――シオンくん、神様みたい!
浅い眠りの中で見る夢は、いつもその一言から始まる。
明らかに偶然だった。
足を怪我した友達の患部に触れた翌日、彼女は痛みが引いてきた気がすると言った。それはきっと治療によるもので、たまたまシオンが触れた日と回復のタイミングが重なっただけだ。あの日、誰が触れても彼女の足は快復に向かっていたに違いない。しかし彼女は――いや、『彼ら』はおかしかった。水道水と何が違うのか分からない水を聖水と呼んで有難がり、目に見えない『力』を信じ切っていた。
――いつものお水かけても全然良くならなかったんだよ。
――シオンくんには特別な力があるんだねえ。
――今度うちの爺さんの腰にも触れてやってくれないか。
どう考えても偶然に過ぎないのに、彼らはシオンには何らかの力が宿っていると信じて止まなかった。いや、彼らは縋る対象が欲しかっただけかもしれない。
その町は今暮らしている市街地よりもずっと田舎だった。両親がどうして彼らに引き込まれた(あるいは、自ら飛び込んでいった)のかはよく知らない。しかしその田舎町に引っ越した翌月には自宅に『聖水』が常備され、近所の小さな教会で行われる集会に両親は足繫く通った。
シオンも両親に連れられるまま集会に顔を出し、友達もできた。そこに集う子どもたちも、少なくとも表面上は、シオンのように聖水や何らかの力を怪しいと感じている者はいないようだった。大人も子どもも皆無垢だった。やけに値の張る水を定期購買するだけならまだ良い方で、中には『力の込められた壺』や『気の宿る石』を所持している者も少なくなかった。
夢の中の舞台が移り変わる。
その日、両親に連れられたのは、いつもの教会ではなかった。
見知らぬ大きな一軒家で手厚く出迎えられ、広い和室へ通される。自身が起こした交通事故の後遺症で歩行が困難になった初老の男性の足腰にどうか触れてほしい、と目を見てまっすぐ懇願されうろたえた。たまたま友達の怪我の具合が少し良くなったくらいで、どうしてシオンに力が宿っていると信じられるのか。
しかし良い機会だとも思った。これで改善の兆しが見られなければ、あぁ偶然だったのかと皆手のひらを返すだろう。シオンは力など欲しくないし、そもそもそんなものがあるわけがない。小さく頷き、なるべくそれらしい手付きで身体を撫でた。布団に横たわる男性は「ありがたいありがたい」と何度も繰り返し、それがシオンには恐ろしかった。いくら有難がっても、こんな行為で治るはずがない。
――二丁目の牧田さん、歩けるようになったって。
だから、母の言葉を聴いた瞬間、背筋が凍った。
いつも見るこの夢はだいたいシオンの主観で展開していくが、この瞬間は、まだ小学生だった自分自身の驚く顔がはっきりと浮かぶ。それだけ衝撃的な出来事だったのだ。
――そんなにすごい力を持っていて、どうしてお父さんとお母さんに言わなかったの。
――この力は仲間のために使わないといけないな。
両親の目の色が変わる瞬間をはっきりと見た。自分たちの息子が『仲間』の役に立てると疑わないまっすぐな瞳。
聞くところによると、歩行が困難だった牧田さんは、シオンに触れられたのを契機にずっと拒んでいたリハビリを始めたのだという。やはり、歩けるようになったのはシオンの力ではない。しかし人々は――牧田さん本人含め――シオンに力があると信じ、その力を『仲間』じゅうに吹聴して回った。
そのあたりの記憶は曖昧で、一体どれだけの人々に触れ、何が治り、何が治らなかったのか、もう覚えていない。
誰かに感謝されると素直に気持ちが良かった。両親が喜ぶ姿を見られるのも嬉しかった。ほんの一瞬、自分には本当に何らかの力があるのではないかと信じかけたときもあった。属していたその集団で両親は着実に力を持ち始め、風向きが悪い方に変わっていると気付いた頃にはもう遅かった。
――お父さんとお母さんは良くないことをしてしまったから、もう一緒に暮らせないの。
引き取られた親戚の家で、叔母はそれだけしか教えてくれなかった。息子に不思議な力があると嘘をついていたのがバレてしまったのだろうか。シオンのせいで両親は悪者になってしまったのだろうか。
叔母の家で暮らし始めた約半年後、突然両親がやって来た。夢の中でそのシーンは鮮明に描かれる。夢でなくてもあの日の出来事は、やけにリアルに描写できる。
両親はシオンを連れ戻しに来た。しかしそれは可愛い息子と暮らしたいわけではなく、力を持つ息子を取り返したい一心だった。洗脳されているといっても過言ではないほど狂ってしまった両親から、叔母はシオンを守ろうとしてくれた。玄関を通すまいとする叔母を父が突き飛ばす。
叔父が警察を呼んでくれてその場は丸く収まった。しかし叔母は全治数週間の怪我を負った。
――怪我したところをその子に触ってもらうといい。すぐに治るから。
――シオンは神の子として、私たちを選んで生まれてきたんだ。私たちは共犯だ!
