月の瞳に映る夢

 丸く、白とも金ともつかない色の月がはっきりと顔を覗かせる夜だった。
 山梨から乗車した電車を降り、瑛一は解けかけたマフラーを結び直す。厚手のコートの前を合わせても十一月の夜は容赦なく身体を冷やしてくる。
 自分で温度調節がしにくいから電車は苦手だ。車内は暖かくて快適でも窓際は冷えていたり、ドアが開く度に冷気が足元へ忍び寄ってきたりして調子が狂う。
 しかし家の車を使えば履歴が残り、瑛二に定期的に会いに行っていると父に知れてしまう。悪いことではないが、何か言われるかもしれないと思うと面倒で、苦手な電車を選択してしまうのだった。

 自動改札を抜け、信号待ちをしながら、どうしたものかと考える。先週、ある芸能事務所から新しいアイドルグループがデビューすると聞いた。その前の週にも、その前にも。同時に、解散するグループも複数あると耳にした。アイドル界隈は日々変化している。現れるものがあれば消えるものもある。それが当たり前なのだ。
 瑛一はまだアイドルとしてデビューが決まっていない。レイジング鳳のようにソロデビューさせるか否か、父は決めかねているのだろう。シャイニング事務所からグループでのデビューがもしあれば、瑛一にもそうせよと白羽の矢が立つに違いない。
 だから――もしソロでなくアイドルグループとしてデビューするのであれば、共にその道を進む仲間を一刻も早く見つけなければならない。父に宛がわれたメンバーではなく、自分の目で見て選びたい。父が動き出していない今のうちに。

 遠くどこかで犬が吠える声が聴こえる。獣じみた声と満月とが作り話の世界のもののように感じられた。連想するのは狼。もしくは月の丸い夜にのみ狼に変わってしまう狼男。
 細い川に架かった橋を渡る。月光に照らされ、赤い葉が水面に舞い落ちていくのが美しい。こんな夜に何か不思議な出会いがあれば、それはきっと運命だろう。例えば、新しい音楽、これまでにない表現、胸を焦がすような邂逅。
 だから、橋を渡ったあたりで振り返った男と目が合って、あぁこれは夢なんだと思った。
 男の双眸はまるで川面に映る月だ。その瞳に映されると自分が月に棲む兎にでもなった気にさせられる。
 瑛一は視線がぶつかり合ったことを意識し、しかしそのまま通り過ぎるべきだと己を律した。互いに男とはいえ、目的もなく初対面で声をかけるには時刻もシチュエーションも適切ではない。
 しかし、これは運命かもしれない。そんな意識がどこかにあった。
 男の前を通り過ぎ、そして振り返る。男もまたこちらを見ていた。月よりさらに濃い色の瞳が瑛一の頭の頂点から爪先までを縫い留めるように射貫く。正面から向き合うと、瞳だけでなくその造形全てが端正だとすぐに分かった。

「すみません」

 おずおずと男が口を開く。低く響く深い声。まさか話しかけられるとは思っておらず、瑛一は頷いて返事を済ませた。

「道を……お尋ねしたいのですが」
「道……ああ、俺の分かる場所でしたら」

 男がスマホの画面で示した行き先は、少し歩いたところにあるビジネスホテルだった。

「地図アプリを……使用したんですが、この道が……見当たらなくて」
「あぁ、近隣の大学を横切って行けと出ていますね。この時間は通り抜けできないので。良かったら案内しましょうか」
「……すみません」

 男は軽く頭を下げる。黒いロングコートにダークグレーのハイネック、黒のスラックスという出で立ちで、気を抜くと宵の闇に紛れて見失ってしまいそうだ。
 少し大回りになるコースを歩きながら考える。
 俺はもしこの男から声をかけられなければ、何と言って話しかけていたのだろう。
 男はどうやらあまり社交的ではないらしく、黙って瑛一の半歩後ろを歩いていた。

「旅行ですか? どちらから?」
「……高知です」
「ああ、いいところですね」
「来られたことが?」
「はい、仕事で」

 男は何を考えているのか読み取れない間を空けて「敬語は要りません」と断りを入れた。

「年上……でしょう。俺は……十七ですが、あなたが未成年だとは……思えない」
「その通り」
「敬語で話されると、少し……恐れ多い気も……します」
「恐れ多いはおおげさだが」
「まさしく……都会の大人、という……印象なので」

