いつからだろう、父のステージを見て胸が躍らなくなったのは。
「僕のお父さん――」
クラスメイトの声が聴こえる。梅雨入りはまだなのにじめじめした空気が漂い、小雨が降ったり止んだりを繰り返す六月の五時間目だった。教室にじっとり垂れ込めるのは雨の気配だけではなく、後ろに並んだ保護者たちの緊張と期待が入り交じった眼差しだ。
学校や校内行事は基本的に全部好きだが、年に二回行われる授業参観は憂うつだった。五年生になって初めての参観日の授業は作文発表。テーマは『家族について』だった。瑛一は母親と弟との暮らしを、既定の枚数におさめて書いた。
担任の教師に当てられた数名が作文を読み上げる。自分が指名されるわけがないと分かっているから、瑛一はその一時間、背筋を伸ばしてクラスメイトの発表に耳を傾ける。共に暮らしていない父親はもちろん、元ピアニストの母も授業参観や懇談会の類には参加しない。時折刺さるように感じる視線も、「あれがレイジング鳳の……」と噂される声も、気付かないふりをしてかわし続けてきた。
自分は鳳瑛一という人間であると同時に『伝説のアイドル・レイジング鳳の息子』なのだ。誰にでも分け隔てなく親切に接する。授業中はおしゃべりをせず、自学を怠らず、両親に恥ずかしくない成績を維持する。どれも瑛一にとっては難しくない。教師も周りの大人たちも、遠巻きにしながら褒めてくれる。その言葉はいつも「さすがレイジング鳳の息子さん」だけど――。
雨の音が強くなった。窓際の席からグラウンドを見下ろし、すぐ視線を戻す。作文を読み上げる声が雨音に溶けるようで心地良かった。お父さん、お母さんと遊びに行った話。怒られた話。日常の些細な話。同い年の子どもが話すことなのに、異世界の出来事のように聴こえるから不思議だ。作文自体に疑問を抱いたわけではなく、ただ、そのありふれた日常に共感できなかった。
ふいに涙が出そうになる。
黒板へと視線をずらす。家族、と書かれた文字がぼやけて見えた。きっと涙のせいだけではない。帰ったら、眼鏡を作りたいと言ってみよう。母は二つ返事でそうしなさいと言ってくれるだろう。
「おかえりなさい」
帰宅する頃には雨はあがっていて、母と弟の瑛二は庭に出ていた。瑛二は昨年から花壇の手入れを手伝っていて、最近は自分用に小さな区画を作ってもらい花の世話をしているらしい。幼い弟のまるい頭をそっと撫でて「ただいま」と微笑んだ。
「今日ね、アサガオの種まきしたんだよ」
「お、そうなのか」
「うん。知ってる? アサガオって、朝にお花が咲くからアサガオっていうんだよ。明日から毎日早起きするんだ」
無邪気な弟に、まだ咲かないよと母が困った顔で笑う。瑛二は「でも早起きする」と意気揚々と宣言し、兄の手のひらをぎゅっと掴んで花壇へ誘導する。ひらがなで名前の書かれたプレートが刺さった地面にはふかふかと土が敷き詰められていた。まだ芽も出ていないまっさらな一面の土を指しながら「ここ!」と得意げに言う姿がたまらなく愛おしい。
「咲くのが楽しみだな」
「うん! お兄ちゃんにも見せてあげるね」
「あぁ、ありがとう」
母は二人の様子を見て笑うばかりで、参観について触れようとはしなかった。それでいい。どうだったかと訊かれても上手に答える自信がないから。しばらくしてから、先に屋敷に帰ろうと踵を返すと「そういえば」と思い出したように声をかけられる。
「お父さんから瑛一宛に小包が届いていたわ。お部屋に置いてあるから、確認してね」
「……うん」
「お兄ちゃんだけ? 俺には?」
何も知らない弟の声を背中で聴く。父親――正確には父の事務所から月に二回届く荷物は瑛一への課題だ。楽譜と仮歌の入ったCD、ダンスレッスン用のDVDなど。そして週末にはボイストレーニングや舞踊の講師がやって来る。レッスンは瑛一自身の希望でもあるし、同級生たちがスイミングやピアノの習い事をするのと同じようなものだから、毎週わざわざ東京から出向いてくる講師に疑問を抱いたことはなかった。
部屋に戻り、両手で抱えられるサイズの小包を無造作にベッドに放る。CDが箱の中でかたりと音をたてる。締め切ったレースのカーテンを開いてバルコニーへ出た。
手すりに手をかけ見上げると、二階の部屋からは空がずっと遠い。夕暮れのオレンジをゆっくり飲み込むような淡い藍をぼんやり眺めた。まだほんのり明るい空に星が瞬く。
年に一度、父親に顔を見せるために訪れる東京の空はこんな風ではなかった。
視界には必ず高層ビル群が映り、その先は闇だ。都会では空に浮かぶ星より、人間が使う灯りが遥かに強くきらめく。
いつからだろう、父のステージを見て胸が躍らなくなったのは。
厳しい父は恐ろしくもあったが、今よりもっと幼い頃は純粋に憧れの対象だった。ライブ映像は全部見たし、父がリリースしたCDも一枚残らず聴き込んだ。力強い意志を秘めた歌声、他を圧倒する挑戦的な表情に、何かを訴えかけるパフォーマンス。レイジング鳳の存在は、幼い瑛一に強い刺激とアイドルへの憧憬を刷り込んだ。