警察に引き剥がされながら、両親は真顔で叔母にそう言った。あのときの父と母の顔は忘れられない。二人はまだシオンの力を信じ切っていた。一つも悪気ない顔をして、我が子を神の子と呼んだのだ。澄んだ瞳の奥は子どものようにあどけなく、どこまでも底がないようで恐ろしかった。
その後、親戚の家でも面倒を見られなくなったため、シオンは隣町の児童養護施設に預けられた。最後に叔母の見舞いに行ったとき、両親は詐欺罪等で捕まったと聞かされた。シオンの力を無償で与えるから、と声をかけていたらしい。
――シオンくん、私の足、ちょっと触ってみて。
病院のベッドで、叔母が微笑んで手招きした。ギプスで固定された足に触れてみる。その行為に意味も感情もなかった。
――お医者さんが一生懸命治療してくれているから、この足はきっと治るわ。シオンくんの力じゃない。でもみんな、そうやって何かを信じたいと思ってしまうのね。
窓の外を見やって叔母は笑った。それが血縁関係者と会った最後だった。
夢の舞台は変わり、それは子どもの泣き喚く声から始まる。
――全部お前のせいだ!
小さな手に胸倉を掴まれ揺さぶられる。シオンは抵抗できなかった。
少女の喚く内容はその日によって変わり、朝起きる頃には覚えていない。少女が振り上げた手が頬を叩く生々しい感覚が夢の中でもいつもリアルだ。しかし今日は、その感触がなかった。少女が振りかぶった手を誰かが掴んで止めている。見上げるとそれは、鳳瑛一と名乗った男だった。
鳳瑛一と出会ったあの日から、いつも見る夢は少し変わった。夢のどこかに彼が現れる。そしてシオンを様々な方法で救い出してくれるのだ。
――俺たちなら、お前が心安らげる場所になれる。
鳳瑛一が手を差し出す。彼の背後に広がる景色が変わる。あの日見た長崎の街並みだった。
傷一つないなめらかで大きな手を取り頷く。
その瞬間、夢から醒めた。
二段ベッドの下段で、相部屋の相手を起こさぬよう声を立てずに息を整える。夜が来なければいいのにとは考えない。考えても無駄だと分かっているから。今は少しでも安らかに眠れるように毎晩願うが、上手くいかなかった。フローリングに足をつけカーテンを細く開くと、外はまだ暗い。もう一度眠りにつかなければならない。
二段ベッドと戸棚との間に空いた隙間に身体を潜り込ませて膝を抱える。狭いところにいるとうるさい動悸が収まってくれる。それは決して心が安らぐわけではなく、暗くて狭いところに身を置くことで、自らを戒めているように感じるからだ。
うつらうつらとする中で、聴こえる声がある。神の子だ、悪魔だ、お前のせいだ――と、シオンを崇めたり蔑んだりする人々の声。歳月が経つにつれ薄らいでいるはずの記憶なのに、夢の中で何度も繰り返される。まるで忘れてはいけないと囁くように。
目を瞑り、眠らず、朝までやり過ごしたい。しかし身体は勝手に眠りへとシオンを誘う。せめてなるべく早くあの人が現れてくれるよう祈りながら、今日も心を身体に預け眠る。
「シオンくん」
外出と帰宅時間を報告すると、職員の男に呼び止められた。
「今日、お昼から基くんが話をしに来てくれるけど、本当に会わない?」
職員ルームに貼られたポスターに視線を移す。基くんというのはシオンより三つ年上の施設卒園者で、ここを出てからの現在の暮らしなどについて話しに来てくれるらしい。シオンは首を横に振った。
高校を卒業する年齢になると、この施設を出なければならない。大人として自立しなければならない。内向的なシオンが職員たちを心配させていることは分かっていた。しかし全く考える気になれないのだ。もう悪いことはしないし何も望まないから、ただ風を感じ鳥たちと歌うだけの暮らしを送れたらいいのに。
坂を上るように斜面を進むエレベーターに乗り込む。観光客らしき家族連れと乗り合わせ、一瞬階段を使おうか考えたが、自分の体力を考えると厳しそうだった。幸せそうな家族を見て心を痛めていたのは小学生の頃までで、最近では、自分には得られるはずのない幸福だと割り切って考えるようになった。少しでも羨ましいなどと考え始めると、あの日怪我をした叔母に両親が吐いた言葉を思い出し気分が悪くなる。
シオンには力などなかった。それどころか、結果的に周囲を不幸にしてしまう。病院のベッドで静かに微笑む叔母の顔を思い出すとぎゅっと心臓を押し潰されそうな気持ちになった。
高台から見下ろす街の風景に特別な変化はない。それが良かった。あの日鳳瑛一と眺めたままでいてくれる。二人で話した稲佐山やゆっくりと走る路面電車、印象的な造形の洋館が立ち並ぶさまをしばらく眺めた。
こうしていると、あの男の横顔が浮かんでくる。芸能界に身を置いているだけあって、身近にはいない整った顔立ちをしていた。眼鏡の奥の瞳は自信に満ち、引き結ばれた唇は話すときや笑うときにのみ緩む。歌ってくれ、とシオンに願うために動いた形の良い唇を思い出す。
鳳瑛一と過ごしたあの一日は、シオンの記憶の中で最も鮮やかなものとして残り続けるだろう。宝物のように何度も思い出し、抱えたまま生きていく。シオンの人生と鳳瑛一の人生は交わらない。交わってはならない。