 男が微かに笑う。服装も相まって落ち着いて見えるが、表情を崩すと確かに高校生らしい幼さが覗いた。

「紳士的で、気さく……そして、他人にあまり……興味が無さそうなところ」
「それは違うな。俺は結構あれこれ詮索をしてしまう方だ」
「え」
「気になることがあっても、あまり訊かない方が良いだろうか」
「いえ……聞かれたくない、わけではなく……俺はあまり……言葉にすることが、得意ではないので……」
「では質問をしても?」
「答えられる……範囲であれば」

 歩調をゆるめ男の隣を歩く。彼の身長は瑛一よりやや低い。

「東京へは何をしに?」
「音楽……活動を」
「音大志望か?」
「興味は……少々」

 伏し目がちに答える。聞かれたくない話だったのかもしれない。しかし意外にも、彼は自分から語り始めた。

「ピアノを……幼い頃から、習っています。大学に入れる程の腕前かは……分かりません」
「楽典は?」
「ある程度は」
「ちなみに……歌の経験は?」
「歌……ですか」

 満月のような瞳が丸くなって瑛一を見る。どうしてそんなことを訊くのか――答えは簡単だ。この男の歌を聴いてみたい。優れた容姿やミステリアスな雰囲気に興味がある。彼が音楽経験者なのは幸運だった。楽譜が読める。音階が辿れる。それだけで、歌唱へのハードルは格段に下がる。
 彼は肩をすくめ「ほとんどありません」と答えた。

「ピアノの練習で……音を取るため……少しやっていたくらいで」
「なるほど」

 予想通りと言えば予想通りの回答だった。
 本来通るはずだった大学を迂回し、二人は異色な存在感を示す建物の前を通りかかる。深夜にも関わらずライトで色付けされた噴水、そして、中央にそびえ立つのはレイジング鳳の姿を模して造られた銅像だった。

「レイジングエンターテインメントという芸能事務所を知っているか?」
「名前は……聞いたことが……あります」
「ここがそのレイジングエンターテインメントの社屋。そして俺はレイジングエンターテインメントに所属するアイドルだ」
「…………アイドル」

 男の足が止まる。高い塀と門に囲まれているが、正面玄関へと続く通路はひらけていて中の様子を見るのは容易だ。彼は門の向こうを一瞥したあと、瑛一にまっすぐ視線を注ぐ。眼鏡よりさらに奥、瞳を通じて頭の中を見透かされているかのようだった。

「失礼かもしれませんが……意外です。あなたがアイドル……ということが。ソロアーティストや……音楽家と言われた方が……ずっとしっくりきます」
「そうだろうか」
「……きっと……俺はアイドルに疎い。言葉の印象で、あなたらしくないと思い込み……実際のアイドルが何者なのか、本当は……何も知りません」
「アイドルが何なのか、俺もまだよく分かっていない。しかしアイドルに制約はない。だからアイドルは素晴らしいんだ。……君は、アイドルに興味はないか?」
「言っていることが……よく……分かりません」
「すまない。突然こんなことを言われ、不審に思わない方がおかしい」
「……不審、とは……思っていません」

 愛想笑いの一つもなく、淡白に言い切る。お世辞の言えないはっきりとした姿勢が好印象だった。男は瞳を半月ほどに細め、微かに嘆息した。

「どうかしたのか」
「あれは?」

 男が視線で指すのは、真下からライトで煌々と照らされたレイジング鳳の像だった。

「社長像だ」
「なんというか……すごい格好……ですね」
「ああ、悪趣味だろう」
「趣味は……分かりません。ただ……自信に溢れている」

 感情のない声は皮肉のようにも聴こえる。男が視線を正面に戻して歩き始めるので、道を教えているはずの瑛一もそれにつられた。彼が目指しているビジネスホテルはすぐそこだ。
 横目で隣を見ると、月明かりを受けた襟足とハイネックが男の首筋を隠している。喋るとき、歌うとき、男の喉元はどのように動くのだろう。荷物を握る骨ばった指はどんな風にピアノを弾き音を奏でるのだろう。そのとき、月の瞳はどんな色に輝くのだろう。
 それからの道中、なんとなく互いに何も話さずいた。男は元々口下手なのだろう。瑛一は社交的かつ積極的なタイプだから、自分でもどうして言葉が出てこないのか不思議だった。会話で間を繋ぐ必要がない、独特の空気感が彼にはある。

「本当に……ありがとうございました」

 ホテルが見えてくると男は「ここで」と制してから礼を述べ、折り目正しく頭を下げた。
 強い意志を持った瞳に見つめられると吸い込まれるように見つめ返すしかない。彼の、人を惹き付けて止まない魅力は何なのだろう。
 彼にはカリスマ性がある。芸能界に身を置いていると、ただそこに立っているだけで醸し出す雰囲気が周りとは全く違うタイプの人間がたまにいるが、まさしく彼がそうだ。