父のようなアイドルになりたい、と明確に夢を抱いたのはもう何年も前のことだ。その頃にはすでに父が選んだ講師たちのレッスンを受けていた。ボイストレーニングとダンスに加え、基礎を学ぶためのピアノ、ヴァイオリン、バレエのレッスンも受けていて、それは今考えても苦しいものではなかった。父のようなアイドルに近付くためなのだ。
それなら――いつから、俺は。
ひろい空に手を伸ばす。星が鮮明に見えないのは低下してきた視力だけのせいではない。あまりに遠すぎるから。
父のようなアイドルになるのが夢だった。父はその夢を応援してくれていると思っていた。もし瑛一が他の夢を抱けば、同じように背中を押してくれると信じたかった。
けれどそれは違う。瑛一の思い描く夢と父の企みがたまたま一致している、それだけなのだ。今や「父のようなアイドル」という目標は義務として背後に忍び寄る。足を止めれば背を押され、倒れても強引に腕を引かれる。アイドルは瑛一の夢であり、そして父が課した「必然」だった。
ふわりと通り抜ける風がシャツを軽く膨らませる。音をたてて部屋の扉が開き、重い音と共に閉まる。この無遠慮な所作はきっと瑛二だ。振り返ると弟は「おじゃまします」と挨拶をして、それからベッドに飛び乗った。
「楽譜だ!」
父の事務所から届いた箱の中身を覗き見る。それを咎めるつもりはなかった。窓の錠をかけてカーテンを引き、瑛二の隣に腰掛ける。
「ピアノ?」
「いや、歌の楽譜だ」
「ピアノ、お兄ちゃんはもう弾かないの?」
「あぁ……そうだな」
まるい瞳を見開き、ぱちぱち目を瞬かせる。ピアノはもともと、音楽の基礎を身に着けるために教えられただけだった。瑛一の技術は未熟で、人前で披露した経験もない。去年の春頃、講師が突然来なくなって、父の設定した水準に達したと判断されたのだと分かった。
「お兄ちゃんは、アイドルになるんだもんね」
瑛二は短い腕を箱に突っ込み、次はCDを取り出す。瑛一への課題曲は、全てレイジング鳳がリリースした楽曲だ。父は他人に自分の曲をカバーさせない。歌わせるのは息子の瑛一にだけだ。それを喜ぶべきなのかどうか、よく分からない。
「……お兄ちゃん?」
「……すまない。少し考え事をしていた」
「なになに?」
生まれたての天使みたいな顔で問う。柔らかな曲線を描く瑛二の頬をそっと撫でた。
「何でもないんだ」
「うん、わかった」
いったい何が分かったのだろう。瑛二はシーツの上にうつ伏せになり、顔を上げて笑った。無垢で愛おしい笑顔。弟の小さな手を握り、瑛一はベッドに仰向けに寝転がる。
「お兄ちゃんは、お父さんみたいになるの?」
「……そうだ。父さんのようなアイドルになる」
「でも、歌ってるお父さんこわいよ。まっくろの服だし、にこにこしてないし、マイクスタンド、蹴ったりしてるもん」
そういえば、ライブでは必ず一回はスタンドを蹴って手持ちマイクに持ち替えてたっけ。素直な弟の意見につい笑みがこぼれた。
「歌っている父さんはかっこいいだろう?」
「うーん…………うん……こわいけど、かっこいい。でもやだ。お兄ちゃんは笑ってるほうがいいもん」
「大丈夫だ瑛二。俺は、父さんと全く同じにはならない」
「ほんと?」
本当、だろうか。
問いかける。答えは誰も――父にしか、分からない。
「……ああ」
本当だ、と、しんとした虚空に向かって呟く。嬉しそうに笑う瑛二は母親似なのに、半年前に東京の事務所で対面した父の顔に重なって見えて、手の甲で目を擦った。
小学校を卒業するタイミングで上京しろと父は言った。瑛一は背筋をまっすぐ伸ばし、サングラスで隠れた父の瞳と視線を合わせて「はい」と頷いた。
夢を叶えるためだ。迷いはない。父に強制されている感覚もない。なのに、この小さな弟を残して行くのだと思うと今さら寂しさがこみ上げる。目元を覆うように置いた右手を、瑛二の手のひらがそっと包んだ。
「お兄ちゃんはにこにこしてるアイドルになってね」
すみれの花みたいな瞳をきらきらさせて無邪気に笑う。
俺だって。
父と同じにはなりたくない。父とは全く違う一人のアイドルとして生きたい。けれど、もし父が自分の代用品を、もしくは自由に動かせる駒を求めているとすればどうだろうか。
細く開いたカーテンの隙間から星が見える。
お父さんはお星さまが好きなの、と、いつだったか母から聞いたことがある。
プラネタリウムのきれいな夜空よりも、ライブ会場で父だけに注がれるたくさんのライトよりも、夜の空の星がいいのだと。瑛一が父親について知っている人間らしい面はそれくらいだった。
だから今、仰向けの体勢で見る逆さまの星たちが、どうしても好きになれそうになかった。
