あの日から、こうなる予感はあったのだ。
映し出された星の記号が回転しアルファベットのAに変化する演出が、あの日――うたプリアワードのノミネート中継のときから、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
ST☆RISHに七人目が加わると発表された翌日、瑛一は父に呼び出され、HE★VENSも一名増員せよと命じられた。予想通りだったが、忙しさがデビュー前の比ではないので困った。メンバー探しにあまり時間を割けない。だからといって父親に任せるのは避けなければならない。共に頂きを目指す仲間は自分の手で見つけたい。愛島セシル、七人目、愛島セシル、七人目、愛島セシル……あぁ、頭が痛い。
活動の合間に、他の芸能養成所やダンススクールに顔を出し情報収集をする。ダンス技能が県でトップクラスの者、ローカルアイドルとして人気がある者、のど自慢大会優勝者など、スキルで秀でた者は数値化されており分かりやすい。しかし特別な魅力を感じられる人間にはなかなか出会えないものだ。そもそもHE★VENSは瑛一の中ですでに完成されているから、どんな者を仲間にすべきか明確な輪郭が描けていない。
福岡でのライブ公演の翌日からの二日間で、県内以外にも、佐賀、長崎と西へ足を延ばした。
HE★VENSのメンバーは偶然にも地方出身者が多いから、あえて九州や東北あたりで重点的に探してみたかった。与えられた時間は短いが、都内に比べると養成所の類の数がそもそも少ない。
瑛一は長崎の市街地にあるダンススクールを出てため息をついた。共にアイドルをやりたいと思える人間がすぐに見つかるわけがない。その上、レイジングエンターテインメントの社長の息子が突然訪れたとなると、レッスン生たちは妙な気合を入れるものだから、実力や本質を見抜くのが困難だった。
今日のアポイントメントは全て消化、全て空振りだ。明日は、このあたりに住んでいる父の古い知り合いに挨拶に行き、昼過ぎの便で東京に戻るスケジュールになっている。
ホテルに戻ろうかと踵を返すと、強い西日が射して目が痛いほどだった。ゆるやかな坂を上る。このあたりは街全体が観光地化されているが、東京よりずっと静かだ。路面電車が走る通りを避けて細い路地に入ると特に。
夕陽に照らされた教会の十字架の影が視界に飛び込んできて、下を向いて歩いていたことに気が付いた。
周辺には教会が多い。鉄柵の向こうに、こぢんまりとした細いシルエットの教会が建っていた。瑛一に顔を上げさせたのは、その教会から聴こえてくる歌声だった。
声は低く、丸みを帯び、しかし歌い方には大胆すぎる粗さも感じられた。音の置き方や切り方が雑なのだ。教育を受けた歌唱ではないことは明らかだった。それなのにこの歌声はなぜか耳に心地よくすっと馴染む。基礎に忠実なレッスン生たちの歌唱を山のように聴いた瑛一の耳に、この声の主が持つ棘が何本も刺さって抜けなかった。
教会は開かれていた。声につられて門を抜ける。
聖堂は湿度が高くむっと暑かった。強い西日が差し込む。ステンドグラスのオレンジや緑の光の影が落ちたところに、声の主はいた。髪も肌も服も白く、そのカンバスに絵具をぽつぽつ落としたようにステンドグラスの色がまだらに広がる。年は十五、六といったところだろうか。かなり痩せているが上背はそこそこある。濃紺の毛並みの小さな鳥が彼の肩にとまり共にさえずる。絵画めいた美しさは温度を感じさせない。
瑛一がガラスの嵌まった木の壁に手を添えると、音を立てて軋んだ。少年は歌うのをやめ振り返る。その音を立てたのが見知らぬ男だと気付くと、彼は肩を揺らして後ずさった。小鳥が羽根を舞わせ窓の外へと飛んでいく。