「もし、」

 背を向けた男を呼び止める。黒いコートを着て今にも闇に溶けてしまいそうな男は、振り返ると少しあどけなく、疑いを浮かべた表情で「はい」と答えた。

「もし、東京に滞在している間、空いている日があるのならば……うちの事務所に来てみないか」
「…………それは……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。ピアノが聴いてみたい。それと、歌も」

 男は心底理解できないような顔をした。この衝動の理由も名前も、瑛一自身にもよく分からないのだ。「名前をまだ聞いていなかったな」と続けると、男は口角をわずかに上げた。物静かで美しい微笑。

「俺は鳳瑛一だ」
「皇、綺羅です。……いつでも……構わない」
「早い方がいい」

 明日だ、と断じると男の瞳の月が欠ける。
 きっとどうかしている。それでも知りたい。皇綺羅という男を、もっと。

          *

 不思議な出会いだった。

 紺縁の奥の怜悧な瞳を思い出す。男は鳳瑛一と名乗った。
 綺羅は荷物を下ろしベッドに腰を落ち着け、男の名前を検索する。アイドルなのが本当ならば、何かしら情報を得られるだろう。その予想は的中していて、Wikipediaに項目が作られていた。アイドルであり、レイジングエンターテインメントという芸能事務所に所属していることも間違いなかった。芸能活動を開始したのは今年らしい。そのせいか、音楽活動に関する情報はほぼなく、出演しているテレビ番組も聞き覚えがない(高知では放送されていないのかもしれない)ものばかりだ。

 父の欄には『レイジング鳳』という名前とリンクがあった。
 白いシーツに背中から沈み、あぁ……、と声にする。
 音楽とは縁遠い家に生まれた自分とは大違いだ。幼い頃、ピアノを弾くことにすら両親はあまり良い顔をしなかった。あの男――鳳瑛一には悪い印象を抱かなかったが、彼の自信に溢れた言動は出自から来るものなのだろうか。きっと音楽に触れて育ってきたのだろう。環境の差が与える影響は大きい。
 家を継がず、音楽と添い遂げたくて、その活路を見出すために綺羅は東京に来た。しかし音楽と生きていくということは、鳳瑛一のような人間と同じ土俵で戦うことだ。理解していたはずだが、その事実を強く思い知らされる。
 でも――音楽で伝えたい。音楽での表現を諦めたくない。心は強く望んでいる。

 寝転がったまま電話帳から実家の連絡先を引っ張り出す。緊張はないが、電話を取った使用人に「何ですか、こんな時間に」と小言をこぼされ一瞬ひるんだ。父に言伝を頼むと「はいはい」と呆れを混ぜた声とメモをちぎる音がした。

「月曜日には……恐らく……帰ることができない。学校を、休む……ことになる」

 電話口で「あら」と笑う声がする。小馬鹿にされているように感じた。高校生になった今でも子ども扱いだ。

『学校にはちゃんと行くというお約束だったのでは?』
「一日……だけにする。だから、見逃して……ほしい」
『はい、じゃあ旦那様には上手くお伝えしておきます』
「……感謝……する」

 ふふと笑い、あちらから電話を切る。
 学校の休みを利用して音大の見学に勤しんでいるものの、東京まで足を延ばすと土日だけではなかなか足りない。実家から比較的近いエリアのキャンパスもいくつか見て回ったが、まだいまいちピンときていなかった。
 音楽を――好きなピアノを続けていきたい気持ちはあるが、迷いもある。それに、いつだったか新神戸駅のストリートピアノを演奏したときに感じた興奮を上回るものを、大学で音楽を学ぶことで得られると信じ切れずにいた。
 両親は大学進学には反対しないだろうが、例えば芸能事務所に入りたいと言えばどんな顔をするだろう。あの人のようにアイドルになりたいと綺羅が言い出したら。この世の終わりみたいな顔をする両親を想像するとぞっとした。
 カーテンを開いて月を見上げた。これまでの人生に縁もゆかりもなかった『アイドル』という単語が、特別な光を放って頭の裏側でずっと点滅している。

 翌日、鳳瑛一とレイジングエンターテインメント本社ビルの正面入り口で待ち合わせた。ライトアップされた噴水や社長像のせいで夜はやけに華やかに見えたものだが、昼間に見る社屋は厳かに張り詰めた空気さえ感じさせる。やはり珍妙な格好をした社長像が綺羅に違和感を与えた。
 約束の時間通りに現れた瑛一は、紺色のセーターにストライプのシャツ、センタープレスの入ったスラックスという出で立ちだった。上品で洗練された雰囲気は昨晩と変わらない。しかし、見た目と違って中身は突拍子もない部分がある。初対面の相手を突然翌日呼び出すところとか。