人気のなくなった頃にエレベーターで下り、いつもの教会へと向かう。これが最近の日課だ。シオンが安らげる場所は二つに増えた。それが素直に嬉しい。
本堂の扉を少し開け礼拝の様子を伺う。今日は日曜で人が多い。重い扉をそっと閉め、庭の木陰に腰を下ろした。自然と鳥たちが集まってくる。太い木の幹に寄りかかった。歌おうとして、声が掠れていることに気が付いた。こういうときには歌は鳥たちに任せ、シオンは鼻歌程度に留めておく。
今日は気温が高く、日陰にいないとじっとり汗をかいてしまう。木々が太陽に照らされまだら模様の影を地面に描くのを眺めながら、鳳瑛一と話したのを思い出す。
あのとき聞いた「アイドル」なるものにはピンとこなかった。人々が神を語るのと同じような比喩だったが、彼は人間で、神ではなかった。それに神になどなりたくてなれるものではない。人間が『なる』ものではない。あの男は、少しおかしい。
「あ、あ――……」
掠れているのを確かめるように声を出す。やはりこれでは歌えない。
鳥たちの声が止み、耳を澄ますと蝉の声と、本堂から讃美歌を歌う声が聴こえてくる。何をきっかけにしたのか、肩や頭にとまった鳥たちが一斉に羽ばたく。
自分は外の世界に出たいのだろうか。空を自由に飛び回る鳥たちのようにと願っているのだろうか。そんなことはこれまでに一度もなかった。
「瑛一、ここ?」
えいいち、とたった四文字に、自分でも驚くほど反応を示してしまった。それを発する声は鈴を転がすように甘く、そしてくっきりと耳に届く。
「ああ、そうだ」
続いて滑らかな中低音。夢の中で何度も聴いたあの響きと同じだった。
いるのか、そこに。もう夢の中でしか会えないはずだった彼の者が。すっと立ち上がり、シオンは正面入り口から死角になる位置に身を隠した。夢に見る程もう一度会いたいと願っていた。しかし合わせる顔がない。
太い木の幹からそっと顔を覗かせると、教会の入り口にあの日の男が立っていた。先ほどの愛らしい声の主だろう、日傘を差した見知らぬ少年を連れている。珊瑚色の髪をしたその少年がこちらを指差す。すぐに見つかってしまった。
「天草シオン」
歩み寄り、名前を呼ぶ響きは愛の告白のように胸を焦がす。
――なぜ。
彼がここにいるのか。名前を呼ぶのか。分からない。身を隠しているつもりだった木の影から離れる。
――なぜ。
自分は歩いているのか。彼の元に向かって。
「久しぶりだな、シオン」
「……何故」
「言っただろう、お前が欲しいと」
「世迷言を」
「少し声が掠れているな」
男の声はあの日と変わらず厚く深い。濃紺のシャツは彼の身体に沿って作られているのが一目で分かり、少しサイズの大きな衣服を身に付けている自分が情けなく感じられた。隣の少年の値踏みするような視線が痛い。
「紹介しよう。仲間のナギだ」
「はじめまして」
ナギと呼ばれた少年が手を差し出して首を軽く傾ける。これはただの挨拶の握手だと分かったから、弱々しく握り返した。生命力を感じさせる柔らかな手。
「ほそっ……」
握手を交わすと大きな瞳がさらに見開かれる。全てが満ち足りた明るい瞳の色に畏怖を覚えた。彼は――ナギは、シオンと共に暮らす子どもたちとは違う。
「ボクは帝ナギ。よろしく」
「……天草シオンだ」
気後れし、顔をそらしてしまう。帝ナギと名乗った少年は物怖じせずシオンの顔を下から覗き込んだ。この世の明るい部分しか知らないような眩しさが全身から溢れ出ている。むせ返るほどの幸福の香り。
迎えに来た、と鳳瑛一は言った。
「は――?」
「あ、真っ赤になった」
「違う……我は……」
続く言葉が出て来なかった。鳳瑛一の言葉の意味は理解した。だから勝手に顔が赤らんだ。こんな風に誰かに言われたことがなかったから。
「あのあと、お前について調べさせてもらった」
「……天草の、何を」
隠しているわけではないが、誰かに話したことがない過去はたくさんある。今暮らしている施設の職員たちも、シオンが過去に神の子だと祀り立てられていた時期があるとは知らない。鳳瑛一はどこまで知っているのだろうか。彼は必要な部分だけを取り上げた。
「高校を卒業すれば今の家を出なければならないのだろう。どこか行く当てはあるのか? それとも、一人で生活する術が?」
それは答えを見越した問いで、シオンは言葉に詰まった。沈黙を貫いていると、本堂からぞろぞろ出てきた人々を横目に「礼拝が終わったようだな」と鳳瑛一が呟く。
鳳瑛一とナギという少年は本堂へ足を向けた。シスターに会釈をし、事無げに会話を始める。赤の他人と笑顔で会話ができる鳳瑛一を大人だと改めて感じた。シオンには、そんなことはできない。
少年はステンドグラスを興味深そうに見学したあと、シオンの隣で手持ち無沙汰にしていた。腰掛けて良いと長椅子を指すと、隣に座るよう誘われる。間隔を空け腰を下ろした。
「これあげる」
と、少年は小さな鞄から取り出したものを差し出した。
「のど飴。はちみつ入ってて喉にいいんだ」
「……要らぬ」
「なんで? いいから食べなって――あ、ここで食べるのはダメか。とにかく、あとで舐めて」