目が合う。彼の瞳は鮮やかな紫色だった。
「すまない。邪魔をしてしまったか」
声をかけると彼はまた一歩後退した。淡い光の真下から外れると白さが際立つ。少し丈の短いパンツから露出した足首は細く脆い。
「もう一度歌ってくれないか」
近付くと、瞳に警戒の色が灯った。彼は小さく首を横に振る。
「他人に聴かせるために……歌ってはおらぬ」
言葉を発するため色素の薄い唇を微かに震わせる。か細く小さな声。声色にはやや困惑が浮かんでいるのに、顔色や表情は一つも変わらない。瞬きをしなければ精巧な人形のようだ。
「俺のためなどと思わなくていい。先ほどのように、自由に歌ってくれ」
「……近付くな」
瑛一は従って足を止めた。彼は薄い唇を噛み、聖堂への入り口へと走り出す。思わず追いかけ細い腕を掴んだ。
「何を……」
美しい顔に初めて感情が浮かぶ。驚き、警戒、戸惑い。瑛一は自分の言動を顧みる。初対面の相手に対して失礼で不審だったかもしれない。
「歌声につられてここに来て、声をかけた。もう一度君の歌が聴きたい。だから歌ってほしい」
「わけが分からぬ」
手を離す。彼は目をそらし俯いた。
「……我の、歌など……」
「謙遜する必要がどこにある」
瑛一はそう言って、彼の歌声を思い出そうとした。しかしうまく思い出せない。きれいな声とか歌が上手いとか、単純にそういう類のものではなかった。彼の声は瑛一の足を止めさせた。ここまで瑛一を連れてきた。それがどんな声だったか脳裏にうまく描けない。だからもう一度聴きたいのだ。
「あら、こんにちは」
背後からのんびりとした声が聴こえる。聖堂の入り口に初老の女性が立っていた。声をかけられたことに気を取られているうちに、少年は手を振り払い今度こそ逃げ出した。
「何か御用ですか」
「あぁ、いえ……すみません。近くを歩いていたら先ほどの少年の歌声が聴こえたのでつい。彼は……ここの信徒の方のお子さんとか?」
女性は困ったように視線を右へ左へとさまよわせ「いいえ」と答える。
「彼は一人でここへ」
「次いつ来るか分かりますか」
訊くと、彼女は瑛一を訝しむ視線を隠さなかった。
「失礼ですが……あなた、お名前は?」
「あぁいや、こちらこそ失礼しました」
名刺を手渡す。過去に使っていたものだが、まだ持っていて助かった。女性は丸眼鏡を押し上げて小さな文字に目を凝らした。
「レイジングエンターテインメント、鳳さん……」
「東京の芸能プロダクションです」
「もしかして、レイジング鳳の……?」
「はい。うちの社長です」
「そう」
はいはいと何度か首を縦に振る。瑛一は父の知名度の高さに胸の内でそっと感謝した。その息子については知らないようだが、都合がいいので自分はスカウトマンという設定にしておく。
「あの子ならほとんど毎日ここに来ますから。明日もきっと来ると思いますよ。朝は礼拝があるので、庭にいるかと」
「彼は礼拝には出ないんですか」
「たまに後ろの方に座っているのを見ますけど、たくさん人がいる場所が得意じゃないみたいで。そういう子、時々いるでしょう?」
同意を求められ、瑛一はそうですねと愛想よく答える。あれはたくさんの人が苦手というよりも、ただ単に人が苦手なように見えたけれどどうだろうか。
丁寧に礼を言って教会を出た。彼の歌声はやはり思い出せない。決して印象に残らない声ではなかった。彼の歌が胸を刺したあの衝撃は残っている。讃美歌のようだったのに、神に対する、いや、何に対する彼の感情も感じられなかった。あれほどに無色透明な音楽があるだろうか。あれに色が付けばどんな風に変化するのだろう。