「事務所設立からまだ十五年程度だが、アイドル育成のため最高の設備を用意している」

 守衛が立つ正面入り口を抜け、レッスン室が並ぶ廊下を歩きながら瑛一は語った。
 社長であるレイジング鳳の名前は綺羅も知っている。流行っていたのは綺羅が生まれる前だったが、今でも彼の曲は時々テレビで流れている。
 そうでなくとも日本の音楽界において、シャイニング早乙女とレイジング鳳を知らない者はいないだろう。クラシックしかかじったことのない綺羅も、彼らが日本のCD売上枚数記録の一位・二位保持者だと知っている。ただし、今はアイドルプロデュースをしている、という事実は初耳だった。

「弾いてみてくれ」

 レッスン室に通され、まずはピアノをと鳳瑛一が示す。綺羅は椅子の高さを調節し、手持ちのハンカチで指先をさっと拭いた。ピアノの演奏にはあまり緊張しない。これはコンサートやオーディションではないし、ある程度腕には覚えがある。
 弾き慣れた平均律クラヴィーア。視界に入る位置に立った鳳瑛一に目をやる余裕すらあった。彼は綺羅のピアノを聴いて何を思うのだろうか。この男の考えはよく分からない。しかし一風変わっているからこそ綺羅も彼に興味がわいた。
 演奏を終え、鍵盤から指を離すと鳳瑛一は黙って拍手を送る。そもそも、アイドルであるこの男にピアノの何が分かると言うのだろうか。上手い下手でいえば、綺羅は下手ではない。しかしピアノ演奏はそれだけで価値は決まらない。技巧的だから良いわけではない。言葉を待って視線を合わせると、鳳瑛一は「イイ!」と満足そうだった。

「音大志望だと言ったな」
「はい」

 確認すると、鳳瑛一は顎に手を添えて何かを考えるような仕草をした。
 正確に言うと――綺羅は音大への進学を熱望しているわけではない。将来音楽の道へ進みたいから、そのために音大進学が妥当だろうと考えているだけだ。進学ならば両親もきっと強く反対しない。しかしその選択は、自らに定められた道を歩く未来を少し先延ばしするだけに過ぎない。
 綺羅、と呼ばれ背筋を伸ばした。ピアノを披露するより鳳瑛一と目を見て話をする方が緊張するのはなぜだろう。

「お前はとても無口だが、ピアノはずいぶん物を語るな」
「……そう……ですか」

 何を見透かされているのだろうか。
 音楽は確かに綺羅にとっての言葉代わりだ。抱えている気持ちを言葉にするのが不得手な綺羅は、必要最低限を声にして、残りをピアノに託して生きてきた。

「音楽が好きな気持ちが伝わってきた。同時に、綺羅の中に迷いがあることも。それもかなり根の深い迷いだ。人生に関わる決断を迷っているような」

 鳳瑛一の手がピアノの側板を撫でる。

「音楽を続けることに迷いがあるのか?」

 鳳瑛一はそっと確信に触れてきた。綺羅は眉一つ動かさず視線もそらさない。
 家の事情をこの男に話すべきか。一瞬気持ちに揺らぎがあった。しかし綺羅は無言を返事とした。話す必要がないと考えたわけではなく、話したことによって、家を継ぐべきだろうと言われるかもしれないと思うと言葉が出ない。
 やはり自分は迷っている。この男の言う通りだ。無言を貫く綺羅に、鳳瑛一は「次は歌だ」と促した。

「何でも、歌えるものでいい」
「学校で習うような曲しか……歌えませんが」
「もちろんそれでいいぞ。弾ける曲なら俺が伴奏をしよう」
「ピアノ……弾けるんですか」

 意外だったが、綺羅と入れ替わりに椅子に腰掛ける鳳瑛一の姿は妙にしっくりきた。

「子どもの頃に習っていてな。大した腕前ではないから笑わないでくれ」

 冗談ぽく笑ってみせる。アカペラはどうも居た堪れなくて、是非伴奏付きでと申し出た。学校の音楽の試験を思い出す。一人で前に立たされて、級友たちの前で歌う独特の緊張感。
 鳳瑛一のピアノはなめらかで無感情だった。楽器を演奏すればそれなりに奏者の色なり思想なりが反映されるものだが、彼のピアノは完全に伴奏に徹している。習っていたと話していたが、こういう風に教え込まれたのだろうか。技術のみを求めた演奏。まるでピアノは目的ではなく、何らかの手段かのように緻密で狂いがない。
 前奏が終わり、綺羅が歌い始めると鳳瑛一のピアノは少し明るい雰囲気に変化した。彼が綺羅に呼応したのか、その逆なのか分からない。歌の良し悪しは綺羅自身には判断できず、歌い終わっても特に手応えはなかった。鳳瑛一は残る伴奏をさっと切り上げる。