茶色の包みを膝に乗せられる。これ以上固辞する方がかえって億劫に感じられ、シオンはそれを手の中で転がした。人から何かを受け取る行為自体が久しかった。何か彼に返さなければならないだろうか。
「天草は、何も持っておらぬ」
内心慌ててそう言うと、ナギは一瞬呆気にとられた表情をし、すぐに笑い出す。
「いいよそんなの」
「しかし」
「のど飴一個だよ? しかもそれ、瑛一にもらったやつだし」
「では彼の者に……」
「大丈夫だって」
飴玉一つだとナギは言うが、ではそれすら持っていない自分はどうなのだ。持つ者と持たざる者の差は大きく、生まれながらに決まっている部分が大いにある。シオンはそれを痛いほど感じてきた。豊かな者を羨んだり憎んでなどいない。ただ引け目を感じる気持ちは自分でも止められない。
ナギはシオンとの距離を詰めると、まっすぐ聖堂の正面を見つめる。零れんばかりの大きな瞳。光が注いでいるわけでもないのに燦然と輝く瞳。恐れを知らず、自信に満ち溢れた瞳。彼が首を傾けると、目と目が合った。
「歌、聴かせてよ」
「今は叶わぬ」
「わかってる。だから今度でいいよ。瑛一が、シオンの歌が素晴らしかったって絶賛してたからさ。ナギも聴いてみたくて、ついてきちゃった」
「……あ、天草は…………」
突然の情報量に脳の処理が追いつかない。何か返事をしなくては――と返した言葉は無意味だった。ナギの視線が痛くて俯く。
今度、とナギは言った。
今度とはいつを指しているのか。明日? ならばこののど飴の力を借りて早急に喉を治さねばならない。しかし自信がない。己の治癒力の低さを憂いた。
素晴らしかった――と、言った。シオンの歌が。
鳳瑛一の言葉を信じ、シオンの歌声を聴きにナギはわざわざ此処まで来たというのに、その望みに応えられなかった。勝手な期待はしないでほしい。しかし、彼らが暮らす東京とこの土地との距離を考えると、素直に申し訳ない気持ちも生まれるのだった。
「……済まぬ」
「え、なんで謝るの?」
「天草が喉を傷めている故に」
「そんなのシオンのせいじゃないじゃん」
「天草の体調管理は天草の役目だ」
「いやまぁ、それはそうかもしれないけど……」
「歌う」
すっと立ち上がると、「えっ!?」とナギがそれに続いた。服の上から腕を掴まれる。
「いいよ。悪化するって。ナギは、コンディションが一番いいときにシオンの歌が聴きたいから」
「明日には恐らく治らぬ」
「もっと先でいいんだって。今度って言ってるのに」
今度なんて馴染みのない言葉だ。未来の約束をする家族も友もいない。それは寂しいことなのかもしれないと、ナギの言葉に気付かされる。
「今度とはいつを指しているのだ」
「今度は今度だよ。喉が治ってから。だってシオン、ボクたちと一緒に来るでしょ?」
「こら、ナギ」
少し離れたところから瑛一が咎める。
「だって~、瑛一だってシオンを連れて帰りたいって言ってたじゃん」
「シオンの返事をまだ聞いていないだろう」
「だから今こうやって訊いてるんじゃん。ねっ、シオン~?」
「シオンが困惑しているぞ」
「え~? そうかな~?」
腕を掴んだまま上目遣いで甘えてくる。返事を求められたじろいだ。彼らはシオンの世界にこれまでいなかった異分子で恐ろしい。言葉は正しく通じているだろうか。
「…………我は」
心の奥をじっと見つめるようなナギの視線に耐えられず目をそらした。
どこかの窓から迷い込んできた小鳥が一羽、シオンを心配するように肩にとまった。ナギはその姿を見て微笑む。幼気で愛らしい笑顔。
「仲良しなんだね」
「このあたりの鳥たちは、何故か我に群がるのだ」
「ナギも仲良くなれるかな」
シオンは人差し指を曲げて小鳥を誘導する。手を伸ばすと、ナギも倣って手を差し出した。半袖から覗く腕は日に焼けておらず、汗をかいているわけではないのに瑞々しい。
小鳥がナギの指に移る。羽根を小刻みに動かすと、「わっ」とナギは身じろいだ。触れて初めて分かる小鳥の生命の重み、温度、感触。不慣れな手付きに驚いたのか、小鳥はあっという間に窓の外に飛び出してしまった。
「ごめん、逃げちゃった」
「構わぬ。鳥たちの住処は天草の元ではない」
「ナギのこと怖かったのかな」
「そうやもしれぬ。知らぬ環境は恐ろしいものだ」
「シオンも同じ?」
流れるように尋ねられ狼狽えた。
「知らない場所に行くのが怖いの?」
小鳥が飛び去った窓に視線を向ける。もうそこには何もいない。
「わかるよ。東京って遠いし、ちょっと怖いよね」
県外に出た経験すらないシオンは、その遠さも恐ろしさも知らない。
それに、恐怖は近いところにも多く潜んでいる。人間の感情、時の流れ、漂うのみでは生きていけぬこと。
「ねえ、シオンは歌うの好き?」
「好き嫌いを考えたことなどない。……が、嫌いではない」
「じゃあ好きってことだ」
シオンは喉仏のあたりに右手で触れる。そして右手に左手を重ねる。
「天草には……この声しかないのだ」
鳳瑛一が褒めてくれた。この声のおかげで出会えた。今度、とナギは未来の約束をしてくれる。この声があるから。
「ナギは、声だけなんてことないと思うけど」
首に指を巻き付ける。苦しいので力は入れない。