瑛一は思わず笑い出したくなる気持ちを堪えた。未知なる音楽との邂逅。その衝撃が胸を震わせる。名前も知らぬ少年の音楽に想いを馳せながら坂道を下る足取りは自然と軽くなる。
翌日、父の旧知の男の元へ出向いた。
男は元々とある音楽大学に勤務しており、現在は退職して自宅で声楽スクールを開いているらしい。彼の教え子三名を紹介され、瑛一は彼らの歌を聴いた。素晴らしいですね、さぞ努力してこられたのでしょう、先生の教え方がお上手なんでしょう――と適当な美辞麗句を並び立て、解放された頃にはすっかり昼だった。フライトの時刻が迫っているのでと嘘をついて昼食の誘いを断り、昨日の教会へ足を向けた。
礼拝は終わっているようで、聖堂に人の気配はなかった。教えてもらった通り庭で彼を探す。
教会を囲む小さな庭に、彼の姿はすぐ見つかった。木陰で膝を抱え、木の幹に寄りかかり目を閉じている。昼寝をしているようだ。瑛一の靴の音にも目を覚まさない。
この子はどうしてこんなところにいるのだろう。礼拝に出るわけではない。親に連れて来られているわけでもなければ、友達と来ている様子もない。
声を掛けて良いものか悩んだ。健やかな寝顔だ。微笑んでいるようにも見える。昨日の彼はあまりに表情に乏しかった。目を覚まし瑛一に気付けば、彼はまたあの何も持たない顔に戻ってしまうのだろう。だから起こすのが惜しい。
風が吹いて木々がさざめく。眠る少年は美しかった。丸くなっていても分かる手足の長さ。細身の体に合わせて顔も小さく、配置されたパーツは決して華美ではないがすっきりとしてバランスが良い。真っ白な肌は舞台でよく映えるだろう。肩を揺すってみようかと手を伸ばすと、触れる前にまぶたが持ち上がる。アメジストの瞳が現れ、瑛一を視界に捉えると、彼はぎこちなく後ずさりをした。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」
「そなたは……一体何なのだ」
「俺は鳳瑛一。君の名前は?」
「……天草シオン」
Aだ、と気付いたときには右手を差し出していた。
「シオン、アイドルに興味はないか?」
シオンはぽかんと口を開けたまま硬直した。ほとんど表情がなくても呆気に取られていると分かる。瑛一を怪しんでいるのだと。だが瑛一はこのやり方しか知らない。気に入った相手と共に歌いたい。その一心で。
「アイドル……とは、斯様なものか」
差し出された手を取らず、天草シオンは瞳の温度を低くした。
「人々に求められ、人々の光となり得る存在だ」
「それは神ではないのか」
シオンは教会に視線をやる。祈りを捧げるための、時には人々の拠り所となる神聖な場所。彼の口調や表情から特別な信仰は感じられなかった。何も信じていないと訴えるような無機質な瞳で十字架を見上げ、淡々と語る。
「我々を救うのは神だと聞く」
「誰に?」
「此処に集いし者たちだ」
「お前は違うのか」
「天草は……そんなものを信じておらぬ」
シオンは再び木に寄りかかり目を閉じた。ぬるい風が吹くとシャツの背中が膨らみ、また肌に沿う形に戻る。華奢で優美なライン。触れることが禁忌だと感じさせる線の細さ。危うげで、思わず手を伸ばしてしまう。
「もう一度歌ってくれ」
腕を掴み懇願する。親指と中差し指で容易に一周できる細い手首。怪訝そうな顔で視線を上げるシオンに「頼む」とさらに畳みかける。
「断る」
「なぜだ」
「他人に聴かせるものではない」
「しかし昨日、神には聴かせていたのだろう」
「そのようなつもりで歌ってなどおらぬ」
シオンはうんざりした様子で目を閉じた。