「確かにピアノの方が良いな」

 鳳瑛一は悪びれもせず言った。それはそうだろう。十年以上続けているピアノと授業で習っただけの歌を比べられても困る。綺羅が頷くと「今は、という話だ」と鳳瑛一は補足した。

「ピアノ……上手ですね」

 お世辞ではない本心に、彼は「そんなことはない」と即答した。謙遜ではないようだ。

「皇綺羅、お前は声が素晴らしい」
「自分では……感じたことが……ありません」
「自覚のないところもまた良い。才能がこれから開花するのだと思うとゾクゾクする」
「俺は……アイドルというものが、よく……分かりません」

 鳳瑛一が綺羅をアイドルにと誘う理由も分からない。結局のところアイドルとは一体何なのか。演奏家ではなく、歌手ともまた違う。綺羅の何を見て彼が声を掛けたのか、不思議でたまらない。どんな適性があるのか教えてほしい。
 鳳瑛一は考え込む素振りを見せたあと、「見てみるか」と軽い調子で綺羅を誘った。

 ピアノのあるレッスン室を出て次に連れられたのはシアタールームだった。本当にここには必要な設備が何でも揃っているらしい。中央が見やすいと勧められてそのあたりに腰を下ろした。鳳瑛一は一つ空けて隣に腰掛ける。
 大きなスクリーンに、ライブ会場が映し出される。スポットライトが一本光の筋を作り、照らされた男がギターを弾き始める。ギターの心得はなくとも、ものすごいテクニックの持ち主であると綺羅にもすぐ分かった。八小節のソロのあと、ベースやキーボード、ドラムが彼に続く。ロックバンドのライブなのかと思い見ていると、彼らの演奏に遅れて会場に現れた一人の男に視線が釘付けにされた。彼はバンドのボーカルではなく、このライブの主人公でありスターだ。それを一瞬で思い知らされる。それほどの存在感と威圧感。彼が現れると、周りのバンドメンバーは脇役に成り下がる。
 男は特別歌唱力が優れているわけではない。しかし彼から目が離せない。
 長身ではあるが細身で儚げな雰囲気も持ちつつ、「大きい」という印象を与えられる。彼の存在感と、その音楽が。スケールが大きいとでも言うべきだろうか。
 ピアニストにもこういう類の演奏家が存在する。余白を感じさせる演奏ができるのは日本人には稀だ。どうしても与えられた規律や植え付けられた「こうあるべき」と理想の中に閉じこもってしまいがちなお国柄が出るのだろう。しかし彼は歌で、日本語を操りながら、幅の広さを表現している。そんな風に綺羅には感じられた。

 曲が終わると会場中は大歓声に包まれ、間髪入れずに次の曲が始まる。打って変わって今度はバラードだ。男の声が激しく尖った雰囲気から、甘く憂いを帯びたものに変化する。しかし媚びるような色はなく、観客は誰もが彼を崇拝する信者のようにうっとりとその世界に誘われていると感じられた。
 汗が涙のように頬を伝う。美しい、と思った。
 その男の顔の造形がもともと恐ろしく整っているのもあるが、大きく口を開けて必死に歌う姿が。
何かを訴え、しかしそれが「何」なのかはこちらに委ねられているような感覚。ぐっと胸に迫るものがあった。そしてそれは綺羅がまだ知らない深い愛であるような気がした。

 ――似ている。

 この人と――ちらりと右を向き鳳瑛一を覗き見る。スクリーンに映された男は若い頃のレイジング鳳だろう。つまり、鳳瑛一の父親。
 スクリーンから発された光に照らされ、鳳瑛一の表情はくっきりと見えた。綺羅が横目で盗み見ていることに気が付かないくらい、真剣に見入っている。羨望なのか憧れなのか。彼の瞳は少年のように無垢に父の姿を見つめていた。
 綺羅も再び視線を正面に戻す。
 これがアイドルか。
 ただ音楽を奏でるだけではない。表現、という言葉が相応しい。彼は何かを語ろうとしている。それは決して押しつけがましいものではなく、音楽を聴いて勝手に感じ取れと突き放すような無関心ささえ感じられた。
 ピアノを弾くとき、綺羅はその楽曲が作られた時代背景や作曲家自身について勉強し、理解しようと試みる。スクリーンの中に映し出された観客たちは、自らが目の前の『アイドル』を分かりたいと手を伸ばしているように見えた。しかし、決してこの観客たちはきっと誰もレイジング鳳を理解できないのだろう。知りたい――と、綺羅も思った。このアイドルが曲に込めた想いを、意味を。