「会ったばっかりだけど、ナギはシオンのことかわいいって思うよ」
「かわっ……?」
耳馴染みのない表現が自分に向けられているものだと信じ難かった。
「天草は幼子ではないのだ」
「でもナギはかわいいのがいいもん。シオンだってかわいくていいと思う。ボクたちのグループ、キュート系少ないし」
「天草には分からぬ」
「シオンは鳥とか見てかわいいって思ったことない?」
「鳥はともかく、そなたが愛らしいことは分かる」
当然、と己の長所を肯定する強さは輝いて見える。
「ナギは超スーパーウルトラキュートなアイドルだもん。かわいいのは当たり前。シオンにも伝わったみたいでよかった」
ナギは首に宛がったシオンの両手をそっと下ろさせ、握りしめる。こんなにも彼が可愛らしく見えるのは、顔の造形が美しいだけが理由ではない。内側から発光しているような眩しさ。その輝きはきっと彼の自信や重ねてきた努力に裏打ちされているのだろう。シオンとは違う。だから「かわいい」という言葉で同じ枠組みに入れないでほしい。
「でも、シオンもかわいいよ」
口角を上げ、甘ったるくナギが笑う。頬どころか首や耳まで赤くなっているのではないかと思う程、首から上が丸ごと熱くなった。
「ね、瑛一?」
振り返った鳳瑛一に、ナギが手を繋いだまま訊いた。
「ナギは超かわいいでしょ~?」
「もちろんだ」
突然の問いかけを不審がる様子もない即答だった。
「シオンもかわいいよね?」
「ああ」
目を細めて微笑む。眼鏡のレンズが鋭く光った。
「ナギもシオンも、とても可愛い」
怖い。
何も知らないのに、平然と他人を褒める彼らが。
笑顔を振りまくこと。東京からわざわざやって来ること。気安く手を差し伸べること。赤の他人に何かを差し出せること。シオンと彼らとでは違いがあり過ぎる。動機や考えの読めない人間は恐ろしい。光り輝く彼らを見ていると、瞳が焼かれてしまいそうだ。
叶うのならば、自分もこんな人間になりたかった。
でも高望みに過ぎない。だから怖い。
これ以上、世界の明るさを教えてほしくない。
シオンが住んでいる施設に連れて行ってほしいと言われ、断れなかった。
道中、太陽から身を守る傘の下でナギに見上げられ「シオンは日焼けしないの?」と訊かれた。首を縦に振る。特に予防はしないが、夏でも冬でもシオンの肌の色は変わらない。体質なのだろう。
「……シオンくん?」
建物が見えてきた頃、施設の門から出てきた青年と目が合い名前を呼ばれた。
そういえば今日話をしに来ると言っていたような。数年間共に暮らしていたが、半袖シャツにネクタイを締めた大人の装いに、全く知らない人のようだと感じた。
「久しぶり。元気だった? ええと……俺の見間違いじゃなかったら、一緒にいるのってHE★VENSの……」
シオンが不必要な会話を好まないと分かっていて、彼は返答を待たず言葉を継いだ。視線を横にスライドさせる。彼らを知っているらしい。「彼は?」と鳳瑛一が訊いた。
「同じ場所で数年前まで暮らしていた者だ」
「なるほど。……はじめまして、鳳瑛一だ」
シオンとの関係性を把握すると、鳳瑛一はにこやかに一歩前に出た。
「やっぱり本物だ。基といいます。どうしてシオンくんと?」
「彼をスカウトに」
「え⁉ それって……アイドルの?」
「ああ。もしかして、君は彼の歌を聴いたことがないのか」
「……はい。そっか、だから今日、シオンくんがいなかったのか」
鳳瑛一の肩越しに視線を送られ目をそらす。違う。そうじゃない。しかし否定すると、じゃあどうしてと問われるのが分かっていたから何も言わなかった。
彼とは三年ほど共に過ごしただろうか。ここで暮らしていた頃から、明るく頭も良く、特に年下から慕われる人間だった。親しく話す間柄ではないが、決して悪い人ではない。だから「お節介かもしれないけど……」と切り出されたとき、悪意はないのだと分かった。しかし、シオンはその気遣いを有難いと感じ取れない。
「ここに来る前のこと、ちゃんと話した? 俺たちはよく知らないし、それでいいと思ってるけど……アイドルになるんだったら、しっかり話しておいた方がいいんじゃないかな」
「そなたには関係のないことだ」
極めて冷淡な声色に、隣の日傘がびくりと揺れた。ナギが顔を覗かせシオンを見上げる。その驚いた瞳の色は抑止にはならなかった。
「もう誰も……天草に構うな」
「ちょっと、シオン!」
踵を返し走り出す。待ってよとナギの声と足音が聴こえた。走力にも持久力にも自信がない。すぐに追いつかれると分かっていて、それでも止まる気にはなれなかった。
明るさを知らず止まったように生きていたいだけなのに、明るいところへ連れて行かれると勘違いしそうになる。自分も彼らのように輝けるのではないかと。そんなこと、一度道を違えた自分にはできるはずがないのに。
「待ってってば!」
小さな手に腕を掴まれる。振りほどき向き合うと、ナギはもう日傘を差していなかった。大きな瞳に睨むように見上げられ、シオンも威嚇するように、そして自分を守るために目付きを鋭くさせた。
「ちょっと身勝手すぎるでしょ」
「勝手はどちらだ。こんなところまで来て」