歌え、歌わぬの押し問答で埒が明かない。でもどうしても彼の歌が聴きたい。遠回りは趣味ではないが仕方がない。
「ならば昼食を一緒にどうだ」
「なぜ執拗に我を誘う」
「シオンに興味があるからだ」
「天草の歌を聴きそなたは何がしたいのだ」
「アイドルとして共に歌う仲間になってほしい」
「……そなたは、面妖なことばかり言う」
立ち上がると服についた土を払った。瑛一が差し出した手を拒み、先に歩き出す。
美味い店を知っているかと問うと、静かにかぶりを振った。
「食べたい物は?」
「特にない」
「そうか」
長崎の名物をいくつか思い浮かべたあとで打ち消す。彼はこのあたりに住んでいるのだろうから、観光客向けの店は避けるべきだろう。歩き始めてすぐに見つけた青い看板のカフェに入り、二人掛けのテーブル席でシオンと向かい合った。瑛一は日替わりのランチセットを注文し、シオンはドリンクメニューのコーンスープを指差した。
「小食だな。もしかして昼を食べてきたのか?」
「あまり多くは食べられぬ」
「そうか。道理で驚くほど細いわけだ」
二人で歩くときも、こうして向かい合っている今も、シオンは落ち着きがなくそわそわと視線を至る方向にさまよわせた。彼の指に弾かれ落ちそうになったスプーンを受け止め、どうかしたのかと問う。
「教会で話しているのとは大違いだな」
「外で食事をするのに慣れておらぬ」
「そんなことか。何も気にする必要はない」
「そなたは何故斯様にも衆人の視線を集めるのだ」
息を吹きかけスープを冷ましながら、恨めしそうにシオンが訊いた。
瑛一は顔を上げ、周囲を見渡す。周りの客や店員からの視線に気付いていないわけではない。慣れているだけだ。注がれる好奇の視線。あれってHE★VENSの瑛一だよね、と囁き合う声。盗撮も珍しくはない。いちいち気にしていられない。
四人掛けのテーブル席の女子中学生と思しきグループと目が合い、にこやかに笑いかけてやると歓声があがる。
シオンはそれ以上何も言わず、ちびちびとスープを飲んでいた。
「年齢を訊いても良いか」
「……十六だ」
「住んでいるのはこのあたりか?」
「ああ」
「なぜあの教会に?」
答えはすぐに返ってこない。ゆっくりとスープを冷まして飲む動きは止まらなかった。返事を考えているのか、それとも無視を決め込んでいるのか。沈黙は続き、それを見計らった中学生グループが「写真いいですかぁ」と話しかけてくる。店の許可をとって写真撮影に応じ、店舗に飾る色紙にサインを入れる瑛一を、シオンはじっと見つめていた。
「散歩しないか」
会計を済ませ、店の前で待たせていたシオンに声を掛ける。待っていてくれとは言ったが、帰ってしまうのではないかと内心不安だった。
シオンは表情を変えずに、わずかに眉を上げて疑問の色を示し、しかしこくりと頷いた。
行く宛ては特になかった。二人で歩くことが目的だった。ゆるやかな坂でシオンに合わせ歩調をゆるめる。シオンはどこかを目指しているのか、途中の分岐で右を指差した。
二人のコミュニケーションは、瑛一が質問し、シオンが答える一問一答形式に終始した。シオンは自ら言葉を発さない。胸の内では何か考えているかもしれないが、瑛一にそれを知る術はない。
シオンが指で示すのに従い角を曲がる。彼は門の前で足を止めた。
「……天草の暮らす家だ」
門の横のプレートに視線をやる。そこが児童養護施設であることはすぐに分かった。シオンは門を開け、一人で敷地内に入ると門をゆっくりと閉めた。あまりにスムーズな所作に、声を掛ける隙もなかった。まさか帰ってしまったのか? 挨拶も無しに? わけも分からぬまま、瑛一は押さえていた夕方のフライトを思い出してキャンセルする。まだシオンの歌を聴いていない。