 二曲の演奏が終わり、映像は終了した。
 鳳さん、と声をかけると、瑛一ははっとしたように笑みを取り戻す。声をかけるまで放心していたようだった。この人の心を、レイジング鳳というアイドルが抉ったのだ。
 心に残る素晴らしい音楽を綺羅もいくつか聴いた経験がある。上手いピアニストも知っている。しかしこれほどに人の心に存在感を置き去りにしていく人物は見たことがない。

「アイドルというものが……少し……分かった……気がします」

 鳳瑛一は深く椅子に腰掛けたまま頷いた。

「歌も素晴らしかったが……あの人の、目線、歌声、歌詞、表情……心に迫り、こびりつくような……感覚が……あった」

 もっと見たい、もっと聴きたいと身体の奥が求めるような。
 アイドルに疎い綺羅にも分かった。彼は間違いなくスターだった。

「……アイドルは、人の心に棲み付く」

 鳳瑛一は何も映らないスクリーンを見上げ、夢心地のようにうっとり呟く。

「あなたの心には……ずっと……あの人がいるのですか」
「ああそうだ。俺も幼い頃から、あんな風になりたいと夢見たものだ。父は俺の憧れで、目標だった」

 それは過去形なのか――訊こうとして、しかしやめた。綺羅の脳裡に実父の顔が浮かんできて、言葉がせき止められたのだ。

「俺はお前が、アイドルに向いていると思っている」
「なぜですか」

 考える間もなく声になった。
 鳳瑛一も、ほとんど考えず即答した。

「綺羅の音楽には表情がある」
「……表情?」
「迷いが現れていると言っただろう。そして音楽を奏でることへの喜びも」

 鳳瑛一は少し腰を浮かせると、綺羅の方に前のめりになった。薄暗い部屋でも、その真剣な瞳の色がはっきり見える。

「お前は何を悩んでいるんだ。俺に聞かせてはくれないか。お前の力になりたい」

 本当に変わった人だ。
 かつてのトップアイドルの血を引き、満ち足りているだろうに、綺羅のような男に声を掛ける。才能にも境遇にも恵まれ、自らその道を志してもいる鳳瑛一に何を話せばいいというのだろうか。羨ましいとすら感じた。

「才能にも、境遇にも……恵まれているあなたには……分からない」

 突きつけた言葉がひどく刺々しいことに綺羅自身も気付いた。
 レイジング鳳の息子だから――と言われ慣れているのだろうか。鳳瑛一は少しも顔色を変えず微笑んでみせる。

「才能など俺にはない」

 前置きして、眼鏡を軽く押し上げた。

「確かに俺には綺羅の気持ちが分からない。しかしそれはお前が話そうとしないからだ。話さなければ人は意思疎通ができない。音楽だけで分かり合うなど、到底出来やしない」

 シアタールームは静寂に包まれていた。鳳瑛一はそれ以上口を開こうとしなかった。綺羅の言葉を待つための沈黙。言葉を促されるのは苦手だが、この空白は嫌ではない。
 綺羅は間違いなく音楽に救われてきた。ピアノは自己表現の一つだった。感情を上手に言葉で表現できない綺羅が感情を爆発させるのはいつも音楽だった。しかし、他者と分かり合うためには音楽だけでは物足りない。気持ちを通わすためには、自分を理解してもらうには、今の綺羅には言葉が必要だった。

「……俺の実家は……高知にある、旧家で……俺はその、後継ぎにあたります。俺は音楽が好きで……音楽を選び……生きていきたい。しかし、ただ好きなだけで……音楽を選ぶべきか……それが許されるのか……悩んでいる」

 何度も頷きながら綺羅の言葉を聞いた鳳瑛一は、しばらく何も言わなかった。室内は再び静けさで満たされる。もう何も映さないスクリーンを見つめ考えていると、鳳瑛一はまた別のレイジング鳳のライブ映像を流し、音量を少し下げた。先ほどの映像より会場が狭い気がする。そして映るレイジング鳳も心なしか若い。