「来るのはナギたちの自由でしょ? 話の途中でキレてどっか行くとかありえないし……声、大丈夫?」
シオンにもう逃げ出すつもりがないと分かると、ナギは少し表情を柔らかくさせた。心配されてようやく、自分の声がこれまで以上に掠れてみっともなくなっていると気が付く。
「シオンって怒ると怖いんだね」
「自分ではよく分からぬ」
「普段はあんまり怒らないの?」
「ああ、滅多にない」
感情の波を乱す出来事は、シオンの日常にほとんど起こり得ない。
「まだ笑った顔も見てないのに」
ナギはシオンを見上げ、直射日光を受けて眩しそうに目を細めた。日傘はどうしたのだろう。日焼けを気にしていたのに。自分のせいで――と思うと居た堪れなくなり、ナギの影になるように立って両手で庇を作ってやる。
「なにそれ」
「これで少しは防御できるだろう」
「……シオンって優しいね」
ナギの額にかざした両手を握られる。
ナギの方がずっと優しい。喉に効く飴玉をくれた。かわいいと言ってくれた。日傘も持たず追いかけてくれた。きっと、自身が満たされているから他者を重んじる心が生まれるのだろう。だからナギはシオンに優しく、慈しむような瞳で見つめることができるのだ。こんな優しいひとは、傷付かず、幸福でいるべきだ。
「天草は――」
走ってくる足音が聴こえる。ナギの日傘を持った鳳瑛一だった。さっきの人は、と振り返りナギが訊いた。瑛一の手から受け取った傘を開く。シオンは半歩後ずさった。
「シオンに、悪かったと伝えてくれと」
「……否。天草が悪かったのだ」
「彼の、ちゃんと話をした方が良いという意見は変わらないようだったが」
シオン、と改めて名前を呼ばれる。他の誰かでなく、鳳瑛一が呼ぶ自分の名前にはなぜか甘美な響きが感じられる。
「良ければ話を聞かせてくれないか。俺は――俺たちは、本気でお前を仲間に迎えたいと思っている」
日傘の下でナギは同調しない。強い瞳でじっとシオンを見上げるだけだ。それは、嫌なら断ってもいいと伝えているように見えた。こくりと頷くと、ナギは空いた手でシオンの手のひらを握って微笑んだ。
あの日瑛一と行った喫茶店で再び向かい合った。深紅のベロアのソファ席。ナギはシオンの隣に座った。ホットコーヒーが二つとアイスカフェラテが運ばれてきてから、先に言葉を発したのは瑛一だった。
「お前のことを調べたと言っただろう。それは、今の施設を出なければならないという事情だけではない」
瑛一はミルクと砂糖の入ったカゴをシオンに勧める。シオンはミルクを二つ入れ、スプーンでかき混ぜた。冷えた店内で、背中に一筋汗が伝うのが分かる。
「ご両親のことも。しかし俺が知っているのは事実に過ぎない。シオンの口から、話してほしい」
「……ならば、そなたの知っていることが全てだ」
コーヒーに口をつけ、熱くてすぐにカップを離した。
「天草の父と母は罪を働いた。そこにどのような行いがあったのか、天草は知らぬ。善意であったのか悪意であったのかさえ」
しかしシオンは決して無関係ではない。被害者はどれもシオンの手に触れられたあと、その力を信じ、泥沼に嵌まっていったのだ。瑛一はきっとそれを知らないのだろう。話すべきか話さぬべきか。迷うのは、知られたくないからだ。知られたら軽蔑されるかもしれないから。自分の中に、他者から悪く思われたくないと願う感情があるのだと、そのとき初めて知った。しかしこの優しいひとたちに真実を聴かせるべきではないかとも思う。
喉に引っ掛かりを覚え咳込むと、無理して話さなくていいと瑛一が声を掛ける。
「……神の子、と」
囁くように口にした。掠れて声にならなければこれ以上話すまいと決めていた。しかしシオンの声は二人に届いたようだ。ナギが不思議そうに繰り返す。
「神の子……?」
「我はかつて、そう呼ばれていたのだ」
「どうして?」
「この手に力があると」
すっと挙げた右手の甲を左手で撫でる。人々がこの手に病や怪我を直す力があると信じていたのが今でも不思議だ。身近に縋る神が欲しかったにしても、あんな年端もいかない時分のシオンに。
そう呼ばれ始めたきっかけやその後の出来事をかいつまんで話す。毎日夢に見ているから、物語を読むように淡々と語ることができた。まるで我が事ではないように。ナギは怪訝な表情を隠さず「ちょっと考えたら変だってわかるのにね」と頬杖をついて言った。
「天草の力とやらが信じられたせいで、父と母はその集団内での地位を上げたのだ。搾取される側から搾取する側に変わったのだろう」
コーヒーではなくお冷で喉を潤す。相槌を打ったり何らかの反応を示すナギとは対照的に、瑛一は黙って頷くのみだった。何を考え、シオンをどう思っているかを聞きたい。いや、でも知りたくない。
シオンは、自分が珍しく饒舌になっていると気が付かなかった。
「我に斯様な力はない。しかし天草の存在が多くの人々を不幸にしたことは事実だ」
自身の怪我に触れさせた叔母の微笑みを思い出す。
そして、最初に入った養護施設での出来事を。
そこには、最近入所したらしい、同い年の少女がいた。彼女はシオンを見るなりみるみるうちに顔色を悪くし、シオンを指差し激昂した。
――全部お前のせいだ!