シオンはそれから数分で戻ってきた。昼過ぎに帰ると伝えて出かけてきたので、予定変更を報告しに行ったのだと言う。
「では散歩を続行しよう」
今度こそ二人とも宛てがなかった。ゆるやかな坂を上り、観光スポットとして開放されている洋館にふらりと立ち寄って休憩する。シオンは木の軋む床を静かに歩いた。シオンの所作は一つ一つが丁寧なのに、猫背がちでもったいない。後ろから肩に手を置き背を伸ばしてやると、「なっ!?」とこれまで聴いた中で一番大きな声がした。幸い他に誰もいなかったが、併設されたカフェにまで聴こえていそうな大声に笑ってしまう。
「驚かせるつもりはなかったんだが」
「背骨が折れるのではないかと」
「この程度で骨は折れない」
シオンの顔に、驚きと怒りの混ざった表情が浮かぶ。初めて見た表情。瑛一が笑っているのが気に食わないのか、ふんと無視して先へ進む。
「怒ったのか」
こんなことで、と言いたい気持ちをこらえる。
「怒っておらぬ」
「顔が怒っているぞ」
指摘すると、すんとわざとらしい無表情になるのがまた可笑しかった。機嫌を取ろうと「茶でも飲もう」と喫茶店に誘い、レトロな木製テーブルを挟み向かい合うと、すでに怒りは鎮まっているようだった。ホットコーヒーを二つ頼む。シオンはブラックで一度口をつけてから、ミルクに手を伸ばした。
「俺はブラックで飲むから、全部使うといい」
ミルクをたっぷり加えたコーヒーを冷ましながら啜り、一息ついてからシオンが口を開いた。
「あの教会は、天草が安らげる唯一の場所なのだ」
一瞬面食らったが、昼食の際にスルーされた質問の答えだと分かった。シオンはそれ以上答えず、瑛一も質問を重ねなかった。安らげる場所は本当に他にないのか。いつも教会の庭で眠っているだけなのか。訊きたいことはあったが、踏み込みすぎている自覚があった。
コーヒーをお代わりしてしばらく店に滞在し、外に出る頃には晴れ渡った青空がうっすらオレンジ色とのグラデーションになっていた。
「珍しいものがあるな」
別れ難い気持ちはきっと互いに同じだった。レンガ調の建物の中にあるエレベーターを見つけるとそのボタンを押し、二人でカゴに乗り込む。エレベーターは垂直ではなく、坂を上るように斜め上へと動き始めた。
「天草も、これに乗るのは初めてだ」
カゴの中で振り返る。閉ざされていて外の景色は見えないが、エレベーターで上ってきた道筋が見下ろせた。ゆっくりと進み、扉が開く頃には、階段で二百段以上の坂を上った高さのところに出る。
そこから眺める長崎の町並みは格別だった。
「長崎は日本三大夜景にも選ばれているんだったな」
「三大夜景……?」
「知らないか? 北海道の函館山、兵庫の摩耶山、そして長崎の稲佐山。そこから見る夜景がとても美しいと」
「あぁ……」
合点がいったようにシオンが稲佐山の方角を指差す。行ってみたいな、と瑛一が呟いた声はひとりごとのように風に消えた。
「何か……曲の希望はあるか」
シオンが瑛一のシャツの裾を引き、首を傾げる。
「我の歌が聴きたいのだろう」
「……いいのか」
「ああ。そなたにはとても良くしてもらった」
スープ一杯とコーヒーにぎこちない会話。果たしてそれが「良くする」に値したのか自信がない。
「シオンの好きな曲が良い」
「我に……好きな曲など……」
思い当たるものがあったのか、ないと言い切る前にシオンは語尾を曖昧にした。
息を吸う。
歌い出した曲は、昨日も歌っていた曲だった。
そうだ、この歌声だ。
思い出す。柔らかなようでハリのある声。棘のように感じられたものは、彼の気質を表すものなのか、それとも周りを寄せ付けないための防御壁か。