「あなたは……レイジング鳳の息子だから……アイドルを目指しているんですか」

 レイジング鳳を見上げる鳳瑛一の横顔に問いかけた。
 鳳瑛一は父の映像から視線を外し、首を傾けて綺羅を見る。スクリーンに映るレイジング鳳とよく似ていた。

「俺がアイドルを目指したのは、俺自身が父に憧れたからだ。しかし父も、昔から俺をアイドルにさせたがっていた。レイジング鳳の息子である俺がもし自発的にアイドルを目指さなくても、俺はアイドルになるよう育てられただろう」
「アイドル以外の道は……許されないと?」
「それがレイジング鳳の息子として生まれるということだ」

 鳳瑛一の口調はさも当たり前といった風だった。アイドルにならない自分など存在しないと言うような。

「俺は覚悟を決めている。俺は父が望む以上のアイドルになるのだと。そしてそれは俺自身の望みだ」

 お前はどうだ、と、鳳瑛一は問うた。
 どうだと言われても――綺羅には返事ができない。音大への進学を考えているのも、後継問題から遠回りをするための言い訳に過ぎないのに。鳳瑛一はそれを見抜いているのか、率直に綺羅の覚悟を求めてきた。

「俺はお前とアイドルとして舞台に立ちたい」

 未来が音を立てて近付いてくる。この男とステージに立ち、歌う。想像もしなかった未来図が鮮明に思い描けることに綺羅は焦った。
 レイジング鳳のステージを見たからか。そのせいで、アイドルの輪郭がやけに自分の中ではっきりしてしまったのではないのか。

 ――それで俺の人生が狂おうとも?

 浮かんだ疑問を言葉にはしなかった。鳳瑛一は、アイドルになることで綺羅の人生が狂うなどと微塵も考えていないのだ。彼は頂点のみを見据えている。今はまだ裾野に立ち尽くす綺羅と、音楽を志して駆け上がる将来を鮮明に描いている。

「もう一度……歌わせてもらえませんか。今度は、あなたと一緒に」


 レッスン室に戻り、ピアノの椅子に綺羅が腰掛けた。何を歌うかと問われ、コード進行を確認しながら答える。

「さっき……見せてもらった……レイジング鳳の……二曲目」
「……『LOVE IS DEAD』か」

 曲名にも聞き覚えがあった。確か、レイジング鳳がリリースした楽曲の中で最も売れたものだ。鳳瑛一の表情が一瞬ほんの僅かに引きつる。綺羅はそれを見ていないふりをした。苦手なのか、それとも他に何か理由があるのか、気にはなったけれど。
 ピアノを鳴らし、サビを歌い始めるとユニゾンの形で鳳瑛一もそれに続いた。流麗かつ都会的で、レイジング鳳のそれとは異なる種類の甘さが含まれる声。レイジング鳳の歌声には多少の野性味が混ざっていたが、鳳瑛一にはそれがない。生まれたときからアイドルになる道筋が定められていたのだと感じられる、密に詰められた満足度の高い音楽。
 鳳瑛一の歌声も、そして綺羅の歌ももちろん、レイジング鳳の表現とは全く違っていた。あの、何か心に訴えてくるものがない。技術や経験が拙いのもその一因だろうが、きっと、『LOVE IS DEAD』が正真正銘レイジング鳳のための曲であるからだ。この曲の持ち主はレイジング鳳なのだと。
 歌い終わり、伴奏を中途半端なところで止めると、鳳瑛一と目が合った。

「初めてだ……この曲を歌ったのは」

 鳳瑛一は手のひらを広げ、また戻した。複雑な表情。歌うのが嬉しいとも、歌いたくなかったとも、もっと上手く歌いたいとも取れる。綺羅はただ、鳳瑛一と声を重ね、強い充実感を覚えた。しかし虚ろな目をした彼を前に、それを言葉にできなかった。鳳瑛一は足元に視線を落とし「俺はまだ未熟だな」と悔しそうに呟いた。


 結局、すぐに決断せよと瑛一は言わなかった。綺羅も核心には触れず、二人でレッスン室を後にした。

「今日は……ありがとうございました。それと、あなたに……俺の気持ちが分からないと、勝手に決めつけたことを言って……すみませんでした」

 鳳瑛一は綺羅が発する言葉を最後までゆっくりと待ってくれた。いや、と柔らかく否定して、鳳瑛一は社長像に視線をやる。ライブ映像で見たレイジング鳳とは別人のような姿をしている。

「確かに俺は綺羅の気持ちを完全に理解することはできない。俺は今まで、父に背こうとしたことがないからな」

 親に敷かれたレールを、自分の意思で走る。それは一見幸福そうなのに、鳳瑛一の表情には曇りが隠れていた。芸能界において二世というのはきっと大変なのだろう。

「お前がどう生きるかはお前が決めるべきことだ。しかし、綺羅がアイドルに向いていると思っているのは本当だ。綺羅には人を惹き付けるカリスマ性がある」
「……初めて……言われました」