胸倉を掴んでのしかかられ、わけが分からなかった。ありったけの力で揺さぶられ、職員に引き離されるまで互いに身体の震えが止まらなかった。
後に聞くと、彼女はシオンが触れた対象の一人だったらしい。彼女の両親もまた神の子の力を信じ、縋り、そして結果として、子どもを育てられる状態ではなくなり彼女はここに預けられた。彼女の家庭を引き裂いたのはシオンと両親だった。
彼女は自分に触れたシオンを覚えていたが、シオンは彼女を覚えていなかった。あるはずもない力を行使する多勢の一人に過ぎなかった。謝罪すら叶わず、その後すぐにシオンは別の施設へと移った。
「シオンの両親は今どこに?」
「知らぬ。親戚の家に預けられた際に、一度連れ戻そうと来たことがあるがそれきりだ。気にしたこともない」
両親から不当な扱いを受けたことはない。シオンが神の子と呼ばれるまでは真っ当に育ててもらったし、それについては感謝もしている。しかし両親を思い出そうとすると、どうしても浮かんでくるのはあの日の出来事だ。
――怪我したところをその子に触ってもらうといい。すぐに治るから。
――シオンは神の子として、私たちを選んで生まれてきたんだ。私たちは共犯だ!
最後に見た両親の表情は忘れられない。自分たちは正しいのだと信じて疑わない、確信の色が浮かんでいた。両親はもう元に戻れないだろう。そして、神の子でないシオンは彼らに必要ない。
両親を糾弾するつもりはない。彼らの言い分が全て間違っていたとも思えない。
「すまなかったな。喉を痛めているのに色々と話させてしまった」
瑛一はぬるくなったコーヒーに口をつけた。ナギのアイスカフェラテは半分まで減り、氷が溶けてだんだん薄くなってきている。
「構わぬ」
シオンは目を伏せた。話を聞いて瑛一とナギがどう感じたのか分からない。だから二人の言葉を聞く前に、自分から話し始めた。
「そなたたちはとても優しい。天草はもう、優しい人たちを悲しませたくはないのだ」
家族をめちゃくちゃにされ、シオンの胸倉を掴んだ少女を思い出す。薄情なシオンはもう彼女の顔を思い出せない。しかし彼女は一生シオンを忘れないだろう。
だから、この罪を背負い、忘れず生きることが唯一の償いなのだ。そして自分はもう誰かと深く心を通わせ合うべきではない。
鳳瑛一が言う『アイドル』が何者なのかよく分からなかったが、単に歌を歌うだけではないと理解した。アイドルの使命はまるで神の如く、輝きを放ち人々に希望を与えること。ならば瑛一やナギにとって天職のはずだ。だがシオンも共にと言われると、できる気がしなかった。何より、新たな世界へと足を踏み入れ、そこに新たな厄災をもたらすのではと考えると恐ろしい。
鳥たちのように自由に飛んで行きたいのか?
答えは――否だ。
シオンの足首には常に枷が掛けられている。それは自分自身が課したものに過ぎないと分かっているけれど。
「天草は、そなたたちとは行かぬ」
向き合った瑛一が眉尻を下げたことを嬉しく感じてしまった自分は卑しい。
でもさ、とナギが唇を尖らせた。
「シオンは悪くないじゃん」
「……子は親を選び生まれてきたのだと。だから我らは共犯なのだ」
「そんなことナギは思わない。それってシオンのパパとママが言ったの? シオンも本気でそんな風に思ってるの?」
訴えかけるような視線がのぼってきて、シオンは黙って目を伏せた。
両親の元を選び生まれてきたという、彼らの言葉を疑ったことはなかった。神の子だと持て囃されようと、両親が誤った道に進もうと、子どものシオンにはそれを止められず、逃げ出すこともできなかった。黙って見ているだけ。従っているだけ。そしてその責任は全て、彼らを両親にと選び生まれてきたシオンにあると思い込んでいた。
けれど、そうではないのか?
どこかでこの結末を変えることはできたのか。
だとしても、もう全て遅い。
「ねえシオン」
「ナギ」
木々の合間を縫って差し込む木漏れ日のように、柔らかな声で瑛一がナギを制した。
「それくらいにしておけ」
「でも……」
「シオンが決めたことだ。俺たちに口出しする権利はない」
「でもシオン、本当は」
横を向き、目を合わせるとナギの言葉はぴたりと止まった。自分がどんな顔をしてナギと見つめ合っているのか、シオンには想像できない。ナギは大きな瞳をさらに見開き、納得できないと言わんばかりに、瞳を潤ませ頬を赤くした。
小さく形の良い頭にそっと手で触れる。頭を撫でながら願う。この清らかな少年に数多の幸福が訪れるように。
シオン、と名前を呼ばれ、鳳瑛一と向かい合う。
「またここに来ても良いだろうか」
「そなたがここを訪れることに我の許しは要らぬ」
「お前に会いに来たいんだ、シオン」
「何度来ようと答えは変わらぬ。そなたの望む返事はできぬ」
「それでも会いたいと、歌をまた聴きたいと思う気持ちは変わらない」
何故、と訊こうにも訊けない。
彼らと共に在れたらと願う自分が心の奥底に確かにいる。
その都合の良い妄想を、頭を打ち振りかき消した。酷使した喉が限界に近付いていた。咳が出るのを我慢し、俯き唇を結ぶ。目蓋が熱く、涙がこみ上げる感覚があった。そんな姿を見られたくない。立ち上がり、逃げるように店から飛び出した。
これで良かった。間違っていない。輝きを纏う者たちと共に在りたいなどと願ってはいけない。自由は望まない。永久にいられるわけがないと分かっているのに、シオンは今の暮らしから抜け出せない。
吸い込む風が喉に絡まり咳が出る。歩調をゆるめ振り返る。振り返る前に、僅かな期待を抱いてしまった。追いかけてくれたらと。しかしなだらかな坂には自分ひとりの影が伸びている。なぜ落胆しているのか。もし追いかけて来られても、返事は変わらないのに。
店を出て歩きながら、二人は何を話すだろう。気にするべきではないのに気になる。彼らが見るもの、聴くもの、話すこと、経験すること。それは一歩道を違えば自分もこの先共に得られるものだったかもしれない。
教会の聖堂の長椅子の一番後ろに腰掛ける。シオンの行く場所はここくらいしかない。人気がない聖堂はがらんと静かで、窓ガラス越しに差し込む光に埃が舞うのが見えた。
ポケットに入れていた飴玉を取り出し、封を切って口に含む。蜂蜜の甘さの中に、薬のような独特な風味が混ざっている。
自分で選んだ結果なのに、なぜこんなにも落胆しているのか。
連れて行ってほしいと願えば、瑛一もナギもそれを叶えてくれた。拒んだのは他の誰でもなく自分自身だ。輝く外の世界に触れることが恐ろしかった。そこにいる優しい人々を傷付けてしまうことも。
いつものように鳥たちが集う。鳴き声を奏で、長椅子で両足を抱え丸くなったシオンの頭上や肩や爪先にとまった。
自分はただ、鳥たちが羽根を休める止まり木でしかない。
この先一生――?