声はまず低いキーに当たりすぐに上がる。音の終わりはぷつんと切れる。誰の手も加えられていない、生まれたままの歌声。
シオンの声はやはり無色透明だった。ともすれば感情のないように聴こえるかもしれないが、帯びている憂いが彼の声に厚みを持たせている。
この声がHE★VENSにほしい。
瑛一はすでに、HE★VENSのメンバーとの声の相性を妄想していた。誰と合わせても悪くない。癖が強くなくぶつかり合わない気持ちの良いユニゾンがHE★VENSの持ち味の一つだ。
欲しい、欲しいとシオンを見つめる。
まるでただ口ずさむだけの、小鳥のような歌い方。
曲の終わりも、花びらが落ちるように突然途切れた。
「天草は、そなたの仲間にはなれぬ」
瑛一に口を挟む隙さえ与えなかった。
「今日は楽しかった。天草の人生において、忘れられぬ一日となった」
「ならばどうして……」
シオンは悲しげに微笑むと首を横に振って何も答えなかった。
どうしてだ、と帰りのエレベーターでもう一度問う。白い電球に明るく照らされた顔は笑っていた。どうして今になってそんな表情を見せるんだ。
教会や市街地へ続く道とシオンが暮らす場所へ続く道と、二手に分かれるあたりで、ここで別れようとシオンが言った。
「シオン」
細い手首を掴む。
「俺なら……俺たちなら、お前が心安らげる場所になれる。だから……」
「瑛一」
空いた手を瑛一の手の甲にそっと重ねて握る。
「そなたに災難が降りかかってほしくないのだ」
手がほどける。シオンは坂を駆け出していく。追いつけるスピード。でも追いかられなかった。シオンは振り返らない。その影はオレンジと紫がグラデーションになった空の下で、どんどん小さくなり、そして消えた。
どういうことだ。シオンの最後の言葉の意味が分からない。シオンの言う災難とは一体何を指しているのか。
彼の歌声を今度は鮮明に思い出せた。忘れまいとしたわけではないのに。脳裡に簡単に浮かんでくるからこそ、手が届きそうな気がして余計に恋しい。
何分その場に突っ立っていたのだろうか。ナギからの電話で我に返った。
『瑛一ぃ? ねぇいつ帰って来るの? 明日は三人で仕事あるの忘れてないよね?』
「……もちろんだ。朝一の便で帰る」
そうだ、瑛一には帰る場所がある。そしてそれは戻らねばならない場所でもある。
『成果あった?』
駅へと続く道を歩き、「残念ながら」とため息交じりに答えた。
『新しいメンバーなんて必要なのかな』
「仕方がない。社長の決定は絶対だ」
『まぁ……そうなんだけどぉ……』
「とにかく、明日の仕事には間に合うように帰る。メンバー探しはまたその後再開だな」
『うん。じゃあまた明日。気を付けてね』
「ああ、ありがとう」
おやすみと挨拶を交わし電話を切る。
なかなか連絡を寄越さない瑛一に痺れを切らし、可愛らしく頬を膨らませながら電話をかけるナギの姿を想像する。もしかすると綺羅が電話すると言ったのを、ボクが話すと手を挙げたのかもしれない。綺羅は隣で黙って二人の会話に耳を澄ましていただろうか。瑛二とヴァン、大和はレッスン中だろう。
愛おしい五人の仲間たち。HE★VENSとして居られるところが、間違いなく瑛一の安らげる場所だ。
災難、とシオンが最後に使った言葉をもう一度思い出す。あれは一体どういう意味なのか。白く美しい顔に浮かんだ悲しい微笑みは、この場所から連れ出してほしいと言っているように見えた。でもシオンはそれを受け入れなかった。明日も明後日もずっと一人、あの教会で誰のためでもない歌を歌い続けるのだろうか。
さっき別れたばかりなのに、今すぐあの声が聴きたい。
