆっくり車体がホームに滑り込む。
 窓の外に見えるホームには、自分と同じような格好のサラリーマンがせかせか歩き回っていた。大人やな、と改めて感じる。ネクタイ締めて、ジャケットを羽織って、足元はフォーマルな革靴で。いつの間にか自分も大人になった。なってしまった。そんな「今」に不満はないはずだった。やりたいことをやれている。それは間違いない。
 もっと若い頃、例えば高校生や大学生のときに心血を注げるような何かに出会えていれば、今は変わっていただろうか。彼にとっての音楽のように、自分の身体の一部となる何かに。
 そんなもの、今からだっていくらでも探せる。
 心の中の前向きな自分が語りかけてくる。
 自答する。
 それはそうなんやけど、でも『今』欲しくなったんや。
 車体がゆるやかに停車し、東京の地に降り立つ。初めて来たときには新鮮さが勝っていたけれど、出張で何度も訪れる度に身体はこの土地にすっと適応するようになった。左側に立ってエスカレーターを下り、改札を出て人の流れに合わせて歩く。大人の群れだ。そのパーツの一つになっている自分も、まごうことなき一人の大人なのだ。
 彼のピアノの音色がどんなだったか、もう思い出せない。
 蘇るのは声。仕事を終える頃にはそれすら忘れてしまう気がした。