それで良いわけがない。
「近寄るな!」
膝を抱えた両手を大きく振って鳥たちを散らした。彼らは驚いた様子で一斉にシオンから離れ、それぞれ飛び去っていった。
喉がさらに痛み、咽るように咳込む。誰もシオンの心配をしない。これまではそれが心地良いはずだった。でも今は、口内に含んだ甘さが恋しい。なくなってほしくない。手をもう一度握ってほしい。名前を呼んでほしい。
頬に熱い感覚が宿り、伝う涙に気が付いた。
他者の温もりに触れると、その温度を知る前には戻れない。
膝に顔を埋めて啜り泣き、じっと身体を固くした。目を閉じる。
このままここで眠るように落ち、次にふと目を覚ましたとき、何十年も先の未来が広がっていれば良いのに。それまでの日々を一歩ずつ着実に踏みしめることがシオンにはできそうにない。
「シオン」
幻聴かと思った。
しかし振り返ると、聖堂の入り口でナギが黒い日傘を片手に息を切らしている。涙でぼやけて表情がよく見えない。その後ろで瑛一もこちらを見ているのが分かった。
ナギが駆けてくる。夢かもしれない。名前を呼んでほしいと願ったから。
「なんで泣いてるの」
細い指が涙を拭う。
言葉を絞り出そうとしたが、声が掠れてまともな音にならない。シオンは自分の無力さを感じ、言葉を失った。
ナギは困ったように微笑んだ。
「ボクたち、やっぱり一緒にいようよ」
膝を抱く手をそっと取られる。瑛一の手だった。見上げると、眼鏡の奥の瞳を細め頷く。声が出せず、シオンも黙って首を縦に振り返事をした。
彼らと共に在りたい。自分の足で立ちたい。流れゆくときを黙って見ているのは嫌だ。己に課している呪縛から飛び立ちたい。贖われたい。
ナギは精一杯腕を広げシオンを抱きしめた。耳もとで「何故」と問うと、「シオンが一人で泣いてる気がしたから」と答えた。堪えきれず抱きしめ返す。
閉じた小さな世界しか知らないから、外の世界はやはり怖い。しかし一度見つけた光を見ないふりする方が余程怖かった。
「シオンは人を不幸にしないよ」
強く言い切られ、涙があふれる。
「まだシオンのことよく知らないけど、でも、お別れして寂しいって思った。もうシオンと会えないって思ったらいやだった。シオンも同じ気持ちでしょ? こうしてもう一度会えて、抱きしめたら受け入れてくれて、ボクは嬉しい。シオンのおかげで、嬉しいんだよ」
「……我の、おかげで……?」
「うん。ボクたちはシオンのせいで不幸になんてならない。幸せになるんだ。シオンも一緒に、幸せになろう。一緒にいようよ」
巨大な光に飲み込まれそうだ。ナギが放つ、嘘偽りのないまっすぐな煌めき。それを眩しいと思った。羨ましいと思った。自分もこうなりたい、と初めて思った。
シオン、と呼ばれ顔を上げる。聖堂の入り口を背にした瑛一は、後光が射しているように見えた。輪郭がぼやける。シオンを見初め、道を示し、導き、手を差し伸べる。その手を取ったとき、世界に満ちた鮮やかな光が弾けるような感覚を覚えた。この手を信じたい。自分も、誰かにとっての光となれるだろうか。
「俺たちの作る音楽にシオンも加わってほしい。そして、お前が輝ける場所に、俺が連れて行ってやろう。だから共に来てほしい」
彼らが戻ってきてくれたときに感じた安堵と、頬を流れた涙が本物だった。
「……天草の心は……そなたと同じだ」
鳥たちのように、どこへでも自由に飛んで行きたいのか。
あぁそうだ。恐ろしく強い光に目が眩もうとも、初めて自分を見つけ歌声を求めてくれた彼らと共に在りたい。
そして幸福を共に知りたい。
力を持たないこの手ではなく、歌声で、闇を裂いて進むのだ。