 自分には似合わない言葉だ。綺羅は思わず肩を丸める。しかし鳳瑛一は至って真剣だった。

「レイジング鳳には強烈な存在感があっただろう。俺は綺羅と初めて出会ったときにも強い存在感を感じた。月夜に綺羅の姿が浮かび上がるように見えた。風格は、一朝一夕で身に付けられるものではない」
「……それは、俺も同じです」

 昨晩の邂逅を思い出す。綺羅にも鳳瑛一の姿が際立って見えた。そのスタイルの良さや美しい顔だけでなく、彼が立っている場所がぱっと明るかった。近寄りがたい雰囲気があると感じながら、声を掛けずにはいられなかった。
 鳳瑛一は人好きのする笑顔を覗かせると「そうか」と唇を解いた。

「ではきっとこの出会いは運命だな」

 鳳瑛一が呼んだタクシーはなめらかに走り出し、サイドミラーに映るレイジングエンターテインメントの社屋がどんどん小さくなっていく。
 運命、か。
 ポケットに入れていたスマホの角のカーブを指で弄ぶ。なんとなく、気持ちが落ち着かなかった。俺はこの先鳳瑛一のことが忘れられないだろうと予感があった。共に歌ったからでも、運命という言葉をかけられたからでもない。レイジング鳳のライブ映像を見る彼の瞳が、夢そのものを湛えていたから。
 この先自分の未来に迷い悩むとき、綺羅は必ず鳳瑛一のその表情を思い出すだろう。そして同時に蘇るのだ。声を合わせて楽しいと感じたこと。月の下に佇む彼を美しいと感じたこと。怜悧な印象と違って、彼がとても親切だったこと。
 何十年も先の自分が人生を振り返ったとき、ターニングポイントは今日だったと回想するかもしれない。
 綺羅は背筋を伸ばしたまま目を閉じた。


 高知の空は雨模様だった。
 学校から帰り、コートとブレザーのジャケットを脱いでハンガーに引っ掛ける。肩と背中が濡れてしまっていた。でも綺羅は気にしない。シャツの袖を軽くまくり、ピアノの前に腰を下ろす。
 鳳瑛一と出会った日から、何かに取り憑かれたようにピアノが弾きたくなる瞬間がままあった。鍵盤を撫で、鳴らすとピアノの音と鍵盤の感触が身体にぴったりとはまった。しっくりくる。俺は音楽が好きだと感じる。理由も理屈もない。もはやこれは生活の一部だった。
 高知の実家に帰ってから聴き込んで、『LOVE IS DEAD』が弾けるようになった。Aメロを口ずさむ。この曲には『愛を失った全ての人へ』と謳い文句が付けられていた。歌詞の深みは綺羅には正直理解できない。しかしレイジング鳳の楽曲の中で、この曲だけがレイジング鳳自身による作詞だった。特別な曲なのだろう。そう考えると、この曲を歌いたいと言ったときに鳳瑛一が顔をひきつらせた理由が気になってしまう。最も評価された父親の曲を忌み嫌っているようにも見えた。あれは一体何だったのか。

「坊ちゃん」

 部屋の外から声をかけられ、演奏の手を止めた。何だ、と返事をすると使用人が顔を覗かせる。

「ずいぶん懐かしい曲を」
「最近……弾けるように……なった」
「ちょうど坊ちゃんが生まれた頃の曲でしょう」

 彼女は無遠慮にクローゼットを開けて、濡れた状態で吊るされたコートとジャケットを回収する。

「……坊ちゃん、本当に音楽の道に?」

 綺羅の机の上からは、音大受験のために揃えた楽典の過去問の類が最近なくなった。彼女はそれに気付いているだろうか。
 防音設備の整った室内では雨の音は聴こえない。クローゼットを閉じる音がやけに耳についた。

「――ああ」

 返事をする。それ以上の会話を遮るようにピアノを鳴らした。家族や使用人たちの前で歌う気にはなれない。いつか、胸を張って彼らに歌声を聴かせたいと思える日が来るのだろうか。

 ――運命だな。

 鳳瑛一の言葉が浮かぶ。
 それから、父親の姿を焦がれるように見ていたあの横顔。
 話をどう切り出そうか。
 父に、そして鳳瑛一に。
 言葉での表現は苦手だった。しかし、言葉にして分かり合う必要が生じていることは、百も承知だった。